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6.聖地エルサレム観光
イスラエルの旅5日目。今朝も5時起床。窓外を眺めると、今日も晴れの天気で、前の坂道道路はまだ車の往来は少なく、ひっそりとしている。昼間の気温は暑くなるとの予報である。う〜んと背伸びをし、身体をほぐして全身を目覚めさせる。


いよいよ本日は今度の旅行のハイライト・「聖地エルサレム」観光である。城壁で囲まれた旧市街を中心に観光するのだが、そのメイン・ポイントはユダヤ教の聖地「嘆きの壁」、イスラム教の聖地「岩のドーム」、そしてイエスが十字架を背負い、十字架刑にかけられたゴルゴダの丘までの道のり・・・「ヴィア・ドロローサ」とキリスト教の聖地「聖墳墓教会」を観光する。つまり世界の三大宗教の聖地が入り組んだまさに聖地のるつぼと言える場所である。


エルサレム旧市街
旧市街を取り囲む城壁は16世紀前半、オスマン帝国によって再築造されたもので、8つの城門があるが、現在は7つが開門されている。城壁の一辺の長さは800m〜1000mで、全長4km弱。城壁の高さ平均12m 厚さ2.5m。城内の面積は0.87kuとなっている。


そしてこの城壁内は、神殿の丘(南東)、ユダヤ人居住地区(西壁の西)、キリスト教徒アルメニア人(アルメニア正教)居住地区(南西)、キリスト教徒居住地区(北西)、ムスリム居住地区(北東)の5つの地区に区分されている。


神殿の丘
朝食を済ませ、身支度を整えると8時、ホテル出発である。城壁で囲まれた旧市街へ向けて移動する。その南東のコーナーにユダヤ教の聖地・「嘆きの壁」とイスラム教の聖地・「岩のドーム」が共存する高さ19mの神殿の丘がある。まずはここからの観光開始である。


オリーブ山を眺めながら旧市街との谷間ケデロンの谷を走行中


バスは糞門に向って坂を上って行く。向こうにエルサレムの市街地が見える。

バスを下車して神殿の丘に近い糞門を通って旧市街に入る。“糞門”とは変わった名称だが、その昔、この門から糞尿や生ごみ類を捨てていたことに由来しているという。本来の糞門とは別に第二の糞門?が設けられている。本来の糞門は車の往来が激しく危険なため、別に門が造られたという。


糞門とは別に造られた通用門


考古学公園
ここで先にエルサレム考古学公園の方に入って見学する。神殿の丘の城壁や遺跡群が自然の形で見られるようになっている。その入口に近い壁に大きな壁画が描かれている。これはイエス時代のカルド(列柱道路)で、神殿の丘西壁沿いに設けられたメインストリートの様子らしい。両側には商店が並んでいたと言う。今はそれが瓦礫の山となって発掘されたままの状態で見ることができる。


カルド(列柱道路)の壁画

案内された所は、神殿の丘の南壁と西壁が交差するコーナーのポイントで、周囲は遺跡が瓦礫となって広がっている。このポイントでは南側壁面と西側壁面(嘆きの壁に続く)が見られる。そして先述したように、西側壁面に沿って設けられた当時のメインストリートの跡が瓦礫に埋もれた状態で見られる。ここに商店がずらりと並んでいたという。恐らく、イエスもここを歩いたかもしれない場所なのだ。


第二神殿時代の西壁(左)と南壁(右)の復元図


(動画)エルサレム考古学公園。神殿の丘の西壁と南壁が見える。


嘆きの壁(西側壁面)
考古学公園から戻って嘆きの壁見学である。ここへの入場に際しては厳しいセキュリティチェックがある。そのため多くの入場者が長い行列をつくって順番待ちすることになる。やっと順番が来て、荷物のX線検査と身体検査を受けて場内へ入る。


嘆きの壁に入る時のセキュリティチェックのゲート

ここを通過すると、ユダヤ人地区の住居に囲まれた広場に出る。すぐ前を黒装束にシルクハットで身をかためたユダヤ教徒が歩いている。フェンスの横を通って奥へ進むと、広い石畳の広場が広がっており、その正面突き当たりにはトンネルのようなウイルソン・アーチ(その昔、神殿の丘と町をつないでいた橋脚のアーチで発見者の名前が付けられている。)の祈祷所がある。


ゲートを通過して広場へ出る

そして目を右に移すと、見えた! あれが「嘆きの壁」なのだ!! 思ったよりも高い石組みの広い壁面で、これが神殿の丘の西側壁面となるわけだ。しかし、壁面左側は住居で遮断されて続きが見られない。壁面石組みの隙間には雑草が生い茂り、あたかも献花のような様子を見せている。この位置からは仕切りフェンスが置かれているので祈りを捧げる様子が見られない。



 左手赤の矢印がウィルソン・アーチ。正面中央が嘆きの壁。右手は神殿の丘に上る木造の通路橋。


(動画)嘆きの壁の広場。歌を唄う信徒のグループもいる。




ここから移動して、まずはウィルソン・アーチに入ってみよう。トンネルそっくりのアーチが現在4ヶ所あるのだが、これがウィルソン・アーチで、2000年前には5つのアーチがあったようだ。これが神殿の丘と町をつなぐ石の橋になっていたのだ。嘆きの壁の右端(考古学公園で見られるが、この位置からは見えない。)のコーナー近くに、もう一つ神殿の丘と町をつなぐアーチの石段があったようで、これも発見者に因んでウィルソン・アーチと呼ばれている。


今ではこのうち左側2つのアーチが祈祷所に使われている。この祈祷所は男女別々になっており、左側が女性、右側が男性用となっている。2000年前のイエスの時代から、シナゴグでは男女別々の部屋が設けられているが、それが21世紀の現在でも変わることなく、連綿と踏襲されている。これは嘆きの壁でも同様で、男女別々に分かれて祈祷するようになっている。


右側のトンネルの中(祈祷所)に入ると、天井はきれいなアーチの石組みになっており、この上部が通路となっているわけだ。左側にはユダヤ教聖書(旧約)などを置いた書籍棚が置かれ、右側のアーチの壁面が祈りの場所となってる。これは女性用のトンネルでも同じような様式になっているようだ。いま数人のユダヤ教徒が壁ぎわで祈りを捧げている。


祈祷所になっているウィルソン・アーチの内部(男性側)

このトンネル内部の地下には第二神殿時代(紀元前500年)の遺構があり、その礎石などの様子が、床に張られたガラス板越しに見ることができる。


床に張られたガラス板越しに地下の石組みが見られる

ウィルソン・アーチを出ると、嘆きの壁へ移動する。見上げる石組みの壁は高さ19m、幅は57m。この壁面がユダヤ教の聖地である。この壁の上部の丘には、イスラム教の聖地「岩のドーム」がある。つまり、同じ神殿の丘の壁面と平地が2つの宗教の聖地となっているのである。だから、ややこしいことになる。


実は「嘆きの壁」の長さは全長488mなのだが、そのほとんどが居住用の建物で隠れて見えず、そのうちの57mの部分だけが広場に面して見えている。この部分が「嘆きの壁」として聖地とされているのである。この壁の前がユダヤ教徒の礼拝所であり、ここでも仕切りフェンスによって男女別に分かれている。


この嘆きの壁を含む神殿の丘は、もともと自然の高台で、紀元20年ごろヘロデ王が神殿の丘を現在の形に拡張している。その時の西壁が現在の嘆きの壁の始まりとなっている。


紀元前10世紀ごろ、ダビデの子ソロモンがエルサレム神殿(第一神殿)を建てたと言う。その後、ダビデ王が統一したイスラエル統一王国はイスラエル王国とユダ王国に分裂し結局、イスラエル王国はアッシリアに滅ぼされる。


紀元前586年にはユダ王国も新バビロニアに滅ぼされ、エルサレム神殿(第一神殿)は破壊される。この時、唯一残ったのが西壁で、この一部が現在の「嘆きの壁」となっている。ユダ王国の多くの人々はバビロンに連行され捕囚の身となる。


ペルシャ時代(紀元前538〜)に入ると、捕囚のユダヤ人は祖国復帰が許可され、エルサレムに帰還。その後、第二神殿が完成する。紀元前63年にはエルサレムはローマの支配下になり、紀元後66年にはユダヤ人がローマ帝国に抵抗するユダヤ戦争が起こり、70年には鎮圧されて第二神殿が破壊される。この時も西壁(嘆きの壁)だけが残り、ユダヤ人はこの時から世界をさまよう流浪の民となる。


こうした歴史の流れをみると、神殿の丘の西壁がユダヤ教徒にとっていかに重要な意味を持つかがわかる。なにせ紀元前10世紀のエルサレム神殿(第一神殿)時代の壁面がそのまま今に残っているのだから! また、第一神殿の至聖所の位置が西壁に近かったとも言われている。このことも重要な意味があるのだろう。


こうして西壁が嘆きの壁としてユダヤ教の聖地になるわけだが、ではなぜ“嘆きの壁”と言われるのだろうか? それは「神殿の破壊を嘆き悲しむ」ということから来ているとされ、19世紀のヨーロッパの旅行者がこの西壁を「ユダヤ人が嘆く場所」と呼んだことに由来するという。


この石灰岩で組み上げられた高さ19mの西壁だが、それはこれまでの歴史を積み重ねたものとなっている。つまり、地上7段目まではヘロデ大王の時代のもの、8〜11段目はウマイヤ朝によって7世紀に追加されたもの、12〜25段目は1866年にイギリスの実業家モーゼス・モンテフィオーレ卿によって追加されたもの、そして最上部の26〜28段目はエルサレムのイスラム教の宗教指導者によって1967年に追加されたものとなっている。


こうして積み上げられた西壁は地上28段だが、地下に埋まっている部分が17段もあり、合計すると45段となっている。そして今では、この地下の部分が掘り下げられて観光用のトンネルができており、地下の石組みの状況が見られるようになっている。このトンネルの建設工事をめぐって、警備のイスラエル兵がパレスチナ人デモ隊に発砲するという事件があり、双方で70名以上の死者を出す惨事も発生している。


また、これまで神殿の丘の上部から西壁で礼拝中のユダヤ教徒に対して投石するという事件が時々起こっており、今年(2010年)3月5日にも「嘆きの壁」で祈っていたイスラエル人や警備の警官に投石し、警官隊が神殿の丘に突入するという事件があった。この暴動でパレスチナ人約30人、警官約15人が負傷したという。このように、イスラム教とユダヤ教の聖地が同じ神殿の丘に接しているために、絶えず紛争の火種となっている。こういう時に遭遇すると観光もできなくなる。


幸いにも、この時点では一応平穏状態にあり、神殿の丘の観光に問題なしである。いま嘆きの壁を見ると、壁に向かってユダヤ教徒が熱心に祈りを捧げている。祈り方も様々で、壁にへばり付いて祈る人、壁の前で祈る人、あるいは腰かけて祈る人など、それぞれの好みのスタイルで祈っているようだ。また、服装もまちまちで、正統派のユダヤ教徒はシルクハットに黒装束姿もいれば、半そでシャツのラフな姿もいる。とにかく、西壁に向かって敬虔な祈りを捧げているのは同様である。


嘆きの壁で祈るユダヤ教信徒たち


(動画)嘆きの壁で祈る人々。小鳥のさえずりがよく聞こえる。


(動画)嘆きの壁で祈る人々。祈りの声が聞こえる。


早朝とあってか、まだ参詣者は少ないようだ。観光客も壁の側に自由に入れるので、祈祷の妨害になるのは止む得まい。本来なら、観光客もいない静かな状態で祈りを捧げたいのだろうが・・・。


西壁トンネルツアー
西壁=嘆きの壁の見学が終わると、次はトンネルツアーである。この西壁に沿って地下を掘り下げて造られた観光用のトンネルがある。ここに潜って第二神殿時代の石組みを見物する。


地下トンネルの入り口

地下に潜った所に神殿の丘の模型が置かれ、もともとの自然の丘の状態から第一神殿、第二神殿、そして現在の岩のドームへ変貌して行く過程を模型で見れるようになっている。その模型はうまくできていて、神殿部分を入れ替えて見せられるようになっている。これでどのように神殿部分が変遷して来たかが一目瞭然に分かる仕組みになっている。


神殿の丘の模型(丘上に何もない自然の状態)


丘上に第二神殿ができた


そして現在は岩のドームが建っている

この模型による説明を受けてトンネルの奥へ進んで行く。アーチや巨石の石組みなどが見られ、なかには400トンもある長さ15mの巨石が組まれているところもある。これをどうやって運び、組み込んだのか世界の七不思議の一つらしい。。一部の壁面では信者が祈りを捧げる姿も見られる。細い通路の床には所々に、さらに深い地下部分が見られるようにガラス張りの覗き窓が設けてある。









 大きなアーチの天井が見える

















アーチの入口が埋め込まれている


巨石の石組み









 西壁面に沿って奥へ進む

















壁面で祈りを捧げるユダヤ教徒


通路の床に張られたガラス越しに深部の様子が見える


どんどん進むと通路は細くなる


高い天井のアーチが・・・


こんな所もある

このトンネルはユダヤ教徒にとっては特別の意味を持っている。と言うのは、第一神殿時代の至聖所の至近距離に近づくことができるからである。前述のように、地上の嘆きの壁は全長488mのうちのわずか57mの幅しか見れないが、地下トンネルはこれより長い距離を西壁に沿ってたどることができるのである。その意味で、地下トンネルで祈りを捧げる信者がいるのだろう。


トンネルの奥の部分は細く狭くなっており、ひと1人が通れるぐらいの通路になっている。だから、戻りの人が奥からやって来るとすれ違いができず、少し余地のある部分に移動して道をあけてやることになる。奥の最深部まで見物し、Uターンして地上に出る。このトンネルの見学には予約が必要となっているので、その場では入れない。


トンネル見学の予約の案内板


地上の広場に戻るとイスラエルの女性兵士が・・・。警備の交代?


岩のドーム
トンネルツアーに約40分を費やし、次は神殿の丘上に建つ岩のドーム見学である。この丘上の領域はイスラム教徒の管理下になるわけで、入場者はそのしきたりに従うことになる。この丘の警備は警察が行い、西壁(嘆きの壁)の警備はイスラエルの軍隊が行うというように分けられているという。互いに刺激し合わないようにとの配慮かららしい。


嘆きの壁の南側壁面に神殿の丘に入る入場口がある。ここへは急斜面の長い木造の通路橋が架けられており、ここを上って入ることになる。この通路への入口でも厳しいセキュリティチェックがあり、身体・持ち物検査が行われる。そのため観光客の長蛇の列ができている。この列に並んでチェック受け、ようやく入場である。このチェックの際に聖書を持っていることが判明したら、入場できないことになる。


岩のドームに入るためのセキュリティチェックゲートの行列


この木造橋を上って行くと、左側の隙間から嘆きの壁を真下に眺めることができる。だから、信者の祈る姿を高所から眺め下ろすことができ、違った角度から祈祷する様子を見ることができる。この通路を上りあがって神殿の丘に入る。


傾斜のある木造の通路橋。この左側の隙間から嘆きの壁の様子がわかる。


嘆きの壁で祈る教徒たち。右手に女性用の祈祷所との仕切りフェンスがある。


男性用祈祷所


幅が狭い女性用祈祷所

丘に上ると、すぐ右手にはアル・アクサー・モスクのドームが見える。イスラム教徒が重要な礼拝を行うのはこのモスクだそうで、岩のドームは一つの記念の場所に過ぎないらしい。丘の上はかなり広い平面の敷地になっており、その中央部に岩のドームが建っている。


アル・アクサー・モスクのドーム

目を左の中央部に移すと、まばらな大木の木立の木陰から、恥ずかしそうに黄金色に輝く「岩のドーム」がその一部をのぞかせている。木立の間をさらに進んで行くと、その向こうに燦然と輝くドームが姿を現す。手前にはイスラム教徒が礼拝前に身体を清めるための洗い場(エル・カス)があり、噴水装置もあるが今は出ていない。この場所が丘の中央部に当たるらしい。   


木立の間から黄金ドームが見えてきた



 黄金色に輝く岩のドーム。左手のフェンスはエル・カス。


(動画)神殿の丘に建つ岩のドームとアル・アクサー・モスク




このドームは一段高い基壇の敷地の上に建てられており、階段を二、三十段上ってドームに近づく。この敷地は石畳の広場になっており、かなり広大である。ドームはその広場の片側に建てられている。青空の中に燦然と輝きながら浮かぶ黄金のドームは実に美しく、神々しい姿で訪れる者を惹きつけてやまない。なんだかインドのダージマハールを彷彿とさせる光景である。


岩のドームと鎖のドーム(右)

この黄金ドームは、もともとは灰色の石でできていたそうだが、東京オリンピックのあった1964年に現在の金メッキが施されたアルミ板で覆ったという。このドーム内には2000年までは10ドル払えば誰でも自由に入れたそうだが、現在はムスリム(イスラム教徒)以外は入れない。


このドームの中に問題の“岩”があるわけだが、見れないとなれば無性に見たくなるのが人間の性である。イスラム教の始祖である預言者ムハンマド(マホメット)が羽のはえた白馬に乗ってメッカからエルサレムへと飛来し、ここの大岩から天使ガブリエルに導かれて昇天した場所だとされている。その時ムハンマドが残した足跡が岩に残されているといわれており、その聖なる岩を取り囲むようにして7世紀末にドームが建立されたわけである。だから“岩のドーム(Dome of the Rock)”と呼ばれるゆえんである。


神殿の丘には、この岩のドームと先述のアル・アクサー・モスクの2つのイスラム聖堂が建っているが、このためメッカ、メディナに続くイスラム教の第三の聖地となっている。この聖地の西壁はユダヤ教の聖地であり、同一の丘に2つの宗教の聖地があるのがややこしい関係を生み出している。


岩のドームをぐるりと巡りながら、その姿を眺めてみる。東側に来ると、岩のドームの正面に子連れのように小さなドームが建っている。これは「鎖のドーム」と呼ばれるもので、岩のドームと同時期に建てられたものという。伝承によると、ダビデ王がここで裁きを行ったそうで、その際に天井から鎖が吊り下げられ、裁きを受ける者が真実を述べているか否かによって、鎖に触れる可否が決められたという。


岩のドーム正面には鎖のドームが建つ


(動画)燦然と輝く岩のドーム



 岩のドームが建つ広場。左手先にアル・アクサー・モスクがる。




振り返って目を黄金門のほうに移すと、その正面遠くになだらかなオリーブ山(825m)の斜面が見える。その緑の中に黄金色に輝くネギ坊主の塔が見える。これがロシア正教のマグダラのマリア教会である。ロシア独特のネギ坊主の塔が特徴的である。このほか、オリーブ山にはゲッセマネの教会など幾つかの教会が建っている。このオリーブ山は明日観光の予定である。


岩のドームを背にして眺めたオリーブ山

この岩のドームで40分の時を過ごし、次はいよいよイエスが十字架を背負ってゴルゴダの丘まで歩いた悲しみの道(ヴィア・ドロローサ)を歩くことにしよう。時刻は11時になっている。



次ページは「ヴィア・ドロローサ、聖墳墓教会」編です)










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