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  N0.12





9.キジル千仏洞・天池……339の石窟・鳩摩羅什・海抜2千メ−トル
                                      の湖

 
シルクロ−ドの旅7日目。昨日は13時間かけての砂漠公路縦断の旅であったが、さほど疲労感は残っていない。今朝は満ち足りた気分で6時に起床。空は晴れである。今日の日程も忙しく、郊外のキジル千仏洞やスバシ故城などをめぐった後、空路ウルムチへ移動する。この旅もいよいよ終盤にさしかかったというわけだ。
 
           クチャの位置


クチャの町
ここクチャ(庫車)の町は、天山山脈の南側を東西に走る古代シルクロ−ド・天山南路の最大のオアシスである。紀元前1世紀、亀茲国(きじこく)と呼ばれる白人系の王国で人口8万の町だったらしいが、東西貿易の中継地として通行商人から関税を徴収するなどして栄えた所である。しかし、その繁栄ぶりを狙って北方の騎馬民族匈奴が侵攻し、その一方で東方からは漢民族が押し寄せるなど、大きく翻弄されることになる。
 

4世紀になって7万の大軍を送った前秦に攻め込まれて陥落。その略奪品の金銀財宝はラクダに乗せて長安へ運ばれたそうだが、その2万頭にもおよぶラクダの列は天山南路を埋め尽くしたという。その後、唐末にはウイグルに支配されることになる。
 

また仏典翻訳に生涯を送った名僧・鳩摩羅什の出身地として知られるこの町は、現在の人口40万人、その87%がイスラム教徒のウイグル人で占められている。幸せをもたらすという青色を好む町で、わが国の宮廷音楽、雅楽に大きな影響を与えた亀茲音楽や踊り、それに豊かな果物が大きな特色となっている。また郊外には仏教遺跡のキジル千仏洞やスバシ故城などがあり、金曜日には大バザ−ルが開かれる。
 

残念なことに、旅行日程ではこの町を観光する時間はなく、郊外のキジル千仏洞を中心に観光するのみである。このホテルは広い敷地に幾つかの建物と共存しており、その離れのレストランへ敷地を横切って朝食に出向く。その途中のガ−デンには木々の植え込みがあって鬱蒼と茂っており、その中には果実がたわわになる杏の木があったりして、旅人の目を楽しませてくれる。
 

たわわになっている杏の実

キジル千仏洞への道のり
バイキング式の中華料理で朝食を済ませ、身の回りを整えると玄関へ。8時半、この町から西北へ75kmの位置にあるキジル千仏洞を目指して出発する。町を通り抜けて郊外に出ると礫砂漠が広がっており、その向こうにはチャ−ル・タグ(不毛の山)と呼ばれる不毛の珍しい堆積地層の山地が横たわっている。まさにそこは草1本見当たらない赤茶けた奇岩の山並みで、奥に進むにつれ、まるで月世界に来たかと思わせる奇っ怪な風景が展開する。その途中でフォトストップとなり、しばしこの奇岩風景を観賞する。
 

礫砂漠が広がる


珍しい堆積地層の山


珍しいヤルダン地形。風の作用で削られてテーブル台のような地形ができる。




チャール・タグの不毛の岩石山。草1本生えていないのは見事〜!




このチャ−ル・タグは天山山脈の南側に連なる山並みで、天山南路と天山山脈の間に横たわっている。キジル千仏洞へはこの不毛の岩石山の間を縫いながら分け行って行く。その途中、岩石渓谷の間に霜が降ったように真っ白な川床らしきものが見えてくる。今は干上がって川の流れは見えない。これが三蔵法師も歩いたとされる塩水渓谷といわれるもので、増水期を除いて水の流れはなく、それが乾燥によって土中の塩分が地表に浮き出てくる塩類集積現象が見られる。これはタクラマカン砂漠の中でもよく見られる現象である。
 

塩類集積現象で川床が真っ白になっている


塩が吹き出た川

この不毛の岩山を通り抜け、さらに砂漠の道を通り抜けて行くと、急にその先に視界が開けて眼下に緑豊かなオアシスの空間が現れる。草木1本生えないこの荒涼とした岩だらけの山間に、忽然と緑のオアシスが出現する様は例え様のない心の安らぎを感じるものである。ここがキジル千仏洞といわれる蜂の巣のように穴の開いた石窟群が並ぶ最古の仏教遺跡で、この谷間を流れるムタルト河を眺める岩山の断崖に2kmにわたって造られている。



キジル千仏洞のあるオアシス。向かいの山裾にムタルト河が流れている。右手前の小屋は撮影器具を預かるところ。その向こうの白い建物はチケット売場、兼売店、兼休憩所。




鳩摩羅什の坐像
バスはこの静かな谷間の一角に止まると、そこから歩いて石窟の入口へ向かう。すくすくと気持ち良く伸びたポプラ並木の参道を通り抜けて行くと、その奥の正面に漆黒の石像が静かに鎮座している。この座像の人物こそ、その名を広く長安にまで知らしめた名僧・鳩摩羅什(くまらじゅう・350年頃〜409年)なのである。鳩摩羅什の座像と対面しながら、石窟へ向かう。
 

美しいポプラ並木の参道


石窟群と鳩摩羅什の坐像


静かに黙考する鳩摩羅什

その前に、この名僧について少し述べておこう。彼は中国の南北朝時代初期にサンスクリットの仏教経典を中国語に翻訳した僧である。彼の出生はインドからの亡命貴族である父と、白人系の亀茲国(きじこく)の王の妹である母との間に長男として生まれ、この石窟で育ったといわれる。7歳の時、母親とともに出家して西北インドに留学し、そこで小乗仏教や大乗仏教、それにサンスクリット語を修得。383年、35歳にして西域の名僧として名を広く知られるようになる。
 

その後384年、亀茲国を征服した前秦軍に捕われの身となり、以後18年間涼州で苦渋の幽閉生活を強いられる。その間、中国語に精通し、中国への知識を深める。401年、後秦の姚興(ようこう)に招請され、都長安に迎えられる。ここで女人を受け入れたため破壊僧となるが、以来、在俗的な生活の中で10年足らずの間に精力的にサンスクリットから漢文への翻訳を行い、3千人もの多くの門弟を育てたという。
 

翻訳された経典は般若経、阿弥陀経、妙法蓮華経、維摩経など、全300巻にのぼり、日本をはじめ東アジアの仏教思想の土台を築き上げる。彼は般若心経の中で、「色即是空 空即是色」の思想を示したり、また「地獄」「極楽」の語を生み出すなど、これらの語を経典で初めて使った僧でもある。唐僧・玄奘三蔵より200年も前のことである。(注:「色即是空」→この世にある一切の物質的なものは、そのまま空(くう)であるということ。「空即是色」→一切の存在は現象であって空であるが、その空であることが体得されると、その現象としての存在がそのまま実在であるとわかるということ。)
 

最大の仏教遺跡
ここの石窟の壁画からヒントを得て造ったとされる鳩摩羅什の黙考する座像を拝みながら、ミンウダク山の不毛の断崖に掘られた石窟へ上って行く。クチャの町から西へ70km、車で1時間半の距離にあるこのキジル千仏洞は、3世紀頃から造られ始めたが、8世紀末ごろには放棄されたという。この岩壁に3.2kmにわたって開削された石窟群は中国の仏教遺跡では最古のものであり、タクラマカン最大の仏教遺跡でもある。




キジル千仏洞の中心部分。 中央の階段をかなり上っていく。




現在339の石窟が確認されており、その大きなものは高さが27mもある。その半数が僧たちが暮らす僧坊で、残りが壁画が描かれた礼拝の場となっている。最盛期の4世紀には1万人の僧侶が厳しい戒律のもとに暮らしていたという。その後、盗掘や10世紀以降のイスラム化による顔面や涅槃像の破壊、20世紀のドイツ、イギリス、ロシア、日本などの探検隊による収奪、文化大革命時の紅衛兵による破壊、地元の羊飼いによる焚火などで壁画も痛んでおり、完全な姿で見ることはできない。
 

ここで暮らした僧たちの読経の声や足音を耳にしのばせながら、石段を上って行く。その途中の撮影器具預かり所で、カメラ、ビデオカメラ類を預けることになる。石窟内は残念ながら撮影禁止なのだ。ここから女性の案内兼解説係員がライトを持って同行する。これら壁画の題材は釈迦の誕生から涅槃までの生涯に関するものや古代西域の人々の暮らしを描いたものが多いという。インドネシアの仏教遺跡ボロブド−ル(792年に完成)でも、その基壇に同様のレリ−フが彫られているが、これはこの石窟の流れをくむものだろうか? その関係を知りたいものである。
 

石窟内の様子
われわれはこれら石窟のうち主なもの8つを見学することになる。その当時は石窟の入口がどんな状況になっていたのか定かではないが、現在では各石窟の入口はコンクリ−トで額縁状に固められ、そこに扉がつけられて施錠されている。その扉を案内の係員が一つひとつカギで開けて中に入る。
 

暗い石窟の中をライトで照らしながら、主な壁画について解説してくれる。係員は中国語でしか話さないので、ガイド氏がいちいち通訳をしながらの解説である。普通の石窟内の高さは3mぐらいで、その広さは8畳ほど。その壁面全面に天井まで隙間なく壁画が描かれている。仏陀や楽器を奏でる飛天など青をふんだんに使った着色が目立つ。幸せをもたらすという青色を願いを込めて塗り込んだのだろう。(こちらを参照)
 

ラピスラズリの青
ここの石窟で使われている青色は、ラピスラズリという顔料を使ったものだそうで、これは金銀同様に高価で取り引きされる宝石であり、アフガニスタンでしか取れない貴重なものだという。そんな遠くから取り寄せた宝石を顔料にして塗ったものである。この宝石は日本では瑠璃と呼ばれるもので、遠く5000年前のエジプトでもツタンカ−メンのマスクにこれが使用されているという。(→こちらを参照)
 

五弦琵琶のルーツ
ここの石窟では五弦琵琶を持つ伎楽飛天の壁画を見たかったのだが、それは第8番窟の天井の一角に描かれており、意外に小さいものである。(壁画はこちらを参照)飛天が抱える琵琶をよく観察すると、確かに弦の止めネジが5本あるのが確かめられる。これが奈良の正倉院に残る世界でただ一つしかない五弦琵琶の現物(→こちらを参照)で、このル−ツがここに描かれた飛天の抱える五弦琵琶なのである。その昔、この地からはるばる日本へ渡来した正真正銘の琵琶なのである。そのことを思うと、実にロマンを感じずにはいられない。
 

この8番窟の天井はカマボコ型になっており、そこには本生画、日神、風袋を携えた風神、五弦琵琶を奏でる伎楽飛天などが描かれ、その奥に設けられた後室には沙羅双樹が描かれた涅槃台がある。だが惜しいことに、涅槃像そのものは持ち去られ、涅槃台だけしか見られない。イスラム教徒の仕業かどうかは定かではない。また、後室の壁に描かれた沙羅双樹の大きな葉っぱがとても印象的である。この後室は主室の奥の壁の両端に細い入口をうがち、そこから出入りするものだが、後室内は畳2畳足らずの狭いものである。
 

ドイツ探検隊によって「音楽堂」と名付けられた38番窟は、ここの石窟群の中では最古(3〜4世紀)のもので、ここもカマボコ型の天井である。ここにも五弦琵琶の絵があり、その他横笛、ひちりき、手鼓、太鼓を奏でる伎楽天などが描かれ、側壁には魚、蛇、鴨、蛤、怪獣などが描かれている。これれらの側壁画は見事なまでに左右対称に描かれているのが印象的である。ここに見られる横笛やひちりきなどは、わが国の雅楽に引き継がれているのではなかろうか? ここの後室には釈迦涅槃の壁画が描かれているだけで、涅槃像を置く台は造られていない。
 

お月様とうさぎ
これ以外に6つの石窟を見物したたわけだが、その中に月の絵の天井画があり、その月の中にウサギの絵が描いてあるのを発見。その時、ふと思い出したのが、「お月様にはウサギが住んで餅つきをしている」という昔話である。これなどは多分この壁画がそのル−ツではないかとの確信が生まれる。これまで懐かしんできたこの月とウサギの絵をこの石窟に見出したり、またこれまで読経し続けて来た法華経の経典が名僧・鳩摩羅什の翻訳によるものであることなどを知るにつけ、現在まで長い間探し続けて来た心の故郷に出会ったような思いがして感慨ひとしおの気持ちにひたる。



(次ページは「スバシ故城」編です)










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