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   no.11
(ブラジル・アルゼンチン・ペルー)



(ペルー編)



10.クスコ・・・・高山病・インカの石組み技術・フォルクロ−レの響き
 
早朝の出発
10日目。今朝は早朝の4時前起床。外はまだ夜が明けきっていない。朝食は4時半からすでに用意されている。だから、早朝出発組でも心配することはない。それにしても、少々早すぎる朝食で、食がすすまない。ほんの少しずつを盛り合わせて朝食とする。
 

6時にホテルを出発。先日から体調を崩した夫人はかなり重症の下痢らしく、とうとう夫君も一緒にホテルに残って一行の帰りを待つことになる。われわれは、これからクスコやチチカカ湖をめぐって、再びリマ入りする予定になっている。そこで、夫妻も合流することになる。旅の途中での発病は、ほんとに大変である。楽しみの観光も吹っ飛んでしまうことになって、ただ残るのは苦い思い出だけである。連れ添う夫君は、これまでの海外旅行では何も問題なかったのに、どうしたのだろうと首をかしげている。お互いに、気をつけなくては……。
 

曇天の空の下をバスはスイスイと走って飛行場へ到着。ところが、あいにくと目的地のクスコの天候が悪いらしく、しばらく時間待ちとのこと。これで、2度目の遅延である。果たして、どれくらい待たされるのだろう。南米らしく、のんびりと待つことにしよう。そう覚悟を決めて待っていると、意外にも早く搭乗となる。機は1時間遅れの8時出発でクスコへ向かう。
 

クスコへ
1時間の飛行で無事クスコの空港へ到着すると、雨はきれいに上がって青空がのぞき始めている。アルゼンチン行きの時もそうだったように、ほんとにラッキ−なことだ。現地の男性ガイドさんの出迎えを受けて、バスはホテルへ向かう。飛行場から町中までわずか4kmの距離、くるまだと7分で到着する。3000m級の高地なので、かなり冷えるのかと思ったが、意外や意外、リマの気温とそれほど変わらないのだ。朝晩は冷えるらしいが、昼間はけっこう暖かいのである。やはり、赤道に近いせいであろう。ヨ−ロッパの緯度だと、そうはいかない。
 

高山病のこと
ガイドさんが最初に話し始めたのは、やはり高山病のことである。これまでの経験によると、どうも酒の強い人が高山病に強いようだとのこと。高山の人間に与える影響には一長一短ありという。つまり、血圧の高い人はそれが低下すので良好な状態になる反面、低血圧の人は下がり過ぎるのでまずいという。以前、低血圧の人がいたので血圧を測定してみると、最低血圧が40まで下がって心配したとのことだ。どうも、顔の青白い人が高山病に弱いらしいとのことである。ガイドさんは、最初来た時、高山病にかかって5日間も寝込んだという。
 

これまでの私の高山経験は、フランス・シャモニ−で3800m級の山に上ったことである。その時はロ−プウェ−で一気に上り、数時間滞在して下山したのだが、何の症状もなく平気だった。それより低いユングフラウヨッホ登山でも、もちろんノ−プロブレム。さて、ここクスコもシャモニ−より低いのだが、果たしてどういうことになるのだろう。多分、大丈夫かな?
 

そんなことを考えていると、バスはすでに、この町の中心道路Sol(太陽)通りを走っている。それからすぐにホテル到着である。ここはサボイ インタ−ナショナル ホテルで、この町の代表的なホテルの一つである。その位置は、町の中心アルマス広場から少し離れた場所で、このSol通りに面している。
 

クスコの町
ここクスコの町はアンデス山系の高地、標高3360mに開けたかつてのインカ帝国の首都で、町全体が世界遺産にも登録されている。毎年6月には南米三大祭りの一つで、インカ時代の儀式を再現した「インティライミ=太陽の祭り」が、山上にあるサクサイワマンの遺跡で開かれる。この町には、“カミソリの刃1枚通さない”といわれる精緻なインカの石組みをはじめ、当時のインカ道や橋、トンネル、灌漑用水路、段々畑などが、今でも受け継がれて息づいている。
 

クスコはスペインの征服者に破壊された町でもある。1533年、インカ帝国の第13代皇帝が殺され、王であり、神の子だった皇帝を失ったインカの人々は征服者のなすがままだった。スペイン人たちは、太陽の神殿にある金をはじめ、クスコの金銀を手当り次第に略奪し、本国へ送ってしまった。その後は神殿を壊してスペイン風の教会を建てたり、宮殿などを次々に教会や修道院に建て替えてしまった。こうした破壊活動により、インカ文明の上にスペイン文化が継ぎ足される形で歴史的建物が現在にも残っている。
 

ホテルへ
サボイホテルの規模は、さほど大きくはないが、シックな造りである。到着すると、まずコカ茶のサ−ビスを受ける。コカインの種類で、その葉っぱをお茶にして飲むのである。あっさりした味で飲みやすい。ウ−ロン茶みたいなものだ。これが高山病の予防に効くとのことで、ロビ−の一角にいつでも飲めるように用意してある。高山病の予防には、まず十分な水分補給が大切とのことである。
 

高山病の症状
10時半にホテルへ到着したのだが、高山に体を慣らすため、午前中はゆっくりと休養し、午後から市内観光の予定である。到着直後は高山病の症状もなく、これなら大丈夫かと思ってたかをくくっていると、部屋に入り、一服している間に、なんとなく頭が重い感じがし始める。そのうち、胃も重くなり、軽い倦怠感が始まる。おや、おや? これが高山病の症状なのだろうか。少し、自信をなくし始める。とにかく、静かに横になって時を過ごす。
 

お昼になって昼食の時間。ホテルの食堂へ出向くが、頭は重く、胸の軽いむかつきもあって一向に食欲が出ない。ス−プと野菜、フル−ツを中心に少量ずつ無理にいただく。少しでも栄養を補給しないと、いよいよ体が参ってしまう。元気に食事を取る人もいるが、早くも複数のご婦人方は高山病でダウンし、食事にも出てこれない状況である。これから、午後の観光が始まるというのに……。
 

これまでの旅の疲れと高山病の症状に、体は少々へばっている。本音をいえば、午後の観光はパスして休養を取りたいところである。だが、ここまで来てそれはもったいないかぎり。そこで、なんとか元気を振りしぼって出かけることにする。
 

市内観光
食後の一服を取ると、一時半から市内観光のスタ−ト。まず最初に訪れたのは、サント・ドミンゴ教会(コリカンチャ=太陽の神殿)である。






サント・ドミンゴ教会











ここはもともと、インカ帝国時代にはコリカンチャと呼ばれる太陽の神殿だったという。カミソリの刃も通さないほどの精巧で美しい石組みの神殿内には、金銀の像をはじめ、壁に飾られた金の帯、敷きつめられた金の石、等身大の金のリャマ、金で覆われた太陽の祭壇と分厚い金の太陽像など、息をのむような黄金にあふれていたという。スペインの征服者は、これらの黄金を溶かして金の延べ棒にし、それを本国に送ったという。
 

あるかぎりの金を略奪した後、スペイン人はこの太陽の神殿の上部を破壊し、残った土台の上に教会を建てたのである。しかし、その後クスコに大地震が起こり、この教会は無惨にも崩れ落ちてしまったそうだが、土台の石組みだけはびくともせず、ひずみひとつ起こさず現在にも残っている。インカの石組みがいかに精緻で精巧をきわめていたかが分かるというものだ。 


教会の中に入ると、四角な中庭を囲んで二階建ての回廊がめぐっている。その一階の一角にインカ時代の太陽の神殿跡が残っている。その緻密で精巧な石組みの壁は紙一枚の隙間もないほどで、あたかも磁石で鉄の塊がぴったりとくっついたかのように、ぎっちりと組み上げられている。石を少しずつずらしてアミダ模様に組み上げる技法だけに、地震や振動などにもびくともしないで、何百年もの間微動だにせず建っているのである。当時の石組み技術のすばらしさには、ただただ脱帽するばかりである。もし、スペイン人による破壊と略奪がなかったとしたら、今でもあのツタンカ−メンの黄金マスクのように、黄金に埋まり輝く太陽の神殿が見られたに違いない。まことに残念なことだが、これが歴史のいたずらというものだろう。
 





太陽の神殿跡
きっちりと隙間のない石組みは 見事。














太陽の神殿内部
あみだ模様の石組みが特徴










「12角の石」
教会を出ると、次は「12角の石」のほうへバスで移動する。ある通りの壁の石組みの中に、12角の石が見事に組み込まれているのである。普通、石組みは四角形の石を積み上げるのだが、この壁の石組みの中には12角の石が一つ、その他に10角の石も使われるなど、特殊な多角形の石が使われている。それでいて、寸分のくるいや隙間もなく積み上げられているのだから、恐れ入ってしまう。
 





「12角の石」
中央の大きな石がそれ。









この12角の石は、組まれた周りの石より数倍も大きく、斜めの辺にはそれに合わせた石がぴったりと組まれていて見事である。この石については、それが王の一族(12人の家族)を象徴しているとか、1年の各月を表しているなどの諸説があるという。この石の側では、色鮮やかな民族衣装で着飾ったインディオの娘が、これを見にやってくる観光客相手に写真撮影のモデルをやって銭を稼いでいる。こちらは、チップも払っていないのに、彼女を撮影するわけにはいかない。ここは遠慮しておこう。
 

次は、ここからアルマス広場の方へ移動。この周辺では細い路地が入り組んで迷路のように走っており、両側にはアドベと呼ばれる日干しレンガで造られた2階建ての家が並んでいる。そして、どの家も申し合わせたように白壁が塗ってあり、壁の白と赤茶色の屋根のコントラストが、いかにもクスコらしい雰囲気をただよわせている。屋根の瓦は赤茶のレンガ色で、ヨ−ロッパで見かける屋根の色とそっくりである。町中の屋根屋根が、この一色に染まっていて、山上から見ると独特の風景をつくり出している。
 





迷路のような路地が続く。











アルマス広場
アルマス広場は町の中心。スペイン式の町づくりは、中心にアルマス広場を置き、そこを核にしながら町を広げるという方法らしい。インカ帝国時代の町づくりも、たまたま同じやり方だったらしく、期せずして同じこの位置に広場が造られている。広場の一角にたたずんで、パノラマ写真を撮っておこう。



 アルマス広場の景観。正面がカテドラル。




写真中央の建物がカテドラル。これは1550年から100年の歳月を費やしてインカ時代のビラコチャ神殿の跡に建てられたというだけに、凝りにこって造られているそうだ。内部には銀300トンを使った祭壇や400点にのぼる宗教画などがあり、屋根には1659年につけられた南米一の巨大鐘が40km四方までその音を響かせているという。写真右手の建物はラ・コンパ−ニャ・ヘスス教会。かつてのインカ第11代皇帝の宮殿跡に建てられたもの。中には見事な壁画やすばらしい祭壇があるという。この場は、ただ外観を眺めるだけで、カテドラルへ入ることも、鐘の音を聞く機会もないままに、この広場を立ち去ることになる。
 

サクサイワマン
バスは高台にあるサクサイワマンの要塞遺跡へと向かう。ここはクスコの町を見下ろせるだけに、より一段と高い位置にあり、それだけ高山病の症状も悪くなる。バスを降りて広場に出ると、その端に大小の石で組まれた小高い丘がある。これがクスコの東を守る要塞跡サクサイワマンである。巨石を3層に積み上げて組まれた石積みは、インカの技術らしくがっしりと組み上げられ、堅固な要塞の風格を残している。内側には高さが5m、重さ360tもある巨石が使われている場所もある。
 

一説によると、この要塞の完成までに1日3万人を動員して約80年かかったといわれるのだが、原形では高さ20mの城壁があり、その上に円筒がそびえていたという。マンコ・インカはこの要塞に2万の兵士を擁してスペイン人に抗戦したそうだが、結局敗北してその大部分が破壊され、今のようになったという。この石組みの城壁は一直線になっているのではなく、写真で見るように22回のジグザグを繰り返しながら、360mにわたって続いている。


 サクサイワマンの要塞遺跡。城壁がジグザグになっている。


ガイドさんの説明を聞きながらも、頭は重く、胃はむかつく一歩手前の状態。そして体は倦怠感に陥って、なんともいえぬ具合の悪さだ。早くホテルに帰りたい気持ちである。ガイドさんも、みんなの状況を察しながら、ゆっくり階段を上って中に入ってみましょうという。もう、ご勘弁をと音をあげたいところだが、みんなが同行するので、こちらも懸命にトライしてみる。城壁の中ほどにある階段をゆっくり、ゆっくり上って段上に出ると、細いでこぼこ道になっている。そこをまた、ゆっくりと通りながら内部の城壁を観察する。残された石組みの見事さに見とれながら、エジプトのピラミッドではないが、どうやってこれらの巨石を運んできたのか感心することしきりである。
 





カラフルな民族衣装を着た 子供たち。









段上から見渡すと、かなり広い広場になっている。今は人影もほとんどないこの広場だが、毎年6月下旬に行われる「太陽の祭り=インティ・ライミ」の際には、観光客も押し寄せ、大勢の人出で賑わうそうだ。そのころになると、飛行機やホテルの予約も取りにくいという。
 

太陽の祭り
この「太陽の祭り」は、リオ(ブラジル)とオル−ロ(ボリビア)のカ−ニバルと並ぶ南米三大祭りの一つになっている。これはインカ時代に盛大に行われた習慣にのっとり、まずアルマス広場で祭り開始の厳かな儀式が行われる。その後は高台にあるこのサクサイワマンの広場で、太陽の祭りが行われる。夕方、日が西へ傾くころ、生けにえのリャマの心臓をえぐり出し、それを太陽にかざして浮き出た血管を確かめ、それによって来年の収穫を占うという。これを最後に、祭りは終わりを告げる。クスコの町は6月半ばごろから準備にかかり、その盛り上がりも祭り前日には音楽・怒号・歓喜・罵声が入り乱れて最高潮に達するという。この祭りも、一度ぜひ体験したいものでる。
 

クスコの町のパノラマ大景観
段上の城壁から下りて見学が終わると、次は大きなキリスト像の立つ丘へ移動する。この丘は、クスコの町の全景が見下ろせる絶好のロケ−ションにある。そこに立って眺める市街の景観は絶景である。



 クスコの街のパノラマ景観。赤茶色の瓦と白壁が印象的。




こうして見ると、クスコの町は小高い山に囲まれた盆地の中に広がる町であることが分かる。すべての屋根屋根が赤茶色一色に染まり、やゝあせた色ではあるが、なんとなくヨ−ロッパム−ドがただよう感じである。早速、パノラマ写真を撮っておこう。写真中央下部の緑の広場が町の中心アルマス広場、そのコ−ナ−から左斜め上に郊外へ伸びる大きな通りがメインストリ−トのSol通りである。
 

タンボマチャイの遺跡
絶景を楽しんだところで、バスは坂道を下り始める。やれやれ、これで観光も終わりかとほっとしていると、まだ次の観光ポイントへ行くという。この全身が重苦しい不具合の症状を抱えながらの観光は、ここらで終わりにしてもらいたい。しかし、そんな願いをよそに、バスはさらに山奥へと走って行く。やっと着いたところは、サクサイワマンから4km、ウルバンバ渓谷に近いタンボマチャイの遺跡である。
 

バスを降りると、石ころだらけの歩きにくい地道を、かなりの時間をかけながら奥へと進んで行く。下車ポイントから近いのかと思っていると、それがかなり遠いのだ。もうギブアップしそうになるが、最後の力を振りしぼってカイド氏に付いて行く。こんな場所にもけっこう観光客が訪れていて、欧米人や地元の学生たちで賑わっている。
 

行き着いた先には、山の斜面に石組みされた城壁みたいな跡が現れ、その一角にある石組みから二筋に分水されて流れ落ちる清水の水場が見られる。これが聖なる泉と呼ばれ、雨季・乾季を通じて絶えず一定水量で流れ出ているという。






聖なる泉
2つに分かれて流れている。








これまで、いろいろ調査したそうだが、どこの水源からどのようにして引かれているのか不明なのだそうだ。ここはインカ時代の沐浴場だったらしい。この遺跡では、これ以外に特徴的なものはなく、あたりの斜面に残ったインカの石組みが見られるだけである。水場の周りには、引率されて来た地元の高校生たちが、わいわいとはしゃぎながら記念写真を撮り合っている。彼らが退いたところを待って、こちらも写真に収める。
 

再び、てくてくときびすを返してバスまで戻る。これで、やっと午後の観光も終わり、無罪放免となってホテルへ引きあげる。高山病の症状に苦しみながらの行動だっただけに、ほんとにやれやれという感じである。体がしんどいのである。ホテルに戻ると、夜のフォルクロ−レショ−に行くまで休息である。いち早く部屋へ戻ると、ベッドにもぐり込んで休眠する。
 

高山病について
ここで、高山病について記しておこう。その特徴は次のようになっている。
1.低地から高地に上がったとき、低気圧・低酸素に体が順応できずに起こ
  る症状。
2.発症の条件
  標高1500m以下の場所から2000m以上の高地に48時間以内の短
  時間で到達した場合。または、1日に高度差500m以上上昇したとき。
3.症状には個人差がある。上昇速度が速かったり、睡眠時の高度が高い
  ほど発症率が高く、重症化する。
4.症状は、頭痛・倦怠感・耳鳴り・吐き気・腹部膨満感など。
  就寝後に頻繁に目が覚めたり、不眠化すると肺に水がたまる「高地肺
  水腫」や脳がむくむ「脳浮腫」になり、適切な治療といち早い低地への
  移動が必要。さもないと死亡することもある。
5.その予防
  ・高地到着後、1週間は運動を避けること。活発に動いた人ほど後で発
   症しやすい。
  ・高地到着日と翌日はアルコ−ル摂取と睡眠薬の服用は避ける。どちら
   も呼吸を抑制し、発症しやすくなる。
  ・アルコ−ル以外の水分を十分に補給すること。
  ・すぐにエネルギ−になる炭水化物を多く摂取すること。低酸素では消
   化機能が低下するので、食べ過ぎに注意。アメをなめるのは効果が
   あるが、チョコレ−トは食欲低下の原因になる。

 
私の場合は、どちらかといえば軽いほうに入るのではないだろうか。症状は頭が重い程度で頭痛まではない。だが、腹部膨満感と倦怠感が少々ある。だから、食欲がとんと出ないのである。一行の中のご婦人数名は、ホテル用意の酸素を吸入している。これも一時的には症状が回復するそうだが、長く、そしてたびたび使用できないので、最終的には自然に体が順応するのを待つ以外に手はないそうだ。しかし、重症の場合は、かなり苦しそうである。
 

5時半から7時半まで、ぐっすりと睡眠がとれ、起き上がると体調もかなり良くなっている。頭の重さがほぼ解消し、倦怠感もほとんど取れている。だが、腹部膨満感だけは少々残っていて、食欲がわかない。ここまで回復したのは、時間が経過したのと睡眠の効果があったためだろう。
 

フォルクロ−レショ−
全快とまではいかないが、かなり気分も良好となり、8時からのフォルクロ−レショ−に出かける。ほんとは、そのままホテルでゆっくりしたいところだが、少し気合いを入れてバスに乗る。場所は町中の大きなレストランだが、そこはシャ−タ−レストランになっている。すでに、欧米の観光客がいっぱい入っている。
 

食事はビュッフェ方式で、自由に取って食べる。料理の種類は豊富で、ペル−料理やインタ−ナショナル料理などさまざま。サラダからデザ−ト類まで豊富にそろっている。だが、食欲のない私は、ただひたすらに野菜類とフル−ツ類をつまんでお腹を満たす。最初は何も欲せず、喉も通らない感じだっが、無理に食べ始めると意外にも食べられるものなのだ。それで、少しずつ元気が出始める。具合が悪いからといってホテルに閉じ込もるよりも、少々無理してでも出かけて行事に参加することが、かえって好ましいようだ。
 

食事が終わったころ、ステ−ジではフォルクロ−レショ−が始まる。民族衣装に身をまとった演奏家グル−プが、ケナ−、サンポ−ニャ、チャランゴ、ボンボ(太鼓)などの民族楽器を奏でながら、哀調を帯びたペル−の民族音楽を聞かせてくれる。






フォルクローレショー
民族楽器の演奏に酔いしれる。








また、メロディに合わせて男女の踊り手たちが民俗舞踊を見せてくれる。やはり、なんといっても「コンドルは飛んで行く(CODOR PASS)」の名曲が最高で、入れ代わって演奏するグル−プごとに、最後の締めくくりりは、すべてこの曲である。こうしてケナ−の響きに耳をくすぐられながら、クスコの夜は更けていく。
 





フォルクローレショー
鮮やかな衣装の民族舞踊








明日が早いからということで、演奏の途中ながら10時前に席を立つ。ホ−ルの出口にさしかかると、突然モツアルトのメヌエットのメロディが聞こえてくる。思わず足を止めて振り返り、その民族楽器で奏でるクラシック曲の珍しさに、ただただ感動しながら聞き入っている。私の立ち聞きに添乗さんも、しばらくいいですよと、にっこり笑いながら猶予の時間を与えてくれる。でも、あまり待たせるわけにもいかないので、後ろ髪を引かれる思いでレストランを後にする。ケナ−のまろやかな響きの余韻にひたりながら、床に就いたのは10時過ぎである。ホテルの廊下の窓から見える町の夜景が、なんとも美しい。



(次ページは「マチュピチュ編」です。)










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