no.3




三日目。朝空を見上げると晴れている。天候がついている。だが、今朝になっても激しい下痢が続いている。調子を崩してから今日で五日目になるのに、いっこうに治まる気配が見えない。さすがに顔もげっそりと痩せ細り、眼かも落ちくぼんで二重まぶたになっている。果たしてこの先、旅行を続けられるのだろうか。


今夜は夜行列車なのに、車内ではトイレが大変だ。最悪の場合、中断して帰国した方がいいのだろうか、あるいは現地入院する方がいいのだろうか。入院となれば、ロシア内の旅行日程の変更手続きも必要だし、やっかいなことになる。そんなことが、ふと脳裏をよぎる。
 

とにかく、予定の行動をとってみよう。そう心に決めて食堂へ出向く。今朝もパン一切れに牛乳、紅茶だけで済ませる。レ−ニン廟は十時から開門なので、それまでゆっくりとテレビを見て過ごす。ロシアのテレビは内容が今ひとつパッとしないので、アメリカのABC放送を主に見ることにしている。
 

レ−ニン廟
今度こそは入場チェックにかからないようにと、手ぶらでレ−ニン廟へ出かける。赤の広場はすでに封鎖されて、入門チェックが始まっている。列に並んでチェックを受けるが、持ち物がないので無条件パスである。クレムリンの長い城壁沿いに数百メ−トル歩いて、赤土色の花崗岩で造られたレ−ニン廟へ進む。歩くコ−スは決められており、間隔をおいて警備兵が立っている。廟の入口を入ると、室内が真っ暗な感じで足元がよく見えない。明るい外から急に薄暗い室内に入ったので目が慣れないのだ。足元に注意しながら恐る恐る暗い階段を下り、警備兵が立っている通路を曲がって奥のほうへ進むと、ほのかに明るい部屋へたどり着く。
 

部屋の中央に安置された柩の中には、レ−ニンがライトアップされて静かに眠っている。覆われたガラスケ−スを通して眺め入ると、目を閉じた顔はほの白く、眉は凛として威厳を保っている。少し骨張った顔立ちは蝋人形のようだが、今にも起き上がって話しかけそうな気配が感じられる。これが七十年以上も前の一九二四年に死去した遺体とは、とても思えないほどの保存状態である。一九一七年、彼はプロレタリア革命を成功させ、世界初の社会主義政権を誕生させた偉大な革命家である。ソ連解体までは、レ−ニンは神聖にして犯すべからざる存在だった。
 

この廟はモスクワ軍管区の中でも最も重要な場所とされ、一番哨所の指定を受けていたが、九五年に衛兵はいなくなり、警備兵がいるのみである。彼の死後、四人の解剖学者や生科学者たちが遺体を死んだときのまま永遠に保存されるように防腐作業を行なったそうで、ロシア正教会に残る古いキリスト教の伝統に従い、その遺体が観覧に供されている。
 

偉大な革命家と無言の面会を済ませ、薄暗い部屋から出口へと階段を上って行く。明るい日差しがまぶしく、目を射るようだ。廟を出ると、ここからも歩行ル−トが決められており、脇道へそれることは許されない。今度は廟の裏手の方へ回り、クレムリンの城壁沿いに並んで設けられた要人たちの墓地の中を通ることになる。地面には区画ごとに仕切られた個人別の墓地が並んでいる。その中にひときわ大きく目立つ墓地がある。墓碑を見ると、スタ−リンと書かれている。彼も当初はレ−ニンとともに眠っていたそうだが、六十一年のソ連共産党第二十二回大会において、フルシチョフがスタ−リンを糾弾する秘密演説を行なった時から、彼の遺体は火葬され、この質素な墓に移されたそうだ。そして、ブレジネフの墓碑も目に留まる。
 

また、城壁の壁を小さく区切って、その中にも多数の要人たちが眠っている。後を歩いている子供たちが、「あっ、ガガ−リンだ!」と叫ぶので振り返ると、確かに「ガガ−リン」と刻まれている。「地球は青かった。」の名言を残した世界最初の宇宙飛行士の墓である。ロシア語で書かれているので、歩きながらではパッと墓碑銘が読み取れない。これらの墓地には、申し合わせたように、ピンクのカ−ネ−ションが献花してある。なかでもスタ−リンの墓は、その量が一番多いようだ。
 

長く続いた墓地の列を通り抜けると、赤の広場の反対側の端に出る。ここでやっと警備兵の監視下から解放されることになる。目の前には見慣れたワシリ−寺院がそびえている。結局、検問入口から赤の広場へ入り、その中央部にあるレ−ニン廟を見学し、その裏手から墓地の中を反対側の端まで歩いたことになる。帰り道はグム百貨店の反対側の入口から入って、デパ−ト内を通り抜けて行くことにする。


一昨日ここで買ったミネラル水が手頃な大きさなので、それを一本買おうと思いその店を探してみるが、どうしても見付からない。おかしいなあ、こんな限られた店舗内なのにと思いながら、付近を二度も三度もぐるぐる探して回るのだが、どうしても見当たらない。なんだかキツネにつままれたようだ。あきらめて帰路につく。今もって、どうしてあの店が発見できなかったのか不思議でならない。ホテル近くの地下道の出口には、スカ−フを被った可愛い鈴蘭の花売り娘ならぬ花売りおばあさんが立っている。ロシアらしい街角風景である。
 

モスクワの地下鉄
相変わらずのパンとジュ−スの昼食を済ませ、ベッドで一服する。お腹のことが気にかかる。とにかく、これから今夜発つレニングラ−ド駅の下見に出かけてみよう。インツ−リストの窓口で駅までのトランスファ−は要らないのかと聞くので断わっていたが、それを頼めば何千円もかかってしまう。地下鉄で行けば、それがたったの一、五〇〇ル−ブル(三〇円)なのだ。それが、どこまで乗っても一律料金なのだから安いことこの上ない。バスなら二〇円ですむ。すぐ近くのアホ−トヌイ・リヤド駅から地下鉄に乗ってみる。
 

窓口でジェトンと呼ばれるコイン型のチップを「アジ−ン パジャ−ルスタ(一枚お願い)」といって買い、それを自動改札口に投入して通過する。これはニュ−ヨ−クのそれと同じ方式だ。その先には長い長いエスカレ−タ−が待ち受けている。上り下りは、すべてエスカレ−タ−になっている。それもそのはず、その深度が相当深いのである。これを階段で上るなんて、とても考えられないくらいに深いのである。


そして、エスカレ−タ−のスピ−ドがこれまた速い。日本の一・五倍以上のスピ−ドだろう。足元のモタつく御仁には、ちょっときついかも知れない。時間を計っていると、上から下まで到達するのに二分半もかかってしまう。だから、急ぐ人はエスカレ−タ−上を駆け下りて行く。
 

駅ホ−ムの様子は駅ごとに違っているのだが、とても内装の美しい駅が多い。なかには大理石張りの豪奢な造りのものもあって、美術館や宮殿風の雰囲気が漂う。






地下鉄・モムソモーリスカヤ駅のホーム














大理石張りの豪華な地下鉄駅ホーム









ホ−ムには行き先の表示盤が掛かっているのだが、それがどちらの方向か分からないので聞いたほうが早い。そこで、係員をつかまえて「グゼ コムソモ−リスカヤ スタンツィア?(コムソモ−リスカヤ駅はどこですか)」と尋ねて、乗る側のホ−ムを教えてもらう。


乗り込むときには、もう一度確認のために「コムソモ−リスカヤ OK?」と側の人に尋ねることにする。相手の「ダ− ダ−(そうです。そうです。)」という返事を待って乗り込むのである。車両自体は古く、シ−トもクッションなしだが、車体幅がやや広い感じである。地下鉄の路線図を持ち、何番目の駅で乗り換えるのかを確かめながら駅名の車内放送に耳をすます。幸いなことに、この駅へは乗り換えなしで一本線だ。
 

レニングラ−ド駅
無事コムソモ−リスカヤ駅に着くと、レニングラ−ド駅への出口を尋ね、ホ−ムから続いた長い通路を通り抜けエスカレ−タ−で地上へ出る。すると、目の前がレニングラ−ド駅だ。






ペテルブルク行き列車が出発するレニングラード駅









驚いたことに、駅の周辺一帯にはキオスクみたいな小店がずらりと並び、身なりの貧相な浮浪者風の人たちであふれ返っている。一瞬、尻込みしそうだ。


どうしてこんなに混雑しているのかと、よく観察すると、両手にそれぞれ自前の品物を持った物売りのオバサンたちが、スカ−フを頬被りして通り道の両側に長い列をつくって立ち並んでいる。干魚や野菜、衣類など様々なものを手に手に持って、ぎっしりと隙間もないほど行儀よく一列に並んでいるのである。どこからこんなに大勢の人たちが集まってくるのだろう。これで商売になるのだろうか、買物客の姿はほとんど見かけられないのだが。
 

ホ−ムの端に大きな電光掲示板があるので、発車時間を調べてみる。だが時間が早いので、夜の十一時台の時刻はまだ表示されていない。そこで、駅舎内に入って時刻表を探し出し、十一時十分発のペテルブルク行き列車が掲載されていることを確認し安堵する。なにしろ、モスクワ市内には九つの駅タ−ミナルが散在しているので、発駅を間違えば大変なことになってしまう。
 

小店の列をひやかしていると果物店が目に留まり、そこでリンゴ、トマト、バナナ二本を買うことにする。目的を果たすと、再び地下鉄に乗ってホテルへ引き返す。少し早いが、インツ−リストの窓口へ行き、今夜の列車チケットのことを尋ねてみる。すると、ちゃんと用意されていて、すぐに渡してくれる。これでひと安心、ペテルブルクへ移動できる。ロシア旅行は、ほんとに気を揉ませる。
 

さて、次への旅行準備はできたが、このまま下痢が続けば列車内でのトイレが問題だ。次のホテル到着まで持ちこたえてくれればいいのだが……。とにかく、なるようにしかならないと開き直り、出たとこ勝負で旅を続けてみよう。九時過ぎにホテルを出れば十分だ。それまでゆっくり休養だ。
 

夕食は買ってきたリンゴ、トマト、バナナ一本にパンとジュ−スで済ませる。それからシャワ−を浴び、五系統ぐらいしかないテレビ・チャンネルをあちこち回し見しながら時を過ごす。ようやく出発の時刻も近づき、荷物の整理に取りかかる。バッグ一つなので、数分もあれば十分だ。それまでに、お腹の整理のほうも、明日の到着まで持ちこたえることを祈りながら念入りに済ませておく。三日間持ち歩いたキ−カ−ドを返してチェックアウトを終わり、再び地下鉄でレニングラ−ド駅へ向かう。
 

夜行列車でペテルブルクへ
覚えたてのコ−スをたどって、まだ明るい駅のホ−ムへ出てみると、昼間の下見の時とは違って人も少なく静かになっている。例の電光掲示板のほうへ歩み寄り、めざす列車の時刻とホ−ム番号を目で追う。だが、そこにはペテルブルク行きの列車が表示されていない。その列車だけ抜けて落ちて、その後の発車時刻の列車が表示されている。これはおかしい、どうしたことだ! 掲示板に貼られている時刻表には確かに書かれていたのに……。駅を間違えたかと一瞬、どきりとしながら、ホ−ムの端から端まで各列車の表示盤を見て回る。


だが、ペテルブルク行きの列車はどこにも見当たらない。焦る心で駅舎内の案内窓口へと急ぎ、「グゼ ペテルブルク?(ペテルブルクはどこですか)」と単語だけを並べて尋ねると、右の方を指差しながらロシア語でまくしたてている。そこで、とにかくその方向のホ−ムへ行き、確認してみるが違う列車の表示になっている。そこに大きな旅行ケ−スを持った若い夫婦がいるので、同じ質問を浴びせる。二人は顔を見合わせ、しばらく何やら話し合っていたが、そっちの方だと指差して教えてくれる。その方向は地下道になっており、そこを通り抜けて向こう側へ渡るのだと手振りで説明してくれる。
 

こんな方向にホ−ムがあるのだろうかと、いぶかしがりながら地下道の階段を下りていく。途中、入り込んだ奥の建物の中に駅の関係者らしき男性がいるので場所を尋ねると、確かにこの先の階段を上がった所だと手振りで教えてくれる。さらに進んで階段を上がると、そこには確かに別のホ−ムが何本か並んでいる。そして、前のホ−ムとは打って変わって、人気もなくガラ−ンとしている。ホ−ムを順に確かめていくと、一番端のホ−ムの表示盤に「ペテルブルク 一一・一〇」の表示を見つける。あった! やっと発見した喜びに安堵の胸を撫で下ろす。


この駅のホ−ムは、ペテルブルク行きと地方線が別々に分かれて離れているのだ。それで、地方線のホ−ムの電光掲示板にはペテルブルク行きの表示がないわけだ。たかをくくって時間ぎりぎりに到着していたら、乗り遅れていたかも知れないのだ。やはり見知らぬ土地では、たとい下検分をしていても、十分に余裕時間をとって早目に到着しておくことが肝心だ。このことで、つくづくその心掛けが大切だという教訓を得る。
 

発車までには未だ一時間ちょっとあるので、ホ−ムに止まっている列車には車掌も人の姿もまったく見えない。そこで駅舎の方へ行ってみると、あちらのそれと違って小ぎれいで、待合室もちゃんと設けられている。乗客たちの身なりもきちんとしていて、あちらとは全然違っている。そこで、待合室に空いた席を見つけて腰を下ろす。隣には三十代後半の上品な婦人が読書しながら座っている。しばらく時を過ごすが、どうにも所在ない。そこで、例によって「失礼ですが、英語話されますか?」と尋ねてみる。すると、「少しだけなら……」という返事。しめたとばかり、話を進めていく。
 

彼女の職業は、ペテルブルクの観光会社の広報担当の仕事をしているそうで、仕事でモスクワへ来て帰るところだという。私もそこへ行くところだと伝え、これ幸いにペテルブルクおすすめの観光スポットを尋ねてみる。エルミタ−ジュ美術館、イサク聖堂、ロシア博物館、ネフスキ−大通りなど、幾つかの見所をあげてくれる。郊外のプ−シキンはどうかと尋ねると、エカテリ−ナ宮殿のあるとても美しい所だという。旅行が好きで、時折、近隣国へ旅をするそうだが、まだ日本へは行ったことがないという。長崎も原爆のことも知っている。
 

旅行の話などをしている間に時は過ぎ、発車の時間が迫ってくる。彼女とは違う車両なので、別れを告げてホ−ムへ急ぐ。やっと外は暗くなっており、ライトのない暗いホ−ムには乗客の姿がちらほら見える。少ないところをみると、ほとんど乗車してしまっているのだろうか。三号車を探しながらホ−ムを進む。手前が二桁の番号になっているので、若い番号は先になっているらしい。今度の旅は四人部屋の二等寝台である。長い長いホ−ムを百メ−トルは歩いただろうか、やっと三号車にたどり着く。乗車口に中年の女車掌がいるのでチケットを渡し、OKの返事を待って車内に乗り込む。この国では、各車両ごとに一人の車掌がつくことになっている。女性の車掌が多いようだ。     
 

各コンパ−トメントの入口横に表示されている座席番号に七番シ−トが見当たらない。その表示も番号順になっていない。おかしいなあ、ひょっとするとこの番号ではないのではないかと戸惑っていると、コンパ−トメントのドアに大きな番号が書いてあるのを発見し、これだなと思って順に奥の方へ進む。七番ドアを開けて「ド−ブリィ ヴェ−チェル(こんばんは)」と挨拶を交わして中に入る。


と、すでに両側下段のベッドには男女の先客が座っている。上段しか空いていないのだが、それは早い者勝ちなのだろうか。上段とは不便なことになったものだとがっかりしながら、あきらめて上ることにする。だが待てよ、上る梯子が見当たらない。そこで、オバチャンに梯子の在処を手振りで尋ねると、ドアの端に取り付けてある幅二〇cmほどの折り畳み式梯子を引っ張り出してくれる。これにはちょっと驚きである。あまりにもちゃちで昇降には不便である。これだと女性や老人は困るだろうにと思いながらバッグを上段ベッドに放り上げ、上りにくい梯子に足を掛けて「ヨイコラショッ」と上りあがる。
 

さて、どんな態勢で寝たものかと、ベッドの上に胡座をかいて一服しながら考えていると、若い男女のカップルが入って来て、何やら私に向かってわめいている。どうやら、そこは自分たちの席だといっているらしい。そこでチケットの控えを出して見せるが、そこには座席番号が書かれていない。らちが明かないとみた彼らは車掌のところへ引き返し、彼女と一緒に連れだって戻ってくる。そして私の顔を見るなり、女車掌は乗車口の方を指差しながら早口のロシア語で私を叱りつけている様子である。どうやら席を間違えているらしい。慌てて下りながら、「イズヴィニ−チェ、イズヴィニ−チェ(ごめんなさい)」を連発、車掌に連れられて七番席へと移動する。


そして、彼女が指差す表示番号を見ると、そこには確かに七の番号が書かれている。やはり入口横に表示されている番号で、ドアの番号ではなかったのだ。そこは乗ってすぐの部屋なのに、どういう訳か見過ごして通り抜けてしまったらしい。過去何回も外国の寝台列車に乗った経験のあるヴェテランにしては、とんだ失策である。やはり年のせいなのか、それとも薄暗いせいなのだろうか……。それにしても、車掌の態度は主客転倒だ。これがロシア風応対というところなのかも知れない。
 

ベッドの壁にもちゃんと座席番号が表示してある。見ると、七番席は下段になっているではないか! これで助かった。ベッドを持ち上げると下は物置きになっているので、そこへバッグを仕舞い込み、やっと態勢が整う。上段だと、バッグの置き場所もないのだから困ってしまう。すでに横になっている下段の人を起こしてまで、そこへ荷物を入れる勇気は起こらない。この部屋は向かいの下段に一人の中年男性の外国人がいるのみで、まだ上段の二ベッドは空いたままになっている。


そこで、いつものように「英語話されますか?」と問いかけると、「イェス」という返事。続けて「あなたはツ−リストですか?」と尋ねると、これも「イェス」という返事。「どちらからおいでですか?」「カナダのトロントからです。」ということで、話がはずみ出す。よく旅に出るらしく、旅慣れたバッグパッカ−の様子だ。
 

これからノルウェ−に行くところだそうで、そこの大学で語学の勉強をするという。しばらく住んでいたこともあるそうで、その後も度々訪問するという。だから彼はバイリンガルで、ノルウェ−語、フランス語を話すという。また彼は、二つの職業を持っているという。もともと船の機関士だそうで、冬の時期にはトロントの船舶学校でエンジニアの講師を勤め、夏のシ−ズンになるとラフティング(ゴムボ−トによる急流下り)のガイドをするのだという。「スリルはあるけど、危険な仕事ですね。」というと、「そのとおりですよ。」と答える。しばしば日本人客も案内するそうだが、英語がうまく通じないので危険だし、指導に困るときがあるという。そして私に、これは日本語で何といえばよいのかと質問するので、いくつか教えてあげる。
 

シ−ツ二枚に枕カバ−が用意されているので、彼に倣ってベッドメイキングを始める。ガイドブックによれば、シ−ツ代は有料になっていて、車掌が要求にくるという。彼といろいろ話している間に、私の上段ベッドの客が入ってくる。若い青年である。そして発車間際になり、カナダ人の上にス−ツを着た紳士がやってくる。これで全員集合だ。その紳士は来たかと思うと、どこかに知り合いがいるのか外出したまま戻らない。
 

列車は定刻に発車し、夜のモスクワを北へ向かって走り出す。やがて、女車掌が四人分の食事を運び込み、窓際に設けられたテ−ブルの上に置いて行く。「?」 これはどうしたことだろう。有料なのか、無料なのか。何も請求しないところをみると、多分無料なのだろう。内容を見ると、小パン二個、ハム、ソ−セ−ジ、バタ−、チ−ズにコ−ヒ−と紅茶の袋、それに砂糖袋が付いてパック容器に詰め込まれている。これにミネラルウォ−タ−が一本添えられている。ちょうど機内食のようなものだ。夜食か朝食のスナック用に当てられているのだろう。いずれにしても、腹調の悪い私は遠慮するしかない。
 

これを見て私の上の青年がゴソゴソと下りて来、私の横に座って美味しそうに食事を始める。それにつられて、前のカナダ人も一緒に食べ始める。青年に「英語話せるの?」と尋ねると、「少しだけ」という返事。そこで、三人の和やかな会話が始まる。片言の英語で話す彼の言によれば、モスクワ在住で通信関連の仕事に就いており、出張でペテルブルクに行くのだという。


私が日本人と分かると、「川崎のNECに三ヶ月ほど仕事のことで滞在しました。」という。そして、東京や横浜にも出掛けたという。挨拶用語など、二三の日本語を知っている。ひと通り食べ終わると、私に席を譲って食べないかとすすめてくる。そこで、お腹の調子がよくないので持ち帰ることにすると伝える。三人でいろいろと談笑している間に、いつしか時は過ぎて夜中の一時近くになっている。では、ここらで休もうかということになり、それぞれ自分のベッドで眠りに就く。こんな道連れの旅は、ほんとに楽しいものである。これぞ外国旅行の醍醐味の一つなのだ。外は真っ暗で、車窓からの眺めは何も見分けがつかない。



(次ページは「サンクト・ペテルブルク&エルミタージュ」編です。)










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