NO.20




11.アムステルダム・・・ 風車とアンネと「飾り窓の女」と
 
アムステルダムへ
六時半に起床し、バイキングの朝食でエネルギ−を貯えてからヒースロ−空港へ急ぐ。予定より三十分遅れて曇り空のロンドンを十一時に離陸、一時間の空の旅で快晴のオランダ・スキポール空港に到着。ショルダ−バッグはいつも機内持ち込みなので、降りてから荷物待ちのロス時間がなくてすむ。真っ先に関門を通過して小銭の両替を済ませ、空港駅からアムステルダム中央駅へ列車で移動する。
 

運河と風車とチューリップの国オランダ、そして世界屈指のチーズ生産国オランダ。この国は日本にとって古くからなじみの深い国であり、特に長崎人の私には出島のオランダ商館や平戸のオランダ商館など歴史的にもつながりがあるので、なんだか懐かしい気がしてならない。今でも長崎には「オランダ村」や「ハウステンボス」など、オランダにちなんだテーマパークがあるのだから。そんな思いにふけっていると、二十分でアムステルダム中央駅に到着だ。
 

ホテル探し
今日は疲れているのでホテル探しはやめにしようと思い、早速駅前の案内所に行くと予約の行列でなかなかはかどらない。業を煮やしてままよとばかり、またホテル探しに飛び出す。あてどもなく歩いていると、「ホテル予約」と書いた看板の出ている店を発見。中にはだれもいなくて空いている。これ幸いとばかり中に入って問い合わせると、一泊二〇〇ギルダー=一〇、九〇〇円ですぐ近くだという。この時期だと四〇〇ギルダーするのだが、これはスペシャル価格だという。駅前だから仕方あるまいと思い、ここに決めることにする。
 

ホテルにチェックインして案内された部屋は、別棟の通りに面した入口から出入りする三階の部屋で、入口のドアと部屋のドアの二重ロックになっている。室内はスィートルームになっていて、ソファとテーブルのセットにテレビが置いてある応接室、次の間には棚や冷蔵庫と流し台が設置されたキッチン、その隣がバスルームで一番奥がダブルベッドが置かれたベッドルームである。このすごいスペー
スに一人泊まるのはもったいない。
 

昨日からの疲れがたまっているので、今日は休息に専念することにする。すぐ近くに商店街があり、飲食には便利で不自由しない。昼はパイで軽くすませ、夜はビフテーキにビール(三〇ギルダー=一、六〇〇円)で満腹する。でも物価が高いのが難点。足をいたわりながら近くの運河までぶらっと回ってみる。橋の上から眺めてみると、残念ながらここの運河の水も汚れていて汚い。





美しい運河の風景
だが水は濁っている。










第二日目。昨夜は隣室の“性なる声”に悩まされて睡眠が寸断される。コンクリートの壁なのに、それをとおして女性の“歓喜の声”が断続的に漏れてくる。それも短時間ではなく、延々三時間以上にわたってである。なんとタフなカップルであることよ。異国の旅ではこんな出会いもあるのかと、独り身の悲哀をかこつ。                             


市内観光
眠気の残る体で九時からの市内半日観光(費用 三二・五〇フローリン=一、七八〇円)に出かける。半分はボ−トでの運河めぐり、残りはバスでの観光である。運河めぐりでは、市内中心部の運河をめぐりながら十六、七世紀の古い商家や教会、倉庫などが立ち並ぶオランダらしい風景が眺められる。運河の水は、お世辞にもきれいだとはいえない。ヴェネツィアと同様、ここも汚れていてムードが出ない。しかし、バスでめぐりながら目に入る緑の並木、よく手入れされた芝生の庭、落ち着いた家並みなど、郊外のグリーンに包まれた景色は一段と美しい





運河クルーズの船上より
















美しい庭園を持つ家














オランダらしい建物











途中、ダイヤモンドの加工場に寄って、原石から研磨してブリリアンカットに仕上げる工程を見学する。ねらいはダイヤの販売にあるのだろうが、とても手が出ない。観光は三時間の行程を終わって午後一時半、ダム広場で解散となる。
 

広場の一角に中華レストランを見つけたので、そこで昼食とする。例によって焼き飯とスープを注文する。(二八ギルダー=一、五〇〇円) ところが出てきた焼き飯は大皿にたっぷり盛られ、大きいエビもいっぱい入っていて二人分は十分あるという代物。ちょっと圧倒されたが味も良いし、高い食事代もかかっているのでもったいないと思い、時間をかけてとうとう平らげてしまう。今後、中華飯店で食事する時には、まず一品だけ注文し、分量を確かめた上で追加注文しないと食べ切れない。
 

ここアムスには自転車でさっそうと走る若者たちが多く、自転車専用レーンも整備されていて、その置場もきちんと設置されている。市内を走る電車もスマートで音もなく静かに走る。だから横断する時は気をつけないと、電車が近くに来てもわからない。また、男子トイレの位置が高いトイレがあり、背の低い者にとっては爪先立って用を足さなければならない。オランダ人は平均身長が高いのだろう。
 

飾り窓の女
午後はホテルでゆっくり休息した後、夕食をすませてから世に名高い「飾り窓の女」たちを見学に出かける。運河沿いの地域にあるというのだが、こればかりは人に聞くわけにもゆかず、地図を片手に一人ぶらぶらと歩いて行く。この辺りのはずだが……と思って周りを見回すがその気配がない。人通りもそんなに多くない。おかしいなあ、と思って何気なく一つの細い路地に入って行くと、とある建物のガラス戸の向こうに女性がいるではないか。これが「飾り窓の女」なのだ。この界隈はイルミネーションなどで彩られていて、華やかな色の街の雰囲気が漂っているのだろうと勝手に想像していたのだが、予想に反してなんと殺風景なところだろう。 


運河を挟んで両側に通りがあり、そのところどころに細い路地が通っているが、主としてそこに彼女らの「ショーウィンドウ」は並んでいる。ドアの上半分がガラスになっていて、その中で彼女たちは思い思いのポーズをとりながらお客にアピールしている。ある者はビキニスタイルで、またある者は皮のショートパンツにブ−ツといったスタイルで椅子に座りながらタバコをくゆらせていたり、あるいは立ってポーズをとったりと、さまざまな姿態で迫っている。背後からピンク色のライトに照らされてショーウィンドウの中に浮かび上がる彼女たちの肢体は、光に幻惑されてかみんな美しく見える。部屋の広さは六畳足らずぐらいの様子で、奥のほうにはベッドが見える。このような部屋が路地に並んでおり、各ルームごとに一人の女性が魅力をふりまきながらお客を待っている。中から手招きするので、こちらも手を振って応える。 


通りにはひやかし客や観光客、それにアベックの姿も見られる。ウィンドウの中の彼女たちは意外とあっけらかんとしており、こちらのほうが気が引ける感じである。年齢的には若手から年増の女性まで幅広く、白人系より黒人系などそれ以外の人種が多い感じである。また、この付近にはポルノショップが点在して色を添えている。
 

小雨がパラつき始めたので、急ぎ引き返す。途中、オレンジ三個、リンゴ二個、ミネラル水一本を露店の果物屋から仕入れて帰る。オレンジとリンゴは、毎晩風呂上がりに欠かさず食べることにしている。小雨に濡れて、アムステルダムの夜は素敵にふけていく。
 

第三日目。朝方から、また隣室の“性なる声”が漏れてくる。隣のカップルはまだ滞在していたのだ。思わぬ目覚ましで六時過ぎ起床。昨夜来の小雨が今朝も降り続いている。今日は近くの店で、クロワッサンと牛乳の朝食を取る。


アンネフランクの家
「アンネ・フランクの家」は十時から開場というので、傘をさし地図を片手に早目に歩いて出かける。行ってみると、開門前というのにすでに人の行列ができている。列に加わり並んでいると、前の中年カップルが目の前でチュッチュッと愛のキスを交わし始めるではないか。目のやり場に困りながらも立ち退くわけにはゆかず、ただ所在なく立ち続ける。待つこと四十分、やっと入場である。
 

アンネの家は、運河沿いに四階建ての家が立ち並ぶ中の一軒である。





アンネの隠れ家
手前の入口に手すりの見える家









狭い階段を上りながら、各部屋の展示物をコ−スにそって見学する。ずっと以前に見た映画でも印象に残っているのだが、隠れ家に通じる入口だった回転本棚の実物を目の前にすると、さすがにジーンと胸が痛む。撮影禁止のオリジナル「アンネの日記」が展示されている。なかなか字もうまい。彼女はフランス語を勉強していたそうで、フランス語で書いた紙片も残っている。彼女の祖母のパスポ−トに大きく“J”マークがスタンプされているのが印象的で、ユダヤ人として選別されたそのシンボルマークが悲劇のすべてを語りかけている。隣国のドイツ人観光客も多いようだが、彼らはどんな気持ちでアンネの家を見学しているのだろうか。私がハワイ旅行に行った時など、真珠湾攻撃の記念館にはとうとう足を向けることはできなかったのだが……。


今度の旅行で、アンネの隠れ家がオランダにあることを初めて知ったのだが、どうしてここにあるのかというと、当初はドイツに住んでいたのがユダヤ人狩りが始まってから父親だけ残り、アンネたちの家族はオランダへ逃れてきたわけである。その後オランダも参戦するが、たちまちドイツ軍に破れてアムステルダムも占領されてしまう。ここからアンネたち一家の隠れ家生活が始まるのである。最後には発見され、収容所送りとなって、ガス室でこの多感な少女は短い生涯を終えるのである。皮肉にもドイツに残った父親だけが生き残り、現在もアンネを通じて世界平和を訴え続けている。
 

部屋をめぐりながら、こういう説明文や写真を見ていると、それから半世紀たった現在でもなお世界の各地で繰り返される人間の愚行がどうして断ち切れないのだろうかと、強い憤りを感じずにはいられない。それと同時に、広島・長崎の原爆被爆に関してアンネのようなヒロイン的存在がいたとしたら、もっとそのアピール力はあるのだがなあ、と一人思うのである。物理的な遺品やモニュメントもさることながら、こういうヒロインをとおして訴えられる戦争の悲惨さ、残虐さは、はるかに効果的で胸に迫るものがある。涙を抑えながら表に出る。
 

ダム広場へ回って、例の中華飯店で今度は特製ラ−メンを注文する。(一九・五〇ギルダ−=一、〇七〇円) ところが、具は多いがスープの味はまずく、麺も全然ダメでもうひとつである。日本風のラーメンを期待するほうが無理なのか。期待はずれの気持ちでホテルへ戻り、明日のサイクリング・ツア−の予約をとる。これは自転車を連ねて郊外の田園風景を眺めながら観光する一日ツアーで、今度の旅行の楽しみの一つにしていたものである。足の痙攣が起こってまだ日が浅いのでちょっと心配だが、思い切って申し込むことにする。午後には雨も止んだが、明日の天気予報では、どうもすっきりしない天気らしい。もし雨の場合は予定変更だ。 


夕食に出かけてビフテーキとビールで腹ごしらえ。それにしても食事代が高くついて困る。ギリシャ、イタリア、スペインでは安くて助かったのだが……。夜はテレビを見たり、ガイドブックを読んだりと、ひたすら明日のサイクリングに備えて休息する。
 

Edam観光
第四日目。朝起きてからしばらくすると、霧雨が降り出してくる。いろいろ迷ったが止みそうにないので、楽しみのサイクリングツアーは断念することに。そこで予定を変更し、九時半出発の風車と中世の街Edamを訪ねる観光に参加。傘もいらないくらいの霧雨の中を、バスは郊外へ向かって走り続ける。ロンドンの郊外も素晴らしかったが、ここの田園風景はまた一段と美しく、絵の中に吸い込まれて行くようだ。
 




美しいチューリップ畑











ザーン川のほとりにある四十軒あまりの小さな村落に着くと、風車の館が五基ばかり残っている。急勾配のレンガ色の屋根に白い窓枠の付いたコントラストがなかなかいい。実際に稼動しているのは、そのうちの一基だけである。十八世紀ごろには七百基ちかくもあったそうだが、今ではほとんどなくなり、わずか数基の風車が観光用に残されている様子である。





 風車の風景















アムステルダム郊外にある風車










館の中に入ると、ゴウゴウと音をたてながら大きな石臼が穀物をひいている。はしごを使って二階へ上がると、風車の軸と噛み合う大きな歯車がギーギーと音をたてながら回転している。この辺り一帯に七百基もの風車が回る風景は、さぞかし壮観であったろう。現代文明の波にさらわれて、こうしたオランダの象徴が失われていくのは、なんとも寂しいかぎりである。


近くには、オランダの民族衣装をまとった娘さんが愛嬌をふりまくチ−ズづくりの店や、名物の木靴を製作実演して見せる木靴の店がある。おみやげにしようと、長さ三センチあまりのミニ木靴三足を、旅行に出て初めて購入する。長期旅行のためバッグの重量を制限しているので、荷になるおみやげは一切禁止である。





 木靴の製造風景















カラフルな木靴の店











すでに雨もあがり、ひとしきり見学したところで、次は中世の雰囲気がそのまま残るEdamの町へとめぐる。ここは古い教会を取り巻くように家々が立ち並び、くるまや人の気配もなくて生活音が聞こえてこない。町全体が美しい緑に覆われ、静かなたたずまいの中にただ静寂だけが流れている。時折、それを破るように観光客の声が聞こえてくる。この静かでオトギの国のような雰囲気の中を一人ゆっくりと散策する。運河沿いの土手に腰をおろし、河岸の風景を影絵のように浮かべて流れる美しい水面を眺めながら、バナナを取り出してほおばる。
 

二時過ぎ帰着。遅い昼食をサンドイッチですませ、ホテルで休息。午睡した後、夕食に外出。食事はチキンにフライド・ポテト、ビ−ルである。これで二五ギルダー=一、三七〇円と高い。中央駅前の橋の上で足を止め、涼風に当たりながら暮色に包まれる美しい運河の風景にしばし見とれる。明日はベルリン行きだ。どんな素敵な出来事が待っているのだろうか、と思いをめぐらせながら床に就く。


(次ページは「ドイツ・ベルリン編」です。)










inserted by FC2 system