N0.5−1





ヴィア・ドロローサ(Via Dolorosa)・・・悲しみの道
主イエスがアントニオ要塞のピラト官邸で十字架刑を宣告され、十字架を引きずりながら、刑場のあるゴルゴダの丘(現在の聖墳墓教会)まで約1kmの道のりを歩く。イエスの人生最後の時を迎える苦難の道になるわけだが、この悲しみの道をヴィア・ドロローサと呼ぶ。ヴィア・ドロローサはラテン語で「悲しみの道」というそうだ。


イエスの罪状
では、イエスが処刑されるに至るまでの経緯や罪状にについて述べておこう。まず、イエスはユダヤ人であること、そしてユダヤ人はローマの支配下にあったという背景をしっかりと認識しておきたい。


「過ぎ越しの祭り」(パスオーバーは、ユダヤ暦のニッサンの月(西洋暦では3月から4月に相当)の15日から8日間にわたって祝われるユダヤ教の祭日)が近づいてきたので、伝道もかねてイエスは弟子たちと共に聖地エルサレムに向かう。しかし、エルサレムに行けば、かねがねユダヤ教のお偉方から目を付けられているだけに、ほぼ確実に殺さるのではないかとの予想もされていた。


イエスをローマ圧政からの解放者、ユダヤの王であると勘違いしたのか、ロバに乗ってエルサレムに入場するイエスを群衆は熱狂的に歓迎する。しかし、斬新すぎるイエスの教えは群衆には受け入れられにくかったという。


当時の人々は、自分たちの中からローマの支配を打ち破って、独立の王国を建てる王が出ると期待しており、イエスを王にしようと考えていた(ヨハネ6:15)。当時の支配者たちは、人々がイエスに対してユダヤ人の王として期待していることにいらだちを覚えるようになる。イエスは自分たちの地位をおびやかす者だったわけである。


神殿に祈りに行ったイエスは、そこで商売や両替換金などが行われているのを見て憤慨し、商人たちを追い出しにかかる。合法化された神殿での商売にもかかわらず、勝手に追い出したらしい。この行為に反発した人々との論争に発展し、イエスに言い負かされた学者や祭司らは彼の処刑を心に決めたらしい。こうしてイエスがエルサレム神殿を頂点とするユダヤ教体制を批判したためである。


イエスはゲッセマネで捕縛され、そこの階段を通って鶏鳴教会の地下牢に留置される。そして翌朝明け方、ローマ総督ピラトのもとへ連行される。


死刑の権限のないユダヤ人の指導者たちは、その権限のある支配者ローマ帝国へ反逆者として渡そうとする。祭司たちがイエスは神の子を自称し、法律を破った。また、「イエスはユダヤの王を名乗り、ローマへの反乱を企てた。死刑にすべきだ」と告発する。そこでローマの総督ピラトはイエスを試して「ユダヤ人の王」であることを否定させようとしたがイエスは否定しなかった。


ピラトはローマ法を無視する訳にはいかず、何とかイエスを救おうとしたが、大祭司ら反イエス派の声も無視できない。そこで、イエスの罪を確定した上で、過ぎ越し祭の特赦の慣例を利用して、イエスを赦免しようとした。しかし反イエス派は、熱心党の首領と思われる盗賊バラバを赦免して、イエスを死刑にするようなおも主張した。


結局、大祭司らの「もしこの人を許したなら、あなたはローマ皇帝カイザルの味方ではない」という言葉に動揺し、ついに死刑判決を下す。つまり、イエスを政治犯に仕立てたのである。(以上の筋書きとは別の説もあり、真実のほどは不明。)つまり、イエスはユダヤ人によって殺されるわけだが、これが後世、ユダヤ人差別につながる基となったと言われている。


こうしてイエスはゴルゴダの丘で磔刑(たっけい、はりつけの刑)によって処刑されるわけだが、その罪状は「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」(ラテン語ではIESVS NAZARENVS REX IVDAEORVM)とされる。この単語のイニシャルを取って「INRI」と書かれる。絵画や彫刻によっては、INRI の文字が直接十字架に彫られていたり、イエスの頭上にINRI の文字が現れているような場合もある。(イエスの磔刑を描いた絵画⇒ こちら


磔 刑(たっけい)
十字架刑とも呼ばれるギリシア・ローマでは不名誉な罪に対する罰として磔刑が行われた。特にローマでは国家の裏切り者に対して行われたそうである。


磔刑の受刑者は鞭を打たれることになっていたが、この鞭は強力なもので、打たれた者は皮膚が裂け出血するほどである。場合によっては打たれた者が死亡することがあり、それではこの後の死刑執行が無意味になってしまうので、程々に打たれたらしい。


鞭打ちの後、磔刑の受刑者は刑場まで自力で杭を運ぶことになっていたと言われるが、受刑者が先に行われた鞭打ちで杭を運べない状況の場合、通りがかった者を徴用して運ばせた場合もあったようである。


イエスの場合も、この慣例にしたがって磔刑が行われたようだ。聖書の記述の要旨は次のようになっている。


『イエスの死刑判決が下りると、兵士たちはイエスを総督官邸の中に連れて行き、全部隊を呼び集めた。そしてイエスに紫の衣を着せ、王の持つ金の杖の代わりに葦の棒を持たせ、宝石のちりばめられた王冠の代わりに荊で編んだ冠をかぶせ、「ユダヤ人の王万歳!」と言って侮辱した。


そして、葦の棒でその頭を叩き、唾をかけ、跪いて拝んだりした。こうして、イエスを嘲弄したあげく、紫の衣を剥ぎ取り、元の上着を着せた。それから、兵士たちはイエスを十字架につけるために引き出した。』


悲しみの道
こうしてピラト官邸から処刑場のゴルゴダの丘まで、イエスの人生最後の道行きが始まるのである。このヴィア・ドロローサの道筋は現在の道筋より約2mほど地下にあるらしく、そのルートも現在のルートとは少々異なっているらしい。


それはともかく、こうしてイエスは十字架(別説ではこの時はまだ1本の杭だったとのこと)を背負わされ、総督ピラトの官邸を出発してゴルゴダの丘に向かうわけだが、その道すがら、幾つかの出来事が起こる。その出来事にそって1〜14の留(ステーション)が設けられている。これは聖書の記述や伝承に因んでいるという。


第1ステーション・・・死刑判決を受ける
イエスが総督ピラトによって死刑判決を受けた場所で、アントニア要塞の中となっている。この中にピラトの官邸があったとされている。しかし、これも異論があり、官邸はヤッフォ門の近くだとする見方もある。現在、要塞跡とされる場所はアラブ人の小学校になっており、入ることはできない。


第1ステーションの標識プレート(円形の板)


第2ステーション・・・鞭で打たれる
要塞跡の向かい側に、イエスが鞭打たれたという場所がある。そこに鞭打ちの教会が建っている。ここでイエスは茨の冠をかぶせられ、ローマ軍兵士に鞭打たれたという。そして、ここから十字架を背負わされ、「されこうべの場所」であるゴルゴダの丘へ向かうことになる。ここから西方向にある丘へ進むのだが、この段階で、すでにイエスの身体はボロボロ状態になっていたらしい。


第2ステーションの標識


鞭打ちの教会

教会内部はこぢんまりと狭く、中央祭壇の背面にはイエスが描かれた大きなステンドグラスの窓が設けられている。


鞭打ちの教会内部








 イエスが十字架を背負わされる
























 教会のすぐ近くにはイエスが歩いた
 とされる2000年前の石畳が・・・


















毎週金曜日の午後、フランシスコ会の修道士の先導のもと、この場所から十字架を背負って行進が始まり、多くの巡礼者や観光客が後に続いて行進する行事が行われているそうだ。


第2ステーションと第3ステーションの間にエッケ・ホモ・アーチと呼ばれる場所がある。「エッケ・ホモ」というのはラテン語で「この人を見よ」という意味だそうである。ローマ総督ピラトがイエスを群衆の前に引き出して、「この人を見よ」と叫んだ場所だとされている。


向こうに見えるのがエッケ・ホモ・アーチ。もともとは凱旋門だったそうですが、
右側の一部は建物に取り込まれてしまっています。




(動画)第2ステーションからエッケ・ホモ・アーチへ向かって歩いている。
サイレンが鳴っているのは防空訓練のためらしい。時々訓練が実施されるという。
日本の戦時中が思い出される。











 こんな下り坂の路地を通って第3ス
 テーションへ向かう。
















第3ステーション・・・最初に倒れた場所
イエスはゴルゴダの丘へ進む途中で三度倒れるのだが、その最初の場所がこの場所となっている。鞭打たれたイエスは十字架の重みで倒れるのだが、もうこの時点でかなりへばっていたと思われる。


第3ステーションの標識


この前は少し広くなっている

この場所にはポーランドのカトリック騎士団が小聖堂を建て、現在はアルメニア・カトリックの所属となっている。イエスが十字架を担いで倒れている様子が建物入口の壁面に彫像されている。


入口壁面に彫られたイエスのレリーフ


第4ステーション・・・母マリアとイエスが出会う
母マリアが十字架を担いだイエスを見たとされる場所である。ここにはアルメニア人の「苦悩の母のマリアの教会」が建っており、その入口上の壁面には浮彫りのレリーフがある。ヨハネ福音書によれば「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。」となっている。


第4ステーションの標識









 イエスがマリアと出会う絵
















この先から両側に商店が並ぶ雑踏の路地になっており、スークみたいな様相を呈している。この界隈はイスラム教徒地区になっており、城壁のライオン門付近から始まるこのヴィア・ドロローサのルートの約3/4の行程はこの地区を通ることになる。最後の1/4がキリスト教徒地区を通っている。



細い路地がつづく


両側には商店が並ぶ


第5ステーション・・・シモンがイエスに代わって十字架を背負う
キレネ人シモンが強制的にイエスに代わり、十字架を背負わされた場所とされる。ルカの福音書によれば「人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。」となっている。シモンは恐らく過ぎ越しの祭りに地方から出かけて来ていたのだろうと思われる。この場所にはカトリック・フランシスコ会の礼拝堂が建っている。


第5ステーションの標識

この横にイエスが手をついたとされる“手形”が壁面に残っている。その真偽のほどはわからない。


イエスの手形がついた石。普通には考えられない。

この先から階段のあるゆるやかな上り坂になり、両側には雑多な商店が軒を連ねている。


上り階段のある路地がつづく


第6ステーション・・・女性ベロニカがイエスの顔を拭く
この場所で、ベロニカという女性が絹のハンカチでイエスの顔を拭ったとされている。当時は罪人を助けるのは罪とされていたそうだが、重い十字架を背負い、汗を流しながら歩くイエスを見て拭ったのだろう。この近くに住む女性だったそうで、このときに用いた布にイエスの顔が浮かび上がり、「ベロニカのベール」として後世に語り継がれることになった。このハンカチはイタリアのサン・ピエトロ寺院に保存されているという話だが・・・。


第6ステーションの標識


ベロニカの名が刻まれた石


階段が多くなる


第7ステーション・・・イエス、二度目に倒れる
「裁きの門」と呼ばれる城壁外へ抜ける門があり、そこの敷居につまずいて倒れたとされている。この門にイエスの罪の告示をしたことから裁きの門と呼ばれている。現在、ゴルゴダの丘は旧市街の城壁内にある聖墳墓教会に当たるのだが、当時の城壁はここまでで、これから城壁外へ出てゴルゴダの丘に向かうことになっていたという。そこでイエスは、この門を抜けて処刑場のゴルゴダの丘へ向かおうとしたのである。


第7ステーションの標識

ここを過ぎると、イスラム教徒地区からキリスト教徒地区へ入ることになるが、上り坂の階段はなおも続いている。


狭い階段路地


上り階段はつづく。ゴルゴダの丘はまだ先。


第8ステーション・・・悲しむ女性たちをなぐさめる
ルカによる福音書によれば『民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け」』と語った場所とされている。


第8ステーションの標識

この先の進路は教会で塞がれているため、いったんスークへ戻り、そこから迂回して次の第9ステーションへ向かう。


ここを上り・・・


こんなところを通って進む


第9ステーション・・・イエス、三度目に倒れる
イエスが三度目に倒れた場所とされている。現在は聖墳墓コプト教会の入り口の所となっている。だが、以前は別の場所だったとも言われており、その伝承の真偽はわからない。この場所には木製の十字架が数本置かれているが、巡礼者がそれを担いで巡礼したり、毎週金曜日の行進の時に利用するために用意されたものらしい。


第9ステーションの標識と十字架


コプト教会入口


第10ステーション・・・イエス、服を脱がされる
これより以後の10〜14ステーションは聖墳墓教会の中に位置することになる。教会入口の右側、ゴルゴダの丘のローマカトリック小聖堂のあたりで衣を脱がされたとされている。


第11ステーション・・・磔刑にされる
ここで午前9時、イエスは十字架に磔にされたとされている。そして正午には地震が起こったという。 ここにはローマカトリック小聖堂の祭壇になっている。十字架刑は、古代ペルシア人、カルタゴ人、ローマ人の間で行われていた死刑の形式で、極悪非道な罪を犯した者や奴隷に対する極刑だったという。


大理石の急階段を上って二階へ


二階が見えて来た


二階に上がったところが11ステーション。この祭壇下に十字架を立てた穴がある。


二階祭壇前の混雑ぶり



(動画)イエスが磔にされる第11ステーションの祭壇



(動画)磔の十字架が立てられた所。祭壇下に屈み込んで柱の穴を見ることができる。
    祭壇両側のガラス窓から見える岩はゴルゴダの丘である。



磔(はりつけ)は罪人を柱や板などに縛り付けて殺す公開処刑の方法で、イエスの場合は十字型の柱に縛り付けられたとされている。この場面を表す絵画には、よくイエスの手のひらが釘付けされているが、これは間違いで、実際には手首のところに釘が打たれたはずという。というのは、手のひらだと、自重で手のひらが裂けて持ちこたえられないという。この手首の位置なら出血も少なく、正中神経が破壊され、手と腕は麻痺するという。


杭が立てられると受刑者の両腕に自重がかかり、肩を脱臼する。その結果、胸が圧迫されて呼吸困難となり、酸欠状態となって心筋は疲弊して機能を停止し、絶命に至る。絶命に至るまでは相当の苦痛が伴うもので、見ている人々が受刑者の苦痛を軽減するためブドウ酒などを与えることが許されたらしい。


第12ステーション・・・イエス、息をひきとる
ここでイエスは息をひきとったとされる。金曜日の午後3時のこととされている。ここにはギリシャ正教小聖堂の祭壇が置かれている。これに因んで、金曜日の午後3時からフランシスコ会のヴィア・ドロローサの行進が催されている。


(動画)イエスの大壁画


第13ステーション・・・アリマタヤのヨセフ、イエスの遺体を引き取る
アリマタヤ出身のヨセフが総督ピラトの許しを得てイエスの遺体を引き取った場所とされている。そして、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。


イエスの遺体を置いて香料を塗ったとされる長方形の石台(塗油の石)がフロアに置いてあるのだが、多くの観光客や巡礼団の人々が取り囲み、キスをしたり、バッグなど各自の持ち物をこの石台に置いて礼拝する人でごった返している。


(動画)イエスの遺体を置いて香料を塗ったとされる長方形の石台(塗油の石)


第14ステーション・・・イエス、埋葬される
ここがイエスの葬られた墓とされている。イエスは復活したので、ここには亡骸はない。その墓石は、天使の礼拝堂の奥の小部屋にある。その小部屋は1坪ほどの広さで、ここに埋葬され、そして復活したとされる。


(動画)天使の礼拝堂



(動画)聖墳墓教会の片隅の祭壇前で巡礼者のミサが行われている。


以上までがヴィア・ドロローサ(悲しみの道)の道行きのコースと各所での出来事であるが、実際の道は地下2mぐらいの所に埋もれているらしく、コースも現在のコースとは少し異なるものらしい。以上の各ステーションの位置は聖書の記述に従って配置され、各ポイントに教会や礼拝堂が建てられている。


最終地点の聖墳墓教会に入ってみると、そこは多くの巡礼者や観光客であふれ返っており、教会内とはいえ、喧噪と混乱の様相を呈している。そしてこの教会は建築構造が複雑なため、どこから入り、どこをどう回ったのか分からない状態で、ただ写真や動画を撮りまくったという感じである。しかも撮影した写真は撮りそこないが多く、暗くて映像が不明瞭となっている。


この教会はゴルゴダの丘を覆うように建てられているが、その丘の上部は削られて平らにされているらしい。だから、当時の丘の現状はなくなっているという。なお、この丘の頂上部が人間の頭蓋骨に似ていたことから、ゴルゴダ(=しゃれこうべ)と呼ばれるようになっている。


聖墳墓教会の所有関係と鍵の番人
この聖墳墓教会はイエスが処刑された場所や遺体の安置場所、墓などが入り乱れて錯綜した内部になっている。しかもその所有権をめぐって各教派間で熾烈な主張争いがなされて複雑な関係になっているという。


そもそもこの聖墳墓教会はローマ皇帝、コンスタンティヌス帝(在位306〜337)の母君ヘレナによって326年に聖堂が建てられたのが始まりという。熱心なキリスト教徒である彼女は、イエスの処刑されたゴルゴダの丘を特定するために聖地エルサレムへ巡礼の旅に出た。そして、この地をゴルゴダの丘と認定し、聖堂を建てたという。


またヘレナは、当時の伝承に従って、ベツレヘムの生誕教会(イエスの生地は実際はナザレとされているが)、オリーブ山上の昇天教会等を建立し、またゴルゴタの丘の跡から、イエスがかけられた十字架の破片を発見し、これと共に聖釘、茨の一部をローマへ持ち返ったとされている。


その後、破壊と再建が繰り返され、中世の十字軍時代に幾つかの聖堂が一つの屋根のもとにまとめられ、聖墳墓教会の基礎ができた。現在の建物は1810年に再建されたものと言われる。


現在はカトリック教会、東方正教会、アルメニア使徒教会、コプト正教会、シリア正教会の各教派の共同管理となっているそうだが、互いにその権限をめぐって対立が絶えず、年中小競り合いがあって時には教派の聖職間で乱闘騒ぎまで起きたりする。そのため非常口が少ないという安全上の問題があっても、その新設などについて各教派の合意を得るのは困難な状態となっている。


このような背景から、教会出入り口の開け閉めの鍵は数世紀前より第三者的立場に立てるイスラム教徒のアラブ人の家族に任され、代々その家族が朝に鍵を開け、夜に鍵を閉める慣わしになっているという。次の写真はそのカギを預かるキーマンのお2人だそうで、玄関近くの椅子に座って来場者を見守っている。撮影許可を申し出ると、快く撮影に応じてくれる。


聖墳墓教会の出入り口のキーを預かるキーマンのお2人


レストランで昼食
11時にヴィア・ドロローサの第1ステーションをスタートした道行きだったが、最後の聖墳墓教会に入り、その見学が終わったのは12時半ごろである。ここでこの界隈にあるレストランで昼食となる。メインはビーフで、これにサラダとパンがついている。


聖墳墓教会近くのレストラン

食後の一服の間に、ドロローサに出てスークの店を物色する。迷子になるといけないので、ほどほどにしてレストランへ戻る。



土産品店などが並ぶ路地(ヴィア・ドロローサ)


さまざまな商店が並ぶ路地(ヴィア・ドロローサ)


最後の晩餐の部屋 
2時前になって観光再開である。アラブ人街を通りぬけ、旧市街の南西にあるシオン門をくぐりぬける。ここを抜けるとシオンの丘地区になる。このシオンの丘はイスラエル建国運動であるシオニズムの語源となった場所で、イスラエルの象徴としての意味合いを持つ場所になっている。


シオン門から少し南に歩いて行くと、お城のような聖母マリア永眠教会の重厚な建物が見える。


重厚な聖母マリア永眠教会の建物

ここを通り過ぎてすこし行くと最後の晩餐の部屋とダビデ王の墓がある建物が見える。その2階部分が「最後の晩餐の部屋」とされている。


最後の晩餐の部屋の表示板

そこはがらんとした空間になっていて、今では何の調度品もない。ここにテーブルが置かれ、イエスと12人の使徒たちが、ユダヤ教の指導者たちによって捕えられる前夜、食事を共にしたことになっている。この食事は「過ぎ越しの祭り」のお祝いの食事だったようである。


最後の晩餐の部屋



(動画)最後の晩餐の部屋の様子


この晩餐の時、イエスはぺテロに対して「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」 と言った。そこでペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」と。皆の者も同じように言った。(しかし、この予言のとおりぺテロは取り調べの際に、イエスを知らないと言い張った)


有名なレオナルド・ダ・ヴィンチの絵画「最後の晩餐」(⇒ こちら)だが、あの絵では皆が椅子に腰かけて食事している。ところが、イエスの時代の食事のマナー習慣は、みんな車座になって座り、横に寝そべって肘をつきながら食べていたという。その意味で、この絵画は間違いだという。


また、この建物はイエスの時代よりずっと後の十字軍時代に建てられたものとのことで、イエスたちが最後の晩餐をした場所としての特定は甚だ疑問とされている。

部屋に入ると、すでに多くの巡礼者グループがいてざわめいている。あるグループはひな壇に座って賛美歌を合唱している。その清らかな歌声が天井の高い屋内いっぱいに響き渡っている。こういうシーンに出遭うと、なかなか心やすまる思いがする。


ダビデ王の墓
ダビデは少年時代羊飼いをしていて、竪琴の名手だったそうである。その後、成長した彼はペリシテ軍の巨人ゴリアテをを倒すなどして頭角を現し、紀元前993年にイスラエル王国2代目の王となった人物である。モーセに次ぐ偉大な人物とされたダビデは、1代でイスラエルを大国にしただけでなく、同国の黄金時代を築いた英雄となり、在位33年目に息子のソロモンを次の王に立て、この世を去ったとなっている。


竪琴の名手ダビデ王の像

最後の晩餐の部屋から階下に下りて行くとダビデ王の墓がある。ここも男女に分かれて拝観することになる。狭い場所でどれが棺なのか分からないが、とにかく敬意を表しておこう。



(動画)ダビデ王の墓


聖母マリア永眠教会
先ほど通り過ぎた重厚な建物の教会=マリア永眠教会へ回って見学する。この教会はマリアを祀るために造られた教会で、1910年に10年がかりで完成したものという。しかし、ここにはマリアの遺体は置かれていない。その代わりに象牙と桜の木で作られたマリアの眠る像が置かれている。マリアの遺体の在り処については諸説紛々で確定的なものはないようだ。また、マリア永眠の伝承についても諸説があり、定かではない。


マリアの眠る像


モザイクで描かれたマリア


イエスと12使徒


鶏鳴教会
マリア永眠教会から少し高台の方へ移動し、そこに位置する鶏鳴教会へ向かう。2000年前、最後の晩餐を過ごした翌日、イエスはゲッセマネで捕縛され、大祭司の邸宅に連行されるのだが、その邸宅跡に建つのがこの鶏鳴教会である。


中央が鶏鳴教会

鶏鳴という名前の由来はこうである。イエスの予言どおり、弟子のペテロが三度イエスを知らないと嘘をついた後に鶏が鳴いたという聖書の話に由来している。


マタイによる福音書によれば、次のようになっている。
『人々はイエスを捕らえると、大祭司カイアファのところへ連れて行った。そこには、律法学者たちや長老たちが集まっていた。ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで行き、事の成り行きを見ようと中に入って下役たちと一緒に座っていた。


さて、祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にしようとしてイエスにとって不利な偽証を求めた。ペトロは外にいて中庭に座っていた。そこへ一人の女中が近寄って来て、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言った。ペトロは皆の前でそれを打ち消して、「何のことを言っているのか、わたしには分からない」と言った。


ペトロが門の方に行くと、ほかの女中が彼に目を留め、居合わせた人々に、「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と言った。そこで、ペトロは再び、「そんな人は知らない」と誓って打ち消した。しばらくして、そこにいた人々が近寄って来てペトロに言った。「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。」そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。


ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。』


この教会の建物はモダンな感じで内部もすっきりとしている。この地下には連行されたイエスが一晩留置されたという地下牢が残っている。


鶏鳴教会入口の扉


多分、取り調べを受けているイエスの絵と思われる。


イエスの絵


イエスが一晩留置された地下牢








 ぺテロと3人の像
 ぺテロは三度イエスのことは知ら
 ないと言った。その時、鶏が鳴い
 た。この話に因んだ像。ペテロに
 質問した3人とペテロが並ぶ。
 上には鶏が・・・。













また、教会側面にある石の階段は2000年前のイエスの時代のものらしく、イエスがオリーブ山まで祈りに行く時に通ったといわれ、またゲッセマネで捕まってイエスが大祭司の邸宅に連行される時も通ったとされている。


イエスが通ったとされる2000年前の石段


石段の横にはイエスのレリーフが・・・



(動画)鶏鳴教会中庭からの眺望。左手に神殿の丘と岩のドームが見える。


ホテルへ
鶏鳴教会の見学を終えた後、中庭から眼下の風景を眺めてから宿泊ホテルへ引き上げる。午後4時半のことである。本日の夕食は新市街にあるレストランでの外食で、それまでしばしの休息タイムとなる。


新市街散策
午後5時半、ホテルを出発して新市街のベンイェフダー通りへ向かう。夕食前のひとときを市街散策で過ごす。路面電車の軌道工事が行われている大通りから横の辻へ入れば、そこがゆるやかなスロープが続くベンイェフダー通り。その通り入口には放送局のライブ放送の特設スタンドが設けられ、前には人だかりがしている。


新市街の大通り。いま路面電車のレール敷設作業中。11年4月に開通予定。


ベンイェフダー通りの交差点に設けられたライブスタジオのセット

この通りは石畳の並木道になっており、両側にはしゃれたお店やコンビニなどが並ぶ素敵なストリートである。歩行者天国になっているようで車は通らず、のんびり過ごせる通りでもある。ウィンドーショッピングしながら、通りの上端までぶらりぶらりと散策してみる。特にめぼしいものは見当たらず、その後は通りの中央にあるベンチに腰掛け、ぼんやりと行き交う人々の様子を観察する。ここは若者が多いようだ。


ベンイェフダー通り。ゆるやかな上り坂になっている。


通りには様々なキッパを売る商店が・・・


夕食は中華料理
ベンイェフダー通りで小1時間を過ごした後、すぐ近くにある中華レストランへ移動する。イスラエルで中華料理とは珍しい思いである。中国華僑は世界の隅々まで進出しているので、この地にあっても当然のことなのだろう。


店内は中国ムードただよう素敵なルームとなっている。出された料理はスープ、焼きメシ、ビーフンの炒め、チキン、マーボ豆腐、魚のフライなど種類豊富で、味付けもまあまあである。だが、日頃から本場長崎の中華街で食べ慣れた私には、比較しようもない。


中国ムードただようレストラン


再びホテルへ
夕食が終わってホテルに戻ったのは夜の8時過ぎである。今日の観光は旅のハイライトだったが、それだけに見どころが多く、朝の8時から夜の8時まで出歩いた長い一日となる。これですっかり2000年前のイエスの世界に引き込まれた感じで、ヴィア・ドロローサを歩きながらイエスの重い足音が聞こえる思いであった。


ベッドの上で静かに目を閉じ、イエスキリストに同化する思いで眠りに落ちる。



次ページは「エン・カレム、ベツレヘム」編です)










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