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                No.1
                           (シルクロード)



9日間・3ヶ国


チンギスが駆けめぐった中央アジア
砂に埋もれた歴史とロマンを求めて


1998年4月7日〜15日



旅 行 の コ ー ス





旅 行 日 程

日 付 日数 ル ー ト 泊数 タイムテーブル
4/7(火) 福岡>ソウル>タシケント @ 13:45発>タシケント21:00着
8(水) タシケント > ウルゲンチ @ タシケント市内観光・午後ウルゲンチへ
9(木) ウルゲンチ A 終日ヒワ観光
10(金) ウルゲンチ > ブハラ @ キジルクム砂漠横断
11(土) ブハラ A 終日ブハラ観光
12(日) ブハラ>シャフリサブス>サマルカンド @ 移動の途中シャフリサブス観光
13(月) サマルカンド A ペンジケント観光・午後サマルカンド 
14(火) サマルカンド > タシケント 機中 夜ソウルへ出発
15(水) ソウル > 福岡   12:45着






シルクロードのこと
シルクロ−ド。この耳ざわりのよい言葉の響きが、心の奥底に眠る旅心をかきたてる。砂漠、キャラバン、ラクダ、オアシス、星空−−こんな単語が連想ゲ−ムのように浮かんでくる。そこに展開するロマンに満ちた歴史の跡をたどってみたい、そして多くのキャラバンが足跡を残した砂漠を横断してみたい−−そんな思いが、いやがうえにもつのってくる。
 

今度の旅は、こうして始まった。その中心は中央アジアに位置する旧ソ連邦の国ウズベキスタンである。あまり耳馴れないこの国は、未発達の途上国である。ガイドブックで調べてみると、その昔、キャラバンたちが往き来したという砂漠を横断するには、あまりにも交通機関の便が悪く、個人旅行では移動が大変なようである。限られた日数で砂漠を横断し、効率よく観光するには、やはり専用バスをチャ−タ−するパックツアーが便利なようだ。そんな訳で、今度はツア−旅行に加わることにした。
 

そもそも、シルクロ−ドとはいったい何なのか。文字どおり、それは“絹の道”である。十九世紀末にドイツの地理学者リヒトホ−フェンが名付けたとされる。その昔、中国で作られた絹織物が地中海の国々にまで運ばれたル−トで、ユ−ラシア大陸を横断する古代の交易路をさすのである。その東の終着点が中国の西安、西の終着点がロ−マとなっている。この壮大な交易ル−トは、果てしもなく広がる砂漠や高原を抜け、オアシス都市を結びながら網の目のようにつながっている。主要な幹線ル−トはあったようだが、単なる一本道ではなく、幾つにも道は分かれている。それは人間が厳しい自然と闘って切り開いた道であるが、決して固定的・不変的なものではなく、その時々の自然条件や政治情勢によって、しばしばル−トは変更され、栄枯盛衰する運命にあった。
 

このシルクロ−ドの歴史は古く、絹が運ばれるよりもずっと以前の紀元前の時代に、すでにこのル−トで高度な金属文明が伝播されたという記録がある。モンゴル高原一帯に勢力を誇っていた匈奴(キョウド)の侵入を防ぐために秦の始皇帝が長城を作ったのが紀元前二世紀、漢の武帝が西方との通商を開こうと月氏へ張騫(チョウケン)を使者として送ったのが紀元前一世紀である。彼が開いたル−トを伝って、西方からじゅうたん、毛織物、玉、金銀器、ガラス器、真珠、トルコ石などが、中国からは絹、鏡、漆器などが輸出されている。中国人は特産物としての絹の独占を続けるため、糸と織物の輸出はしたが、カイコの輸出は厳禁していたという。紀元前後には、中央アジアから仏教も伝来し、西域から多くの仏僧が中国を訪れている。
 

唐朝(七世紀初頭)の成立後、玄奘三蔵(ゲンジョウサンゾウ、三蔵法師ともいう)がシルクロ−ドを辿ってインドへ旅発つ。彼は河西からゴビの縁辺部へ入り、ハミ、トルファンへと旅を続けた。その後、タラス、タシケント(今度訪問した)、サマルカンド(今度訪問した)、クンドゥズ、バルフなどを経てインドに赴いている。彼の西域旅行の記録として「大唐西域記」が残されているが、現代に至ってその記録を基に各国歴史学者がル−トの探索に当たっており、興味深い研究が続けられている(別綴じの新聞記事参照)。また、後世になって彼の旅を伝説化した「西遊記」が書かれ、有名な孫悟空や猪八戒などが登場する。そして、紙の製法が中国から西域に伝播したのもこの唐時代である。
 

十世紀初めの唐の滅亡後、廃れていたシルクロ−ドは、十三世紀に入ってチンギス・ハ−ンの登場で再び活気を取り戻す。彼の大遠征は遠くドイツやポ−ランドにまでもおよび、中国、西域、イラン、ロシアを含む空前の大帝国を築いたのである。しかし、チンギスの支配下では徹底した破壊活動と搾取が行われたため、中央アジアでは都市の荒廃をもたらした。今度の旅で訪れたウズベキスタンのオアシス都市では、その歴史的痕跡が随所に見られ、彼の凄まじいまでの破壊と勢力の強大さを目の当りにすることができた。
 

十四世紀にはチンギス・ハ−ンの末裔と称するチム−ルが、東は中国の北部辺境から西は小アジアまで、南はインド北部から北は南ロシアに至る大世界帝国を建設した。破壊のかぎりを尽くすチンギスとは逆に、彼は都に壮麗な建造物を築き、学問や芸術にも深い理解を示し、その首都サマルカンドは東西両世界の文化を取り入れた最高峰の文化の集積地となった。今度の旅で訪れたサマルカンドでは、チム−ルが眠る地下の棺を特別に見学することができた。
 

チム−ルの死後、その帝国は衰退し、それとともにシルクロ−ドの全盛期も終わりを告げるのである。その衰退の理由として、十五世紀末のバスコ・ダ・ガマのインド洋航路発見とオスマン帝国の西アジア征服があげられる。十五世紀中期になると、オスマン帝国が東ロ−マ帝国のコンスタンチノ−プル(イスタンブ−ル)を征服したため、ヨ−ロッパと中国の通商はますます困難になった。そこで、新しく別に通商路を求めなければならなくなり、海上ル−トが一躍注目を浴びることになった。海路は造船技術や航海術の発達により、安全面、コスト面で陸路よりはるかに高い利益をもたらすことになり、シルクロ−ドはその主役の座を下りることになる。
 

ウズベキスタンのこと
今度訪れたウズベキスタンは、こうしたさまざまな歴史が折り重なる中央アジアのシルクロ−ドが通じる地域で、国土の大半は砂漠に覆われている。前述したサマルカンドは、首都タシケントに次ぐ第二のオアシス都市である。地図上の位置関係は、なかなか分かりづらいところで、大雑把にいえばカザフスタン、トルクメニスタン、アフガニスタン、タジキスタン、キルギスタンの五ヶ国に四方を囲まれ、その東方には中国、西方にはトルコとイラン、南方にはインド、北方にはロシアの諸国が位置している。
 

十九世紀後半、ロシア帝国に征服されて植民地となり、町の近代化や鉄道の敷設など少なからぬ利益がもたらされた。反面、ロシアの支配が強まり、ロシア革命後は社会主義化してソ連邦を構成するウズベク社会主義連邦共和国となった。そして、大規模な自然改造によって綿花の生産量を増大させ、旧ソ連の綿花原料基地として発展した。その後、ソ連崩壊によって独立し、九十一年、新生ウズベキスタン共和国として再出発した。
 

国土面積は日本の一・二倍だが、人口は二千百万人と少なく、トルコ系のウズベク人が七割を占めている。他はロシア人やロシア系をはじめとする多民族構成となっている。特産の綿花の栽培が盛んで、秋になれば綿花の白い花が一面に広がって美しい光景を見せてくれるそうだ。また近年になって砂漠地帯に天然ガスの埋蔵が発見され、外資による産出が行われている。砂漠の横断中にも二ヶ所のガス生産プラントが見られ、高い煙突から立ち上る大きな火炎がとても印象的であった。また、金の生産では世界七位の金地金生産国でもある。
 

公用語はウズベク語だがロシア語も普及しており、町中の表示はすべてロシア語になっている。そのため、前年のロシア旅行の折に勉強したロシア語が大いに役立ち、現地人との楽しいコミュニケ−ションがとれた。宗教は、その歴史的経過からもわかるようにイスラム教で、観光はその古いモスクの遺跡めぐりがメインとなる。通貨は“スム”。現在インフレが進んでおり、対USドルでは一ドル=九一スム、一スム=一・四円のレ−トとなっている。(一九九八年四月現在)





1.ソウル経由でタシケントへ
 
集合時間の十一時四十五分より少し早目に福岡空港へ行ってみると、すでに他の三人は集まっている。このツア−は総勢二十二人、このうち福岡出発組は四人だけ、他は関西空港と名古屋空港から出発してソウルでそれぞれ合流し、そこで乗り継いでタシケントへ向かうのである。出迎えの係員がレストランへ案内し、好みの飲み物で接待しながら四人を紹介する。山口から男女二人、下関から男性一人の参加で、いずれも私より年配の方々である。山口の二人は元小学校の教師(男性は校長あがり)で共に同僚の仲良し、下関の男性はこの校長と幼友達だそうで、山口の二人はいつも連れだって頻繁に、下関の彼は誘われて時々一緒に旅行するのだという。
 

出国手続きを終えると、ラウンジに座って昼食用に持参したウナギ弁当をほおばる。午後一時四十五分、機は定刻に離陸してソウルへ向かう。今度の旅はアシアナ航空を利用するわけだが、韓国系のエア−ラインはこれで二度目の体験である。乗客は韓国人と日本人がほとんどで、ソウルまで一時間ちょっとの飛行時間。その間に軽いスナック食事が出るが、食後の腹は未だ満腹状態で、まったく箸をつけずに飲み物だけをいただく。
 

あっという間にソウルへ到着、四人そろって空港ロビ−の指定された集合場所へ行ってみると、誰の人影もない。すでに大阪・名古屋のグル−プは到着しているはずなのに……、不審に思いアシアナ航空のカウンタ−で問い合わせてみると、やはり到着しているとのこと。おかしいなあと、四人顔を見合わせながら待つことにする。やや経って、名古屋からやってきたという若い男性の添乗員が迎えに来る。他のメンバ−はすでに到着して、次の出発時間まで解散したという。出発まで二時間以上の待ち時間があるので、われわれも自由行動になる。他の三人は免税店のショッピングへ、私は階上の特設ラウンジへ上がって独りで憩うことにする。
 

タシケントへ
夕方五時半、定刻に離陸したタシケント行きは七時間半の飛行時間である。機内のスクリ−ンに写し出される飛行コ−スを見ていると、ソウルから北京上空へ飛び、そこからモンゴルのゴビ砂漠を横断してカザフスタンのアルマ・アタ上空を抜け、タシケントへ至るのである。機内食ではチキンの料理を選んでみたが、シチュウ風に料理されたものがライスにかけてあり、案の定ピリカラで強烈なニンニク臭が鼻を突く。これには辟易しながら箸が進まず、その大半を残しながら、もっぱらパンとケ−キなどでお腹を満たす。韓国系のエア−ラインは、やはりお国料理をサ−ビスするのだ。食後の長い時間は、隣り合わせに座った下関の旅人と海外旅行についてのよもやま話に花を咲かせながら時を過ごす。


2.首都タシケント・・・・ 高層ビル立ち並ぶ新市街・土の家とメドレセが
               立ち並ぶ旧市街
  

現地時間の夜九時、予定どおりウズベキスタンの首都タシケントに到着。気温は十五度と暖かい。四時間の時差があるので、日本時間では夜中の午前一時である。首都といっても、ここの空港は規模が小さく、飛行機がタ−ミナルに直接横着けできるエプロンなどの施設はない。みんなバスに乗って移動するので不便である。
 

団体ビザで入国
入国手続きは団体ビザなので、名簿順に並んで手続きを済ませる。ここまでは順調に行ったのだが、ス−ツケ−スを受け取るまでが大変。荷物の運び出しが超スロ−モ−なのだ。古びたベルトコンベアに運ばれて、荷物が思い出したように途切れ途切れにのんびりと出てくるではないか。それも早い時期に出てくるならいいのだが、わがグル−プの荷物は延々一時間以上も待たされて、人気もまばらになった一番最後の方に出てくる始末である。どうしてこうも能率が悪いのだろう。これもお国柄なのだろうか。私のバッグは機内持ち込みなので関係ないのだが、団体旅行だから皆さんに付き合わざるを得ない。
 

みんな待ちくたびれた顔でやっと各自の荷物を受け取り、今度は税関の手続きである。ロシアの場合と同様、ここでも所持する通貨の金額やカメラなどの記載が要求される。これもやっと終えて入国し、出迎えのバスに乗ったのは到着から二時間以上も経った後のことである。現地のガイド・トリック君が出迎え、ピンクのカ−ネ−ション一輪と炭酸抜きのミネラル水一パックずつを全員に配って歓迎してくれる。みんなの顔に初めて笑みが浮かぶ。
 

ホテルへ
空港から都心のホテルまでは、三十分とかからない距離にある。質素で静かな夜景を眺めながら、バスはホテルへと向かう。ここタシケントはウズベキスタン共和国の首都で、大通りには近代的な高層アパ−トが建ち並び、中心地にはショッピング・ア−ケ−ドが続く近代的な街である。また、道路はよく整備されてトロリ−バスや路面電車が走り、中央アジアで唯一の地下鉄が走る大都市である。その昔、“石国”として唐代中国の史籍に記されているシルクロ−ド上の小邑(小さな都市)にすぎなかった地だが、十九世紀末から徐々にロシアの一首都として見劣りしないような改革が推し進められ、それまでのイスラム街はロシア色に急速に染められていった。こうして現在では、街の北西部の旧市街にほんのわずかイスラム色が残っているにすぎない。
 

深夜の十二時ごろ、バスは革命広場前にそびえるウズベキスタン・ホテルに到着。ここが今宵一夜かぎりの宿になるのだが、なかなか立派な高層ホテルである。人気のないロビ−に、われわれ一行のみがたむろし、部屋の割り当てが決まるのを待つ。その間に、閉まりかけた両替カウンタ−に行き、再度金庫を開けてもらって十ドル分の両替をしてもらう。初めて全員そろったグル−プの顔ぶれを眺め回すと、予想どおり熟年ばかりのメンバ−である。通された部屋はダブルベッドのある豪奢なル−ムで、ピカピカのバスル−ムにはバスロ−ブも備えてある。
 

早速シャワ−を浴び、靴下だけを洗濯してベッドに入る。すでに夜中の一時近く、日本時間では夜明けの五時ごろに当たるので、徹夜状態になっている。疲れと眠さの入り混じった体を横たえ、明日からの観光に備える。明朝は早い出発とのことで、モ−ニングコ−ルが六時三十分になっている。あと五時間ちょっとしか眠られない。
 


(次ページは市内観光編です。)














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