写真を中心にした簡略版はこちら→ 「地球の旅(ブログ版)」



  no.3
(ルーマニア・ブカレスト編)




4.ブカレスト・・・・ 二人の青年との出会い・名演奏の民族音楽・郷土
            料理ミティティ

 
パスポートコントロール
早朝六時、ブルガリアの国境駅ルセ駅に到着。その直前になって、車掌がドアを叩いて起こしにやって来る。間もなく係官がやってきて、出国のためのパスポ−ト検閲が始まる。その間、三十分の停車でル−マニアのブカレストへ向け出発。晴れ上がった青空の下、朝もやに包まれたのどかな田園風景が窓外に流れていく。もう国境を越えているはずなのに、その実感はまったくない。ただ入出国のうるさい手続きのみが、それを意識させるだけである。
 

ルセから三十分でル−マニアの国境駅ギウルギウ駅に到着、いよいよル−マニア入りである。ここで再びル−マニアのパスポ−トコントロ−ルがやってきて入国手続きが始まる。「滞在は何日間ですか?」「四日間です。」「ビザでは十日間となっていますね。」 それには答えようがないので沈黙していると、「OK」といって立ち去る。今度は別の係官がやってきてパスポ−トを渡せという。持ち去ろうとするので怪訝な顔を見せると、「ほれ、みんなのパスポ−トもこんなに預かっているんですよ。」とポケットから出して見せながら、「スタンプを押して返しますから。」といって立ち去る。まさかニセの係官ではあるまい。


やれやれと一服していると、今度は税関の係官がやってきてパスポ−トを見せよという。そこで、「手続きは先ほど終わりましたよ。」というと、自分にも見せよという。「先ほど係官が持っていきました。」というと、「何か申告することは?」「いいえ、何もありません。」「OK」のやりとりで無事完了する。このやりとりの最中に係官がパスポ−トを返しに来る。無事返却を受けてほっと一安心する。
 

国境駅に一時間ほど停車した後、ブカレストへ向けて出発する。ここから二時間足らずで首都ブカレストに到着だ。それまでにヒゲ剃りを済ませておこうとバッグの中をまさぐる。おや、電気カミソリ機が見当たらないぞ、おかしいなあ。これは一大事とばかり、バッグから荷物を全部取り出して探しにかかる。だが、発見できない。確かに紛失しているのだ! 弱ったなあ……。昨日ホテルでの荷造りの様子を思い出してみる。確かにバッグに入れたと思ったのに…。でも、昨日にかぎって室内の最終チェックをどうも怠ったようだ。もし忘れていたらル−ムメイドから届け出があって、バッグを受け取る折に渡されるはずである。それがないところをみると、ホテルに預けている間に盗まれたものとしか考えようがない。


このバッグはカギが掛けられないので、その気になれば中身の抜き取りは自由自在だ。着替え類だけで、めぼしいものはないからと高をくくったのがいけなかったのか。その点がちょっと甘かった。ブルガリアの経済事情からすれば、充電式の電気ソリは高価品になるのだろう。
 

ブカレスト到着
不愉快なことだが、悔やんでも仕方がない。だが、面倒なことになったものだ。お陰でブカレスト最初の仕事は、安全カミソリ探しと相成る。あきらめて、バナナとスプライトの飲み物で朝食にする。その間も列車はのどかな田園風景の中をひた走る。そのうちボツボツと民家の建物が見え始め、それが終着駅に近づいたことを知らせる。やがて列車は、無数に分かれた線路の分岐点を上手に選り分けながらブカレスト・ノルド駅に滑り込む。いよいよル−マニアの旅の始まりだ。

 




ブカレスト・ノルド駅











ルーマニアのこと
この国の正式国名はル−マニア。ロ−マ人の末裔である国民の九割がル−マニア正教を信じる。この国の原形は二世紀にさかのぼる。十四世紀に建国されたワラキア公国とモルダヴィア公国は、ロシア、トルコなど大国の利害に翻弄されながらも、一八八一年統一を果たしル−マニア王国が誕生。第一次大戦では英仏露側について勝利国となり、トランシルバニアを含むかなりの領土を拡大する。その後、親ナチス色を強め、第二次大戦ではドイツ側につく。


敗戦後はソ連圏に組み込まれ、六十五年労働党第一書記にチャウシェスクが就任。当初は国民から愛されていたが次第に独裁色を強め、対外債務の完全返済を目指した強引な輸出型経済(飢餓輸出)、秘密警察による恐怖政治、ハンガリ−系住民の弾圧などで国民の不満は極限に達する。そしてついに八十九年十二月、ハンガリ−人牧師退去令に対する抗議運動は全土に広がり、チャウシェスク夫妻処刑という形で幕を閉じる。こうして社会主義時代は終わったが、激しいインフレ、高い失業率など不安定な情勢が続いている。
 

また、ル−マニアを舞台にした「吸血鬼ドラキュラ」の小説は有名であるが、そのモデルになったのが十五世紀に実在した串刺し公ヴドラ・ツェペシュ公といわれている。彼が住んだとされるブラショフのブラン城は、ドラキュラ伯爵の居城として多くの観光客を集めている。そしてまた、オリンピック体操選手コマネチの名はわれわれ日本人にとっても有名であるが、あの十点満点の完ぺきな演技で魅了した姿は今でも記憶に新しい。
 

両替にとまどう
駅頭に降り立ってコンコ−スへ進む。駅構内は広々として感じが良い。ここでまず両替をしなくては地下鉄にも乗れない。ところが両替所が見当たらない。そこでインフォメ−ションに尋ねてみると、この駅には両替所がないという。う〜ん、これは困ったなと思い「この近くに両替所はありますか?」と尋ねると、近くのホテルに行きなさいという。駅の玄関に立って見回すと、すぐ右手に大きなホテルが見える。駅前の様子から見ると、この街もソフィアと大同小異といった感じである。


信号を渡ってホテルへ辿り着きフロントに両替を頼むと、ここでは両替はしないという。これほどの規模のホテルが両替しないとは珍しい。頼みの綱に裏切られた感じで外に出ると、数軒先に小さなホテルが見える。ここに飛び込んで頼んでみると、しぶしぶ両替してくれる。取り敢えず十ドルだけの両替だが、これで身動きがとれて有難い。
 

地下鉄でホテルヘ
これからメトロ(地下鉄)でホテルへ移動だ。ブカレスト市内の交通機関は、地下鉄、バス、トロリ−バス、トラム(路面電車)である。そしてソフィア同様、乗車券はこれらに共通となっている。ここの地下鉄は路線が単純なのでわかりやすい。メトロの表示を探すが、近くに見当たらない。通行人に「ウンデ メトロ?(地下鉄はどこですか)」と尋ねながら入り口を探し当て、地下に潜ってチケットを求める。ここのは進んでいて磁気カ−ドのチケットになっており、これを改札機に通して通過する。一回のみ使用のカ−ドはなく、最低二回分使用以上のカ−ドが揃えてある。二回使用のカ−ドで料金五〇〇レイ(二〇円)、つまり一回分十円とタダみたいに安い。 


ノルド駅から乗って次の勝利広場駅で乗り換えると、そこから二つ目の駅が下車する大学前駅である。地下鉄の車両や設備も結構なものだと思いながら、階段を上り地上へ出る。地図を確認しながら歩き出し、五分足らずでホテルへ到着。周囲の古びてやつれたような建物の中にまじって、このホテルだけは白亜の殿堂のように白く燦然と輝いている。しかし、ホテル周辺は道路工事で掘り起こされ、ホテルへ入るにも細い鉄板の渡しを渡って通る有様だ。
 

フロントでチェックインを済ませ、ボ−イに案内されて部屋に入ると、そこは輝くようなデラックスル−ムで、大きなキングサイズのダブルベッドが部屋の主を歓迎している。バスル−ムは大理石張りでピカピカと輝き、壁面いっぱいの鏡がなんともまぶしい。早速、ボ−イにカミソリを売っている店が近くにあるかを尋ねると、「私が買ってきてあげましょう。」という。折角の申し出ながら、自分で品物を見て買いたいからと辞退する。そこでひとまず旅装を解き、洗面を済ませて一服する。時計を見ると、ノルド駅に着いてからホテルに入るまで一時間が過ぎている。
 

パンで昼食
昼時になったので昼食に外出。辺りをぶらついていると、小さな立ち食い食堂が目に留まる。中に入って様子を見ると、それぞれ好みの料理を注文して食べている。ところが料理サンプルは置いてなく、ただ壁にメニュ−が貼ってあるだげである。美味しそうな肉料理を食べている人がいるのだがメニュ−を見ても何の料理かさっぱりわからず、その上、注文窓口から離れているので指さすわけにもゆかず、お手上げである。仕方なくここをあきらめて立ち去り、近くを彷徨する。


今度はパン類を販売する飲食店が目に留まり、ここに入ってパン1個とファンタジュ−スを求め、テ−ブルに座って昼食にする。ここの店では自分勝手に冷蔵庫の飲み物を取り出してレジに示すのではなく、まず注文してから店員がわざわざ取りに行くという非能率的なことをやっている。だから異国人には注文したい品の言葉が分からず、何かと不便である。 


お昼時とあって、空席もないほど結構お客で賑わっている。同じ長テ−ブルの席には、学生風の若い女性三人がお菓子をつまみながら楽しそうに談笑している。そこで、「英語話しますか?」と尋ねてみると、「えゝ、少しなら……。」という返事。それから暫くの間、彼らと楽しい語らいが続く。彼らはブカレスト大学の学生で、いま五年生だという。その中の一人が英語に堪能なので、旅行のことや日本の事情をいろいろ説明しながら、この地の事情を尋ねてみる。住宅は二部屋で月三万円の家賃、平均結婚年齢は二十三〜四歳だという。それぞれにボ−イフレンドがいて青春をエンジョイしているという。
 

いろいろ談笑していると、一人の青年が一本のピンクのバラを手にしながら彼らの一人に近づき、それを手渡してキスをしている。彼女は嬉しそうに微笑みながらも、みんなの手前、少し照れて頬を赤く染めている。「あなたのボ−イフレンドなの?」と尋ねると、「えゝ、私のフィアンセなんです。」という。学生結婚が結構多いそうだが、それにしてもこの男性は女子大生にはちと不似合いな垢抜けしない有職青年である。彼は仕事中なのだろうに、彼女の手を握りしめながら寄り添って座り、面前で彼女とベタベタしている。こんな風景が見られるのもヨ−ロッパらしいところだ。これは若者の特権である。
 

安全ソリとレストラン探し
若いカップルに少し当てられて店を出ると、近くのビクトリア百貨店へ安全カミソリを探しに出かける。小規模のデパ−トだが、一階の化粧品売場を訪ねると高級品から安いものまで数種類の安全ソリが置いてある。そこで、一番手軽で安物のソリを三個ほど求める。これで何とかこと足りるだろう。ソリが見つかってほっとしながら、今度はレストラン探しにかかる。この近くに訪れてみたい有名郷土料理店“Carul cu Bere”があるのだ。一八七九年の創業で、毎晩民族音楽のショ−があるという。地図を頼りに目指す場所に行ってみると、それらしいレストランはない。商店のオバサンに尋ねると、この裏手のほうだと手振りで教えてくれる。


だが、裏手の道に入って奥まで行っても見当たらない。次の通りは一ブロック先の通りになってしまう。おかしいなあと疑問に思いながらも、英語が通じないのでこれ以上の質問はできっこない。仕方なく、次の通りまで回り込んで眺めて見るが、それらしい看板も見えない。念のため通りの端まで歩いてみると、その中ほどにシックな看板を出したお目当てのレストランがあるではないか。
 

地図のポイントとは少し違うぞ、と思いながら店内に入ると、まだ準備中でウェ−タ−たちも隅のほうでたむろしている。そこへ近づいて行き、民族音楽ショ−は何時に始まるのか、料金はいかほどかかるのか、などを質問する。すると、チ−フらしいウェ−タ−が英語で応対しながら、音楽ショ−は八時から始まる、料金は飲み代も入れて十五ドルもあれば十分でドル払いもできる、と教えてくれる。明日の夜にでも訪ねてみようと思いながらレストランを後にする。
 

付近を探索した後はホテルへ戻り、夕方まで午睡をとる。これで夜行列車の旅と早朝からのパスポ−ト検閲などでたまっていた寝不足と疲れが消し飛び、体も軽くなる。起き上がってシャワ−を浴びようとするが、やはりここもぬるま湯である。四十年ぶりに使う安全カミソリに戸惑いながらヒゲ剃りを終え、身も心もすっきりなったところで夕食に出かける。
 

夕 食
昼に見つけた小さな立ち食い食堂に再挑戦してみようと中に入る。注文カウンタ−の横にあるガラスケ−スの中に、チキンのモモ肉とサラダが置いてある。現物の陳列はこれのみなので、それを指さし注文する。カウンタ−のオバチャンはそれを取り出して皿に載せ、さらに丸パン二個を付けて渡そうとする。そこで、「ヌ−、ヌ−(ノ−、ノ−)」といいながらパンを断わる。モモ肉といっても胸部分まで付いたボリュ−ムのあるもので、これにパン二個はとても私の胃袋は受け付けない。


でも、注文する人はみんなパン二個を添えてもらっているので、それを断わる私にオバチャンは怪訝そうな顔をしている。「クットゥ コスタ?(いくら)」と尋ねると、“四、三〇〇レイ”(一七二円)と紙切れに書いて見せる。店の出口に飲み物類や果物を別売りしているので、そこでカンビ−ル一本三、〇〇〇レイ(一二〇円)を買い足し、それを店に持ち込んで立ち食いする。お腹いっぱいになってホテルへ戻る。
 

市内散策
二日目。今日は日曜日で快晴。暑くなりそうだ。“ブナ ディミナ−ツァ(おはよう)”と声を掛けながら食堂に入って行くと、デラックスな朝食が並んでいる。何種類ものパン、ケ−キ、ソ−セ−ジ、ハム類、それにエッグ、フル−ツ、コ−ヒ−、ティ−、ミルクと揃っている。ソフィアのホテルとは大違いだが、宿泊料金も倍はするので当然のことか。あれもこれもと欲張って食べたいが胃袋が許さないので、いつも遠慮勝ちにピックアップして少量しか食べられない。でも、フル−ツのオレンジだけは欠かさず食べておこう。


席に着いて食べていると、一つ向こうのテ−ブルに紳士が一人座っている。お互い顔を合わせ、挨拶を交わしながら話し始める。彼はイタリアから室内クリ−ナ−の商談に来たというビジネスマンである。朝の食堂では、いろんな人物と出会う面白さがある。
 

革命広場
朝食を終えて今日の行動プランを練る。まず革命広場へ出て、それからミュ−ジアム、凱旋門、農村博物館と回ってみよう。この街にも市内観光の定期ツア−はないようだ。それほど観光ポイントも多くないので、自分の足で回るのもまた楽しである。ホテルから勝利大通りを北へ十分ほど歩くと革命広場に出る。ここは通りが一段と広くなったスペ−スになっており、かっての大統領府、共和国宮殿などが並んでいる。






銃撃戦の舞台となった革命広場









この広場が八十九年の銃撃戦の舞台となったところだ。市民のデモ隊は、共和国宮殿の地下道から次々に姿を現したチャウシェスク側近の治安部隊の銃弾を受けながら必死に戦った。八〇キロにわたって掘られていた地下道の存在を、この時まで市民は知る由もなかったという。ここに立つと、今でも銃声と硝煙の立ち込める情景が目に浮かぶようだ。 


共和国宮殿内には、この国最高の規模と質を誇るル−マニア美術館があるのだが、革命の戦火でかなり焼失しているらしい。門を入ると門番の兵士が銃を持って立っている。彼に美術館を教えてもらい中に入ると、ひっそりして人影はない。係員にいろいろ事情を聞くと、主要な美術品は別の美術館に移転してここには現在展示中のものはなく、今モダン絵画の展示をやっているだけだという。チケットを買って展示室に行くと、モダン絵画が数十点あるのみでガランとして寂しい。別の部屋へ行くと、そこにはこの街の古い昔の写真が数十枚ほど展示されているだけ。
 

がっかりしながら表の広場へ出ると、左手にはチャウセスクがそこで権力をふるっていたというビルが見える。左手奥のほうにド−ム型の建物が見えるので、これがチャウシェスクが最後の演説の後、屋上からヘリで逃亡したという旧共産党本部ではないかと思い近づいて行くと、おしゃれした家族連れに出会う。
 

家族との出会い
そこで年配の父親に尋ねてみると、ここは共産党の建物ではなく音楽堂だという。そして、自分の息子が出演して歌うので、今それを観に行くところだという。これ幸いとばかりに、自分もぜひ一緒に連れて行ってくれと頼むと、喜んで引き受けてくれる。長身の長男が英語に堪能なので、彼が説明役を引き受けながらいろいろと話してくれる。次男の弟はバリトン歌手で、音楽アカデミーで歌の勉強をしながらオペラ歌手を目指している。今日はその発表会で、家族ぐるみで息子の晴れ舞台を観に来たのだという。父親はエンジニア、長男はコンピュ−タ−関連の仕事についている。
 





 音楽堂










連れだってホ−ルに入ると、ちょうど前の演奏が終わったところで幕間休憩になっている。このホ−ルは古くて薄暗く陰気臭いが、由緒ある建物のようだ。場内の壁面には、観客席を取り巻くようにぐるっと一周見事な壁画が描かれている。それは、ル−マニアの建国時代から近代に至るまでの歴史的絵画が年代順に描かれていて興味深い。
 

座席に座ると、人の好い優しい感じの夫人が、「息子の歌を一緒に聴きに来てくれてほんとに嬉しいです。」と、片言の英語でしきりに喜んでくれる。そして、子供たちを一人ひとり紹介してくれる。長男、次男の上二人が男子で、下の三人はそろって娘さんたちである。五人の子持ちで今時珍しいが、みんな美男美女の系統で娘さんたちの彫りの深い輝くような瞳がなんとも美しい。
 

まずシンフォニ−が一曲演奏される。音楽学校の生徒たちと思われる若いメンバ−である。そして今度は、大勢の合唱団と男女二人の歌手が加わって演奏が始まる。その歌手の一人が次男の息子さんなのだ。彼の歌にじっと聞き耳を立てる。若いだけにまだ未熟の感じで、声量も思ったほどはない。女性歌手のほうはアルトだが、なかなか聴き応えがある。彼が立って歌う場面をパチリと記念撮影する。アンコ−ルなしの一時間ちょっとで演奏会は終わる。






コンサート風景
立って歌うのが次男のバリトン歌手









次男も入れてみんなで記念撮影しましょうと提案すると、夫人がとても喜んで「サンキュ−、サンキュ−」といって感謝している。この国では、まだカメラ持ちは少ない様子だ。玄関前で家族と一緒に待っていると、ハンサムな次男の歌手は相棒の女性歌手を連れて出てくる。みんながそろったところで記念の写真を撮ってもらう。写真の向かって左端が長男のエドア−ド、父親の後方が次男、右隣が女性歌手である。なかなか上品で和やかな家族のようだ。

 




家族一同と記念写真










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≪4年後の再会≫
2000年6月14日、わが家へ珍客来訪。なんとウィーンオペレッタの若手歌手なのだ。4年前の東欧旅行の際に、ここで出会った次男君である。当時は音楽アカデミーの学生だったのが、その2年後に卒業してオペラ歌手(バリトン)の道を歩んでいたのだ。それが去年、ウィーンオペレッタのコンテストを受けて合格し、その団員になったというのである。


それがたまたま、今度日本公演で来日したというので、1週間ほど前、突然電話がかかり驚いたわけである。すでに東京では6/9・10にオーチャードホールで公演があっており、その後、川口市、福岡市と回って14日長崎へ来て上演したわけである。沖縄を含めて国内16ヶ所を巡る公演で、6月25日の沖縄を最後に離日する日程である。


上演題目はかの有名なオペレッタ「メリー・ウィドウ」、主役はこれも超有名なソプラノ歌手メラニー・ホリデイなのである。その夜は、久々に本場の素晴らしいウィーン・オペレッタを3時間ほど堪能し、その迫力ある歌声に酔いしれた。彼は25歳の若さなので、まだソロ・シンガーではなく、その他組みで出演している。歌手グループが男女約50名、オーケストラ楽団員が約50名の総勢100名ほどの一行である。


公演終了後、彼をわが家へ招待してご馳走し、一泊の宿を提供した。彼のハンサムぶりはため息が出そうで、それはそれは驚くほどのハンサムボーイなのである。「タイタニック」の人気俳優デカプリオなんて、目じゃないといったところ。恐らく若い女性たちは、彼を見るとフラフラっとなってしまうこと間違いなしだろう。真っ黒な髪、澄んだブルーの深い瞳、彫りの深い整った顔立ちは、かつてのアラン・ドロンばりの容貌である。これに明るく、終始にこやな笑みを絶やさない彼の人柄が、またいっそう彼の魅力を引き立たせている。さぞや、女性にモテモテなのでは? と尋ねると、クリスチャンで父親が厳しく、監視の目が光って身動き取れないという。


その夜は4年ぶりの再会とあって四方山話に花を咲かせ、床に就いたのは深夜の1時過ぎ。翌朝は10時にホテルを出発して次の公演地・大分に向かうというので、それまでに朝食を済ませ、このHPの「長崎案内」に掲載しているビューポイントに案内して長崎の街と港の眺めを楽しんだ。ルーマニアは海には縁遠い国だから、海を見るのが珍しく、とても喜んでいた。


こうして、わが家の珍客は嵐のごとくやってきて、あっという間に去って行った。きっと、忘れ得ぬいい想い出ができたことだろう。それにしても、あの彼が世界に名だたるウィーンオペレッタの団員になるまでに成長したとは、ほんとに嬉しいかぎりである。しかも、彼が出演する公演が、遠く離れたこの田舎の長崎であるというのも奇しき縁というもの。なんとも感動的な再会の記念すべき一夜となった。私の海外独り旅がもたらした奇しくも不思議な縁となったわけである。


彼は、音楽教師になる資格を持っているが、それよりもソロ・シンガーになりたいのだそうで、これからも厳しい精進の日々を送るのだという。Good luck!
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長男と市内観光
長男のエドア−ドが親切にも市内を案内してくれるというので、その好意を受けることにする。今日は夕方まで何も予定がないとのことだ。どこに行きたいのかと質問するので、これから凱旋門と農村博物館に行きたいと申し出る。そこでまず、メインストリ−トのマゲル通りに向けて歩き出す。昼食がまだなので、何か腹ごしらえをしようとストリ−トに出て店を探すが日曜日でどこも休みである。ようやく一軒の屋台を見つけ、そこでル−マニアの名物料理ミティテイ二個をパンに挟めてもらい、ジュ−スで潤しながら二人で立ち食い昼食をとる。代金は安いが、もちろんこちら負担である。

 




ブカレストのメインストリート・マゲル通り











凱旋門
お腹が落ち着いたところでバスを拾い、町外れにある凱旋門へと向かう。降り立つと、そこには立派な凱旋門がそびえている。これは第一次世界大戦での勝利を記念して建てられたものだそうで、パリの凱旋門にとてもよく似ている。すぐ近くには、パリのシャンゼリゼをほうふつとさせる素敵な緑の長い並木道が走っていて、その雰囲気はまるでパリのようだ。ブカレストにも、こんな素敵な場所があったのだ。

 






 ブカレストの凱旋門
















農村博物館
ここからしばらく歩いて行くと、農村博物館である。ここには二〇エ−カ−の敷地の中に十〜十九世紀の各地方の村の姿がそのまま再現されている。実物大の二九七棟もの家、教会、水車小屋などが広くて緑深い敷地の中に点々と散在している。これらの農家は日本の農村にある草葺屋根とほぼ同じだが、それより屋根部分が少し高くて深い。ここの入場料は本来無料なのだが、写真を撮れば有料となる。

 




 農村博物館










人もまばらで静かな園内をぶらりぶらりと歩いては屋内に入って見たり、木陰で休んだりしながらこの国の農村ム−ドに浸り切る。日本の農家と大して違いはなさそうで、そんなに珍しいものはこれといってない。
 

丸太に腰を下ろして休みながら、彼にいろいろ質問してみる。ル−マニアの教育制度は、小学校四年、中学校四年、高校四年、大学が四年または五年だそうだ。小・中・高の年限の刻みが異なるが、合計すると十二年で日本と同じだ。サラリ−は普通三〇歳で週給一九〇、〇〇〇レイ(七、六〇〇円)、電子工学関連の仕事になると二五〇、〇〇〇レイ(一〇、〇〇〇円)と高くなる。家賃は二部屋の場合で二五、〇〇〇円、四部屋だと五〇、〇〇〇円するという。やはり、他の物価に比べて住居費がバカに高い。


八九年の革命の時には何か活動したのかと質問すると、街の中心部には出なかったが、自分が持っていたラジオで革命派がヘリコプタ−から刻々流す情報を聞いては逐一みんなに伝えて活躍したという。また経済は混乱しても、やはり自由がいいという。
 

ここでゆっくり時間を過ごした後、今度は近くの公園へ案内してもらう。そこは広大なもので、自然の森が広がっているといった感じである。遊覧船が浮かぶほどの大きな湖もある。今日は日曜日とあって、親子連れの人出で賑わっている。

 




 公園の湖










園内の一角を通りすぎていると、人だかりしている広場に出る。何だろうと思って見回すと、片隅のほうにジェットコ−スタ−が見える。ここは遊園地なのだ。なんと殺風景なところだろう。これがジェットコ−スタ−かと思われるほどの小規模お粗末なもので、走り出せば車輪が外れて飛び出してしまいそうだ。他には遊具らしい遊具もなく、これでは子供達が可哀想だ。家族連れで公園にピクニックには行っても、遊園地で遊び回るようなゆとりがないのかも知れない。需要がなければ遊園地も成り立たないだろうし、こんなところにも経済力の差が現れているのだろうか。 






 わびしい遊園地











教会へ
今晩ディナ−に招待したいが都合はいいかと尋ねると、七時に教会に行かないといけないという。今日は礼拝があるらしい。教会の仕事も手伝っているそうで、少々労賃をもらっているので休むわけにはいかず、その後だったらいいという。じゃ、音楽ショ−は八時からなので、教会が終わってから一緒に行こうということになる。凱旋門>農村博物館>公園と歩き回っているうちに時間が迫り、彼の教会へお供することになる。
 

バスに乗って近くまで移動し、教会へ向かう。うらぶれた家並みに囲まれたガタピシの地道を通り抜け、二〇分かかってこぢんまりした教会に着く。ここはル−マニア正教の教会らしく、三三五五と信者たちが集まり始めている。中に入って最後列の席に座り、歩き疲れた足を休める。この教会はさほど古いものではなく、外観も教会とわかる造りではない。間もなくミサが始まり、ベ−ト−ベンの第九交響楽“歓喜”の章がみんなで歌われる。教会でこの歌が合唱されるとは珍しいことだ。祈りを捧げた後、牧師の話が始まる。
 

レストランへ
七時半を回ったので彼を促し、退出する。そこから地下鉄駅まで十分ほど歩く。若い彼に案内されたのはいいが、少々歩き回され疲れ果ててしまう。レストラン“Carul cu Bere”に着いたのは八時過ぎ、時間が早いのかお客は少ない。音楽ショ−は始まったばかりで、そこに一番近いかぶりつきの席に二人して陣取る。料理はもちろんル−マニア料理のミティテイとス−プである。このミティテイは、豚の荒挽き肉に香辛料を加えて親指大にまるめ、これをあぶり焼きにしたものである。ブルガリアのケバプチェに似た美味しい肉料理である。ス−プは何かの臓物らしい肉とジャガイモ、トマト、ピ−マンなどを煮込んだもので、これがまた薄味に煮出されてとても美味しい。これにパンが加わる。
 

一日歩き回って渇いた喉をビ−ルの乾杯で潤し、四人の楽員が演奏する世界の音楽をオ−ドブルに食事を始める。バイオリン、アコ−ディオン、スチ−ルドラム(金属製で中華ナベのように面がへこみ、叩く面の位置で音階が異なる)、笛(長短二十本ぐらいのたて笛が組まれたもの)という楽器編成だが、その演奏テクニックは聴き惚れるくらい抜群にうまい。このメンバ−で、世界各国の有名なフォ−クソングを演奏して聴かせてくれる。一通り演奏が終わると、今度は外国人客のテ−ブルに出向き、国名を聞いてその国の代表曲を演奏して喜ばしてくれる。  






レストラン「Carul cu Bere」の民族音楽ショー









チ−フらしいたて笛奏者がわれわれのテ−ブルに回って来て、あなたはどこから来たのかと尋ねる。そこで、日本から来たと答えると、早速日本の名曲を二曲演奏してくれる。「サクラ サクラ」と「荒城の月」である。その編曲ぶりが実に見事で、舌を巻くほどの名演奏である。これをメンバ−同士で打ち合わせもせず、即興で一糸乱れず演奏するのだから唸らされる。そして演奏が終わると、片言の日本語で「わたしたちNHKに出演しました。東京赤坂、名古屋も行きました。」と話して聞かせる。日本で演奏旅行をしたことがあるほどの有名演奏家たちなのだろう。いやはや、日本語まで飛び出すとは驚きである。恐れ入って思わず握手する。
 

同伴のエドア−ド君も、このレストランの名前はよく知っていたが、来たのは初めてだと喜んでいる。勘定を頼むと、若いウエ−トレスが持って来たメモには四七、九〇〇レイ(一、九一六円)とある。彼に通訳を頼んでアメリカ・ドルでいいかと尋ねると、彼女は首をかしげて聞きに行く。戻ってきた彼女の返事は「ヌ−(ノ−)」。そこで、クレジットカ−ドで払えるかと聞くと、これも「ヌ−」。代金分の現地通貨を持ち合わせていないので、なんとかドル払いで済ませないと困る。昨日の話ではドルでもOKという返事だったので、そのことを伝えてもらうと、再度彼女は奥へ引き込んで戻り、お釣り無しの二〇ドルならOKという。これでやっと解決し、ホッとして席を立つ。それにしても、お安い料金だ。一流有名レストランでこのレベルだから、ほんとに有難い。
 

夜まで付き合ってくれたエドア−ド君に心から謝意を表し、近くの街角で別れを告げる。彼は若いのに鼻髭を生やしているが、長身で気の優しいインテリ風の好青年である。ガ−ルフレンドは、今のところいないそうだ。記念の写真は、帰国後送付するからと約束する。一人だと、こんなにまで歩き回ることはないのだが、若者に案内されるとそのペ−スで歩くので老人の身にはこたえる。疲れた重い足を引きずりながらホテルへ戻る。
 

シナイア訪問
三日目。市内のめぼしい所は見終わったので、今日はブカレスト近郊の町シナイアを訪れてみよう。その前に、明日搭乗のハンガリ−航空へリコンファ−ムの電話をしなくてはいけない。普通リコンファ−ムは三日前までとなっているのだが、当地到着が土曜日で連絡がとれず、昨日も日曜とあって今日まで延び延びになっている。


電話帳で番号を調べて八時過ぎ電話してみるが、何の応答もない。まだ営業開始していないのだろうか。八時半過ぎても、まだ応答がない。早く出かけたいのだが、この仕事を済ませないと事が先へ進まない。九時を待って電話すると、やっと通じて確認が取れる。一時間前までに空港に来てくれという。国際便は普通二時間前なのだが、ここでは国内便並みだ。
 

やっと用を済ませると、地下鉄に乗って一昨日到着したノルド駅へと急ぐ。切符売場の窓口には、どこも行列ができている。私も列に加わると、前に母娘連れが並んでいる。娘が高校生みたいなので、「シナイア行きの切符を買って貰えませんか?」と英語で頼むと、「OK」と快く引き受けてくれる。


順番が来て、二等の片道切符一枚五、二〇〇レイ(二〇八円)を買ってもらう。日本の封筒大のチケットには、発車時刻、到着時刻、等級、号車番号、座席番号、料金などがコンピュ−タ−で印字されている。これは日本並みだ。だが、二等でも全て指定席になっている。急行で約二時間と、長崎〜博多間の距離にあるのだが、料金はバカみたいに安い。だから一等車の切符を買ってもよいのだが、庶民的な二等車のほうが面白いだろうと考え、敢えてそれを選ぶことにしたのだ。
 

彼女に礼をいって切符を見ると、発車時刻が午後一時となっているではないか。今、十時なのに、これでは三時間も待たなければいけない。もっと早い列車はないものかと、再び列に並んで窓口で尋ねてみる。英語は通じないのだが、時刻を指さしながら、もっと早い時刻の列車はないのかと英語で話しかけると、係はただ首を横に振るばかりで取り合わない。仕方なく、今度は念のためインフォメ−ションの窓口に行って尋ねてみる。ここでは英語が通じるのだが、やはりこれより早い列車はないという。


外国人には見づらい掲示板の時刻表を丹念に見ながら調べると、やはり一時まではシナイア行きの列車は見つからない。九時過ぎに一本あったのだが、航空会社への電話待ちのために一時間も出遅れたのが痛い。往復に四時間もかかるので、これだと帰りは夜になってしまう。よほどシナイア行きを中止して予定変更しようかと思うが、他にこれといって行く当てもないので、遅い帰りを覚悟の上で待つことにする。
 

駅周辺には何も見所はない上に足も疲れるので、ホ−ムのベンチで妻子への便りを書くことにする。絵葉書と切手を買い込むと、人の少ないホ−ムの端のベンチに座りペンを執る。書くのに没頭していると、面前に人の気配がする。ふと顔を上げると、薄汚れたジプシ−の男の子が突っ立って手を差し出している。無視して書き続けていると、今度は額を膝の上に擦り付けて来て物乞いする。それでも無視し続けていると、しばらく経ってあきらめたように立ち去る。ソフィアのホテルのオバサンが、ブカレストにはジプシ−が多いから気を付けなさいと忠告してくれたが、やはり駅周辺には彼らの姿が多い。
 

葉書を書き終えると、昼食にホットコ−ヒ−とサンドイッチを調達し、再びベンチに戻って食べ始める。ホットコ−ヒ−一杯五〇〇レイ(二〇円)である。一服しているうちに、やっと発車の時間が迫ってくる。出発ホ−ムを確かめて行ってみると、すでに列車は用意され、乗客もほとんど乗り込んでいる。指定の十四号車は一番どん尻の車両で、それに乗り込み九十六番の座席を探す。車内はコンパ−トメントになっていて、片側シ−トに四人掛けの計八人が向き合って座る。そんなにオンボロでもなく、まあまあの車両である。目指すコンパ−トメントに行くと、すでに他の七人は席に着いている。みんな地元の人たちばかりだ。切符買うのが早か
ったためか、幸い私の席は窓際になっている。
 

青年との出会い
押し分けるようにして席につくと、向かいの席に青年が座っている。英語が話せるかと尋ねると、少しならというので、これはしめたとばかりに話を始める。彼は経済専攻の大学生で、今日は就職のことで教授に会いにブカレストまで出てきたという。シナイアに住んでいるというので、私も今そこへ観光に行くところだと話すと、よかったら案内しましょうという。なんという幸運! 昨日に次いで今日もまた、親切な青年に出会うことになる。
 

急行列車だが、スピ−ドは「特急かもめ」よりも少し早く感じられる。郊外に出ると、列車はのどかな緑の田園地帯をひた走る。見渡すかぎり麦畑が広がっており、間もなく麦秋の時季を迎えようとしている。このコンパ−トメントには私たちの他、恋人同士らしいカップルと老夫婦のカップル、それにオバサン二人の合計八人が向かい合って座っている。途中の駅で一人減り、二人減りして、最後は恋人カップルと四人になってしまう。彼らは手を握り合いながらぴったり寄り添って自分たちだけの世界に浸り切っている。
 

「貴君は若いエコノミストだが、革命以後どうしてこの国の経済がうまく軌道に乗らないのか、その理由を尋ねたい。」というと、資金不足で海外からの技術導入が進まず生産力が高まらないことが最大の原因だと教えてくれる。戦後の日本経済が、海外技術の導入に支えられて発展してきたことを思えば、なるほどとうなずける。実家に住んでいるのかと聞けば、結婚してその近くに所帯を持っているという。


えっ! と驚いて学生結婚のことを尋ねると、ここでは結構多いそうだ。彼がコンピュ−タ−ソフトのアルバイトをして稼ぎ、奥さんも学生ながらアルバイトをして収入を図り、不足分は親許から援助してもらうという。彼は目前に卒業を控え、いま就職活動の真っ最中らしい。ブカレスト市内に就職するのかと問うと、給料は高くていいのだが、通勤に二時間近くも掛かるので住まいの近郊に就職先を探しているという。
 

一時間五十分かかってシナイア到着である。この町はブカレストから北へ一二五km離れた標高八〇〇mの景勝地である。夏は避暑、冬はスキ−客で一年中賑わうこぢんまりしたリゾ−トタウンである。雲仙によく似た雰囲気を持っていて、山頂へロ−プウエ−があるのも同じだ。この町最大の見所は、シナイア僧院とペレシュ城である。駅のホ−ムに降り立つと、緑の自然に囲まれてひっそりと建つひなびた古い駅舎が、素敵な趣を醸し出している。思わず写真を撮りたくなる。

 




ひっそりとしたシナイアの駅











シナイア僧院
駅は道路下になっているので、町のメインストリ−トに出るには階段の道を登り上らなければいけない。昨日の疲れが残っている体には少々こたえる。ひんやりとした新鮮な空気を吸い込みながら、まずシナイア僧院へ向かう。山と森に囲まれた静かな町並を少し上ると、僧院の姿が見えてくる。この町の歴史は十七世紀、町の名の由来ともなったこの僧院のできた時に始まるという。そして十八世紀には、王侯貴族の別荘地として栄えた歴史のある町なのだ。

 






 



 シナイア僧院












この僧院はそれほど大きな建物ではないが、正面両側に二つと奥の中央部に一つの三つの塔を持つ角張ったレンガ造りの建物である。中に入ると、ひんやりとした空気が歴史を刻んだ薄暗い部屋に漂っている。


ペレシュ城
しばらく時間を過ごすと、もう一つの観光ポイント、ペレシュ城へ向かう。森林浴にはもってこいの素敵な林の道を十五分ほど上りあがると、ゆるやかな斜面の丘陵に森に囲まれた優美なお城の姿が現れる。その長く鋭い尖塔がひときわ目を引いている。美しい緑の森と芝生の斜面を持つ広大な敷地の入り口には、ひっそりと門番が居座っている。

 




 古城ペレシュ城










入場料を払うと、ここからお城までさらにぐるっと迂回しながら道を上って行く。やっと辿り着くと、今日は月曜日ということで城内入場は休み、見物客も他に二、三人いるのみで、ひっそりと静まり返っている。「自分の友人がこのお城で働いているので、休みでなければ案内してもらえるのだが……。」と、アドリアン君がしきりに残念がる。仕方なく城郭を散策しながら、古城の雰囲気を楽しむ。この城は、ル−マニア国王だったカロル一世が十九世紀に夏の離宮として建てたもので、部屋数は一六〇もあるという。
 

広い敷地の一角に小さなカフェが一軒ある。そこでパック入りのカフェオレを買って二人で憩う。しばらく前に雨が降ったらしく、テラスのテ−ブルやイスはまだ乾き切っていない。その中から使えるテ−ブルを選び、雨上がりの染みるような緑に映える古城を二人で眺めながら談笑する。 






案内してくれたアドリアン君










「この町は閑静な上に美しい緑と新鮮な空気に包まれて、ほんとに素敵な所だ。三時間も列車を待ったけど、シナイアに来てほんとによかったよ。」と感想をもらすと、「あの山に登れなかったのが残念ですよ。」という。あいにく、今日は霧がかかっていて、その山の姿は拝めない。彼の話によると、ロ−プウエ−で山頂まで上がると、そこからの景色が素晴らしいそうで、これもここの自慢の一つだという。今日は霧で残念だけど、次の機会にはぜひ案内したいという。
 

帰りは来た道とは違うコ−スを選んで、町のほうへ下りていく。六時二十分発の列車に乗るので、少し早いが駅で一服することにする。昨日に続いて今日もかなりのコ−スを歩き回り、足は棒のようになっている。彼は親切にも駅まで見送りに来てくれ、切符を買ってくれる。発車一時間前にならないと切符は発売しないので、彼はそれまで付き合ってくれる。
                     

彼の愛の巣は、ここからバスに乗って少し行った所だそうで、愛妻にも会ってみたいが今日は学校なので不在だという。子供はほしいが、経済的にまだそこまで余裕がないという。バスの時間が迫ったので帰るように促し、写真を送る約束をして別れを告げる。彼もエドア−ド同様、とても気の優しいお人好しの好青年である。食事にでも誘いたいところだが、ブカレストへ戻らなければいけないので時間が許さない。三時間ほども一緒に付き合い、案内してくれたことに感謝しながら後ろ姿を見送る。
 

帰路の旅
発車まで待ち時間がたっぷりあるので遅い帰着のことを考え、駅前の小店でパンとジュ−スを買って腹ごしらえをする。やっと到着した列車に乗り込むと、指定のコンパ−トメントは八人満席である。幸い今度も窓際の席だ。向かいの窓際の席とその隣には若い女性が二人座っている。早速、英語が話せるかどうか尋ねてみる。正面の女性は首を横に振って話せないという。その隣の女性は、「少しなら」という返事。しめた、これで帰りの車中の二時間が退屈しないで楽しく過ごせる。
 

彼女と話し始めると、どうしてどうして立派なものだ。「英語がうまいですね。」と感想をもらすと、照れてはにかんでいる。彼女はそれでも年齢三十歳の女医さんなのだ。ブカレスト市内に一人で住みながら病院に勤務しているという。まだ研究医なので勉強に追われ、ボ−イフレンドもまだいないという。それほど美人ではないが聡明な感じで、恥じらい気味に見上げる眼差しがとても魅力的なお嬢さんだ。


週末には時折シナイアの親許に帰省するそうで、今日はその帰り道だという。シナイアのこと、旅行のこと、日本のことなど、よもやま話に花を咲かせているうちに、二時間はあっという間に過ぎてブカレスト・ノルド駅に到着である。楽しい道連れができて、ほんとに有難い。時計はすでに八時を回っている。八時といってもヨ−ロッパは夏時間なので、外は明るく九時ごろにならないと日は暮れない。朝、ここを発つ時は曇っていた空も、今はすっかり晴れ上がっている。
 

ホテルで夕食
彼女と地下鉄で別れ、乗り慣れたコ−スをホテルへ戻る。今日は遅いので、ホテルで夕食を取ってみようとダイニングル−ムへ足を運ぶ。ここは朝食の時も利用するのだが、今夜はテラスのテ−ブルに座ってみよう。お客は数人いるのみで、純白のクロスが掛けられたテ−ブルがあちこちで寂しく客を待っている。ウエ−タ−に案内されてその一角に腰を下ろし、郷土料理のサルマ−レはできるかと尋ねると、「OK」という返事。そこで、ス−プと一緒にそれをオ−ダ−し、ビ−ルも頼む。レストランでは常にパンが添えに付けて出されるので、これだけで十分である。
 

先に運ばれて来たビ−ルで喉を潤しながらパンを噛っていると、ようやく注文のサルマ−レが出来上がってくる。ナイフで一切れ切って口に含むと、酸味はあるがなかなか良い味がする。これはル−マニア版ロ−ルキャベツなのである。冬の間、酢に漬けておいたキャベツで、挽肉、玉ネギ、米を包んでス−プで煮込んだ酸味のあるロ−ルキャベツである。ス−プも昨夜のものとほぼ同じ内容で、良い味が出ている。星が瞬き始めた夜空を時折見上げながら、独りゆっくりとお国料理を味わう。
 

ウェ−タ−が通りすがりに、「味はいかがです?」と質問するので、「とても美味しいよ。」と答えると、嬉しそうにうなずきながら微笑んでいる。そこで、「このサルマ−レやミティティの料理は、家庭でもよく食べるの?」と尋ねると、自宅でも時々料理して食べているという。最後にコ−ヒ−をもらって終わりにする。締めて四五、八〇〇レイ(一、八三二円)也。ホテルより、一般のレストランのほうが安いようだ。部屋に戻ると下着類の洗濯を済ませ、疲れた体をベッドに横たえながらル−マニア最後の夜を過ごす。


ブダペストへ
今日はブダペストへ移動する日、天候も晴れで有難い。飛行便は午後三時五分発なので、午前中半日はたっぷり過ごす時間がある。でも、この疲れ切った体では、そんなに歩き回るわけにもいかない。だが、ここ一ヶ所だけは、どうしても見ておきたい所がある。それは、「カサポプルルイ(国民の館)」である。フロントでそこへの行き方を尋ねると、ここからはタクシ−で行くか歩くしかないという。徒歩だと二十分ぐらいかかるらしい。チェックアウト時間は十二時なので、余裕時間はたっぷりある。そこで地図を片手に、思い切って歩き始める。
 

通行人に「ウンデ カサ ポプルルイ?(国民の館はどこですか)」と、度々尋ねて道を確認しながら、二十分足らずでやっと辿り着く。目の前には広い芝生の庭園に囲まれた巨大な建物が現れる。この館、国民とは名ばかりで、その実、故チャウシェスクの野望を満たすための私用の宮殿だという。国家予算の二年分に相当する一、五〇〇億円を投じて建設されたこ〇〇億円を投じて建設されたこの宮殿は、部屋数にして百を超えるというから驚く。宮殿、官庁などの建物の中ではワシントンD.C.の国防省ペンタゴンに次ぐ規模だそうで、宮殿内部の壁、天井、窓枠に至るまで純金の装飾が施され、柱はル−マニア中の大理石を全て掘り起こして使ったという贅のかぎりが尽くされている。


正面に回ると、長い鉄のフェンスで閉ざされている。その一角にある通用門では、門衛の兵士が銃を持って入場者をチェックしている。なんとか内部を見たいものだが、一般には開放されていない。念のために門内まで進み、内部に入館できないか兵士に尋ねると、首を横に振ってだめだという。ここで写真だけでも撮らせてくれと頼むが、外から撮ってくれといって断わられる。


現在、この建物が何に使われているのか知る由もないが、勤め人風の男女や作業服姿の作業員などがボツボツと入門している。正面を走る広い道路を渡って向こう側からカメラを構えるが、距離が足りないせいか建物全体がフレ−ムに収まらない。やむなく遠くに離れ、斜めから写真を撮る。

 




威容を誇る「国民の館」










チャウシェスク時代には、この巨大な館の中で、いったい何が繰り広げられていたのだろうか。その権力をほしいままにしながら、毎夜、酒池肉林の宴が朝まで開かれていたのだろうか。この途方もない巨額の費用を注ぎ込み、贅沢な暮らしにうつつを抜かしている間に、きっと多くの庶民は窮乏の生活を強いられて困窮していたに違いない。この頃は、まさか自分が銃殺刑に処せられるとは夢想だにしなかっただろうに……。この館をじっと眺めているうちに、その主として権力をほしいままに君臨する彼の得意満面の顔と、野望果たせず処刑場に立たされた彼の悲壮な顔がだぶって目に浮かぶ。
 

再び来た道を引き返し、ホテルのほうへ戻り始める。その途中に国立歴史博物館があるので立ち寄ってみようと入り口を覗くと、まだシャッタ−が閉まっている。掲示を見ると、開門は十時半からとなっている。それまでにはまだ半時間もあるので見学を断念し、途中にある先日訪れたデパ−トに立ち寄る。電化製品売場を覗くと、品揃えは少ないがテレビ、洗濯機、冷蔵庫など結構種類は揃っている。ソニ−の二十九型テレビが十万円程度、普通型冷蔵庫が六万円程度で売られている。この国の所得を考えると、この値段ではとても庶民の手には届かないだろう。めぼしい階の売場を見ても、内容貧弱で目を引くものはない。まだ豊かさとは縁がなさそうだ。
 

ホテルへ戻り、空港行きのバスを尋ねると、ホテルの車があるので利用するといいですよという。これ幸いと出発時間を予約し、ル−ムに戻って十二時まで休息する。チェックアウトタイムとなり、フロントで支払いを済ませてからホテル食堂で昼食をとる。パンとティを注文して、ゆっくり時間をかけながらお腹を満たす。
 

一時になって車を頼み、オトペニ国際空港へ向かう。運転手が結構英語を話すので、この仕事に就いてどのくらいになるのか、家族は何人なのか、日本車はマツダ、トヨタが多いとか、いろいろよもやま話をしながら車を走らせる。三十分ぐらいで空港に到着。チップを渡そうと差し出すと、首を横に振りながら「二十五ドルもらいます。」という。おやおや、これはホテルの送迎サ−ビスだとばかり思っていたのに、そうではなかったのだ。意外な顛末に少々戸惑いながら、二十五ドルを支払う。半時間の距離にしては相場が高すぎる。エドア−ド君がいっていたが、ホテル代などは外国人宿泊客に対しては倍以上の料金を取るのだという。これもその類いなのだろうか。
 

オトペニ空港は小規模だが、この国にしては最新施設を備えた新しく奇麗な空港である。チェックインを済ませ、X線検査を通過して待合いロビ−に出ると数軒の免税店が並んでいる。ル−マニアのみやげ品にもこれといった物がなく、迷ってしまう。ブルガリアもそうなのだが、刺繍入りのクロスや民族衣装を着た可愛い人形、それに木彫りの民芸品などが多い。かさ張らないように、長さ五センチぐらいの可愛い人形が十体並んだものを選んでル−マニアみやげとする。残りの現地通貨を使い切るためこれで支払おうと差し出すと、このエリアではドルしか駄目だという。
 

ドルで支払いを済ませ、残りのレイ通貨をドルに再両替しようと両替所の窓口に行って頼むと、両替時のレシ−トがないと駄目だと断わられる。そのことは知っていたが、小額ずつの両替なので残金は知れていると高をくくり、レシ−トは貰っていなかったのだ。係が、「両替しても一ドルぐらいの金額ですよ。」というのだが、たとい小額でも無駄にはしたくない。でも、諦めるよりしようがない。



(次ページは「ハンガリー」編です。)










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