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                No.4
                           (シルクロード)



4.ヒ ワ・・・・  ミナレット・メドレセ・巨大ナン
 
三日目。今日の出発は十時なので朝はゆっくりである。よく寝て七時に目覚める。八時半が朝食というので食堂へ行ってみる。内容はパン、バタ−、ジャム、ヨ−グルト、チ−ズ、クッキ−、リンゴ、お茶といった洋風の朝食である。ミルクはないので、苦手のヨ−グルトを飲まざるを得ない。朝食はこれだけあれば十分である。パンも味は悪いが贅沢はいえない。ただ、コ−ヒ−や紅茶がないのが不満である。
 

古都ヒワへ
十時にバスで出発、約四〇分でここから三〇kmほど南西に位置するオアシスの古都ヒワに到着である。ここで美人ガイドのマリナさんが案内することになる。彼女はウズベク人の母親とロシア人の父親をもつ混血の美女で、なかなか流麗な英語を操る。その胸には誰から教えられたのか、「満里奈・まりな・マリナ」と当て字の漢字とひらがな、そしてカタカナの三様の日本語で書いたネ−ムプレ−トを付けている。なかなか笑わせてくれる。彼女が英語で話すのを、いちいち添乗君が通訳して話してくれるのである。二十代の若い彼もなかなか英語が堪能で、大卒後に海外独り旅を一年間続けた折に自然と習熟したそうだ。
 

城壁都市
ここヒワは、町そのものが博物館ともいえる城壁都市で、外敵の侵入を防ぐために二重の城壁で守られ、内城には数多くの遺跡(モスクは二〇、メドレセ二〇、ミナレットは六つ)が復元されている。その美しさは、後日訪れる予定のサマルカンドやブハラと並んで、「中央アジアの真珠」とうたわれるほどである。この地域は年間三〇〇日は雨どころか雲さえ見えないという峻烈、過酷な地である。しかし、今では灌漑がすすめられ、旧ソ連でも有数の綿生産地となっている。
 

到着したバスの正面には、高さ八m,長さ二・二kmのでっかく堅固な城壁が圧倒するように立ち塞がっている。この城壁の東西南北には、それぞれ一つずつの門がある。われわれは、ここの見どころの大半が集まるメインストリ−ト・カ−ルマルクス通りに通じる西門から入ることにする。

  




城壁都市ヒワのそびえる城壁












    



城壁都市の西門入り口











門を入ると、そこに広がるのは、まるでアラビアンナイトの世界である。泥レンガで造られた大小様々の建物やミナレット(光塔)が、茶褐色の独特の雰囲気を漂わせていて、まるで中世のアラビアの町に迷い込んでしまったようだ。門を通り抜けると、すぐ右手にムハメド・アミン・ハ−ンのメドレセ(イスラム神学校)とブル−のタイルを張った出来そこないのミナレットが見える。
 
          




ムハメド・アミン・ハーンのメドレセ

















  未完成のミナレット















この未完成の中途半端なミナレットには、こんな歴史がある。建設者のムハメド・アミン・ハ−ンは、この地に巨大なミナレットを建て、頂上から四〇〇km先にあるブハラの町を見渡すことを夢見たという。建設は一八五二年に着手されたが、その途中で自分のハ−レムが見下ろされることが分かり、三年後に中断され未完成のまま残されてしまったという。でも地元の人々は、この未完成の美しい青緑色のミナレットに、とりわけ愛着を持っているという。
                     

ミナレットの歴史
小さな石畳が敷かれたストリ−トをガイドに案内されながら奥のほうへ進んでいく。前方に、またミナレットがそびえているのが見える。こうしたミナレットは、オアシス都市に必ずといっていいほど建てられている。このミナレットは「光塔」と訳され、陸の灯台の役目をもっている。その起源は古く、バビロニアの頃より、チグリス・ユ−フラテス川周辺にその姿が見られるという。それが七世紀の中頃、イスラム教の広がりとともに各地に伝えられ、それぞれ特徴を持つ光塔があちこちに建てられるようになった。形は円柱や四角柱のものもあるが、いずれにしても高くそびえ、最上部には窓があいていることを基本とする。


イスラム教では礼拝時間を告げるために一日五回、「アザ−ン」という呼び声でこのミナレットの上から告げられる。夜になると、塔上には火が灯されて砂漠の中の道標となる。過酷な旅を続けるキャラバンは、ひたすらこのミナレットを目指して進み、そしてシルクロ−ドの彼方に最初に見えるのが、このミナレットなのである。そこには水があり、食べ物があり、人々が住んでいる。極限状態に喘いでいるキャラバン一行は、その灯を見てどんなにほっとしたことだろう。炎熱の砂漠を行き交うそうした隊商たちの姿が、目に浮かぶようだ。 


とある建物の入口から階段を上り、見張り台へ出る。そこから城壁都市を一望できるのだ。眼下に広がるその風景は、まるで粘土で造り上げた箱庭のようだ。角ばった背の低い建物がモザイクのように並んで茶褐色の世界を繰り広げている。その中にひときわ高くミナレットが天空にそびえ、その周りにはブル−の可愛いド−ムが点在して、鮮やかな彩りを添えている。まさに異次元の世界だ。この珍しい風景を連続写真に撮っておこう。ついでに、ここで記念写真を撮ってもらう。





      見張り台から見た城壁都市の眺望      




結婚式の行列
今度は下に下りて道を歩いていると、結婚式の行列に出会う。これから式場に向かうのか、純白のドレスに身を包んだ花嫁姿がなんとも初々しい。






うつむいて恥らう初々しい花嫁さん









今度は先程とは反対方向から、未完成のミナレットをバックに記念撮影、右側の白っぽいド−ムの建物との対比が面白い。続いて今度は、バフラヴァン・マフムド廟の美しいブル−のド−ムが見える。






バフラヴァン・マフムド廟のブルーのドーム










ジュマ・モスク
次は十世紀に建立されたというジュマ・モスクである。細かい細工の木彫りが施された二一三本の柱で支えられた珍しい建物である。これらの柱一本一本に、当時この地でポピュラ−だったモチ−フが見事に彫り込んである。中には新しく造り替えられた柱もある。今でも礼拝に使われているのかどうか分からない。






木彫りの柱で支えられたジュマ・モスク










昼 食
ここまでめぐったところで、そろそろ昼食の時間である。城壁の中にある小ぎれいなレストランへ案内される。靴を脱いで貸し切りの部屋へ通されると、そこには長テ−ブルがド−ンと据えられ、その上には普通サイズの二倍はある巨大ナンが圧倒するかのように並べられている。カ−ペットが敷かれた床に座って、みんなテ−ブルに着く。料理が運ばれるまで、小皿に盛られたレ−ズンやピ−ナツ、クルミをパリパリ皮を割って食べながら待つ。ピ−ナツは生でも結構甘味がある。
 





巨大ナンが並ぶ昼食風景










順次運ばれてきた料理内容は、珍しくフライドポテト、肉のス−プ、肉シチュ−、大根千切りサラダ、巨大ナン、それにリンゴとオレンジ、炭酸水である。巨大ナンを千切って頬張りながら、ス−プを味わってみる。うん、これはうまい! 次はシチュ−を口にしてみる。う〜ん、これもうまい。どんどん食が進み、お腹いっぱいになる。ここに来て初めて美味しいス−プとシチュ−に出会い、食べたという満足感のある食事である。どうして宿泊ホテルでは、こんな料理が出ないのだろうか。これなら心配ないのだが……。
 

ナン焼き風景
一服して外のトイレに行こうと庭の軒先を歩いていると、小部屋で二人のオバサンがナンを焼いているのを発見。これは写真に収めなくてはと、くびすを返してカメラを取りに戻る。再び戻って撮ったのが、この写真である。カマドの中に薪を焚いて炭火をつくり、よくカマドが熱したところで内側の壁面に、こねて円盤状に広げた生のナンをペタンとくっつけて焼くのである。一度に数枚は焼ける。その様子を眺めていると、オバサンが焼き立ての切れ端を味見にくれる。焼き立てのホカホカは、また一段と香ばしく、風味もあって美味しい。
 





ナンを焼くカマド











イスラム・ホジャのメドレセ
昼食を終えると、また城壁都市の中の見所を何ヶ所か観光して回る。イスラム・ホジャのメドレセは、現在ヒワ歴史博物館になっている。その傍に、前に写真を掲載したミナレットがそびえている。









天空にそびえるミナレット(光塔)














一ドル払えば頂上まで登って展望できるというので、希望者のみ登ることにし、他はその間に歴史博物館の見学をすることになる。この塔は、特に階段が狭そうで、下りる者とのすれちがいもままならぬ様子である。これまでの旅行で、度々お城や寺院、市庁舎などのタワ−に登った経験をもつ私は、このミナレット登りをパスすることにし、みんなと博物館に入る。グル−プの数名は、元気に登っていく。高齢というのに、みなタフな方々だ。ここで、ガイドのマリナさんのスナップを一枚。これでも二人の子持ちなのだ。






美人ガイドのマリナさん











タシ・ハウリ宮殿
次はタシ・ハウリ宮殿へ回る。ここはアラクリ汗の住居だったそうで、内部はくつろぎの間、謁見の間、ハ−レムに分かれている。ハ−レムは、多いときには一六三もの部屋があり、常時四〇人ぐらいの美女が住んでいたといわれる。
 

こうしてほぼ一日、ゆったりと時間をかけて回った城壁都市ヒワの観光も終わり、帰路につく。ホテルに着いたのは、午後四時半である。この土地の人たちも、金歯をキラキラ輝かせているのが、とても印象的である。
 

夕 食
七時半になって夕食が始まる。二種類の野菜サラダ、ポテトサラダ、肉の卵巻き、ライス、ケ−キ、ナン、リンゴ、オレンジなどで、ビ−ルを所望して流し込む。ライスは出たものの、とても食べられる代物ではなく、ここの料理は相変わらずパットしない。
 

夫妻の話
隣に同席した浜松の夫妻は、なんとも興味深いカップルである。話を聞けば、なんと海外旅行は七〇回目という。世界各地をツア−の旅で駆けめぐっているそうだ。ほんとに羨ましいかぎりではある。夫妻はなかなかの資産家らしく、お金はあの世まで持って行けないし、その使い道に困っているという。せいぜい海外旅行でもして使いこなそうと思うが、それでも使い切れないとのこと。こんな話を直接耳にしたのは初めての体験である。それほどまでに、どうして蓄財されたのか、俄然、この老夫妻に興味がわいてくる。そこでいろいろと話をうかがうことにする。


話によると、駅前などの繁華街に貸し店舗七軒とカラオケスナック一軒を経営していて、毎月二〇〇万円以上の収入があるという。どうしてそこまでに至ったのかと尋ねると、話せば長くなるが……といいながら、二夜にわたって話してくれた内容は次のようなものである。
 

戦前、独身時代は国鉄に勤務していたが、その折、行きつけの駅前の食堂にはいつもお客がいっぱいで大繁盛している。それを見て、将来商売をするなら食堂経営がいいなと思っていた。その後、徴兵で満州に渡り、そこで終戦。投降直前に軍隊から一人で脱走、以後一年間山賊まがいの生活をしながら命をつなぐ。脱走兵狩りを逃れながら、冬は日本人家庭に押し入って食物と寝所を確保し、夏は畑の作物を盗んで野宿生活を送ったという。もし私の身分を明かせば、当時恨みに思っている人たちが快く思わないかも知れないと過去を振り返る。こんな生活を送りながら、運良く難民に紛れ込み、引揚げ船で帰国したという。 
 

帰国後は、映画館の支配人になって館の経営を行う。ところが、オ−ナ−が勝手放題なことをするため館の経営は傾く。そこで、一切を任されて経営を立て直し、その後は順調に運んでかなりの資金を貯える。それを元手に駅前の土地を取得し、恩師の世話で結婚した奥さんに調理師免許を取らせてスシ屋を始める。それが大当りして繁盛し、財をなす。


その後、繁華街などにも土地を取得して貸し店舗を経営し、スシ屋は知り合いに頼まれて暖簾を譲り引退する。だが、隠居の生活は退屈するので、結局奥さんが再びカラオケスナックを経営し始め、現在に至っている。年に一度は近場の海外へ従業員4人を全額負担で慰安旅行に連れていくという。


貸し店舗を手放そうとも考えたが、またお金が増えるばかりで処分に困るしなあ、と思案投げ首の様子である。夫婦二人きりで、遺産を引き継ぐ子供はおらず、財産を持て余す誠に羨ましいご身分である。ほんとに、数奇な運命をたどりながら成功されたラッキ−なお方である。 この興味深い成功物語を心地良い睡眠薬代わりにしながら床に就く。



(次ページは「ブハラ編」です。)





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