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     N0.15






旅のコース





17.世界遺産・カルタゴ

チュニジア7日目。今朝も6時に起床。体調は上々である。だが、今日でチュニジア観光も最終日かと思うと、なんだか心は重い。しかし、こればかりは時の流れを引き止めることはできないので、あきらめるより仕方がない。やおらベッドから抜け出し、窓外の様子をうかがう。珍しく、少し雲が出ているが雨の心配はなさそうだ。


今日の日程はかなり詰まっている。まず郊外のカルタゴ遺跡を観光、その後、チュニジアンブルーと白壁がまぶしいシディ・ブ・サイドの町を観光、そして最後はチュニス市内観光である。みんな近場ではあるが、見所いっぱいである。出発は早く、8時スタートとのことである。まずは馴染みのバイキング料理で腹ごしらえだ。


カルタゴのこと
ハンニバルと言えば歴史的にも高名なカルタゴの将軍。その彼の母国カルタゴはチュニスの北北東15km、チュニス湾沿いにある都市国家であったが、現在は遺跡となっている。紀元前814年にフェニキアの女王ディド(エリッサともいう)が建設したと伝承されている。当時は地中海第一の海運国で、多くの軍艦を保有していたという。


だが、紀元前3世紀から紀元前2世紀の3次にわたるポエニ戦争で一時廃墟となるが、ローマ時代に復興し、拡張発展することになる。7世紀のアラブ侵攻以後、首都がケロアンに移り、その後11世紀には都がチュニスに移って再び廃墟となる。


ポエニ戦争でカルタゴが陥落した後、ローマの指揮官スキピオは都市の徹底破壊と焼却を命じ、さらに地面を鍬でならし、そこに塩を撒いて作物もできず、人も住めないようにしたという。カルタゴが再び復活することがないように、カルタゴ人は虐殺されるか奴隷にされ、港は焼かれ町は破壊された。陥落時にローマが捕虜としたのは5万人にも上ったとされる。当時の人口40万人が5万人にまで減少したと言う。こうして焦土と化すわけだが、これによってカルタゴの記録資料などはすべて消滅し、伝説のものとなってしまう。ただ唯一の例外は墓地だけがそのまま残ったという。


カルタゴ市街が一望できる「ビュルサの丘」(ビュルサはギリシャ語で牛の皮の意味)と呼ばれる高台があるのだが、ここがかつての都の中心で、現在は博物館が建っており、周辺には2世紀にローマのアントニヌス帝が造った「アントニヌスの浴場」、軍艦が出入りしたという「カルタゴ港」、古代神を祀る墓地「トフェ」、1万人を収容したという「ローマ劇場」などの遺構が残っている。この遺跡は1979年に世界遺産に登録されているが、遺跡のほとんどはローマ時代のものである。


カルタゴ遺跡・トフェ
8時にホテルを出発したバスは、路面電車の走る市街地を走り抜けて郊外の海岸地帯へ向かう。走ること40分で閑静な住宅街の一角でストップ。ここにはカルタゴ時代の古代神(火の神バール・ハモン、天と豊穣の女神タニト神)が祀られている神殿跡がある。


チュニス市街を路面電車が走る

これらの神に捧げられる生贄のことについて研究しようと、フランス人の歴史学者が19世紀の終わりごろに当地に赴き、発掘調査(6m〜12mの深さを掘った)を行ったという。そこで出土されたのは墓石、金製品、陶器などのほか、2000ほどの灰の箱も発見されたという。この箱の中には鶏、山羊、羊、牛などの動物の灰ばかりで、人間の灰はもちろん、幼児の灰もなかったという。


このことから、カルタゴ人の残虐性について語り継がれて来たこと、つまりカルタゴ人は子供を犠牲にして神への捧げ物にしていたという説についての事実はないことが判明したという。ガイドさんによると、この話はカルタゴ人を嫌うローマ人が彼らの残虐性を流布するための作り話だったという。


しかしその一方では、発掘された共同墓地に2万個の骨壷が発見され、その壺の中には新生児の黒焦げになった骨が入っていたという事実もある。ポエニ戦争で焦土と化したカルタゴだけに、記録文書が何一つ残っておらず、その真相は分からないという。


この周辺には当時発掘された多数の小さな墓石が集められている。その墓石にはタニト神のシンボルマークである丸(○)、横線(−)、三角(△)が彫り込まれているものがある。日本の墓石に名前を彫り込むのと同様なのだ。また、神殿跡には地下洞くつがあり、ここで生贄が捧げられていたという。現在、幾つかの墓石が置かれている。この中は短い洞くつで、両方に出入り口が開いているので中は薄暗い程度で真っ暗ではない。


発掘された墓石が1箇所に集められている









 神殿跡付近にも墓石の集団が・・・

















墓石に彫り込まれているタニト神のシンボルマーク「○ー△」の人型マーク


ここで生贄が捧げられたという神殿跡の地下洞くつ


カルタゴ港
古代神の神殿トフェを後にすると、そこからぶらりと徒歩で港へ向かう。朝方は多かった雲もなくなり、再び青空が広がり始めている。今日も陽光まぶしい快晴の日になりそうだ。間もなく目の前に広い池みたいな水面が見えてくる。これが古代のカルタゴ港の跡なのだ。静かな水面には岸辺に並ぶ白亜の建物が影を落としている。そして、岸辺では小さな漁船が魚の水揚げをしている。のどかな風景なのだが、今は古代をしのぶよすがは何もない。



 カルタゴ時代の軍港跡。左手の小高い丘が「ビュルサの丘」




この古代港は、上空から見ると鍵穴型の形をしたもので、カルタゴ湾に通じている。この港は商業港と軍港の2つの部分からなっている。外港側には倉庫群が並んだ商業港(500m×300m)があり、そこから狭い連絡路を通って、その奥に円形の軍港(直径300m)がある。写真で見ているのは、この奥の軍港部分である。


カルタゴの立体図。円形部分が軍港。その左手の岸壁に並ぶのが倉庫群でここに商船が係
留。
軍港右手のグランドのような空き地にローマ時代に大浴場が建設された。(カルタゴ博物館展示)


カルタゴ時代の地図(カルタゴ博物館展示)


ローマ時代の拡張されたカルタゴ。左上部の黒い横線が水道橋。(カルタゴ博物館展示)


この港の設計は手前に商業港を配置し、軍港は最奥部に配置して水門を締め切り、敵に発見されにくくしたそうだ。またカルタゴは交易が得意で、地中海沿岸の諸国と貿易を盛んに行っていたという。自国の商品(銀、銅、鉛など)を輸出する一方で、ペルシャやエジプトから陶器などを輸入していたという。こうした貿易のための商船が200隻ほどいたらしく、これらが倉庫群のある手前の港に出入りしていたのである。


この軍港には220艘の軍艦が係留できたそうで、1艘の船は漕ぎ手300人、兵員300人が乗船できる大型船だったという。港に勢揃いした時の様子はさぞかし壮観だったに違いない。この港を中心に奥の丘陵地帯に向けて市街が構成されていたのである。写真の左手正面の小高い丘(ピュルサの丘)がそれで、頂上には博物館(小さな塔のあるベージュ色の建物)がある。


「アントニヌスの浴場」
ここからバスで海岸線へ少し移動すると、そこにアントニヌス帝(2世紀)が造ったという大浴場の遺跡がある。軍港に隣接して地中海を望む海岸べり一帯にその施設が造られており、強い陽光を浴びながら立つ数本の石柱と砂岩で組み上げられた遺構が往時をしのばせる。



 アントニヌスの大浴場跡の全景


 大浴場跡の遺構。砂岩の石組みが重厚な感じを与えている。









 左の細い石柱は花崗岩、右の太い石柱(一部修復)は大理石。
  これらの石材はエジプトのアスワンから運ばれた。



 大浴場跡のほぼ全景




この浴場は、大公衆浴場や大社交場の広場などを備えたかなりの規模の大きさで造られており、ローマ人の風呂好きの真髄がここに見られるようだ。石柱は長さ15mのもの6本が残っており、大きいほうは大理石、細いほうは花崗岩で造られているという。その石材はエジプトのアスワンから運ばれて来たというからすごい。



 この広場が大社交場の跡




遺跡の一角に当時の公衆浴場の建物を復元した模型が置かれているのだが、それを見ると二階建ての広大な建物のようだ。この二階部分には100を超える部屋が造られ、サウナ、プール、水風呂、温浴風呂、噴水など、各種の設備が整っていたという。また、床には美しいモザイクタイルが貼られ、柱は彫刻が刻まれた大理石柱を用い、壁にはフレスコ画が描かれるなど、きわめて贅沢な造作になっていたという。


公衆浴場の再現模型

カルタゴで使用する水は、内陸の水源地ザグーアン(ザグーアン山1296m)から全長132kmの長いローマ水道が建設され、地下水路と水道橋で運ばれてきたという。現在その現物の一部(20kmほど)はチュニスの南部に残っているいるそうで、復元された水道橋がチュニス市内の中央にも設けられているという。


「ビュルサの丘」
浴場遺跡を後にすると、バスは坂道を上り始め、「ビュルサの丘」を目指す。ここが古代カルタゴの町の中心になっていた場所で、ローマ人は焦土と化した土地を埋め立て、その上に神殿、フォラム、図書館など豪華な建物を築いたという。周囲の斜面には当時の遺構も残っている。ところで、丘の名称となっている“ビュルサ”という語だが、これはギリシャ語で“牛の皮”を意味するそうで、これには次のような伝説がある。


フェニキアの女王エリッサは技術者・知識人など60人の従者を連れて長い航海に出る。その途中、休憩のためにキプロス島に立ち寄る。そこでは宗教行事として愛の女神のためのお祭りがあっていて、夜中の12時に美女たちが裸身で海につかり、身を清めていた。それを見た従者の男性60人は彼女らと出会い、それぞれにその女性たちをめとってカルタゴ(地名はまだない)へ同伴したという。


こうしてこの地に上陸。ここで原住民の王に金(gold)と1枚の牛の皮を示し、この皮と同じ大きさの土地と交換してほしいと申し入れる。王はそれを承諾する。すると彼女ら一行は皮を細い紐状に切りのべて長くし、それで土地を囲ってまんまと広い土地を手に入れたという。これがピュルサの丘といわれる。頓知がいいと言うのか、詐欺的行為というのか聞く者の解釈次第だが、この話はあくまでも伝説の上でのこと。とやかく言うことはあるまい。後に女王は、この地を「新しい首都」と言う意味の“カルタゴ”と命名したという。


この丘は高台だけにカルタゴ市街が素敵に一望できる。正面目の下には先ほど見物した大浴場や軍港が見えるのだが、木陰になってよく見えない。だが、陽光に映える地中海ののどかな風景が素晴らしく、水道橋で水を引いたという水源のある山が対岸の遠く向こうに見えている。往時のカルタゴ人もこの同じ風景を眺めたことだろうが、その後にやって来る悲劇の終末で幕が下ろされるとは夢にも思わなかったのだろう。人間の歴史は、今昔を問わずむごい殺し合いの歴史でもあるのだ。



 ビュルサの丘から眺めた市街風景。海の向こうに見える山が水源地。そこから132kmの水道橋がここまで伸びていた。







(次ページへつづく・・・)










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