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  N0.13





スバシ故城へ
ここでの石窟見学に2時間を費やした後、次の遺跡、スバシ故城へと向かう。再びもと来た道を戻り、東の方角にあるクチャ川を目指してひた走る。この川のほとりに遺跡があるのだ。


礫砂漠の中、かなりの道程を走って遺跡に到着。遠くに不毛のチャ−ル・タグを望む砂漠地帯の中に原形すら分からない土塁らしきものが点在するのが見える。これが亀茲国最大の寺院であったスバシ故城である。ス…はウイグル語で水、バシ…は頭を意味し、スバシは水源地を意味するらしい。ここはクチャのオアシスに引かれる水の水源として崇拝の対象だったらしい。
 

この遺跡はクチャ川を挟んで西岸と東岸の2つに分散して建立された古代の大伽藍で、玄奘が記した「大東西域記」にもその名が残されており、彼はここに2ヶ月滞在したという。全盛期には3000人もの僧たちが生活していたというが、今はそれをしのぶ何のよすがも残されていない。ただ、荒れ果てた広大な敷地と散在する大小さまざまの土塁の跡がわずかにロマンを掻き立てるのみである。
 

スバシ故城入口の碑石

大寺院滅亡の原因
これほどの規模と僧をもつ大寺院も、その後衰退し滅亡してしまうわけだが、その原因には主として次の3つがあげられるという。その一つはイスラム教の進入で、西方からイスラム化の波が押し寄せたということである。


二つ目は僧侶の内部崩壊である。乱世の豪傑たちは仏教に帰依する者が多く、彼らは僧侶に兵役や夫役を免除し、また出家して生産に従事しない僧侶から税金を取るのは不合理との判断から課税もしなかった。そのため本来の信仰心からではなく、ただ兵役や夫役、それに徴税から逃れるための手段として僧侶の道を選ぶ者が多くなったという。
 

こうして仏教教団の内部に腐敗と堕落が蔓延して行ったのである。その証拠に、近年この場所でミイラが発見されたそうだが、その女性の胎内には胎児があったという。このように女人禁制のはずの寺院の中でも、こうした現実が見られたというわけである。
 

3つ目は、こうした僧侶たちの腐敗堕落は社会的信用の失墜を招き、社会の支持を失うに至ったということである。悲しいかな、こうした人間の業の深さは、いつの世も変わらぬものなのだろう。
 

遺跡の敷地に入る手前に入場券売り場があり、その横にちょっとした土産品売り場もある。そこを通り過ぎて敷地内に入ると、正面にひときわ目立つ大きな土壁がそそり立つのが見える。これは周囲318m、壁の高さ10mの方形のもので、僧舎の跡らしい。気温32度の炎天下の中、瓦礫が散在する敷地を歩いて側に行ってみる。この上がどうなっているのか分からないが、上ってみる時間はない。



不毛のチャール・タグの山懐に広がるスバシ故城遺跡。中央の土塁が僧舎の跡? ここで暮らした3000人の僧たちは何を思って時を過ごしたのだろう。右手川向こうが東岸の遺跡。




敷地の奥の方にも仏塔などが点在して奥行きは広そうだが、そこまで回る余裕もない。ただ、クチャ川のほとりに立って、遠く東岸の遺跡を遠望するだけである。一般に公開されているのは、この西岸の遺跡のみである。


東岸に広がる遺跡。手前は干上がったクチャ川。

エジプト・ルクソ−ルの西岸、東岸ではないが、ここもそれに似て東西に分散されているが、この両方を合わせるとかなりの規模の大伽藍であることが分かる。この草木もない砂漠の中の大寺院で、多くの僧侶たちはどんな生活を営み、どんな歴史を積み重ねて行ったのだろう? 今は、この荒れ果て崩れ落ちた廃虚に残る土の塊を通して2000年の時空を越え、ロマンを馳せるしかない。
 

昼食の後、ウルムチへ
飛行機の出発時刻が迫っているということで、ここを急ぎ足で立ち去り、市内へ向かう。もう午後の1時をとうに過ぎている。ほどなくホテルに戻って、そこで昼食。一息する間もなく、あわただしく空港へと向かう。


クチャ市内の通り


こぢんまりしたクチャ空港ビル


クチャ空港

小さな空港に着くと、そこで搭乗の検閲を受け、15時発の飛行機でウルムチへ向かう。2日目にウルムチからカシュガルに飛んだ折には天山山脈の南側を飛行したが、今度はその東側を飛行している。上空から眺める冠雪した天山の眺めはいつ見ても素晴らしいものである。



(次ページは「ウルムチ・天池」編です)










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