(ペルー編)
10.クスコ・・・・高山病・インカの石組み技術・フォルクロ−レの響き
早朝の出発
10日目。今朝は早朝の4時前起床。外はまだ夜が明けきっていない。朝食は4時半からすでに用意されている。だから、早朝出発組でも心配することはない。それにしても、少々早すぎる朝食で、食がすすまない。ほんの少しずつを盛り合わせて朝食とする。
6時にホテルを出発。先日から体調を崩した夫人はかなり重症の下痢らしく、とうとう夫君も一緒にホテルに残って一行の帰りを待つことになる。われわれは、これからクスコやチチカカ湖をめぐって、再びリマ入りする予定になっている。そこで、夫妻も合流することになる。旅の途中での発病は、ほんとに大変である。楽しみの観光も吹っ飛んでしまうことになって、ただ残るのは苦い思い出だけである。連れ添う夫君は、これまでの海外旅行では何も問題なかったのに、どうしたのだろうと首をかしげている。お互いに、気をつけなくては……。
曇天の空の下をバスはスイスイと走って飛行場へ到着。ところが、あいにくと目的地のクスコの天候が悪いらしく、しばらく時間待ちとのこと。これで、2度目の遅延である。果たして、どれくらい待たされるのだろう。南米らしく、のんびりと待つことにしよう。そう覚悟を決めて待っていると、意外にも早く搭乗となる。機は1時間遅れの8時出発でクスコへ向かう。
クスコへ
1時間の飛行で無事クスコの空港へ到着すると、雨はきれいに上がって青空がのぞき始めている。アルゼンチン行きの時もそうだったように、ほんとにラッキ−なことだ。現地の男性ガイドさんの出迎えを受けて、バスはホテルへ向かう。飛行場から町中までわずか4kmの距離、くるまだと7分で到着する。3000m級の高地なので、かなり冷えるのかと思ったが、意外や意外、リマの気温とそれほど変わらないのだ。朝晩は冷えるらしいが、昼間はけっこう暖かいのである。やはり、赤道に近いせいであろう。ヨ−ロッパの緯度だと、そうはいかない。
高山病のこと
ガイドさんが最初に話し始めたのは、やはり高山病のことである。これまでの経験によると、どうも酒の強い人が高山病に強いようだとのこと。高山の人間に与える影響には一長一短ありという。つまり、血圧の高い人はそれが低下すので良好な状態になる反面、低血圧の人は下がり過ぎるのでまずいという。以前、低血圧の人がいたので血圧を測定してみると、最低血圧が40まで下がって心配したとのことだ。どうも、顔の青白い人が高山病に弱いらしいとのことである。ガイドさんは、最初来た時、高山病にかかって5日間も寝込んだという。
これまでの私の高山経験は、フランス・シャモニ−で3800m級の山に上ったことである。その時はロ−プウェ−で一気に上り、数時間滞在して下山したのだが、何の症状もなく平気だった。それより低いユングフラウヨッホ登山でも、もちろんノ−プロブレム。さて、ここクスコもシャモニ−より低いのだが、果たしてどういうことになるのだろう。多分、大丈夫かな?
そんなことを考えていると、バスはすでに、この町の中心道路Sol(太陽)通りを走っている。それからすぐにホテル到着である。ここはサボイ インタ−ナショナル ホテルで、この町の代表的なホテルの一つである。その位置は、町の中心アルマス広場から少し離れた場所で、このSol通りに面している。
クスコの町
ここクスコの町はアンデス山系の高地、標高3360mに開けたかつてのインカ帝国の首都で、町全体が世界遺産にも登録されている。毎年6月には南米三大祭りの一つで、インカ時代の儀式を再現した「インティライミ=太陽の祭り」が、山上にあるサクサイワマンの遺跡で開かれる。この町には、“カミソリの刃1枚通さない”といわれる精緻なインカの石組みをはじめ、当時のインカ道や橋、トンネル、灌漑用水路、段々畑などが、今でも受け継がれて息づいている。
クスコはスペインの征服者に破壊された町でもある。1533年、インカ帝国の第13代皇帝が殺され、王であり、神の子だった皇帝を失ったインカの人々は征服者のなすがままだった。スペイン人たちは、太陽の神殿にある金をはじめ、クスコの金銀を手当り次第に略奪し、本国へ送ってしまった。その後は神殿を壊してスペイン風の教会を建てたり、宮殿などを次々に教会や修道院に建て替えてしまった。こうした破壊活動により、インカ文明の上にスペイン文化が継ぎ足される形で歴史的建物が現在にも残っている。
ホテルへ
サボイホテルの規模は、さほど大きくはないが、シックな造りである。到着すると、まずコカ茶のサ−ビスを受ける。コカインの種類で、その葉っぱをお茶にして飲むのである。あっさりした味で飲みやすい。ウ−ロン茶みたいなものだ。これが高山病の予防に効くとのことで、ロビ−の一角にいつでも飲めるように用意してある。高山病の予防には、まず十分な水分補給が大切とのことである。
高山病の症状
10時半にホテルへ到着したのだが、高山に体を慣らすため、午前中はゆっくりと休養し、午後から市内観光の予定である。到着直後は高山病の症状もなく、これなら大丈夫かと思ってたかをくくっていると、部屋に入り、一服している間に、なんとなく頭が重い感じがし始める。そのうち、胃も重くなり、軽い倦怠感が始まる。おや、おや? これが高山病の症状なのだろうか。少し、自信をなくし始める。とにかく、静かに横になって時を過ごす。
お昼になって昼食の時間。ホテルの食堂へ出向くが、頭は重く、胸の軽いむかつきもあって一向に食欲が出ない。ス−プと野菜、フル−ツを中心に少量ずつ無理にいただく。少しでも栄養を補給しないと、いよいよ体が参ってしまう。元気に食事を取る人もいるが、早くも複数のご婦人方は高山病でダウンし、食事にも出てこれない状況である。これから、午後の観光が始まるというのに……。
これまでの旅の疲れと高山病の症状に、体は少々へばっている。本音をいえば、午後の観光はパスして休養を取りたいところである。だが、ここまで来てそれはもったいないかぎり。そこで、なんとか元気を振りしぼって出かけることにする。
市内観光
食後の一服を取ると、一時半から市内観光のスタ−ト。まず最初に訪れたのは、サント・ドミンゴ教会(コリカンチャ=太陽の神殿)である。
サント・ドミンゴ教会
ここはもともと、インカ帝国時代にはコリカンチャと呼ばれる太陽の神殿だったという。カミソリの刃も通さないほどの精巧で美しい石組みの神殿内には、金銀の像をはじめ、壁に飾られた金の帯、敷きつめられた金の石、等身大の金のリャマ、金で覆われた太陽の祭壇と分厚い金の太陽像など、息をのむような黄金にあふれていたという。スペインの征服者は、これらの黄金を溶かして金の延べ棒にし、それを本国に送ったという。
あるかぎりの金を略奪した後、スペイン人はこの太陽の神殿の上部を破壊し、残った土台の上に教会を建てたのである。しかし、その後クスコに大地震が起こり、この教会は無惨にも崩れ落ちてしまったそうだが、土台の石組みだけはびくともせず、ひずみひとつ起こさず現在にも残っている。インカの石組みがいかに精緻で精巧をきわめていたかが分かるというものだ。
教会の中に入ると、四角な中庭を囲んで二階建ての回廊がめぐっている。その一階の一角にインカ時代の太陽の神殿跡が残っている。その緻密で精巧な石組みの壁は紙一枚の隙間もないほどで、あたかも磁石で鉄の塊がぴったりとくっついたかのように、ぎっちりと組み上げられている。石を少しずつずらしてアミダ模様に組み上げる技法だけに、地震や振動などにもびくともしないで、何百年もの間微動だにせず建っているのである。当時の石組み技術のすばらしさには、ただただ脱帽するばかりである。もし、スペイン人による破壊と略奪がなかったとしたら、今でもあのツタンカ−メンの黄金マスクのように、黄金に埋まり輝く太陽の神殿が見られたに違いない。まことに残念なことだが、これが歴史のいたずらというものだろう。
太陽の神殿跡
きっちりと隙間のない石組みは
見事。
太陽の神殿内部
あみだ模様の石組みが特徴
「12角の石」
教会を出ると、次は「12角の石」のほうへバスで移動する。ある通りの壁の石組みの中に、12角の石が見事に組み込まれているのである。普通、石組みは四角形の石を積み上げるのだが、この壁の石組みの中には12角の石が一つ、その他に10角の石も使われるなど、特殊な多角形の石が使われている。それでいて、寸分のくるいや隙間もなく積み上げられているのだから、恐れ入ってしまう。
「12角の石」
中央の大きな石がそれ。
この12角の石は、組まれた周りの石より数倍も大きく、斜めの辺にはそれに合わせた石がぴったりと組まれていて見事である。この石については、それが王の一族(12人の家族)を象徴しているとか、1年の各月を表しているなどの諸説があるという。この石の側では、色鮮やかな民族衣装で着飾ったインディオの娘が、これを見にやってくる観光客相手に写真撮影のモデルをやって銭を稼いでいる。こちらは、チップも払っていないのに、彼女を撮影するわけにはいかない。ここは遠慮しておこう。
次は、ここからアルマス広場の方へ移動。この周辺では細い路地が入り組んで迷路のように走っており、両側にはアドベと呼ばれる日干しレンガで造られた2階建ての家が並んでいる。そして、どの家も申し合わせたように白壁が塗ってあり、壁の白と赤茶色の屋根のコントラストが、いかにもクスコらしい雰囲気をただよわせている。屋根の瓦は赤茶のレンガ色で、ヨ−ロッパで見かける屋根の色とそっくりである。町中の屋根屋根が、この一色に染まっていて、山上から見ると独特の風景をつくり出している。
迷路のような路地が続く。
アルマス広場
アルマス広場は町の中心。スペイン式の町づくりは、中心にアルマス広場を置き、そこを核にしながら町を広げるという方法らしい。インカ帝国時代の町づくりも、たまたま同じやり方だったらしく、期せずして同じこの位置に広場が造られている。広場の一角にたたずんで、パノラマ写真を撮っておこう。 |
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