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            NO.21




12.ベルリン・・・ ベルリン・フィルのコンサ−ト帰りは気をつけて
 
ベルリンへ
朝から雨、アムスでは雨にたたられる。駅まで近いのだが、それでも傘からはみ出たバッグがかなり濡れている。以後はビニールカバーをかけなくては。九時二分発のベルリン行き列車に乗車、終着まで八時間半の長旅である(06年現在、アムス〜ベルリン間はIC列車で所要6時間である)。これから以後の旅は、みんな鉄道でヨ−ロッパ中を駆けめぐることになる。一等車両の空いたコンパートメントを探そうと思うが、重い荷物で動きが取れない。珍しく込んでいるが、運よく入口に最寄りのコンパ−トメントに空席を見つけ、ドアの横に表示してある「予約席」ではないことを確認して席に座る。今度は予約席を取っていないのだ。今までオープンスタイルの車両ばかりだったので、コンパートメントは初めてである。通路の片側に六人席の部屋が仕切られて並び、ガラス張りでカーテンが備えてある。各部屋三人がけの座席が向かい合っている。乗り心地はあまりよくない。
 

このコンパートには通勤風の男性と老婦人、そしていい機嫌に朝から酔っ払って一人で何やらぐぜっている船員風の老人の三人が乗り合わせている。通勤風の男性は窓側で一人読書に耽っており、老婦人も窓側で酔っ払いにかかわったら大変とばかり居眠りをきめ込んでいる。私が座ったことで、酔っ払い老人の格好の餌食になり、何やかやとオランダ語でいい寄ってくる。適当にあしらっているうちに、老人はいびきをかいて寝入ってしまう。間もなく読書人が下車したので、窓側に入れ変わる。それと入れ代わりに、今度は陽気な中年のオーストラリア人夫婦が大きなスーツケースを三個も持って入ってくる。
 

間もなく酔っ払い老人が目を覚まし、酔眼ながら駅を確認すると、よろめきながら下車して行く。やっかい者がいなくなったとばかり、室内は一転して和やかな空気に包まれ、それまでむっつりと不機嫌に居眠りしていた老婦人も目覚めて、相好をくずしながら話に花を咲かせる。オーストラリア人夫妻は半分商用、後の半分はホリデーだという。十日間でハンブルク、デンマーク、オランダと忙しく飛び回るのだという。そして、あなたの荷物はないのかと聞くので、このバッグ一個だけだと答えると驚いた様子で、自分の荷物を見てくれ、こんなに大荷物なんだよ、それもみんなワイフのもので自分はメッセンジャーボーイさ、と大笑いしながら話す。老婦人はアルメロ駅で別れの握手をしながら下車、ハンブルクへ行くオーストラリア人夫妻とは乗り換え駅のオズナブリック駅で別れの握手を交わす。


ここからベルリンまでコンパートを独占しながら一人旅が続く。どこまでも続く美しい田園風景の中を列車はひた走る。雨も上がる。アムステルダムの駅で買い込んだサンドイッチと牛乳、バナナで昼食。午後一時過ぎ、ローマのガールフレンド、モニカ嬢の住むハノーファー駅に到着。ここで降りて彼女に連絡したらさぞ驚くことだろうが、その予定はないのでこのまま素通りである。
 

ベルリン到着
午後五時半、ハノーファーから四時間かかって旧西側のベルリン・ツォー駅に到着。一九八九年の“ベルリンの壁”崩壊に始まる歴史的激変で一躍世界の表舞台となったベルリンであるが、今はその面影もなく町は静かなたたずまいを見せている。今は統一ドイツになっているが、かっては東西に分断されて幾多の悲劇を生んだ悲しい町でもある。早速、駅の案内所で一泊一〇〇マルク=六、一六〇円(朝食付き)のホテルを紹介してもらう。


値段は手頃だが、駅から十五分もかかるので重い荷物を持つ身にはちょっとこたえる。駅頭に出ると、何やら人だかりができている。近寄って見ると、若者二人が血を流しながら殴る、蹴るの大喧嘩をしている。ここで巻き添えになったら大変とばかり、急いで現場を立ち去る。ベルリンへの第一歩が、喧嘩のお出迎えとは参ってしまう。
 

旅装を解いてから駅近くの商店街へ出かけ、チキンとサンドイッチにビールで夕食。(約千円) その足でコペンハ−ゲン行き寝台列車の予約を取りにツォ−駅へ出向き、追加料金約五千円を払って購入。窓口の女性の係が、ドイツ語で書いた申込用の例のメモを見ながら「ベリィ ナイス」といってほめてくれる。ここの順番待ちは整理番号方式ではなく、行列で並ぶだけである。アムステルダムにも物乞いがいるが、ここベルリンにも健在で、何処も同じである。 


モニカ嬢
ガ−ルフレンドのモニカ嬢は、仕事が忙しく帰りが遅いとのことだったので、帰宅を見計らって電話を入れてみるが、まだ留守電の状態になっている。時間を置いて再度電話すると、今度は在宅らしく、懐かしい彼女の声が聞こえてくる。ローマで別れて十八日ぶりである。相変わらず忙しいらしく、今帰宅したばかりだという。ベルリンにはまだ行ったことがないというので、出て来ないかというと、仕事が忙しいので時間的に無理だという。しばらくの間、ローマの楽しかった思い出や、デートの場所を間違えて会えなかったことなどを語り合いながら、いつか日本に来る時は必ず連絡するように、といって別れを告げる。旅先でのさまざまな出会いやふれあいは、本当に楽しくて素敵な思い出を残してくれる。ローマで出会い、ドイツに来て電話で話せる知り合いができるなんて、一体だれが予想し得ただろうか。だから旅は楽しいのである。
 

べルリンからデンマークのコペンハーゲンまでは、列車で八時間半のところである。折角コペンまで行くのなら、いっそのこと隣国のスウェーデン、ノルウェーまで足を伸ばしてみようかと考える。帰国をもう一週間伸ばして、パリの滞在を少し短縮すればいけるではないか。ベッドの上でコペンへの旅程を調べているうちに、ふとそんな気持ちになり、北欧三ヶ国を回ってみることに予定を変更する。


第二日目。快晴である。このホテルの朝食はなんと豪華版だろう。目を見張るような豊富な品揃えである。とりどりのハムやソ−セ−ジ類、スクランブルエッグにゆで卵に生卵、各種のパン類にケ−キ類、オレンジ・バナナ・パイン・リンゴ・スイカその他のフル−ツ類、フル−ツポンチ類、それにコ−ヒ−・ティ−・牛乳・オレンジジュ−ス類と見事に並んで出番を待っている。どれから手につけようかと迷ってしまう。みんな食べてみたいが、胃袋にも限度がる。


結局、十種類ぐらいのハム・ソ−セ−ジを全部一切れずつつまんで試食する。が、意外にも口に合うものがなくて残念。あとはパン、牛乳、コ−ヒ−、スクランブルエッグ、スイカをいただいて終わりにする。昼食用と夕食のデザ−ト用にパンやフル−ツをもらいたいが、そうもいくまい。
 

市内観光
十時発の半日市内観光に参加。五月中旬というのに日照りがきつく、気温三十度近くもありそうな暑さである。これまで回った場所はどこも暑くて、ベルリンに来たら緯度が北寄りなので涼しいかと思っていたのに、予想外である。さすがにここの観光客は少ないとみえて、二階建てバスにわずか十三名の乗客である。コ−スの前半はバスで市内めぐり、後半はボ−トに乗り移って河めぐりの観光である。バスではどこにも降りず、ただ車内からの観光だけで歩くことがないので疲れずにすむ。市内の道路は広く、整備されていて美しい。建物は近代的ビルが多く、歴史的なものは感じられない。ベルリンの壁崩壊時の象徴的存在となったあのブランデンブルク門も、今では少数の観光客が見物しているのみで静かなたたずまいを見せている。


 

統一の日、世界が注目したブランデブルク門












ベルリン市内の美しい並木道















 大きな門















 ベルヴュー宮殿(連邦 大統領官邸)、

















 戦勝記念塔




















中央に見えるのがカイザー・ウィルヘルム記念教会。第二次大戦の惨状がそのまま保存されている。












ベルリン市内の旧博物館















 フランス大聖堂











一部残っている“ベルリンの壁”には、一区切りごとにさまざまな絵が描かれている。そのなかの一つに、「日本への近道」と書いて富士山の絵が描かれているのもある。冷戦終結で無用の長物と化したベルリンの壁は、今ではただ人間の愚かさの証左として、われわれに何かを暗示しているようでもある。




記念碑的に残されている。
ベルリンの壁希望者に壁の一画を与えて、その壁面に自由に絵を描かせている。
 












 同 上











途中、驚いた光景に出会う。それは道路の舗装作業で、その方法が驚きである。熱されたアスファルトを路面に広げ、作業員がその上にひざまずいて木製のコテでならしながら仕上げている。だから防熱の厚い手袋に厚い膝あてをつけて作業しているのである。先進国ドイツの首都で、こんな原始的な道路舗装の手作業が行われているとは驚きである。これは一体どうしたことなのだろうか。
 

ベルリン・フィルのコンサート
三時間半の半日観光(費用四五マルク=二、七七〇円)を終え、駅近くの立ち席でピラフとス−プので昼食。(五マルク=三〇〇円) ホテルに戻って、気になるベルリン・フィルハ−モニ−のコンサ−トはいつなのかフロントに聞いてみると、何と今夜だという。それも今月は、この一回だけの公演だという。チケットは手に入らないかと聞くと、当日だからとても無理だろうという。
               


近くにチケットオフィスがあるというので、なくてもともとの気持ちで出かけてみる。そこで当日券はないかとたずねると、パソコンで調べていた係の女性が、「まだありますよ。三五・五〇マルク=二、一九〇円だけど、中央の良い席です。」というではないか。嬉しさいっぱいでそのチケットを手に入れ、小踊りしながらホテルへ戻る。月一回のコンサ−トしか開かれないのに運よく来合わせ、それもこんなに安い金額で本場のオ−ケストラを聞けるなんて、なんとラッキ−なんだろう。
 

八時開演だが、夕方五時半と早めに出てパン、ポテトサラダ、ソ−セ−ジ二本、オレンジジュ−ス(一〇マルク=六二〇円)で夕食をすませ、教えてもらったバス停へ急ぐ。コンサ−トホ−ルの近くには地下鉄がないので、一二九番のバスに乗り、ポツダム通りで降りるとよいという。教えられたバスに乗ると、親切な運転手が下車する停留所を知らせてくれる。英語を話す愛想のいい隣席のオバサンが、この切符(三マルク=一八〇円)は買った時から二時間以内であればバスと地下鉄に共通して使えるのだと教えてくれる。ヨ−ロッパの都市では、こいう共通の切符の使用制度があるようだ。


バスを降り、帰路のバス停をしっかり確認してから公園の中を横切りコンサ−トホ−ルへと歩き出す。早く着きすぎてホ−ル玄関はまだ開いていない。守衛のいる横手の入口から入って聞くと、七時に開くからソファ−にかけて待つようにという。 


時間になってホ−ルへ入ると、座席の入口に係の女性がいて、合図があるまではまだ中へは入れないという。彼女は英語が話せるので、時間までいろいろと雑談を始める。自分はピアノを弾くこと、いまはライブラリ−の仕事をしていること、よく旅行すること、日本はまだ行ったことがないこと、などいろいろと語り合う。間もなくボ−ンという大きな合図の音が内部から響き渡り、ドアが開かれて座席へ案内される。ホ−ルは近代的建築で場内は円形型、舞台の背面にも客席があるという風変わりな造りであるが、音響抜群である。チケットオフィスの係が自慢していたように、座席は前より十列目で中央の端の席と、近からず遠からずの最高の席である。
 

指揮者はミカエル・プレトネフという若手の指揮者で、演奏曲目はベ−トベンの交響曲第七番とチャイコフスキ−の交響曲第六番の二曲である。どちらもなじみの曲だけに楽しさも格別で、その素晴らしい演奏が奏でる美しいハ−モニ−の中に溶け込みながら、陶酔の世界へと誘われていく。


幕間休憩では、ロンドンのミュ−ジカルショウの時のように取り残された気分にならないですむように、今度こそはサロンに出て飲物を注文する。シャンパン、ビ−ル、その他いろいろの飲物が用意されているが、残念ながら私はジュ−スである。聴衆の中には軍服を着た多数のロシア兵が見られ、冷戦終結後の和やかな雰囲気が感じ取れる。
 

夜道に迷う
コンサ−トはアンコ−ルなしに終わり、二時間の陶酔の世界から我に返って帰路につく。ここからが、またまた事の始まりである。人の流れに沿って玄関を出ると外は真暗。来た方向は確かこっちのはずだがと思いながら暗闇の公園の中をバス停へ歩き出す。こちらへ来る人は数人しかいない。通りに出たが、来るときに確かめたバス停はどこにも見当たらない。辺りは真っ暗で人通りもない公園のはずれに来ている。おかしいなあ、確かこっちの方向だと思ったのに、ホ−ルの出口を間違えたのだろうか。そういえば、あのホ−ルは円形になっているので、出口もあちこちについており、どれが正面か分からず方向を間違えたのだろうか。
 

心細い気持ちになって思案していると、向こうに老夫婦の姿が見える。人通りもないので、この機会を逃したら大変とばかり追っ掛けて行き、「エントシュルディグング! ヴォ− イスト ポツダム プラツ?(ちょっとすみません。ポツダム広場はどこでしょうか。)」と必死の思いで声をかけると、暗がりを追って来た私の様子に驚いた風である。事情が分かると、あちらの方角だと教えてくれる。だが、そちらへ行っても発見できず、心は焦るばかり。


とぼとぼ歩いていると倉庫の建物らしき前にライトを持った守衛さんが立っている。中に入ろうとするところを強引に呼び止めて聞くと、バス停ならあっちだという。ワラをもつかむ思いで行ってみると、確かにバス停はあるが番号が違う。がっかりしていると、近くに止まった車から男女の警官が降りてくるではないか。しめたとばかり走り寄って行き、一二九番のバス停はどこかと聞いてみるがよく知らないという。
 

これは困ったと、ふらふらになりながら途方に暮れて立ちつくす。折しも雨までポツポツと降り始める。泣き面にハチとはこのことか! それにしても、こんな人通りのない真っ暗なところをうろついていては危険だ。何とかして切り抜けなくてはと思うが、付近には家もなく、人もいないので聞こうにも聞けずお手上げである。途方に暮れるとは、まさにこのことか。こんなに心細い思いをするのは初めてだ。ドイツのタクシ−は全部決まった場所から電話で呼び出すことになっているので、流しのタクシ−はいないと聞いている。ドイツ語も話せないし、万事休すか。
 

とその時、天の助けか目の前を空のタクシ−が通り過ぎ、先の信号待ちで停車しているではないか。ここぞとばかりにタクシ−めがけて走り寄り、運転手に手を振って合図すると、ドアを開けて乗れという。これで助かった! はずむ息を抑えながら、「タウエンツィエン ビッテ(タウエンツィエン通りまでお願い)」といって、出掛ける時に書いてもらっていたメモの地図を見せる。老運転手はそれを見てうなずき、アクセルをふかして走り出す。


胸をなでおろし、呼吸を整えながらホッと一息ついていると、間もなく賑やかな街の明かりが見え始め、見覚えのある街角に来てストップする。「ヴァス コステット ダス?(いくらですか)」というと、「一三マルク=八〇〇円」と英語で答えてくれる。「フィ−レン ダンク」といいながらチップをはずんでタクシ−を降り、やっとホテルへ帰り着く。これで危機脱出の巻き無事終了である。でも、疲れ果てたなあ。折角の素晴らしいコンサ−トの余韻もこれでふっ飛んでしまった感じで、はなはだ残念である。
 

このハプニングで特に痛感したことは、外国に来て一番必要な言葉は「〇〇はどこですか?」という現地語だということである。これさえ知っておけば、路頭に迷うことはない。ギリシャでは「プ− イ−ネ」、イタリアでは「ドヴェ」、スペインでは「ドンデ エスタ」、英国では「ウェア イズ」、ドイツでは「ヴォ− イスト」、フランスでは「ウ エ」などと、これまで何十遍使ってきとことだろうか。でも、今夜のように人通りがない場所では、どうしようもないが……。オレンジを食べながら安堵の胸をなでおろし、安らかな眠りにつく。
 

第三日目。今朝も豪華な朝食で始まる。外は小雨である。夜行列車は深夜の0時九分発なので、夜九時までホテルをとることにする。今日は観光の予定がないので、出発までのんびりと過ごす。妻子への便りを書き上げ、駅の郵便局に出かけて投函する。航空便で絵葉書一通二マルク=一二三円である。駅の果物屋でバナナ二本、オレンジ一個を買い込む。近くのデパ−トに入って見学するが、規模も小さくてしゃれた感じはしない。地下の食料品売場で牛乳一パックを購入。途中のパン屋でサンドイッチを買い、昼食用に持ち帰る。午後はホテルでテレビを見ながらゆっくりと過ごす。夕方、中華飯店に出かけ、いつもの焼き飯とビ−ル(二二マルク=一、三五〇円)で夕食をすませる。
 

コペンハーゲンへ
夜九時になってホテルを出発。雨の日の移動はやはり難儀である。発車時間には早すぎるが、始発のリヒテンブルク駅は旧東側の駅でもあるし、迷ったらまた大変と思ってたっぷり余裕時間をとる。ツォ−駅前のツォ−ロギシャ−ガルテン駅から地下鉄に乗って旧東独都市やデンマ−クへの始発駅であるリヒテンブルク駅へ移動する。いよいよここから北欧三ヶ国の旅が始まるのである。地下鉄の車両は幅は広いがお粗末で、車内に路線の案内図もなく、乗降の時には手でハンドルを回さないとドアは開かない。これを知らないと、置いてきぼりをくうことになる。その点、マドリッドやロンドンの地下鉄は案内も行き届きグッドである。
 

迷わずに到着したので、発車までまだ二時間もある。ホ−ムは寒いのでコンコ−スへ行ってみると、これがまた質素なものである。そこには何も設備はなく、ガラ−ンとしている。古い木製のベンチが二、三置いてあるだけで売店など何もない。時刻表示盤も申し訳程度に小さいのがあるのみ。やはり旧東独圏だったため整備が遅れているのだろうか。その上、困ったことにホ−ムナンバ−が順になっておらず、十番ホ−ムの隣は十四番というように番号が飛んでいる。

 

列車が早目にホ−ムにスタンバイされたので、早速一等寝台に乗り込む。二人部屋だが今度も一人で独占、列車は半時間遅れて発車となる。車掌にパスポ−トとユ−レイルパスを預け、朝食の注文をしておく。雨に濡れるベルリンの夜景を車窓越しに眺めながら、早くも次のコペンに思いを馳せる。



(次ページは「デンマーク・コペンハーゲン編」です。)











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