写真を中心にした簡略版はこちら「地球の旅(ブログ版)」   






  N0.8





7.ラクダ乗りとホ−タン市内観光……早朝のラクダ乗り・玉拾い
 
5日目。今日から旅も後半に入り、そろそろ旅のクライマックスにさしかかる。今朝は待望のラクダ乗りということで、張り切って5時に起床。朝食前にラクダ乗りに出かけるというので、洗面を済ませると、カメラと水だけを用意して準備する。
 

勘違い
6時になって玄関ホ−ルへ行くと、薄暗い中にガ−ドマンがソファに寝転んでいるだけで、みんなの姿は誰一人見えない。?? おかしいな〜? ひょっとして集合時間の間違いかな? 6時半の集合だったのだろうか? そうとしか考えられないので、すごすごと部屋へ戻って憩うことに。
 

郊外の砂漠へ
6時半頃になって行ってみると、みんなの姿が見える。やはり私の勘違いで、はやる心がそうさせたのだろう。とまれ、全員そろったところで、薄暗い中を出発する。昨日告げられていたように、今日からバスは別のに取り替えてあり、乗り心地は昨日のよりは良さそうだ。早朝とあって、広い並木道は車の影も見えず、その中を郊外へ向かってぶんぶん飛ばす。
 

路傍には数人の清掃員が竹ぼうきで落ち葉の清掃をしている。彼らは人や車のいない暗いうちから作業を開始するのだ。中国らしい風景である。どの町も広い道路にはポプラの木やその他の樹木が植えられて素敵な並木の風景を見せてくれるのだが、年中落ち葉があるだけに、その清掃管理などは大変だろう。
 

車は郊外に出て素敵なポプラ並木の道路をスピ−ドを上げながら走り続ける。人や車の姿は見えないが、地道の中をこんなに飛ばして大丈夫?と不安になるほど飛ばしている。なかなか砂漠が現れないなあと思っていると、左手にようやく砂漠の影が見え始める。こうして30分ほど走ったころ、小さな村に到着する。ここがラクダの基地なのだろうか? それにしては、ラクダの姿は見えないが……。
 

ラクダの登場
車は村の奥の広場に停車してラクダを待つ。しばらく待っても現れないので様子を見に行き始めると、向こうの方から薄暗がりの中を2人のラクダ使いに引かれてラクダの列が現れ始める。間違いなくやって来たのだ。1人が4頭ないし5頭を引き連れている。ようやく現場に到着して、全頭お座りの隊形になって待機する。そこで、ガイド氏が乗り方の説明をしてくれる。それが終わると、いよいよ出発である。
 

ラクダの勢ぞろい


俄かキャラバン
ラクダ乗りで危ないのは、乗り降りの際の動作である。立ち上がる時は後ろ足から立つので、大きく前につんのめりそうになるし、また降りる時は前足から折り畳むので、これも前につんのめりそうになる。だから、しっかりと取っ手につかまっていないと振り落とされてしまう。そして歩行し始めると、長足だから大股になり、その度に大きくゆさぶられることになる。ラクダ乗りは結構疲れるのである。長時間、ラクダの背で揺られていると、ケツが痛くなって耐えられないかもしれない。古代のシルクロ−ドの旅はラクダによるキャラバンだろうが、その苦労が思いやられる。
 

9人全員乗ったところで出発である。広場のすぐ先には砂漠が広がっており、そこに入って、のっそ、のっそと歩んで行く。鞍の布地を通してぬくぬくとしたラクダの体温がお尻に伝わってくる。その温もりを感じていると、なんだかラクダが愛おしく、一体感になったような気がしてくる。親愛の情がわいて可愛いいものである。
 

ようやく白み始めた空の下、御者に引かれた9頭の俄キャラバンが砂丘に入って行く。ここはまぎれもなくタクラマカン砂漠の南縁に当たる地域で、いまそれが目と足で確かめられる。サラサラとした灰色の砂が広がる砂丘をサクサクと踏みしめながら分け入って行く。これがタクラマカン砂漠なのだ! それもラクダに乗って歩いている。なんとも感動の瞬間である。ラクダの背の上で一人エキサイトしている。というのは、私にとってはこの砂漠を見るのが今度の旅の大きな目的の一つでもあるからだ。明日はもっとこの砂漠の奥深くに入って行く!
 

砂漠の中に入って行く

キャラバンの様子を写真に撮ろうと片手でカメラを構えるが、大きな揺れで思うにまかせない。取っ手から手を離すと危ないし、片手で持ちながらファインダ−をのぞくのは至難の技。ここは適当に感で撮るしかない。砂丘の上のキャラバン風景が見られるのは貴重な機会だけに、このチャンスを逃してはなるまい。そう思いながら数枚の写真を撮ったのだが、やはり大きな揺れで手もとがブレてしまう。
 

砂丘を登るキャラバン?

キャラバンは砂丘の少し奥まで入ると、そこから大きくUタ−ンしながら帰途につく。空は雲って太陽は拝めない。早朝の砂漠はひんやりと爽やかで、このラクダの背の上からサンライズが見れたら最高なのだが……。もう日の出の頃なのだが、天空は砂塵に覆われて霞んでいる。今日も砂嵐に出遭うのだろうか? 幸いなことに、この砂丘は静かなもので、たまに鳴くラクダの声が砂丘に響き渡るのみ。初体験の朝の砂漠風景を垣間見ながら基地に戻る。


一列に並んで・・・

こうして、およそ20分間のキャラバンの旅は終わりを告げる。砂漠でラクダ乗りという念願が果たせ、大きな満足感にひたる。(別途料金:ドライバ−のチップも含めて150元=約2000円)
 

お役目ごくろうさん



私を乗せてくれたラクダ君


ラクダとシルクロ−ド
居並ぶ彼らの姿を見ながら、古代のキャラバン隊にロマンを馳せる。もし、この世に「灼熱の砂漠の中で飲まず食わずに1週間も過ごせる」というすごい生き物〜・・・ラクダの存在がなければ、果たしてこのシルクロードは生まれ得たのであろうか? 答えは否であろう。


その昔、ガラス製品や金貨、それに玉がこの砂漠を通って東へ運ばれた。また、仏教という思想や経典も東へ運ばれた。反対に中国の絹は西へ西へと向かって運ばれた。こうして東西交易の道が開けて行ったのだが、それらのすべてはこのラクダの背に乗せられて運ばれたのである。そのことを思う時、シルクロードという東西の交易路はラクダの存在なしには決して考えられないことが分かる。


熱砂の上に座っても火傷しない前足と後ろ足の膝だご、後ろ足の太もも表のたこ、腹部のたこ、それに砂嵐でも平気でいられる二重まぶたの目と密生した睫毛、そして長い毛が生えて砂の侵入を防ぐ耳と熱気を冷却できる特殊な鼻腔など、灼熱の砂漠に適応した優れた生理的・肉体的機能を持つラクダなればこそであろう。シルクロードとラクダ・・・古代より切っても切れない深い縁で結ばれているのである。


ポプラ並木の風景
ラクダに別れを告げると、基地を離れてもと来た道を引き返し始める。長いポプラ並木がどこまでも続き、たまにロバ車と出遭うくらいで人影はほとんど見えない。なかでも、来る際に目に留まった素敵なポプラ並木があり、そこにさしかかる時フォトストップしてもらう。う〜ん、何度見ても素晴らしい並木道である。こんな並木の光景があちこちで見られるのがシルクロ−ドの特徴なのである。このポプラ並木をロバ車が通るのどかな風景こそが、砂漠のオアシスの象徴なのだ。
 

う〜ん、見事なポプラ並木・・・。

30分ほどでホテルに戻ると、その足で朝食である。すでに残留組は朝食に入っており、それを追いかけるようにラクダ組も朝食に入る。今朝も同じく中華料理の食事が済むと、すぐに部屋へ戻り、荷物をまとめて出発の準備である。これから市内観光と川原で玉石拾いを楽しんだ後、ケリヤ(于田)へ移動する予定である。このホ−タンの町には大した観光ポイントはなさそうだ。
 

マリカワト古城遺跡
9時に出発したバスは、郊外のホ−タン空港を目指して走行する。そして、空港の横手を通り抜けて白玉河岸に出ると、大がかりな玉石発掘作業が行われており、それを横目で見ながら通り抜けると、そこからさらに先へ突き進んで砂漠地帯に出る。その一角に停車すると、マリカワト古城遺跡に歩いて向かう。そこにはわずかに遺跡名が書かれた石碑が立っているのみで、門も何もなく、ただの砂漠が広がっているだけである。ところが驚いたことに、ここにもちゃんと係員がいて、撮影料(安い)を徴収しているのだ。ん? 砂漠の撮影料まで要るの?
 

遺跡名を示す石碑

そこから瓦礫の散乱する砂漠の中をどんどん先へ歩いて行く。かなりの歩行距離で15分は歩いたのだろうか? 汗を流しながらの歩行は大変である。我々が歩いていると、観光客の到着を待ち受けていた近くの村人たちもロバ車を引いたりしながら一緒にぞろぞろと同行し始める。子供たちが多いのだが、彼らは観光客相手に商売をする気らしい。
 

殺風景の砂漠の中に、何やら泥の堆積物があちこちに散在しているのが遠くに見えてくる。あれが遺跡なのだろうか? いちばん手前の塊に近づいて観察すると、ただの泥を固めて造った建造物に過ぎない。上にのぼってみると、別に何の目新しい痕跡もなく、ただ穴の開いた土塁があるだけである。



マリカワト古城遺跡の全景。あちこちに散在している。左手の下が白玉河。


上の写真に見える大きな遺跡の上に登ったところ。


遠くにも遺跡が・・・




ここホ−タンでは紀元前2世紀ごろに「于てん(ウテン)国」が建国されたらしいのだが、その古城跡ではないかといわれている。それが事実とすれば、この土塊は2千年以上もの年月を経て我々の目の前に存在していることになる。この一帯では、今でも器の破片やインドとの交易に通貨として使われていた馬銭が見つかるそうだ。
 

白玉河で玉拾い
考古学者でない私には、これ以上の探索は無理なので地上に下りることにする。所在なく、すぐ横手を流れる白玉河を眺めたりしていると、玉石(ぎょくせき)拾いの時間となり、みんなで川原に下りていく。この町の東西には、それぞれ白玉河と墨玉河が流れているが、特にこの白玉河は価値ある玉石が採れることで古代より名の知られたところである。河のあちこちではブルド−ザ−が入って業者による玉石の採掘が行われている。当局に申請して採掘権を得て行うそうだが、果たして採算に見合うのだろうか?




これが白玉河の風景。右側が上流で崑崙山脈の方向。右手前方にはブルドーザーが見える。もっと下流域では大がかりな採掘が行われていた。


羊脂玉は見つからないかなあ〜・・・




過去多い時には2〜3万人の人たちが年中川原で採掘作業を行い、各種の運搬車や掘削機、ブルド−ザ−などを持ち込んで河川を荒らしまくったという。それが環境破壊として問題化しているらしく、そのうち何らかの規制がなされるに違いない。それほど玉探しはお金になるらしく、みんな一攫千金を狙って川原に集まってくる。そして、当たるも八卦で適当な場所を当てずっぽうに掘り進む。それも5m〜10mも深く掘り下げるそうで、川原はまさに蜂の巣のように穴だらけになってしまう。
 

こうして掘り出された玉石は現地にやってくるバイヤ−たちが買い取ることになる。収入は不定だが、多い月で2000〜3000元、少ない時でも700〜800元にはなるらしい。国内の平均月給が1000元以下であることを考えると、かなりの高額収入になるわだ。こうして多くの老若男女が一攫千金の夢を追い求め、今日も宝の山の川原の上で黙々と掘り進むのである。古代の人たちがこの現状を見たら、どんな思いを抱くのだろうか? 何千年もの時が流れ、時代がどのように変わろうとも、人間の欲望だけは変わることがない。人間のさがの悲しさである。
 

ただの石ころ
ガイド氏がこんな面白いニュ−スを聞かせてくれた。つい先日のこと、この河で10トン(?)もある巨大な玉石が発見され、それを鑑定するために巨費を投じて大がかりな輸送でウルムチまで運ばれて来たという。ところが鑑定結果は、ただの石ころに過ぎなかったという。そのことが現地の新聞に大きなニュ−スとして報道されたそうだ。当事者にしてみれば、笑い話では到底すまされないことなのだろうが……。
 

ホータンの玉
それほど中国、特に新彊地域では玉石探しに鵜の目鷹の目なのである。ここホ−タンの町は崑崙山脈に源を発する白玉河(ユルンカシュ河)と墨玉河(カラカシュ河)の2つの河川流域に挟まれた西域南路最大のオアシス都市で、この両河で採取される玉石、なかでも白玉河の玉石は最上質とされ、古代よりつとに有名である。河南省にある紀元前1300年の殷墟・婦好墓(殷王の妻の墓)副葬品からホ−タン玉が出土していることでもこのことが証明されるという。こうしてみると、シルクロ−ドは絹の道であると同時に玉の道でもあったわけで、古代よりホ−タン玉が歴代の皇帝に珍重されたことが分かる。
 

ホータンで玉が採れる理由
では、どうしてこのホ−タンで玉が採取されるのかというと、海抜5000mの崑崙山脈の中に玉鉱脈があるらしく、それが洪水などで両河を流れ下って来るのだという。それも上流地域では急流となるため玉石がとどまりきれず、それがちょうどこのホ−タン地域でゆるやかな流れになって淀み、そこに石が溜まるらしい。というわけで、この地域が玉石採取の最適地となっている。玉探しなら洪水の後に行くのが合理的で、見つかる確率は高くなる。普段は業者が採掘しまくっているので、一般人には到底無理な話で、奇跡的な発見以外には望むべくもない。しかし、1個でも見つければ100万円の価値はあるのだそうだが……。
 

玉石の種類
玉石はそれが放つ色彩により、白玉、碧玉、青玉、墨玉、黄玉、青花、紅玉などに分別されるそうで、その中で最も価値が高いのが白玉の「羊脂玉」だという。これは羊の脂身に似た透明感のある滑らかな光沢を持つもので、そのことからこの名が付けられたのだろう。この羊脂玉の現在の取り引き相場価格は1kg当たり10数万元(百数十万円)といわれている。しかし近年、この羊脂玉の採取がなかなか少なく、生産量も限られているという。
 

羊脂玉の作品


羊脂玉の夢
さて、白玉河の川原に下り立つと、みんな100万円の羊脂玉を夢見て玉探しに夢中になる。ここで採れた玉石は無主物先占で自分のものにできるというわけだ。紀元前の時代より続く玉探しに時の流れを感じながら同じ川原に立っているなんて、なんとロマンに満ちたひとときだろう。これぞ現地でしか味わえない旅の醍醐味というものである。


あるはずもない玉石を探そうと、あちこち川原を掻き分けながら“石”を探し回る。白玉河の記念に持ち帰ろうと、数個の石を拾い集める。ただの“石ころ”であっても、この河で採った石であることに大きな意義と価値があるというもの。それでも半世紀後には値打ち物になるかもしれないと、大事にしまい込む。
 

私が持ち帰った記念の玉石!? 左端は確かに白玉だが・・・。
重さは全部で600gぐらい。


玉売りの子供たち
玉拾いを楽しんで川原から戻ると、例の子供たちが待ち受けていて、自分の玉石を買え買えと迫ってくる。手の平に小粒の玉を載せて差し出しながら、「コレセンエン、センエン。」と日本語で迫ってくる。そこでこちらもそれに対抗して、「コレゼンブデセンエン!」と拾った石を見せながら迫ってみる。すると、「ソレダメ、ソレダメ。1エンニモナラナイ!」と片言の日本語を使って応酬する。相手がまた迫ると、こちらもまた迫る。こんなやりとりを繰り返して楽しんでいると、とうとうあきらめて退散してしまう。
 

絨毯工場へ
われわれも長い道程を再びバスへ向かって歩き始める。やっとバスへ戻ると冷房の効いた車内で涼をとる。そして次は、市内にある有名な絨毯の製造工場へ向かう。そこは意外なことに、庭園がよく手入れされた素敵な雰囲気をもつ工場で、広大な敷地の中に瀟洒な建物が点在している。出迎えた係員が、一行をその織物工場へ案内してくれる。
 

応接室に飾られていたウイグルダンスの素敵な絨毯絵

工場といっても機械が据えられているわけではなく、絨毯織りの大きな器具が両側に何台かずつ置かれているだけである。いま、作業の真っ最中で、どの作業台も幅の広い絨毯を織っている。縦長の大型器具に何千本もの縦糸を取り付け、それに1本1本手作業で横糸を通しながら柄模様を見事に織りあげていく。根気の要る作業で、見ていて気が遠くなりそうだ。
 

優秀な技術者でも1日に2cmしか織れないという。この作業を5〜6人のホ−タン美人の織り姫たちが横一列に並んで同時進行で作業を進めて行く。申し合わせたように頭をとりどりのスカ−フで覆っているが、その彼らはチ−ムを組んでするそうだ。だから休憩や通勤も一緒にするらしく、チ−ムワ−クを重んじているようだ。
 

チームをつくって細かな作業がつづく・・・


ホータン美人の織姫たち

いちばん端の作業台では、欧米からの注文だとかで、20メ−トルはあるかという長い絨毯を織っている。見事な柄模様の織りで、あと3mぐらいを残すだけで最終段階に入っている。それでもあと数ヶ月はかかるそうだ。絨毯が高価なことは、この気の遠くなるような作業工程を見ればうなずけるというもの。金欠病の私には、縁遠い話である。
 

ここでもアラビア語が・・・
案内の係員が「アッサラ−ム アライクム(こんにちは)」と作業員に声をかけている。おや? これはアラビア語ではないか! ウイグル語ばかりが使われていると思っていたのに、これは意外である。そこで試しに、「アッサラ−ム アライクム」と声をかけてみる。すると、一斉にこちらを振り向きながら、「ワ アライクムッ サラ−ム(挨拶の返事)」と元気な声で応答してくれる。彼らも驚いたのか、こちらもアラビア語が通じたのには驚いてしまう。この地でもムスリムが多いだけに、この語が使われているのだろう。
 

作業場の見学が終わると、次は製品展示室に案内される。ここの品々は販売品だそうだが、とても手は届かぬ高嶺の花である。さすがに立派なものだが、手も足も出ない。北京の人民大会堂に敷かれている大絨毯もここの製品だそうで、とにかくここの絨毯は超一級品なのだ。それだけに値も張るわけで、庶民にはなかなか手の届く代物ではなさそうだ。
 

展示室に陳列された絨毯


甘い桑の実
絨毯には縁がなさそうなので、早々に外に出て庭園をぶらついてみる。すると1人の職員が木の植え込みに入って何やら木の実を摘んでいる。側に近寄ってみると、手の平に山盛りの木の実を持っている。私が覗き込んでいると、食べてみよと身振りで示しながら数粒を渡す。そこで試食してみると、それがとても甘いのである。
 

小さな長細い飴色の木の実だが、よく見るといっぱい成っている。青い実の中に熟れた実がぽつんぽつんと見つかる。なんだか見覚えのある木だなあと思ってよく見ると、なんとそれは桑の木なのだ。その木にこんな甘い実が成るとは、つゆ知らなかったのである。こんな最果てのオアシスの町で珍しい発見をしたものだ。これも旅の楽しさである。
 

シルク工房へ
この絨毯工場を後にすると、今度は町外れの吉雅(ジヤ)の村にあるシルク工房を訪ねる。ここでは珍しい生糸の繰り糸作業を見せてもらう。作業小屋には大きな鍋釜があり、それで煮た繭から糸口を掴んで生糸を取り出していく。写真の女性は何十本もの生糸を束ねて取り出しているところをみると、かなり大きな強い生糸に仕上げる積もりなのだろう。この糸でどんな物を織るのだろう? すぐ側には、生糸を取ったあとに残ったサナギの死骸が山と積まれ、それが生臭い匂いを放って鼻を突く。
 

繭から生糸を繰り出している


ホータンは絹の里
ここホ−タンの町は2000年以上前から養蚕が盛んなところで、歴史のある絹の里でもある。中国人が養蚕技術を生み出した年代は判然としないが、紀元前5000年から紀元前2700年の間だろうと推定されている。
 

蚕の繭糸
繭は蚕が作り出す自然の妙だが、この蚕は桑の葉だけしか食べず、他の葉を食べさせると死滅するそうだ。蚕のサナギは4回の脱皮を経て、1000m〜1500mもの長さの糸を吐き、繭を作ってサナギになるという。糸のネバネバは熱湯につけると取れるので、繰りやすくなる。目の前の女性が大鍋で煮ていたのはそのためである。その後で、写真に見るように何本もの糸を束ねて繰り出し、それを1本によりまとめると1000mの長い生糸ができあがるのである。 


この絹は黄金より高価な時代があり、地中海の支配者ロ−マ人が「どうしても絹が欲しい」との思いから、いわゆるシルクロ−ドが生まれたわけである。つまり、古代中国の都、長安(今の西安)からタリム盆地に点在するオアシス都市を通り、さらにパミ−ル高原を越えて西アジアを通過し、そしてロ−マに至るという険しく、長いル−トで絹製品が運ばれたのである。
 

門外不出の養蚕技術
この養蚕技術は、いうなれば古代の最先端技術であり、中国に莫大な富をもたらすものであるだけに、門外不出の極秘技術として外国への密輸を厳禁し、その禁を破った者は死刑という厳しい管理下に置いたのである。これにまつわる興味深いホ−タン王の秘話がある。そのことは、かの玄奘三蔵が7世紀に「大唐西域記」の中で記しているそうで、その要旨は次のとおりである。
 

「大唐西域記」の秘話
貧しい町を治める若きホ−タン王は、どうすれば住民が幸せになるかを日頃から考えます。自分の町を通過して東に向かう隊商は金やガラスを積んでいる。反対に西へ進む隊商は、すべて絹織物を運んでいる。それを見て、王はふと妙案を思いつく。それは絹の技術を持つ中国の女性と結婚することである。早速、婚約した彼女に絹の技術を教えてもらうよう密かに頼む。しかし、蚕の持ち出しは厳禁で、それが発覚すれば死刑となる。だがしかし、未来の夫や生まれくる子供たちの幸せも考えたい。彼女は独り悩み続ける。
 

やがて、嫁入り道具を持って嫁ぐ日がやってくる。関所を通る時、道具類はすべてチェックされる。しかし、厳しい役人も花嫁の身体検査はしなかった。ところが、彼女は冠の中に数匹の蚕と桑の種を隠し持っていたのである。無事に嫁入りした先のホ−タンでは、町中の木が調べられ、偶然にも1本の桑の木が発見される。
 

蚕は無事に育って繁殖し、同時に王妃は養蚕技術と絹の織り方を住民に教える。こうして長い年月の後、ホ−タンの町は絹の里となり、その富で繁栄をきわめるようになる。王妃は町中の尊敬を一身に集め、王子にも恵まれ、王からも愛されて幸せな生涯を送ることになる。
 

“ロマンですな〜”
こんなエピソ−ドを思い浮かべながら、この生糸の生産小屋にたたずんでいると、古のことが脳裏をよぎり、思いは数千年の昔にタイムスリップする。なんとロマンきわまることだろう。NHKのテレビ番組「探検ロマン」ではないが、思わず“ロマンですなあ〜”と口ずさんでしまう。こうして現代のシルクロ−ドの旅は、まさに探検ロマンの旅なのだ。(ちなみに、日本では奈良時代に養蚕が行われたという記録があるそうだが、養蚕技術が本格的に発展したのは江戸時代といわれている。)
 

現実に戻り、次は織物工場に案内され、そこでウイグル柄の布地を織る機織り作業を見学する。ここでは珍しく若い少年たちが織り姫ならぬ織り男になって、ウイグル柄の布地を織っている。


機織り作業

そして最後は、決まって製品売り場に案内される。展示場には絹の布地をはじめ、スカ−フ、ネクタイなど、数々の絹製品が並んでいる。私には用無しなので椅子に座り、グル−プの人たちが物色するのをぼんやり眺めるだけである。ここの売り子さんもホ−タン美人で、電卓を叩きながらてきぱきと応対している。
 

豪華昼食
時計を見るともう1時だ。ここでシルク工房を後にして市内のレストランへ向かう。ここで昼食となるが、それはなかなかの料理内容で、これまでの食事では一番の料理だと口々に感想をもらし合う。昼食にしては良過ぎるご馳走内容で、鍋物や魚に肉ダンゴ、それに珍しくトマトの砂糖まぶしまで、ぎっしりと並ぶ。毎食変わらぬ中華料理だが、いつになく豪華な内容に大満足し、お腹は満腹となる。
 

なかなかのご馳走


レストラン前の通り。交差点には毛沢東首席と語らう農民の立像が・・・。


バザールへ
昼食を終えると、次はバザ−ル見物である。町の東部にあるのだが、毎週金・日が大バザ−ルとなり、一段と賑わうらしい。今日は水曜日なので普通規模のバザ−ルなのだろう。現場に到着すると、大通りには多くの出店が並び、ロバ車や人がいっぱいだ。でも、バザ−ル会場の方は思ったほどの人出はない。やはり、普通日だからだろう。カシュガルで大規模なバザ−ルを見物したので、似たりよったりのバザ−ルはさほど目新しさはない。ただ、ここの特徴は本場の絹製品や絨毯が多いことだろう。
 

ロバ車や露店で賑わう大通り


バザールの風景

絨毯屋の前を通りがかると、元気のいい子供が店番をしている。ちょっと覗いてみると、ちゃっかりと写真を撮ってくれとせがんでくる。この様子は、中央アジアの子供たちと同様だ。そこで要望に応えてパチリとシャッタ−を押すと、すぐに駆け寄って来てカメラをのぞこうとする。彼らはデジカメと思っていたらしく、そうではない普通カメラだと分かると、がっかりした様子で引き返す。デジカメだと、その場で写真が見れるので楽しいらしい。
 

絨毯屋の子供たち


メロンの商談
再び表の大通りに出てぶらついていると、数人の男性がロバ車を取り囲んで何やら商談をしているようだ。どうも積み荷のメロンの売買らしい。側で様子を見ていると、その中の1人と折り合いがついたらしく、握手をして代金を支払っている。この男性はロバ車1台分のメロンを丸ごと買い取ったのだ。決済が終わると、ロバ車と一緒に移動し始める。どこへ行くのかと見ていると、すぐ近くの路傍に止まり、そこで荷下ろしを始める。なんと、地面にメロンを並べ始めたのである。彼はここで個売りをする積もりらしい。面白い売買の様子が垣間見れる。 


ケリヤの町へ
午後の3時前になってバザ−ル見学の時間も終わり、これからいよいよ今日の宿泊地ケリヤ(于田)の町へ向けて出発する。この町はホ−タンとニヤ(民豊)の中間に位置する小さなオアシスでケリヤ河沿いに広がっている。道程はそれほど遠くなく、ホ−タンから3時間少々の距離にある。相変わらず砂漠地帯の砂塵舞う1本道を走り続け、時には小さな村を通り抜けながらケリヤの町に入る。
 
             ケリヤの位置



小さなホテル
ここは町の規模が小さいだけに、宿泊客も少ないらしく、上級ホテルの設備もないようだ。われわれの宿泊ホテルもバスのドライバ−が見過ごしてしまうほど目立たないもので、これまでのホテルで一番貧弱なものである。(デラックススイ−トで380元=約5000円)珍しいことに、男性スタッフの姿は一人も見えず、すべて女性スタッフだけで活動している。
 

部屋に入ってバスル−ムをチェックしていると、トイレの水洗用水槽のボタンを押しても水が出てこない。蓋を開けて調べてみると、ボタンとの連動がうまく作動しないようになっている。そこで、水槽内のレバ−を直接押して流すという始末。でも、この地で文句を言っても始まらない。この少ない女性スタッフだけでは、この修理さえ手が回らないのだろう。
 

日本のソーメンに舌鼓
旅装を解くと早速、早朝から終日、砂嵐の中を駆けずり回って砂まみれになった身体をシャワ−で洗い流す。毎日の洗濯も欠かせない。すっきりなったところで階下で夕食である。うれしいことに、今夕は日本のソウメンが振る舞われる。添乗さんの心尽くしの接待で、はるばる日本から運んで来た貴重品なのだ。ダシにワサビも揃った本格味に、みんな舌鼓を打ち、感謝しながらいただく。とにかく連日の中華料理攻めで食傷気味の身には、起死回生の逸品となる。多謝多謝!
 

食後、玄関前に出て通りの様子をうかがうが、これといって目に留まるものなし。1人で外をうろつかないようにとのお達しも出たことだし、部屋に戻って静かに休むとしよう。いよいよ明日は待望のタクラマカン大砂漠の縦断である。どんな砂漠の表情を見せてくれるのだろう? 貴重なソ−メンで精気を取り戻したところで、明日に備えるとしよう。



(次ページは「タクラマカン砂漠縦断」編です。)










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