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no.1
つい数年前まで、厚い鉄のカ−テンで閉ざされていた神秘の国ソ連。それでも文学・音楽・バレ−など、その香り高き芸術分野の素晴らしさには魅せられるものがある。それがゴルバチョフのすすめたペレストロイカ政策の波に乗って徐々に開かれ始めた。そして九一年の夏の終わり、ソ連共産党保守強硬派によって引き起こされたク−デタ−が失敗した後、堰を切ったようにソ連邦は一気に崩壊してしまった。正式国名はロシア連邦に生まれ変わり、社会主義計画経済から資本主義市場経済への大転換という人類が初めて経験する壮大な実験がいま行われている。 移行期の経済混乱で九三年には年率九倍もの激しいインフレに見舞われ、ル−ブル貨幣の価値は極端に下落してしまった(九七年五月時点の対円レ−トでは一ル−ブル=〇・〇二円)。そして、食料品などの物資不足で、店先にはパンや肉を求める人びとの長い行列ができ、税金滞納による財政収入不足で公務員の給料や年金の支給は何ヶ月も遅配し、その間隙をぬってマフィアが暗躍する、といった悪いイメ−ジばかりが先行する。果たして今、どんな様相を呈しているのだろうか、期待と不安に胸を膨らませながら関西空港のロビ−に立つ。 九七年五月二十六日、長崎空港からやって来て待ち合わせにたっぷり四時間を過ごし、やっと搭乗したアエロフロ−ト機は定刻の夜十一時十分に離陸する。出口に近い席を希望したお陰で、前には広いスペ−スのフロアが広がる最前列の席に座る。この座席の向かい側には、離着陸時に乗務員が対面して座るシ−トがある。今夜はすらりとしたロシア美人のスチュワ−デスが対面席に座っている。早速、覚えたてのロシア語で「ド−ブルィ ヴェ−チェル(こんばんは)」と声をかけると、にっこり笑いながら応答してくれる。ロシア人気質で、スチュワ−デスも無愛想と聞いていたが、それほどでもなさそうだ。 隣席には三十歳前後のトルコ人男性が座っている。搭乗する時、機内持ち込みにしてはちと大きすぎるほどの重そうなバッグを抱え込み、その収納場所を探すのに一苦労していたのだが、後で聞いてみると、みんなからもらったお土産品だという。彼はドクタ−で細菌学の研究のため大阪大学に留学しているそうで、大阪・茨木の大学寮に入って九ヶ月になるという。そこで生活できるくらいの報酬をもらっているという。結婚して一年にもならないそうだが、これもドクタ−という新妻を母国に残して日本に来ているという。今日は里帰りだそうで、モスクワ経由のアエロフロ−ト機を利用するのが一番運賃が安いのだという。 片言の日本語で話す彼は、あと数ヶ月で帰国するそうで、その後は政府関係の研究機関に勤めるのだという。私が長崎に住んでいることを知ると、「なかなかいいところですね。カステラ、チャンポンがうまいですね。」という。これまでに広島、長崎を旅行したそうで、長崎の印象がよかったらしい。 十二時を過ぎて、遅い夜食が始まる。生憎と出発前日からお腹の不調を訴えている私は、その悪化を恐れてパンとティのみで済ませ我慢する。どうして、こんなことになったのだろう。旅行に出掛ける時に、お腹をこわすなんて、こんなことは初めての経験である。早く治まってくれればいいのだが、これから先の旅が思いやられてならない。やはり機内では寝付けないので、いつものように体をシ−トに沈めて静かに目を閉じる。機内の温度は、上着を脱いでいてちょうどよいくらいである。モスクワ時間との時差は五時間で、日本時間のほうがそれだけ早くなっている。 夜明け近くになってトイレに行くと、腹調は一段と悪化している様子で水様性のひどい下痢便になっている。いよいよ心配になってくる。これが帰路ならまだしも、旅はいま始まったばかりなのに困ったものだ。この先どうしたものだろうか……。 やがて消されていた室内燈が点灯され、軽い朝食が始まる。隣席の彼が全部残らず豪快にたいらげている様子をうらめしそうに眺めながら、こちらはお腹をさすりながら相変わらずパンとティだけを口にして終わる。食事が終わると、やがて着陸の時間が迫ってくる。機首が徐々に下向きに傾き、高度を次第に下げ始める。 1.モスクワ・・・・ クレムリン・ボリショイ劇場・下痢の恐怖 関空を飛び立ってから約十時間、機はまだ明け切れない薄明かりに包まれたモスクワ上空にさしかかる。厚い雲が垂れ込めていて、青空は見えない。雨でないのが幸いだ。ドスンと体に振動を覚えると同時に、逆噴射の凄まじいエンジン音に包まれる。モスクワ時間で早朝の四時半、郊外にあるシェレメチェヴォ空港に着陸したのだ。 入国審査 見送るスチュワ−デスたちに「スビダ−ニャ(さようなら)」と声を掛けながら先頭を切って降り立つ。まだ行列もできていない入国管理のゲ−トでパスポ−トとビザを提示し、ここはすんなりと通過。次は税関の関門だ。そこには一人男性の先客がいる。係官から所持している外貨の提示を求められ、その札束を丹念に数えられている。 予備知識はあったものの、そこまで厳しいのかとドキドキしてくる。税関申告書に所持する外貨や貴金属宝石類を記入して検閲を受けることになっている。私はドル通貨と日本円を申告し、それにカメラとフィルム八本も記入している。ところが申告した日本円の金額より四千円ほど多く現金を持っている。もしチェックされ、その食い違いを指摘されて罰金とか没収とかになったら一大事だと、一人胸を痛める。 ところが、私の順番になると幸いなことに通貨の提示を要求してこない。ただ丹念に申告書の記載内容をチェックした上、記載内容の周囲を線で囲んで加筆訂正ができないようにし、そこに検印をポンと押して返してくれる。これでやっとロシア入国パスである。やれやれと胸を撫で下ろす。この申告書は出国時に再提出することになっているので、これをなくすとやっかいなことになる。大事にしまっておかなくては。 ガラス窓の向こうに出迎えのカ−ドを掲げた中年ロシア人女性の係員が立っている。あれかな、と思ってロビ−へ出てカ−ドの表示をよく見ると、私の名前は書かれていない。その代わりに「SOEDA」という名が他のグル−プ名に混じって書かれている。これは確か私が依頼した旅行社の係員の名前ではないかということを思い出し、彼女に近づいて「すみません。トランスファ−を頼んでいるのですが、これでしょうか?」と英語で話しながら書類を差し出して見せる。それを確認すると、「そうです。そちらでもう少し待っていてください。」と他の出迎え人を探している様子である。 モスクワ到着が交通機関の動いていない早朝なので、ホテルまでのトランスファ−(送迎輸送)を旅行社に頼んでいたのだ。ロシアの事務処理はなにかと鷹揚らしく、依頼していた出迎えがなかったり、逆に依頼もしないのに出迎えが来たりとかするらしいのだ。これで迷子にならなくてすみ、ホッと胸を撫で下ろす。一人旅は何かと気を遣う。 彼女に出迎えを受けた他のグル−プは、年の頃三十代の元気のいい日本人女性6人グル−プである。話を聞くと、以前にやっていたバレ−仲間のOGたちだそうで、知り合いの一人がボリショイ劇場に出演するのを観に来たそうで、それをダシにロシア旅行を計画したという。これから乗り換えてペテルブルクに向かい、そこでもバレ−を観賞してモスクワに戻るのだという。 自分たちだけで旅行するので、係員を待つ間にも寸暇を惜しんで懸命にロシア語の勉強をしている。中には、あの懐かしい単語カ−ドまで作って熱心にめくりながら覚えている女性もいる。その心意気、なかなか見上げたものである。海外を旅行するからには、こうなくちゃいけない。それでも少々おぼつかない様子なので、発音の仕方などをいくつか教えてあげる。 彼女が来るのを待っていると、何人ものタクシ−運転手が客引きにやってくる。やがて係の女性が戻ってきて、タクシ−の手配をしてくれる。運転手に何やら伝票を渡してから、彼について行きなさいという。そこで、バレ−グル−プに別れを告げタクシ−乗場へ急ぐ。この様子だと、わざわざ一回七、五〇〇円も出して日本からトランスファ−を頼むことはなかったかも知れない。タクシ−運転手とうまく交渉すれば、これよりうんと安くいけるかも知れないのだ。通常時間でバスが利用できるとバカ安なのだが、早朝なだけにそれができず高くつくことになってしまった。 ホテルへ 臭い廃ガスがもれてくるくたびれたタクシ−に一人乗せられて、夜明けのハイウェ−を突っ走る。最初周囲には原っぱが広がっていたのが、次第に市街が近づくにつれ建物が見え始める。街角の温度表示盤が十一度を示している。まだ交通信号は点滅状態で、道路にはほとんどくるまの姿は見られない。さすがに土地が広い。片側車線だけで七車線もある。道路の渋滞がないので、三十分でインツ−リストホテルに到着。まだ六時前だ。果たして、こんなに早朝からチェックインさせてくれるのだろうかと心配になってくる。 早速、フロントに行ってみると、早朝のせいかだれも係は出ていない。奥の事務室に人の姿が見えるので、「ヴ−ッチェ ダブルィ(ちょっとすみません!)」と声を掛けると、中から女性が出てきて応対してくれる。「予約してるんですが……」といいながらホテル予約のバ−チャ−(書類)を差し出すと、それをパソコンにインプットし、キィカ−ドを渡してくれる。ありがたい! これでやっと部屋に入れる。パスポ−トを要求されるので一時預ける。 リフトの場所を教えてもらい、人気のないロビ−を歩いて八階の部屋へ向かう。ここはツィンの部屋だ。思ったよりスペ−スもゆったりとしていてテレビも備えてある。バスル−ムを確認すると、バスタブなしのシャワ−ル−ムだけだが熱いお湯が勢いよく出てくるので一安心。ロシアではお湯が出たり出なかったりと、あまり信頼できないらしいのだ。ガイドブックにあったように、トイレットペ−パ−は包装紙みたいに茶色のパサパサした紙で、これではとても用をなさない。その上、それが流せないというから困りものである。だから処理後はゴミ捨てに入れるより仕方がないことになる。やはり日本からペ−パ−を持参してきてよかった。特に今度の場合は下痢便なのでなおさらだ。 九時まで一休みしようと思っていると、急にお腹がもよおしトイレへ駆け込む。ひどい水様性の便である。ひどくなる一方の様態に不安がつのるばかり。もし細菌性の下痢であれば万事休すだ。緊急入院するしかない。幸い発熱・嘔吐の症状はなく、腹痛もそれほどひどくなくて少しぐぜる程度なので救われる。でも、この調子だと、この先の観光や旅行は一体どうなるのだろうか。突然、お呼びがかかるので、トイレがなければ手のほどこしようがないのだが……。 インツーリストで手続き シャワ−を浴びるが、湯船につかれないので少々肌寒い。とにかく睡眠不足なので、ベッドに横たわって休息をとることにする。でも、目先の心配事に目が冴えてどうしても寝付かず、とうとう一睡もしないまま九時ごろ起き出して一階へ下りていく。インツ−リスト(元ソ連国営の旅行社)のデスクが開いているので、早速バ−チャ−を提出してペテルブルク行きの夜行列車のチケットとホテルバ−チャ−の手配を依頼する。なかなかやっかいな手続きだ。 自由世界では勝手に自分で何でも手配し、チケットの購入もできるのだが、ロシアでは出発前に予め旅程を決めホテルや列車の予約確認を取って前払いで料金を払い込み、その証拠書類(バ−チャ−)を持参していちいちこのインツ−リストに提出しないといけないのだ。この書類がないと次の地へ行くチケットの手配やホテルの宿泊もできない仕組みになっている。また、これがないとビザも取れないのでる。いつチケットはもらえるのかと尋ねると、明日取りに来いという。デスクに市内観光の案内表示があるのを見つけ、午後の時間になっているのでこれを申し込む。($一〇=一、二〇〇円) 付近散策 手続きを終わって、とにかく街の様子を見ようと通りへ出てみる。ここトヴェルスカヤ通りは、クレムリン北端のマネ−ジ広場から始まるモスクワ最大の目抜き通りで、ロシア第二の都市サンクト・ペテルブルクへ続く街道となっている。 モスクワの目抜き通り・トヴェルスカヤ通り 手の甲も冷たく感じる。道行く人たちの中にも、まだコ−トを着用している姿が目立つ。もっと狭い通りかと予想していたのだが、その道幅は意外に広く八〇メ−トルぐらいはあるのだろうか。ここで第一号の写真を撮る。下痢は続くものの空腹感を覚え、何か当たらずさわらずの食べ物を口に入れなくてはと辺りを物色する。 と、向こうに世界共通のマクドナルドのマ−クが目に留まる。よし、ここでポテトとコ−ヒでも取って空腹をしのごうと、ゆるやかなスロ−プになった通りを上っていく。朝の九時台というのに結構お客が入っている。外国ではいつも商品の注文に戸惑ってしまう。どんな風に伝えればよいのか困惑するのである。今度の場合、パネルに表示された商品名もロシア語になっているので、一段と困ってしまう。やはり英語とロシア語のチャンポンで「フライドポテト・ホットコ−ヒ−(スモ−ルカップ)・パジャ−ルスタ(お願いします)」といいながら、ジェスチャ−を交えて注文するしかない。これでなんとか通じるのだから嬉しい。 空腹は満たされたものの、いつお呼びがかかるかわからないトイレのことを気にしながら、市内観光の集合場所の確認に行ってみる。宿泊ホテルのすぐ近くにあるインツ−リスト本社だというので、その方向にぶらぶら歩きながら探してみる。ここら辺りのはずだがと思って辺りを見回すが、それらしい看板も見当たらない。ちょうどその場所にキオスクの小屋が出ているので、店のオバサンに「グゼ インツ−リスト?(インツ−リストはどこですか)」と尋ねてみる。すると、先の角を曲がって行きなさいと指で差し示してる。私が外国人だから、どうも私の宿泊しているホテルと勘違いしている様子だ。名前が同じなのだからまぎらわしい。 そこで、「ニェ−ト ガスチ−ニッツァ(ホテルではありません)」といいながら、観光予約のチケットに書いてある名称を見せる。やっと了解したらしく、すぐに店の後方を指差す。えっ、この後ろの方にそんな看板は見当たらないが……と、怪訝そうな顔をしていると、わざわざ店から出てきて私を誘導し、ここですよと教えてくれる。歩道からやや入り込んで建っている石造りの大きな建物の分厚いドアに「インツ−リト観光」と小さな表示板がかかっている。やっと発見して「スパシ−バ(ありがとう)」と礼をいいながら入口へと進む。表示板は出ているものの人の気配は全くなく、果たしてこれが事務所なのだろうかと思わせる。 いかにも入ることを拒んでいるかのような入口のたたずまいに、一瞬たじろぎながら分厚く重いドアを開けて中に入る。と、そこには戦闘服に身を固めた警備員と思われる若者が、自動小銃を手にしてデスクに座っている。一瞬ギョッとしながら、「インツ−リスト?」と奥の方を指差しながら尋ねると、そうだとうなずいて通してくれる。細く薄暗い通路を何度か曲がって辿りついた奥には、カウンタ−を備えた普通のオフィスが設けられている。そこには十人ぐらいの女性スタッフが働いており、部屋のコ−ナ−には来客用のソファ−も備えられている。ところが、この部屋の片隅にも自動小銃を肩に掛けたいかめしい警備員が立って監視している。旅行社なのに、どうしてそこまでガ−ドする必要があるのだろう。ロシアの社会情勢がそうさせているのであろうが……。 訪れたついでに、今日か明日の分のボリショイ劇場のチケットが手に入らないか尋ねてみる。すると、英語を上手に話す係の女性がいうには、十二時ごろまた来てみなさいという。この有名劇場の当日券を手に入れるのはどだい無理な話。当日の窓口売りはなく、毎週木曜日に一週間分のチケットをまとめ売りするそうで、それを買うのに一晩並ぶ人もいるそうだ。“ダメもと”の気持ちで尋ねてみたのだが、なにやら脈のありそうな気配。ここには今夜と明晩の二泊しかしないので、このどちらかの日のチケットを手に入れたいのである。このボリショイ劇場でバレ−の観賞をするのが、モスクワ訪問の一つの目的でもあるのだ。だから、最悪の場合はダフ屋からでも入手したい気持ちなのである。 赤の広場 では、その間を利用して「赤の広場」を見物し、レ−ニン廟にも入ってレ−ニンの眠れる遺体とも面会してみよう。そこで、目の前に広がるマネ−ジ広場を通り抜け、クレムリンの前に広がる赤の広場へ向かう。国立歴史博物館の赤茶けた建物の横を通り抜けて近づくと、目の前に広大な空間が視野いっぱいに広がってくる。う〜ん、これは広い! その広さ七三、〇〇〇 (長さ六九五m、幅一三〇m)というのだから、長崎商業高校のグラウンドの四倍の広さだ。 この広場は、ロシア語で「クラ−スナヤ プロ−シャチ」と名付けられているのだが、クラ−スナヤというロシア語は古語では「美しい」を表わす意味だそうで、本来なら「美しい広場」と訳されるべきものだそうだ。今ではそれが「赤の広場」と訳されるようになったそうである。十五世紀ごろ、露店商など多くの商人が集まって雑然としていた地区を十七世紀に整理し、美しく模様替えしたところから、赤の広場の名称が生まれたという。ソ連崩壊以前までは、五月一日のメ−デ−と十一月七日の革命記念日にはこの広場で式典が開かれ、そのパレ−ドの様子などがテレビニュ−スを通じてよく見られたものだ。 広場の片側にはクレムリンのレンガ造りの高い城壁が長い衝立となって立ちはだかっている。その真反対側にはモスクワ最大の百貨店グムが、デパ−トとは思えない三階建の瀟洒でエレガントな姿を長さ数百メ−トルにわたって横たえている。なにしろ、そのスケ−ルが違うのには驚かされる。 |
赤の広場全景(左側はモスクワ最大のグム百貨店、中央正面は聖ワシリー寺院、右側はクレムリン、右前方の時計台の手前に見える階段状の低い建物がレーニン廟) |
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赤の広場全景。左側はクレムリン、手前二人の女性の間に見える茶色の建物がレーニン廟、正面奥の茶色の建物は国立歴史博物館、右側はグム百貨店。 (ワシリー寺院側から撮影) |