2.サンクト・ペテルブルク・・・・ エルミタ−ジュ・エカテリ−ナ宮殿・
パブロフスク
ペテルブルク到着
七時前に目覚めて、ゆっくりと起き出す。機内では眠れないが、寝台車ではいつの場合も結構眠れるので助かる。やはり体を横にできるからなのだろうか。カ−テンを少し開けてみると、窓外はすっかり明るくなって美しい緑の草原が広がっている。幸いなことに、一度もトイレの呼び出しはなく、お腹の調子は落ち着いている。この様子だと、ホテル到着までもてそうだ。トイレへ立って小用を済ませ部屋に戻ると、みんなゴソゴソ起き始めている。洗面を済ませた青年が、お湯をもらって来てコ−ヒ−を入れ、美味しそうに飲み始める。そこで、カナダ人が「どこでもらえるの?」と青年に問い掛けると、「車掌にいえばくれますよ。」という。
カナダ人に続き、私も車掌に頼んでお湯をもらうことにする。すると、大きなカップにタンクからお湯を注いでくれ、サジまで付けて渡してくれる。このことは前もってガイドブックで知っていたのだ。早速、紅茶を入れ、お腹を刺激しないように少しずつゆっくりと飲み始める。パンも食べたいが、今はこれだけにしておこう。間もなく到着時刻だ。シ−ツと枕カバ−を畳んで整理する。車掌がシ−ツ代を取りに来る様子はない。このスナックも無料なのだ。
八時前、列車はサンクト・ペテルブルクのモスクワ駅に滑り込む。ロシアの駅名の付け方は面白い。この国では行き先の目的地の名を取って駅名にしているのだ。だからペテルブルクの方にはモスクワ駅、モスクワの方にはレニングラ−ド(ペテルブルクの昔の名称)駅といった具合になっている。
ここが憧れの古都サンクト・ペテルブルクなのだ。ここはモスクワから北へ六〇〇km離れた場所で、フィンランド湾の奥深い海岸に位置している。モスクワから夜行列車で約八時間、隣国フィンランドのヘルシンキとは三〇〇kmちょっとの距離にある。その歴史を少したぐってみよう。
北国の湿地帯の小さな村でしかなかったネヴァ川河口の地が、歴史上に名を出すようになったのは、今から二九〇年ほど前のこと。ロシア皇帝ピヨ−トル一世が北方戦争(一七〇〇年)でスウェ−デンの侵入を防ぐために要塞を建設したことに始まる。大帝は対スウェ−デン戦に勝利し、バルチック海への出口を確保するためここに港を建設、一七一二年には首都をモスクワから移した。西欧諸国から建築家、造園家を招いて帝政ロシアの首都を築いた。
以後、一九一八年に首都が再びモスクワに移されるまで約二世紀にわたり、政治、経済、文化、芸術の中心として発展した。街の中心部はこの時代の姿をとどめている。街の名は、ロシア正教の聖人、使徒ペテロに因んでサンクト・ペテルブルクと称された。一八六一年に農奴制は廃止されたものの、人民主義者の革命運動はその後も頻繁に続いた。
一九〇五年「血の日曜日」に食物と自由を求める民衆はネフスキ−大通りを行進し、宮殿広場で第一次ロシア革命を起こした。
一九一七年の二月革命、そして決定的に帝政崩壊を実現させた十月革命で、レ−ニンを指導者とする世界最初の社会主義ソビエト政権が誕生した。その後の第一次大戦ではサンクト・ペテルブルクというドイツ名からロシア語のペトログラ−ドと名を改め、一九二四年にはレ−ニンの革命と功績をたたえてレニングラ−ドとなり、ソ連崩壊後再びサンクト・ペテルブルクという呼称に戻った。第二次大戦では、ドイツ軍による九〇〇日間の包囲に耐えて勝利と栄誉を得たが、その犠牲者は約八〇万人に及んだという。
今、静かにたたずむ近世の古都は、動乱、革命、戦争、包囲と悲惨な歴史を秘めている。その街の中心部には、美観を考慮して建てられた十八、十九世紀のバロック様式建築が、激動の時代を越えて残されている。帝政と社会主義、そして共和国という三つの異なる歴史、文化を知るのに絶好の場所である。
ホテルへ 私の泊まるモスクワ・ホテルは、駅近くの地下鉄駅から一駅だ。ロシア青年が地下鉄駅まで案内してくれるというので、カナダ人に別れを告げると連れだって下車する。この駅はモスクワのレニングラ−ド駅と違って、重厚で奇麗な駅舎である。モスクワと同じ三〇円でコインを買い、地下鉄の改札口へ進む。青年が乗客の一人を捉えて何か頼んでいる。私の案内役を頼んでいるらしい。快くうなずいた子供連れのオジサンが、一緒に来なさいと合図する。そこで、青年に「バリショ−エ スパシ−バ(大変ありがとう)。ダ スヴィダ−ニャ(さようなら)」と礼をいって別れを告げる。
一緒に長いエスカレ−タ−を下りて通路を進み分れ道に出ると、そっちの方だと指差して教えてくれる。ここの駅は路線が交差しているため二つの駅に別れており、外来者には分かりにくい状況になっている。礼をいってどんどん進んでいくと、目指すヴァスタ−ニャ駅に出る。ここでネフスキ−駅の方向を尋ねて地下鉄に乗り込み、一駅で無事到着。ホテルはこの駅の上になっているので、そこへの出口を尋ねて地上へ出る。
外へ出て少し回り込むと、そこがモスクワ・ホテルの入口だ。早速、フロントに出向いてバ−チャ−を渡しチェックインする。ここも早朝から入れてくれるので有難い。列車チケットのバ−チャ−はインツ−リストに渡してくれというので、そのデスクへ出向き提出する。チケットは明日以降に渡すという。そこで次のホテル・バ−チャ−を作成してもらい、それを受け取って部屋へ向かう。ここは横長の大きなホテルなので、エレベ−タ−から部屋が遠いと歩かされることになる。広いフロアに出ると、その一角にデスクが設けられ女性の係が座っている。これがいわゆるデジュ−ルナヤである。
ロシアのホテルでは、フロントは宿泊客の管理をするほかはたいしたことはせず、そのかわりに各階ごとに担当のオバサン「デジュ−ルナヤ」がいて、客の世話をしている。出入りする時のキ−の受け渡しなど三交替で二十四時間だれかいることになっている。でも、ここではフロントでキ−を渡されたので、何か困った時以外はたいした用もなさそうだ。モスクワのホテルでは、それが合理化されて近代化されたのか、その制度はなかった。
当てられた部屋はツインル−ムで、スペ−スもモスクワのホテルよりゆったりとしている。幸い、エレベ−タ−にも近い。早速、バスル−ムを点検してみると、お湯が出ない。これがロシアらしいところでもある。シャワ−を浴びたいのだが、これでは用をなさない。とにかく荷ほどきをし、列車から持ち帰ったパンと残りのバナナ、ミネラル水で朝食とする。一服してトイレへ行くと、「やった!」、なんと便が固まっているではないか。いつ果てるともないあの激しい下痢が、やっと治まりかけたのだ。実に一週間振りのことである。
感激に胸が打ち震える。これで旅行が続けられるという嬉しさで胸がいっぱいになる。やっと安心して外出ができるのだ。暗い牢獄からやっと釈放されたような気分になる。では早速、今日の予定を消化しなくてはと、俄然元気を取り戻して外出することにする。出掛けにフロアのデジュ−ルナヤに「お湯が出ませんよ。どうしたんですか?」と質問すると、電話を掛けて問い合わせ、「ちょっとトラブルがあったらしく、十時ごろには出るそうです。」という返事だ。
観光の予約 まず、観光情報を得ようと一階ロビ−へ下りて行き、案内デスクへ向かう。そこには英語のうまい中年の婦人がいて、いろいろガイドしてくれる。郊外の観光ポイントであるプ−シキンとパブロフスクの観光ツア−が都合よく催されている。ここへは郊外電車に乗って独りででも是非訪れたい場所であったのだが、これなら助かる。
ロシアにしては珍しく愛想のよい婦人が、「これは小人数の一日ツア−で、大型バスではなくミニバスで回るんですよ。それに素敵なランチも付いています。それで料金は$45(五、二〇〇円)なんです。」と上手にすすめてくる。そこで、明日のツア−を申し込むことにする。運よく明日はこの二ヶ所を巡る日に当たっているので有難い。二ヶ所を巡る日は週に一回しかなく、他の日はプ−シキンのみになっている。
その申し込みを終わると、すかさず今度は夜のエンタ−テイメントのすすめにかかる。そこで、今夜は何があるのかと尋ねると、バレ−があるという。「このバレ−は由緒ある有名バレ−団で、エルミタ−ジュ内にあるこんな小ホ−ルで上演されるんですよ。」といいながらパンフレットの写真を見せる。それならと、すすめに乗ってこれも申し込む。料金は前のツ−アと同額である。いずれもクレジットカ−ドで支払を済ませると、エルミタ−ジュ美術館への行き方を尋ねる。
エルミタージュへ 彼女は地下鉄マップを取り出して与えながら、ここから二つ目の最寄り駅であるネフスキ−・プロスペクト駅で下車し、そこから十五分ぐらい歩けばよいという。これでは駅から歩くのが遠いので、バスのほうが便利ではないのかと問い質すと、「バスは時間がかかる上に、いつもいっぱい込んでいるから地下鉄のほうがいいですよ。」という。では、ご忠告に従って地下鉄で行くことにしよう。そこで、曇り空の中を、この旅のもう一つの目玉であるエルミタ−ジュへと向かう。
ホテルを出てから、地下鉄ではやはり歩く距離が長過ぎると思い直し、バス停へ向かう。だが、いくら待ってもバスは来そうにない。あきらめて、地下鉄に乗る。地下鉄駅を上がったところは、この街のメインストリ−ト・ネフスキ−大通りである。
ペテルブルクのメインストリート・ネフスキー大通り
来る間に俄雨が降ったらしく、雨に濡れた道路の向こうには九十四本のコリント様式の柱が並ぶカザン聖堂の壮麗な姿が半円形に広がっている。どこかギリシャ神殿を思わせる寺院である。これは十九世紀の初めに十年の歳月を費やして建てられた美しい聖堂で、その中にはナポレオン戦争で勝利してフランス軍から奪った一〇七本の軍旗が飾られているそうだ。
カザン聖堂の偉容
エルミタ−ジュの方角を尋ねながらネフスキ−大通りを歩き始める。エカテリ−ナ運河にかかる橋を渡っていると、趣のある風景が目に留まる。風情のある運河沿いの古い建物が並んだ奥手の方には、モスクワの聖ワシリ−寺院を思わせるスパ−ス・ナ・クラヴィ聖堂が姿を見せている。この大通りは三本の運河と交差してしっとりとした風情を添えており、そこをめぐる遊覧船も運行されている。
エカテリーナ運河(遠くにスパース・ナ・クラヴィ聖堂が見える)
中世の面影が漂うストリ−ト沿いの建物を眺めながら、ボツボツと歩き進んで行く。モスクワよりも歴史は浅いのに、ここの街並みは一段と歴史を感じさせる。結構距離があって、なかなかエルミタ−ジュの優美な建物が視野に入ってこない。このストリ−トが途切れる所なのだが……。もう十五分は歩いているのに。やはり、バスでないと距離がありすぎるようだ。
やっとストリ−トのタ−ミナルが遠くに見えてくる。あそこなのだ。街角を曲がると、前方に大きな広場が開けている。これが宮殿広場なのだ。それは冬の宮殿・エルミタ−ジュと半円形の凱旋ア−チを備えた華麗な建物とに囲まれ、美しい調和を見せている。サンクト・ペテルブルクで一番の見所である。雨上がりの人気のない広場の真ん中には、「アレクサンドルの円柱」がそびえている。その高さ四十七・五m、直径約四m、重さ六〇〇t。一八一二年の祖国戦争勝利を記念して造られ、三十四年に完成したもので、何の支えもなく自重だけで立つ一枚岩の大理石だそうだ。
左手には淡緑色の壁に白い柱と金の彫刻群が彩を添えた優雅なエルミタ−ジュが建っている。
エルミタージュの外観(屋根の上には176の彫像が立つ)
ここはロシアが世界に誇る超一流の美術館で、歴代皇帝の住まいであった「冬の宮殿」と四つの建物が廊下で結ばれて構成されている。一、〇五〇の部屋をもち、窓の数は二、〇〇〇を数え、一二〇の階段がる。部屋の総面積は四万六千 、部屋をつなげるとその全長は二十七kmにも達するという。歴代皇帝たちが集めた美術品を中心に、今では国立美術館として一般に開放されている。
この巨大な建物の中には絵画、彫像、発掘品など約二五〇万点のコレクションが収蔵されており、屋根の上には一七六の彫像が立っている。作品一点につき一分間ずつ前に立つとしたら、ブッ通し見続けても五年はかかるという。これは大英博物館やル−ブル美術館にも劣らないスケ−ルである。
これらのコレクションは、ピヨ−トル大帝の娘エリザベ−タ・ペトロヴナ女帝(在位一七四一〜六一年)によって始められ、その後エカテリ−ナ二世は四、〇〇〇点以上の絵画を西欧から買い集めたといわれる。以後もコレクションは増え続け、絵画だけではなく世界の文明に関する貴重な資料で宮殿は満杯になった。
コレクションの量もさることながら、美術館となった宮殿そのものが実に見事で、帝政ロシアの財力を注ぎ込み、全世界から最高級の材料を取り寄せ、一流の職人を招いて造らせた内装と装飾品は豪華絢爛である。ロマノフ朝ロシア皇帝の権力と絢爛な生活がうかがえる。
広場の左手には、旧参謀本部の華麗な建物が広場いっぱいに広がっている。柔らかいベ−ジュ色に彩られた建物の中央部には半円形の凱旋ア−チが設けられ、その上部には馬に引かれる戦車に乗った勝利の女神像が立って雰囲気を盛り上げている。いいようのない素敵な風景である。これを背景に記念写真を撮りたいのだが、近くに人気がない。待つこと数分、やっと通りがかった旅人らしい老人を「ヴ−ッチェ ダブルィ(ちょっとすみません)」と呼び止め、手振りで写真撮影を頼み込む。快く引き受けてくれ、あちこちと移動しながら慎重にアングルを選び写真を撮ってくれる。すると今度は、自分もカメラを差し出して、エルミタ−ジュを背景に撮ってくれという。こうして写真を互いに撮り終え、エルミタ−ジュへと向かう。
凱旋アーチのある華麗な建物(アーチの上には馬に引かれる戦車に乗った勝利の女神像、左端はアレクサンドルの円柱)
美術館への入口は広場側ではなく河岸側にあるので、広場を横切り建物の反対側へ歩いて出る。それだけでも結構な距離がある。工事のためか、これが入口かと思われるくらい小さな入口を通って奥のロビ−へ進み、写真撮影料金込みの入場券($十三=一、五〇〇円)を求める。ここでは撮影するにも料金が要る。
モギリのオバチャンにチケットを渡して奥へ進むと、二階へ上がる階段が現れる。それは聞きしに勝る絢爛豪華さで、大理石で造られた階段や支柱をはじめ、壁面に掲げられた彫塑や金色に輝く室内装飾が訪れる者すべてを圧倒する。さすがに贅をきわめた宮殿だけあって、これを見るだけでも価値がありそうだ。段差の浅いゆるやかな階段の中央には、ワインカラ−のカ−ペットが敷かれている。それをゆっくりと踏みしめながら、皇帝になった気分で豪奢な階段を上って行く。この豪華な内装は階上の踊り場からさらに回り階段へと続いており、壁や天井の華麗な装飾には見取れてしまう。
豪華絢爛たるエルミタージュの内部(二階へ上る階段)
絢爛豪華なエルミタージュの室内装飾
ここエルミタ−ジュで一番の見ものは西欧美術のコレクションなので、これが展示されている二・三階を中心に鑑賞することにしよう。でも、全部で四〇〇室に上る膨大な部屋数になっているので、とてもそのすべてを見尽くすことは不可能だ。とにかく、手前の部屋から始めてみよう。ここは素晴らしいヨ−ロッパ絵画の洪水だ。これまで大英博物館、ル−ブル美術館、メトロポリタン美術館などでも無数の絵画を鑑賞してきたが、やはりいつ観てもヨ−ロッパ絵画の魅力には魅かれるものがる。でも、これほどの絵の数で迫られると、鑑賞もぞんざいになってしまう。
折角、撮影料金も払ったのだから、幾つか写真に撮っておこう。迷路のように多い部屋を次々と渡り歩きながら、写真を撮り続ける。今にも飛び出してきそうな軍服を着た馬上姿の絵、アダムとイブを描いた珍しい絵、男女が抱き合う姿を隅から覗き見している様子を描いた立体感あふれる横長の大画、ノミを打つ老人の手元を照らすロ−ソクの灯がまるで本当に輝いて見える不思議な絵、素裸の男女五人が楽しく大らかに輪舞するマチスの現代画などを撮り収める。
エルミタージュのヨーロッパ絵画
アダムとイブ
エルミタージュのヨーロッパ絵画
同 上
灯火の明かりの感じが見事に描写されている
マチスの絵
あちこちの部屋に並べられた彫刻がまた、なんとも素晴らしい。その多くが大理石を彫りあげて造られたもので、大小様々の男女の彫像が或いはりりしく、或いは優美にその姿を現している。
エルミタージュの彫刻群
エルミタージュの彫刻群
別の部屋には、クレムリンでは撮影できなかった中世時代の鋼鉄製甲冑や華麗な宮廷馬車などが展示されており、今になっては懐かしい帝政時代をしのばせている。
甲冑類
きらびやかな宮廷馬車
こうして各部屋を渡り歩いていると、さすが絢爛たる宮廷の建物だけあって、そのきらびやかな室内装飾には圧倒されるばかりで、これが他の有名美術館とは大きく異なるところである。特に写真に撮った回廊の美しさやベルサイユ宮殿の鏡の間を思わせる黄金色の部屋には目を見張るものがある。
絢爛たるエルミタージュの回廊
金色に輝く黄金の間
宝の山に埋もれると、かえってぞんざいになるのか、ほとんど立ち止まることもなく、ただ一瞥するだけで素通りしながら先を急ぐ。館内の略図を見ても、どこがどうなっているのか迷うほどの部屋数で、現在位置がどこなのかさっぱり分からない。出口を探すにも、係員に何度も尋ねる始末である。
その一角にカフェテリアを見つけたので、昼食をとることにする。お腹が回復しかかったとはいえ、まだ肉料理には自信がない。並んだ人たちが真っ赤なス−プをよく注文しているので、前の青年に「これボルシチ?」と尋ねると、そうだという返事。これが有名なロシア料理のひとつで、赤かぶのス−プなのだ。そこで、「アジ−ン(一つ)」といいながら小パン一個と「パジャ−ルスタ(お願い)」とス−プを指差しながら注文する。これで代金は一〇〇円である。
前の青年が座っているテ−ブルへ一緒に座り、話しかけながら食事を始める。英語はほとんど話せないが、フランス語なら少し話せるという。やっと聞き出したところによると、彼はここに住む大学生でエンジニアの勉強をしているという。ポツリポツリと途切れながらの会話を交わしているうちに、青年はボリュ−ムのある食事を取り終え、そそくさと立ち去ってしまう。
食後も再び館内をめぐり、あふれる美術品の鑑賞を続ける。十一時から入ったのだが、もう三時を回っている。切りがないので、ここらで打ち切ることにする。そして、今夜のバレ−が開催されるエルミタ−ジュ劇場の場所確認をしておこう。同じ建物内にあるというので、係員に何度も尋ねながら、広い館内をあちこちと訪ね歩く。それが指差す方向に行くのだが、どうしても発見できない。
そこで、いったん外へ出てから入口を探しにかかる。それでも、なかなか分からない。ずいぶん外れまで歩いてきた時、通り掛かりの婦人を捉えて「グゼ エルミタ−ジュ チア−トル?」と尋ねると、逆の方を指差してあちらだという。そして、自分も行くので一緒に来なさいと英語で案内する。
劇場への入口は美術館入口より少し先のほうにあるのだが、普通の小さな入口に過ぎない。これではとても分かるはずがない。確認していてよかった。「ここの階段を二階へ上がったところですよ。」と教えられて上がって行くと、なんとそこは二度も探しながら通った場所ではないか。そこは大広間のような部屋になっており、その端に大きな扉が付いているだけの変哲のない場所なのである。
どうしてここが劇場なのかと不思議に思い、扉の横にある通路を入って行くと、オ−ケストラの響きが聞こえてくる。さらに奥のほうへ進み、音が聞こえる横の扉を恐る恐るそっと開けてみる。すると、その中はパンフレットで見た通りの劇場になっていて、いま夜の公演に向けてオ−ケストラがリハ−サルの真っ最中なのだ。これでやっと劇場の在処が判明したのである。この発見までに一苦労させられてしまう。
美術館を出ると、前方は河岸になっており、そこには海のように広いネヴァ川が広がっている。右手には長いトロイツキ−橋が見え、正面にはペトロパヴロフスク要塞のある兎島が横たわっている。この要塞はピョ−トル大帝がスウェ−デン軍からロシアを守るために建設したものである。この対岸の風景をカメラに収めようと、激しく行き交うくるまの間隙をすり抜けて河岸に出ると、五枚連写に撮り収める。 |