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              NO.4




6.ルクソ−ル(西岸)・・・・ツタンカ−メンの墓・華麗なる葬祭殿・馬車
                で
スーク散歩

5日目。今朝は十分に寝足りて6時に起床。午前中は観光の予定はなく、ホテルでゆっくりと休息の時間だ。このホテルにも前掲写真のような素敵なプ−ルがあるので、泳ぎもできる。だが、水着を持参していない。下手に泳いだりすると、午後の観光に差し支えるので、じっとしていたほうがよさそうだ。午後は暑い王家の谷を歩き回らなければいけないのだから・・・。そこで、ゆっくりと朝食を済ませると、あとは妻子へ便りを書いたり、外で寝椅子に寝そべったりしながら、のんびりと贅沢なリゾ−ト気分を味わう。今日も青空広がる快晴だ。
 





ホテルのロビー出口で談笑するエジプト人











王家の谷
12時少し前にホテルを出発し、レストランで昼食となる。一服すると、いよいよ午後の観光開始だ。目的地は王家の谷。昨日、ナイル川越しに遠望した茶色の岩山地帯である。そこはナイルの西岸、太陽の沈む砂漠地帯で、古代エジプト人はその地をあの世と考え、墓地をつくった。仏教式にいえば、三途の川(ナイル)を渡った西方浄土ということになる。いずれも太陽の沈む「西」をあの世と考えるのが共通していて面白い。エジプトの歴史が古いから、恐らく仏教の考えもここから伝わったのかも知れない。
 

こうして古代のファラオ(王)たちは、盗掘を避けるために、西岸の奥深くに位置する岩山の谷間に死後の安住の地を求めた。これが「王家の谷」である。この地域にはファラオや貴族たちの墓が多く点在しており、そのため金銀財宝を狙う盗人たちの格好の標的にされたようだ。現在わかっているものは62墓。ほとんどが盗掘にあっているが、ツタンカ−メン王の墓だけはほぼ原型に近い形で発見された。昔からこの周辺には土着の住民が住んでいたようで、恐らく彼らがその主体であったのかも知れない。もし、それらの盗掘品が現代に伝わっていれば、値の付けられないほどの価値になっているだろう。
 

バスは郊外に掛かる橋を渡って西岸地帯に入る。この橋は最近になってできたそうで、それまでは船でナイル川を渡るしかなかったのだ。今では便利になり、バスに乗ったままで対岸へ短時間で移動することができる。橋のたもとには、警備兵が監視している。なんとも心強いかぎり。頼りは彼らだけなのだから・・・。西岸へ入ると、バスは美しい緑の作物畑が広がる中を横切りながら走り続ける。こんなに緑が多いとは驚きである。ガイドの話によればナイルの両岸それぞれ10kmの範囲はグリ−ンベルト地帯で、それ以外は砂漠だそうだ。河岸近くでは水が土中に滲出してきて作物ができるが、遠く離れると灌漑によるそうだ。
 

観光ポイントには警備兵が警護しているものの、途中の道中は無防備状態である。観光客と一目でわかるバスなどは目立ちすぎてしようがない。こんな人気のないのどかな田舎道でテロにでも遭遇すればひとたまりもない。バスはそんな不安を乗せながらしばらく走ると、ほどなく王家の谷に到着である。
 

そこには何軒かの土産品店などが並び、ここからさらに奥へ入るミニトレ−ンの発着所にもなっている。バスから下車すると、早速ミニトレ−ンに乗って谷奥へ出発だ。小さな箱車を3、4両連結したミニトレ−ンは、草一本生えていない瓦礫だらけの茶色の岩山が広がる谷間を、ブ−ブ−とエンジンを吹かしながら上っていく。
 

すると間もなく、ファラオたちの墓が点在する区域に到着する。そこには入場チケット売り場があり、フェンスと石積み塀で仕切られた柵がある。草一本すら見えないこんな奥まった瓦礫だらけの岩山に、よくも墳墓を造ったものだ。







 王家の谷の入口



歴代のファラオたちは、若い時から生涯かけて自分の墓を造ったという。その典型がピラミッドというわけだ。それほどまでに死後の世界に思いを込めていたのだろう。
 

チケットを入手すると、フェンスを抜けて墓地めぐりへと歩き出す。まずは注目のツタンカ−メンのお墓へ向かう。前掲写真の谷間を奥へ数百メ−トル歩いて行くと、右手斜面の一角にコンクリ−トで縁取られた墓の入口が見える。それがツタンカ−メンの墓なのだ。入口門の壁に「TOMB OF TUT ANKH AMON」のプレ−トが貼られている。残念ながら、この墓地内でのカメラ撮影は禁止になっている。ここに今なおツタンカ−メン王のミイラが棺の中に眠っているからである。
 

階段を下って地下に下りていくと、そんなに奥深くはない所に玄室がある。この墓の規模はそれほど大きくない。若くして亡くなった王であるためらしい。英国の探検家ハワ−ド・カ−タ−が長年かけて数度にわたる探索の結果、あきらめかけたころに偶然この墓を発見したのである。それはエジプト遺跡の歴史に残る大発見となった。過去2度ほど盗掘が試みられた形跡があったそうだが、玄室までは荒らされておらず、考古学博物館に展示されている2千点にものぼる驚くほどの副葬品が眠っていたのである。彼は壁に小さな穴を開け、そこから中を覗いた瞬間「これはすごい発見だ!」と息を呑んだそうである。考古学博物館で見たあの発見時の写真の壁がそうなのである。
 

大きな石棺の中に人体型棺に入れられて王は静かに眠っている。その長い数千年の眠りを、いまこの闖入者が邪魔していいのだろうか。こう毎日、観光客が押し入って玄室内を徘徊したのでは、彼も静かに眠ることはできないだろう。そんな思いに駆られながら壁面を見ると、正面の壁にはオシリス神の形をしたツタンカ−メン王と後継者のアイ王が描かれている。


玄室はそれほど広くはない。しかし思えば、他家の墓にのそのそと入り込んで勝手に見回すなんて、誠に失礼千万なことではある。過去においては、ファラオたちの墓を発掘した当事者たちが次々と謎の死を遂げるなど、ファラオの呪いとして恐れられていた。ここで静かに拝んでおこう。 


ここを終わると、次はメレンプタハ、ラムセス3世、ラムセス9世の3つの墓の見学である。これらの墓もツタンカ−メンの墓も、それぞれ近い範囲に点在している。1枚のチケットで3カ所の墓を見学することになっている。
 

まずはメレンプタハの墓である。ここは入口からかなり奥深く入り込んだところに玄室がある。その距離はこれら3つの墓の中で一番長く、規模も最大のものである。






玄室へ長い地下道を下りて行く















 浮き彫りされた石棺










所々に踊り場がある長い下り道を下りて行くと、一番奥の地底部分にマンションの建築現場かと見まごうほどの広い玄室にたどり着く。その中央にファラオの寝姿が浮き彫りにされた大きな石棺が置かれている。やや赤みがかった赤色花崗岩製の棺である。確かに横たわる姿はX型に腕が組まれている。
 

一段低く掘られている石棺の底部へ飛び下り、その裏面に潜り込んで覗いてみる。するとなんと、石棺の裏はくり貫かれた空洞になっているではないか! つまり、見た目には一枚岩の石棺蓋のように見えるが、実はきれいに内側をくり貫いた石棺なのだ。それが蓋に使われたのか、それとも石の土台にミイラを寝かせ、その上にくり貫いた蓋をかぶせたのかは定かでない。 


見学者の一番最後になって戻ろうとすると、近くにいた係員が私を手招きする。おや?と思って近寄ると、内緒めかしに私を端の壁のほうに案内し、その端の細く突き出た壁のさんに乗って写真を撮れというのだ。なるほど、ここからだと石棺の全体像が捉えられる位置である。まあ、彼の特別の案内だから、それに乗せられてその位置に飛び渡り写真を撮ってみる。そのお礼に、もちろんチップを振舞うことになる。こうして撮った写真がこれである。彼らはこうしてチップを稼ぎ、自分のポケットマネ−にしているわけだ。

 




玄室の様子
石棺の裏はくり貫かれている









ここを出ると、次はラムセス3世の墓へ回る。入口は鉄格子で仕切られており、その上には「ラムセス3世」のプレ−トが掛けられている。









ラムセス3世の墓入り口














ここの奥行きも少々深いのだが、メレンプタほどの深さはない。階段を下りかけると、目上の壁面に美しい極彩色の壁画が見える。写真に収めとこう(手元ブレでピンボケになった)。奥のほうに進むと、そこにも見事な壁画が描かれている。これら3カ所の墓めぐりで、内部写真の撮影券4枚分を買ったのだが、もう残り1枚しかない。これは次の墓用に残して置かなくていけない。だから玄室の写真はあきらめるしかない。

 




入口階段の上の壁画















壁一面に描かれた色鮮やかな壁画   









最後の3カ所目はラムセス9世の墓である。その入口も同じ鉄格子で仕切られている。








 ラムセス9世の墓入り口 




















極彩色の美しい壁画










ここはやや小型の墓で、その奥の壁には写真のような古代壁画が美しい色調で描かれている。内部撮影は、これでチケット切れである。墓をいくつも回っていると、それぞれの玄室の様子がごちゃまぜになって、なかなか記憶が浮かんでこない。
 

ハトシェプスト葬祭殿
王家の谷の墓地巡りを終え、もと来た道をミニトレ−ンで下っていく。バスに乗ると、次はハトシェプスト葬祭殿を目指して走り出す。間もなく到着である。この付近一帯も王家の谷と同じように、草木が1本もない茶褐色の岩山地帯である。葬祭殿は、その一角の数十メ−トルもある高い断崖の下に壮麗な姿を見せて横たわっている。均整のとれた何本もの柱が壮観なまでに並ぶ葬祭殿は、壮大・壮麗・典雅・華麗の言葉がよく似合う建物である。ここはエジプト初の女王となったハトシェプストの葬祭殿なのである。

 




壮麗な葬祭殿の全景










遠くからと見ると3階建てのように見えるが、1階に見える列柱の部分はその上に広がるテラスの前面を飾る神殿の一部で、そのテラスの奥に2階建ての神殿が配置されているのである。この広いテラス上で、あの記憶に新しい2年前のテロ事件があったのだ。裏手は断崖に囲まれた逃げ場のない場所だけに、袋小路に追いつめられたように人々は逃げ場を失い、多数の犠牲者となったのである。この数千年の歴史を秘めた葬祭殿のテラスでである。この事件も歴史の一幕として残るのだろうか。いまは何事もなかったかのように、静かでのどかな雰囲気がただよっているのだが……。
 

葬祭殿の第1のスロ−プを上るとかなり広いテラスが広がっており、その奥に2階建ての葬祭殿が荘厳なまでの姿を見せている。テラスの長さは80〜90mほどだろうか。このテラスからさらにスロ−プを上ると2階に達するのだが、そこは入場禁止となっている。





 壮麗なハトシェプスト葬祭殿の全景。数年前、このテラスでテロによる無差別射殺事件があり、多数の日本人も死亡した。今はウソのように静かな
 時が流れている。




そこで観光は一階部分の柱や壁に描かれた物語り風のレリ−フを鑑賞することになる。向かって左側の壁面の一部には、女王がその当時貿易に力を注いでいたという、その交易の様子が船などの絵とともに描かれている。
 

ガイド君がこれらの壁画一つひとつに懇切丁寧な解説を加えてくれるので、その詳しさに感心しながら聞き入っている。そこで、エジプトの歴史をそれほど詳しくどこで勉強したのかと尋ねると、彼はもともと歴史に興味があり、そのためカイロ大学の教授に師事しながら数年間勉強したのだという。道理で詳しいはずである。日本語もまた上手で、日本人顔負けのペラペラである。これは日本大使館の日本文化教室に数年通って勉強し、マスタ−したという。なかなかの努力家である。
 

西へ傾きかかった太陽が高い断崖に遮られ、テラス一面に広い影を落としている。そのテラスに立って東方を見れば、ナイル川流域に青々とした緑の田園風景が眺望され、その乾燥した砂漠地帯に緑のオアシスを提供している。このカサカサと潤いのない葬祭殿一帯の岩石地帯から見下ろしながら、当時の古代人もその緑の眺めに心をいやしたに違いない。




 ハトシェプスト葬祭殿からナイル川方向を眺める



やがて葬祭殿を後にし、200mほど歩いてバスへ戻る。その地点から葬祭殿の全景を遠望しながら写真に収める。この写真右手の山肌に白く光る道筋を上って山を越えると、その向こうに王家の谷が見えるのである。あの頂上から眺める景色は、また一段と眺望が開けて素晴らしいに違いない。時間があれば上ってみたいものだ。この周辺の岩山の斜面には、古代から掘られたらしいいくつもの穴が残っており、そのいくつかには土着の人たちが今でも住居として住んでいる。



 葬祭殿の眺望。その後方は高い断崖に囲まれている。右手斜面の白く光る道筋を上れば、その向こうに王家の谷が見える。



バスは最後のポイント、メムノンの巨像へ向かい、そこで高さ21mもある巨大な一対の石造座像を見学する。どちらの座像も前面の形が崩れており、惜しくもその原形をとどめていない。
 

これを最後にバスは引き上げるのかと思えば、最後のショッピングがまだ残っている。ガイド君が、自分の知り合いのおじさんがやってる石材店に案内するという。行ってみると、花崗岩などを加工して作った石材品の数々が並んでおり、その加工過程をデモンストレ−ションして見せたりする。原石からみるみるうちに見事な作品に仕上げられるその加工技術は、なかなかのものである。それにしても、ちょっと値段が高く、それに重いのも難点である。何も手にせず、ただ見るだけの“Just looking”で終わる。 
 

午後の1時から始まった王家の谷を含むナイル西岸のいわゆる“あの世”地帯の探索は、5時間もかけてやっと6時に終了となる。真夏の炎天下だと、これは体にこたえるだろう。この11月の時期は、暑いとはいってもベストシ−ズンなのかも知れない。
 

香水のショッピング
さらにこの後も、ショッピングに案内される。そこは東岸にある香水の店である。パピルスと並んでエジプトおみやげ界の双璧を担っているという香水である。これはただの香水ではなく、小さな魔法のランプのように細長い繊細なガラス瓶に詰められているのである。その形も様々あって、見るだけでも楽しい。この瓶造りのデモンストレ−ションが、ここでも行われる。なかなか見事な腕前を披露してくれる。
 

みんな椅子に腰掛けさせられ、紅茶・コ−ヒ−・ジュ−スなど好みの飲物のサ−ビスを受けながら、何種類かの香水を嗅がされてセ−ルスされる。何人かが買っていたが、私はここでも手が出ない。結構な値がするのだ。ここにはフランスからの観光団も入っている。
 

長い香水ショッピングが終わって、これからやっと夕食である。これまで似たようなエジプト料理ばかりだったが、今夕は初めて中華料理のご馳走である。みんなの疲れた様子を見て、添乗さんが現地代理店と掛け合い、急きょこれに変更してくれたのである。久しぶりに食べなれた中華料理についつい箸が勢いよく伸び、またたく間に満腹となる。
 

夜のスーク探訪
レストランで一服した後、バスで少し移動し、そこから珍しい馬車に乗って夜のス−ク(市場)探訪としゃれ込む。一行は数台の馬車に分乗し、夜の道を軽快にギャロップしながらス−クへと向かう。御者台に乗り、軽やかな馬の蹄の音を聞きながら夜風を切って走るのは、なんとも心地よい気分である。この古代の町テ−ベのルクソ−ルで、思い出深い馬車の旅となる。 






馬車に乗って夜道をギャロップ










ほどなくス−クに到着である。ここは細長い道路が続く両側に各種の商店が列をつくって並んでいる。日本でいえば、ア−ケ−ド街といったところだろうか。






 夜のスーク(市場)










ここで1時間の自由散策となる。みんなは三々五々と散らばって“獲物”を物色し始める。そこで、人通りの少なくなった通りをぶらりと独り探索してみる。肉、フル−ツ、野菜類、民族衣装、香辛料、みやげ品など、様々な店が並んでいる。店の前を通ると、待ってましたとばかりに現地語で呼び込み案内が始まる。
 

そんな呼び込みのオジサンたちを適当に受け流しながらぶらついていると、とある店の前で一人の少年が意外にも英語で話しかけてくるではないか。「どこから来たのか」「いつまでここに滞在するのか」「これからどこへ行くのか?」などと話かけてくる。こんなところで珍しいことだと思いながら、ちょっとこの少年に興味がわいてくる。そこで、君の店はどこなんだと尋ねると、こっちだといいながら数軒先の店へ案内する。そこは石材品の店でびっしりと商品が所狭しと並んでいる。値段を見ると結構高いものばかりである。
 

そこで小さなイスに腰掛け、彼にいろいろと尋ねてみる。話によるとまだ17歳の少年で、店の販売を手伝っているという。まだ学校に通っているそうだが、英語は特別に勉強しているという。卒業したらカイロへ勉強に出たいのだという。ここから少し離れた所に親兄弟と住んでいるそうで、自分が長男だという。落ち着いた人懐こいハンサムな好青年である。折角来店したのだから、彼のためにも何か小さな品を買おうと物色してみるが、石材だけにどれもずっしりと重いものばかりである。悪いなと思いながら、何一つ買わずに別れを告げることになる。 

通りを引き返していると、同じグル−プのご婦人方がみやげ品店の前で何やら店主とやりとりをしている。近寄ってのぞいてみると、栞用に作られた小さなパピルスを買いたいのだという。そこで値段の交渉に一役買って出る。「ダ ビカ−ム?(これいくら)」「10ダラ−!」「ガ−リ− シュワイヤ−(ちょっと高いな)」「ガ−リ− シュワイヤ−」と連発しながら値切ること5、6回。やっとご婦人方の思う値段で折り合いがつき、一件落着である。感謝されることしきりである。やはりゼスチャ−だけでやりとりするよりも、片言でも現地語を使うようにすると、交渉力が増すようだ。よかった、よかった。
 

こうして時を過ごしているうちに帰りの時間となり、再び同じ馬車に乗ってバスの方へ戻り始める。もう夜の10時、静かになった通りに蹄の音ばかりが響き渡っている。そこからバスは一路空港へと向かう。今夜はカイロへ移動する日なのである。それがなんと遅い11時45分発の飛行便なのである。早い便が取れなかったらしい。今日は岩山ばりの王家の谷めぐりで疲れているのに、これはなんという強行軍だ。
 

1時間の飛行の後カイロに到着し、すぐにホテルへ直行である。到着したのは深夜の2時半、結局床に就いたのは夜明けに近い3時であった。翌日までずれ込んだお疲れの長い1日である。



(次ページは「サッカ−ラ・メンフィス・アブシ−ル編」です。)










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