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  N0.4
(&カンボジア)




4.ハノイ市内観光

3日目。6時に起きて、まずはゆっくりと窓辺に出て朝の光景を眺める。今日も街の様子は変わらず、静かなたたずまいを見せている。日和も穏やかで申し分ない。まだ旅は半分も過ぎていない。残りが多いと思うと心もはずむ。今朝は9時半出発だから、ゆっくり過ごせる。今日の予定は市内観光で、その後夕刻からカンボジアへ移動の旅が始まる。
 

このホテルは、毎日大ボトル1本の水のサ−ビスがあり、ありがたい。インドネシアのホテルでもすべて毎日1本のミネラル水のサ−ビスがあったが、この国も同様のようだ。テ−ブルに置かれた柿とバナナを残して、まずは食堂へ。しっかりお腹を満たして今日の行動に備える。食堂でフル−ツを食べた後なので、やはり柿とバナナの入る余地はない。残念だが、このまま残して行こう。
 

ホーチミン廟
出発時間が来てチェックアウトを済ませると、一行はバスに乗ってホ−チミン廟に向かう。しばらく走って廟の手前の駐車場に止まると、すごいバスの行列ができている。すでに、各国の観光団が押し寄せている。観光地のどこに行ってもこの様子だから、年間かなりの外貨収入があるのかもしれない。
 

広場前は観光バスの列

下車してみると、目の前には広大なコンクリ−トのバ−ディン広場が広がっている。ここはホ−チミン主席が独立宣言を読み上げたことでも有名だそうで、その左手にアテネのパルテノンを思い起こさせる重厚な廟の建物が建っている。総大理石造りの廟の正面上部にはホ−チミン廟のネ−ムが示されているのだが、この文字のすべてはルビ−を埋め込んで作られたものだという。さすがは国家主席の廟だけのことはある。




バ−ディン広場。左に見えるのがホーチミン廟。右側芝生の奥の建物が議会。




残念ながら、今は工事中とかで、内部に安置されるホ−チミン主席の遺体は拝むことができない。こうして生の遺体が保存されているのは、世界でレ−ニン、毛沢東、ホ−チミンの3遺体だけだそうだ。レ−ニンは、この目で見たので、この廟内の様子もおよその見当がつく。
 

ホ主席の経歴
ベトナムの国父・ホ−チミン主席は、1890年5月19日ベトナム中北部のゲアン省で生まれた。フエの名門校を卒業すると、小学校でフランス語とベトナム語の教師を勤めた後、1911年にフランス商船のコック見習いとして乗船する。その後、世界各地を渡り歩き、17年にはパリに居を構え、独立運動をしているベトナム人グル−プの中で活動を始める。
 

その後、モスクワへ渡った彼は後に香港でベトナム共産党を結成。1940年、植民地支配を行ってきたフランスはナチスドイツに降伏、その一方で日本軍はベトナム北部へ進駐する。その混乱の中、ベトナム独立同盟(通称ベトミン)を結成し、独立運動を展開する。45年に日本の無条件降伏を機に武力による総蜂起を決定し、ハノイの政府官舎を占領、その後サイゴンを掌握し、9月にホ−チミンがベトナム共和国の独立宣言を行なう。
 

ところがその後、フランスによる再占領でインドシナ戦争が勃発、アメリカとのベトナム戦争へ突入する。そして、戦局優勢になった69年9月2日、独立宣言と同じ日に静かに息を引き取ることになる。その独立の父がこの廟に眠っているのである。彼が晩年に過ごした2階建ての邸宅が、廟のすぐ近くにある。
 




 在りし日のホーチミン主席







この広場の前には広々としたきれいな芝生の庭園が広がっており、その一角に議会の建物が見える。芝生の中に進入しないように衛兵が立っており、うっかり進入すると“ピピ−〜”と笛を鳴らして制止される。この暑い中に直立しながら、ほんとにご苦労さんである。ふと見ると、「芝生の中に入らないでください。」と英語とベトナム語で書かれた立て看板が立ててある。その英語文の頭に“Please”とあるのが優しさの気持ちを表していて好感が持てる。 


一 柱 寺
このホ−チミン廟のすぐ横手の隣に、ハノイのシンボルの一つになっている「一柱寺」が建っている。ぶらぶら歩いて移動して行くと四角い小さな蓮池があり、その中の一本柱の上に社が見えてくる。水中の1本柱というのがなかなか面白い。そのことから、この名が付けられたのだろう。昔は木製柱だったそうだが、今はコンクリ−ト製の柱に変わっている。その分、趣がなくなったのは否めない。
 

その名のとおりの一柱寺

この寺は李朝の太宗が11世紀半ばに建立した楼閣だそうで、蓮華の上で子供を抱いた観音菩薩の夢を見て子供を授かり、その感謝の気持ちでこの寺を建てたそうだ。そのことから、お参りすれば子供が授かるというご利益があるとか。


正面階段に回ってみると、観光客の参拝者が列をなしている。それに並んで参拝してみると、祠の中にはカラフルな祭壇用具に囲まれて観音様が鎮座ましましている。その前では、老婦人が熱心に経文を唱えながら祈りを捧げている。この大勢の観光参列者の前では、読経も落ち着かないだろう。悪いことをしたようだ。
 

一柱寺の観音様


熱心に読経している姿が美しい

ふと横を見ると、変わったコスチュ−ムを着た女性が数人通っている。みんなお揃いで、髪はまげに結い上げ、上は白の長袖シャツに黒のロングスカ−トで決めている。ガイド君の話では、少数民族の人たちだという。何の用なのか、民族衣装の出で立ちでお出かけなのだ。もしかしたら、ホ−チミン廟を見物に来たのかもしれない。ベトナムには60の少数民族がいるとのことだから、そのうちの一部族なのだろう。
 

独特の民族衣装を身に着けた少数民族の人たち

最古の大学「文廟」
次はここからバスに乗って少し移動し、ドンドクタン通りにある「文廟」へ回る。入口に立つと、いかにも歴史を刻んだという感じの古めかしい中国風の門がそびえている。入場料5000ドン(=32円)を払って中に進むと、そこには広い中庭庭園が広がっており、欝蒼とした木々や植木に囲まれて落ち着いた雰囲気を醸し出している。その一角には四角にくり貫いた池が設けられていて、その側には丸窓の古い門が立っている。
 

歴史が感じられる文廟の入口門


中庭には四角い池が・・・


木々が生い茂る中庭

この中門を通り抜けて奥へ進むと、石畳の広い境内に出る。その正面には赤屋根で横長の社殿が鎮座しており、その屋根の棟の部分には2匹の竜が向き合いながら踊っている。いかにも中国風の建築物である。そして、右側の回廊には亀に乗った82本の石碑がずらりと並び、これに中国の科挙に合格した人の氏名と出身地が刻まれている。


孔子を祀る廟


科挙の歴史
この科挙は官吏登用の試験であるが、それが超難関の選抜試験であることは歴史的に有名である。中国で官吏登用のことを選挙というそうだが、試験には種々の科目があるので、科目による選挙、それを略して「科挙」と呼ばれるようになり、その言葉が唐代に成立したという。
 

ここは1070年に建立された孔子廟で1000年の歴史を誇る学問の殿堂。ベトナム最古の大学でもあり11世紀から18世紀までベトナムの人材を養成したところで、孔子を祀っている。社殿の中に入ると、その中央に朱塗りの孔子様が安置され、「みなの者、勉学に勤しめよ。」と言わんばかりに睨みをきかしている。それに恐れず、ここにも相変わらず観光団が押し寄せて、その静寂な雰囲気を壊している。孔子様、どうかお許しを〜。
 

社殿の中に安置された孔子像

昼食は民族音楽を聴きながら・・・
ここを後にすると、お待ち兼ねの昼食だ。近くのレストランへ移動し、すっかりお馴染みのベトナム料理である。このレストランでは珍しくも民俗音楽の演奏を見せてくれる。珍しい民俗楽器を奏でたり、アオザイ姿の女性が歌を聞かせたりしてくれる。素敵な雰囲気に酔いしれながらおいしいベトナム料理をいただく。
 

珍しい民族楽器で演奏


アオザイ姿で歌を披露

伝説のホアンキエム湖
お腹が落ち着くと、中心街のど真ん中にあるホアンキエム湖の見物である。すでに何度となくこのほとりを通ったのだが、昨夜の水上人形劇の劇場はこのすぐ側である。湖の多いハノイだが、その中でも中心的な湖として旧市街の真ん中に位置し、観光ポイントとなっているのはもちろんだが、市民の憩いの場ともなっているようだ。早朝には湖の周りをウォ−キングや体操する市民の姿が見られ、昼間は観光客で賑わいを見せる。そして日暮れて夜になると、美しい夜景の中で愛を語り合うカップルの姿が見られるという。
 



神秘的なホアンキエム湖。この中に今も大亀が生息しているという。





このホアンキエム湖には次のような亀にまつわる伝説がある。15世紀初め、中国明の圧政に耐えかねて蜂起したレ−・ロイは、天から授かった剣で明に勝利した。後期黎朝の始祖となった彼は、湖に棲む龍王の使いの大亀に宝剣を返還したという。それ以来、この湖を「ホ・アン・キエム(剣を返還したという意味)」と呼ぶようになったという。
 

1968年に体長2.1m、幅1.2、体重250kgの大亀が発見された時は「あの伝説は本当だったのか!」と大評判だったらしい。いま、その亀は剥製になって湖のほとりに建つ玉山祠に展示されている。ガイド君の話によると、これとは別の大亀が今なおこの湖にいるそうな。すでに数百年にはなるという大亀だそうだ。浮かんで泳いでいるのを確かにこの目で見たので間違いないという。その首を出して泳ぐ写真が撮影されて展示されているので、間違いないのだろう。
 

以前に発見された大亀の剥製

玉山祠
この湖の片隅に浮かぶ小島に朱塗りの橋がかかっているが、玉山祠はそこに建立されている小さなお寺である。赤い橋を渡ると古めかしい門があり、そこをくぐって境内に入る。小さな祠には13世紀に元の侵攻を退けた英雄チャン・フン・ダオや学、武、医の神が祀ってある。この境内前から湖の眺めがよくきいて、格好の憩い場所となっている。この門内に入るには数十円の入場料が必要である。
 

玉山祠へ渡る朱塗りの橋。正面は入口門

旧市街散策
ここから次は、ぶらぶら歩きながらこの湖の北西側に広がる旧市街、通称36通りを散策する。この街の特徴は畳屋通り、金物屋通り、靴屋通りと各専門店が通りごとに分けられていることだ。だから、買い物には便利なようで、必要なものはその通りを目指して行けばよいことになる。
 

旧市街の大通り

以前、城下町だったこの地域は、職人たちが村々から集められ、通りごと、職業別に分かれて住んでいたという。その時代の名残りが今も残っているそうだが、現在では通り名と商品名が異なる通りも多いという。いま歩いている通りは靴屋通りなのだろうか。目の前両側にはいろんな靴商店がずらりと軒を連ねている。この時間、あまり人通りは見られない。
 

この界隈をうろつくと、今度はその一角にある市場に案内される。そこには肉・野菜など新鮮な生鮮食料品などがずらりと並び、買い物客を待っている。今は昼時のためか静かな雰囲気で、あまり活気は見られない。夕方になれば、買い物客で賑わうのだろう。このひしめくような市場の店舗の間を通り抜けて表通りに出る。旧市街の散策はこれで終わりとなる。
 

豊富な生鮮食料品が並ぶ市場

2日間にわたってハノイ市内や郊外の観光ポイントを幾つか駆け足でめぐったが、その観光もこれで終わり、ぼつぼつカンボジアへ移動する時間である。そのままバスに乗って一行はノイバイ空港へ向かう。ハノイはこれでお別れだが、まだ旅の最終日にホ−チミン観光が残っている。それまでしばし、ベトナムともお別れである。
 

ベトナムの風習
最後に、ガイド君が話していたベトナムの風習について記しておこう。その一つは、5歳以下の子供に対して“可愛い…”などと誉め言葉を述べるのは禁物だそうだ。と言うのは、幼少のころにほめられるなどして幸せ感を先取りすると、成長してから幸せになれないとの謂われがあるそうだ。だから、ベトナムの子を持つ親たちはそのことを嫌うのだそうだ。
 

他の一つは、数字の「3」を忌み嫌うそうである。だから、3のつく日には行事なども取り止めたり、出張などもしないそうだ。反対に好まれる数字は「8」「9」だそうである。そしてまた、受験の時には決してバナナや玉子を食べないという。バナナの皮がすべることから、受験にスベルと考えるそうだ。玉子はどうなのだろう? それから年金のことだが、この制度もあるそうで、30年間掛けて55歳より支給開始されるという。ベトナムでは平均寿命が短いから支給開始年齢が早いのだという。
 

カンボジアへ
空港でガイド君と別れ、16時55分発の飛行機に搭乗する。定刻に離陸した機は2時間の飛行でこぢんまりとしたカンボジア・シェムリアップ空港に到着。初めての訪問国である。日暮れは早いので、もう辺りは暗くなっている。取得したビザを見せて無事入国。玄関前には出迎えのガイド君が待っている。全員そろったところでバスに乗車し、約15分ほどかかってホテルに到着。
 

ホテルで夕食
チェックインした後、すぐにホテルのレストランでカンボジア料理の夕食である。野菜のあんかけや肉料理、それに炊き鍋のホットなス−プなど味わいはベトナム風でどれもおいしい。アジア地域の料理は、なんとなく似たものになるのだろうか? 日本人には違和感もなく、おいしくいただける。
 

カンボジア料理


ホカホカのスープがおいしい

ビ−ルを傾けながらたらふく食べた後は、もう寝るばかりだ。このホテルは建築されてからまだ1年にもならない新しい4階建てのホテルで、部屋のスペ−スも広く快適で文句なし。これでシングル7700円とは割安である。空港へもアンコ−ルワットへも車で15分程度と地の利もよい。


明日は1日がかりで待望のアンコ−ルワット観光である。まずはサンライズ風景を見るために早朝起きになる。シャワ−を浴びて洗濯を済ませ、アンコ−ルの夢でも見ながら眠るとしよう。



(次ページは「アンコ−ルワット遺跡観光」編です。)






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