5.ブダペスト・・・・ 夜景に浮かぶくさり橋・のどかなドナウの船旅・涙した
ビ−フタルタル
ブダペストへ
マレ−ブ・ハンガリ−航空を利用するのは初めてだ。期待していたのだが、六十人乗りぐらいの小型機で、しかもタ−ボブロップ機だ。東ヨ−ロッパ諸国間の飛行便は毎日運航されておらず、自分の旅行日程に合わせて取るのがなかなか難しい。そのため、ソフィア〜ブカレスト間も日程が合わず、鉄道にせざるを得なかったのだ。これ以後は飛行便が使えるので、時間の節約になる。
国際線とはいえ、わずか一時間の空の旅である。日本の国内線を思い出して、お茶程度のサ−ビスしかないものと思っていると、なんとちゃんとしたランチと飲物のサ−ビスが出される。飛行時間が短いので、スチュワ−デスたちも一段と忙しそうである。その中に日本語のうまいスチュワ−ドがいて、私を見るなり日本語で話しかけてくる。どこで日本語を勉強したのかと聞くと、以前、名古屋に滞在したことがあるという。思わぬところで日本語に出会い、懐かしい気分になる。
意外な出迎え
一時間の飛行でブダペスト空港に無事着陸。マイナス一時間の時差なので、現地時間は出発時刻と同じ午後三時過ぎである。規模は大きいようだが、ここもエプロンなしの空港で、バスに乗り移ってタ−ミナルへ移動する。窓から見ると、滑走路の一角で砂塵が舞い上がっている。かなり強い風が吹いているようだ。入国手続きを終えて出口の方へ歩き出すと、空港係員らしい女性が、「ミスタ− ムカイ?」と声を掛けてくる。見ると、「Mr.Yasuo Mukai」と書いたプラカ−ドを持っている。私がムカイだというと、どうぞこちらへと案内する。不思議に思いながら後に従いロビ−の出口まで来ると、若い女性へ案内をバトンタッチする。
「ようこそ、ブダペストへいらっしゃいました。私の名前、アニクといいます。これからホテルまでご案内します。」と、彼女は流暢な日本語で話しかけてくる。キツネに摘まれたような感じで、「あなたは誰に頼まれて出迎えに来たのですか?」と質問すると、「私の会社から行くようにいわれました。」と答える。「ひょっとしたらあれか?」と思って、「ブダペスト・ツ−リストカ−ドですか?」と聞き返すと、「そうです。」という返事。これでやっと謎が解ける。旅行出発前にブダペスト・ツ−リストカ−ドを購入しておいたのだが、その送迎サ−ビスで彼女が出迎えに来ているのだ。
このカ−ド(料金八、五〇〇円)を購入すると、ブダペストで次のサ−ビスが受けられることになっている。空港〜ホテル間の往復ミニバス無料乗車、レストランでの無料ディナ−、市内の各種交通機関無料乗車(三日間)、博物館無料入館(二ヶ所)、ハンガリ−のガイドブック、ブダペストの市内地図、指定店での十〜二十五%ディスカウントなどである。案内書きには自分でミニバスのカウンタ−に提示して乗車するようになっているので、まさか出迎えに来るとは予想だにしていなかったのだ。いい気分になり、彼女の案内でバスに乗り込む。
彼女は大学生で、この仕事のアルバイトをしているという。日本語は大学で勉強しているそうだが、まだ日本へは行ったことがないという。車中で交通機関の無料乗車券や地図などの資料を渡しながら、予約が必要なのでレストランと博物館をどれにするか決めてくれという。そこで彼女の説明を受け、博物館はブダペスト美術館と国立博物館を、レストランは今夕、自由橋のたもとにあるレストランに行くことにする。
話している間に、十人乗りぐらいのミニバスは市街地に差しかかる。その様子は、これまでのソフィアやブカレストの街とは全然趣が違う。町並みが奇麗で、歴史を刻んだ風格のある建物が立ち並び、「ここはヨ−ロッパだ。」という雰囲気を視界いっぱいに漂わせている。さすが、ブダペストが“ドナウの真珠”と呼ばれることはありそうだ。彼女に、「どうして正式国名がハンガリ−ではなく、マジャ−ル共和国となっているのですか?」と尋ねると、そもそもハンガリ−はマジャ−ル人の国だという。ここで少し、この国の歴史に触れておこう。
ハンガリーのこと
ハンガリ−の建国は八九六年。遊牧民の一部族マジャ−ル人がウラル山地からこの地に移住したことに始まる。だから、ハンガリ−語はアジア系だそうだ。十一世紀から十三世紀初めにかけて発展し大国となったが、モンゴル襲来で崩壊の危機に陥る。その後オスマントルコが襲来し、十六世紀半ばにはブダを占領、ハンガリ−中央部と南部はトルコの直轄領に、西部はハプスブルク家の支配となる。
十七世紀末、トルコに替わってハプスブルク家がハンガリ−全土を掌握。その後、失敗に終わった二度の革命を経て一八七六年ついに内政自治権を得、オ−ストリア=ハンガリ−帝国が形成さる。第一次世界大戦ではドイツ・オ−ストリア側に参戦し敗戦、国土の七〇%を失って帝国は崩壊する。その後、右翼による王不在の王国が復活。第二次大戦では枢軸国側に加わってドイツに占領されるが、ソ連により駆逐。一九四六年、王制を廃止して共和国となり、ソ連圏となる。五十六年、政府の粛正に対して民衆が蜂起(ハンガリ−動乱)したが、ソ連軍により鎮圧。その後、経済危機を招いて党・政府への批判が高まり、八九年、複数制党制を導入して一党独裁制を放棄、共産主義と訣別の道を歩む。
ホテルへ
バスは半時間ぐらいでホテルに到着。彼女はフロントまで案内して、いろいろ気を遣ってくれる。帰りも迎えに来てくれるのかと尋ねると、帰りは自分で空港まで行ってくれとのと。「ではレストランの予約を入れておきます。」という彼女と別れ、キングサイズベッドのあるデラックスル−ムへ上がる。
このホテル・フォ−ラムは観光名所「くさり橋」のすぐたもとに位置しており、しかもドナウ川に面して川向かいのブダ側にある王宮の丘が眺められる抜群のロケ−ションとなっている。そして、中心街へは歩いて五分ときているから便利この上ない。一泊料金一四、〇〇〇円と少し高いが、それだけの値打ちはありそうだ。だが、ドナウ川のリバ−ビュ−ル−ムになると、もっと高くなるのだが、こちらは裏側の部屋で我慢するしかない。
ここに来て初めて熱い湯が勢いよくほとばしり出るのを見て、思わずシャワ−を浴び一服する。ディナ−は八時の予約なので、まだゆっくり時間はある。一階ロビ−へ下りて行き、明日の観光を検討する。さすが東欧の中では一番の観光国らしく、種々の観光パンフレットが用意されている。その中から午前半日の市内観光を選んで予約する。後は観光パンフをどっさり部屋に持ち込んで読みながら、憩いのひとときを過ごす。
レストランへ
そのレストランは歩いて十五分ぐらいと彼女がいうので、七時半ごろになってホテルを出かける。玄関を出ると気温一変して、木枯らしのような冷たい風がビュ−ビュ−と唸りをあげて吹きまくっている。思わずジャケットの襟を立て、自由橋のほうに向けて歩き出す。このブダペストは南北にドナウ川が流れ、西側が山の手のブダ、東側が下町のペストに二分されている。そして、このドナウ川には八本の橋が架かっている。上流の橋から四つ目が有名な「くさり橋」、その下流があの皇妃エリザベ−トにちなんで付けられた「エルジェベ−ト橋」、そしてその次が「自由橋」である。
台風並みの強風にあおられながら、下流に見える自由橋に向けて急ぐ。川沿いに並ぶ出店も、この強風でみんな店をたたんでいる。風に吹きちぎられた並木の枝が、痛々しく道のそこここに舞っている。十五分も歩いたのに、まだエルジェベ−ト橋を過ぎたところだ。これはずいぶんと話が違うぞと思いながら、やっと自由橋を渡りかけると、強風で足がすくわれそうになる。
雨が降らないから救われたようなものだが、これが雨でも降っていたら目も当てられないところだ。彼女の話を真に受けたのがいけない。いずれにしろ、何か乗り物を利用すべきだった。この疲れた足では、もうこれ以上歩けば殺される……そう思いながら、帰りはきっとあの市電に乗って帰ろうと心に決める。川沿いを路面電車が走っているのがわかったのだ。
自由橋を渡り切ると一軒のホテルが目にとまる。その玄関前にホテルマンを見つけ、目的のレストランを尋ねるとすぐそこである。そして、くさり橋へ行くには何番の電車に乗ったらいいのかも尋ねる。すると、十九番の電車に乗ればよいと教えてくれる。さらに、切符はどこで買うのかと畳み掛けて質問すると、このホテルの売店で売っているという。そこで売店まで入り込み、帰りの切符を一枚求める。出迎えの彼女が渡してくれた三日間乗り放題の乗車券は、明日から三日間となっていて、間の悪いことに今日はまだ使えないのだ。
結局、レストランに到着するまで三十分もかかってしまい、とんだ誤算に泣かされる羽目となる。案内された席に座ると、すぐ隣の席に若い二人連れの日本人女性が食事している。話を聞くと、当地に住む知り合いを訪ねてチェコ、ハンガリ−を旅行しているという。反対側の席には、スイスから来たという中高年の団体さんが陣取って陽気にはしゃいでいる。そんなに広くない室内は、ほぼ満席である。
出された郷土料理のメインディッシュは、七面鳥のステ−キである。これまで何度か食べたことがあるが、相変わらず白味で淡白な味わいである。一緒に出されたサラダが、日本のナマスに似てなかなか美味しい。柔らかくゆでたキャベツを薄味の酢につけて味付けしてある。ビ−ルで一人乾杯しながら、ハンガリ−料理の数々を賞味する。折角だからワインといきたいところだが、喉が渇いていてビ−ルでないと始まらない。隣席の日本人女性たちは、気取ったように高級ワインを注文している。
フォ−クロア・ショ−
食べ終わる頃、待望のフォ−クロア・ショ−が始まる。華やかな民俗衣装に身をまとった男女の踊り手たちが、三人編成の楽団が奏でる音楽に合わせてフロア狭しと踊り回る。なかなか活気のある民族舞踊である。素晴らしい声の歌い手が、いっそう雰囲気を盛り上げる。しかし、衣装のきらびやかさや踊りの素敵さの点では、ブルガリアのそれに一歩引けをとっている感じだ。
ハンガリーのフォークロア・ショー
歌い手がスイスの団体さん向けに同国の歌を歌い出すと、みんなで手を取り合い、ウェ−ブをつくりながら楽しそうに合唱し始める。室内はみんなの明るい歌声に包まれ、こちらまでうきうきした気分になってしまう。何曲か歌い終わった後も、団体さんの席ではなおも騒々しく談笑が続いている。それをしり目に、こちらはぼつぼつ退散する。
外に出ると、相変わらず冷たい風が吹きすさんでいる。すぐ近くの電停で風を避けながら待っていると、間もなく十九番の電車がやってくる。三両連結の長い電車なのだが、この車両には老人ただ一人が乗っているだけである。切符のパンチの入れ方が分からず、その老人に教えてもらう。もっと力強く、ガチャリと押さないといけないのだ。
街の灯やイルミネ−ションを映して流れるドナウ川の夜景はとてもロマンティックで、風のない静かな夜であれば、こんな素敵な風景はないのだが……。そんなことを思いながら車窓から夜景を眺めていると、間もなく“くさり橋”の近くの電停に着く。目の前には、イルミネ−ションに美しいラインを輝かせながら、くさり橋が静かに横たわっている。
ドナウ川にかかる「くさり橋」の夜景
同上の昼間の風景
橋に通じる階段を上って歩道に出ると、ネコの仔一匹だれも通っていない。昼間でさえ、この長い橋を歩いて渡る人はあまりいないのかも知れない。ましてや、この夜更けに歩いて橋を渡る人なんていそうもない。ただ走り抜ける車のライトだけが、心細さを救ってくれる。
このくさり橋は一八四九年に完成したもので、ブダとペストを隔てるドナウ川に初めて架かった記念すべき橋なのだ。橋そのものが観光名所になるほどの立派さで、橋のたもとには二頭のライオン像が見張り番のようにがんばっている。何百メ−トルあるのだろう、歩けど歩けど向こう岸に辿り着かない。強風に足払いを掛けられそうになりながら、漸く橋を渡り過ぎる。もうホテルは目の前だ。
二日目。ここの朝食は一段と豪華版だ。朝食時にいつも思うのだが、この食事が朝ではなく夕食に出されたらほんとに有難いのだがと。こんなに豊富でとりどりの料理が品揃えされても、朝からそんなに食べられたものではなく、いつも惜しい気がしてならない。昼食用に持ち帰りたい気持ちはやまやなのだが、そこまでの勇気は湧いてこない。有名観光地だけあって宿泊客も多い。ソフィアやブカレストのホテルとは大違いだ。日本人の団体客も結構多い。
市内観光
今日は市内半日観光コ−スへ出掛ける。市内の主な観光ポイントを三時間でめぐるコ−スで、料金は二、九〇〇フォリント(二、一七〇円)。玄関に出てみると、昨夜より風は和んでいるが、まだかなり吹き荒れている。ベルボ−イに「今朝は風がきついけど、天気は大丈夫?」と問いかけると、「雪が降るかも知れません。ジャケットをお持ちになったがいいでしょう。」という。「えっ、ホント?」と半信半疑ながら、出迎えのバスに乗って出かける。
日本人一人が紛れ込んだ観光バスは、英語による女性ガイドの案内でスタ−トする。まず国会議事堂前を通りながらマ−ガレット橋を渡り、ブダ側にある王宮の丘へと向かう。この国会議事堂の建物は、これが議事堂かと思われるようなネオ・ゴシックの壮麗で美しい姿をドナウのほとりに際立たせている。ちょうど、テ−ムズ河河畔にその優美な姿を横たえている英国の国会議事堂ビッグ・ベンのたたずまいと同じ姿だ。これは一八八四年〜〇四年に建てられたもので、内部は絵画、彫刻、タペストリ−などで豪華に飾られているという。
国会議事堂の華麗な姿
王宮の丘に到着すると、そこで半時間あまり散策する。ここには丘の南半分を占めているブダ王宮の荘厳な建てものが立っている。十三世紀に最初の王宮が建設されてから、実際に完成したのは今世紀に入ってからという。現在は国立図書館と三つの博物館になって、市民の文化センタ−的役割を担っているという。すぐ近くには高い塔の目立つマ−チャ−シュ教会や市街が一望できる尖り屋根の漁夫の砦がある。
高さ八十八メ−トルもの塔を持つこの教会は十三世紀半ばに建立されたもので、歴代の王たちがこの教会で載冠式を行ったという。教会内部に入ると、高い天井に支えられた薄暗く広い空間が荘厳な雰囲気に包まれている。祭壇の後ろがステンドグラスの明かり窓になっており、そこから幾筋もの光線が差し込んで来て薄暗い内部を照らし出している。
王宮の丘に立つマーチャーシュ教会
次はゲッレ−ルトの丘へ回り、そこから市内を眺望できるビュ−ポイントでフォトストップとなる。折角のポイントだが、眼下の森が視界を遮って全貌が見とれない。やはり丘の頂上まで上らないと駄目なようだ。 |