写真を中心にした簡略版はこちら→ 「地球の旅(ブログ版)」





   no.9
(ブラジル・アルゼンチン・ペルー)



(アルゼンチン編)



8.ブエノスアイレス・・・・タンゴショ−・ひったくり泥棒・カミニ−ト
 
ブエノスアイレスへ
イグアスの空港で待つこと4時間近く、なかなか出発しない。なんでも、目的地のブエノスアイレスが悪天候で、空港への着陸が不能とのこと。しばらく様子見とのことで、当てどもなく待たされることになる。とにかく、空港で無為に時を過ごした後、機はようやく2時間遅れで出発となる。ともかく、ブエノスアイレスへ飛ぶことになったので、ほっとする。
 

コックピット見学
ここから2時間で到着するので、飛行時間は知れている。離陸して1時間ほど経つと、何やら中央の通路に行列ができ始める。何事だろうと前方をのぞき込むと、どうやらコックピット内を見物しているようだ。そこで、通りがかった乗務員に尋ねると、そこの見学ができるのだという。そこで、物好きながら、こちらも行列に並んでみることにする。
 

順番が来てコックピットの中に入ると、中年のキャプテンと若い副操縦士の二人がにこやかに振り向いて応対してくれる。アルゼンチン人なのだが、ほんとに愛想のいいパイロットだ。初めて見るジェット機のコックピットで、びっしりと並ぶ計器類に目を見張る。フロントの窓を見ると、真っ青な空が視界いっぱいに広がり、その下には綿のような白い雲がふわふわと浮かんでいる。操縦席から見る視界は、初めての経験である。客席から見るのと同じ空なのに、ここからの眺めはなぜか違って見える。前方にワイドに広がる眺めだからだろうか。
 

パイロット席の後ろにある補助席に腰を下ろしながら、束の間の会話を交わす。あなたは日本人なのか、どこを旅しているのか、滞在は何日間なのか、などとパイロットが質問してくる。それらに応答しながら、操縦桿はどれですか、日本に来たことがありますか、などとこちらからも質問していると、副操縦士が「日本は大好きな国だ。自分はしばらく千葉に住んだことがありますよ。」と意外な話をしてくる。長話できないので、すぐに礼をいって握手を交わし退出する。それにしても、よくコックピットを乗客に開放するものだと感心させられる。これも競争の激しい航空会社のサ−ビスの一環なのだろうか。こんな経験は初めてである。
 

空港トラブル
結局、コックピット見学に出向いた日本人は、私一人だけである。珍しい体験に気をよくして座っていると、間もなく空港到着である。すでに7時を過ぎて、外は真っ暗である。窓からのぞくと、雨上がりの暗くなった空港がライトに映えている。やはり、今まで雨が降っていたのだ。座席を立って出ようとすると、近くにいたスチュワ−デスが「あなたはどちらへ行かれるのですか?」と尋ねるので、「ブエノスアイレス」と答える。すると、「ここは国際空港なので、市内へ移動しなければいけませんよ。」という。事情がよく呑み込めないまま、添乗員任せで機を降り、ロビ−へ出る。気温が急低下していて、思わず上着を取り出し着用する。
 

ここで事情が分かったのだが、本来、市内寄りの国内便の空港に着陸するところ、小型機が雨のためスリップ事故を起こして使用不能になったらしい。そのため、急きょ国際空港に変更着陸したとのこと。さあ、そこで大変な事態に陥ることになる。国際線と国内線の空港は距離的にかなり離れているのだ。ところが、出迎えのガイドさんとバスは当初の国内便空港に待ち受けており、ここには到着していないのだ。添乗さんがうろたえることしきりである。緊急用の連絡先に電話しても連絡が取れないらしく、困り果てている。
 

添乗さんが右往左往する間、一行はかなりの時間待たされる羽目になる。結局、連絡が取れないということで、各自大きな荷物を持ち、やむなく空港の連絡バスで国内便空港へ移動することになる。今夜は、スペイン料理とタンゴの観賞会が予定されているのだが、2時間遅れの到着と、さらにこのトラブルで、かなり予定が遅れている。いったいどうなるのだろう。仕方なくバス待ちの列に並び、さあ乗車しようとした直前、ガイドさんが駆け込んで来て感激の出合いが叶うことになる。彼女が機転を利かせて、こちらへ移動してきたのだ。
 

市内へ移動
やっと出迎えのバスに乗れ、みんな胸をなで下ろして市内へ移動する。このところ、10日間ほどずっと雨続きだったそうで、観光客も大変だったという。今日も朝からすごい雨だったそうだが、夕方には霧雨に変わったという。この地では、今日(9月20日)が冬の最後の日で、明日からは春が始まるという。それを祝うため、明日は「春の日」という祝日になっている。この日に合わせて学校も休校になり、多くの生徒たちは市内の公園に繰り出し、歌ったり、踊ったりしながら乱痴気騒ぎをするそうだ。そのため、明日は人出が多いだろうという。
 

ブエノスアイレスのこと
ここブエノスアイレスはアルゼンチンの首都、イグアスの滝に源を発する大河ラ・プラタ川の河口に開けた南米第二の大都会である。穏やかな気候に恵まれ、碁盤の目のように整然と区画された街路には、プラタナスや紫の花をつけるジャガランダの樹木が茂り、その落ち着いたたたずまいは「南米のパリ」と呼ばれ、中南米で最もヨ−ロッパ的雰囲気、生活様式を持つ美しい街である。またここは、アルゼンチンタンゴ発祥の地でもあり、夜ともなればタンゴの調べが流れて、明け方まで眠らない大都会でもある。
 

夕食とタンゴショー
当地への到着が2時間以上も遅れたため、今宵の夕食は予定を変更し、タンゴショ−の観劇に直行して、そこでの食事となる。バスは雨上がりの夜景が映える街の中を走り、「ラ・ベンタ−ナ」というクラブへ到着。この店は、数あるタンゴショ−の店の中でも5本の指に入る人気店だそうで、その中でも「セニョ−ル タンゴ」とこの店が特に人気があるという。
 





タンゴショーの店「ラ・ベンターナ」の入口看板。
翌日、撮影したもの。








中に案内されて席に着くと、早速ディナ−が始まる。店内はそれほど広くはなく、舞台もこぢんまりとしている。すでに多数のお客が席を占め、食事の真っ最中である。ここは食事もできるショ−レストランなのである。メインの料理は、ビ−フ、チキン、サ−モン、パスタの中から好みを選んでいいという。そこでビ−フステ−キを注文しようとすると、「少し半焼けの肉になるけど構わないか?」と念を押されるので、それではと迷いながらパスタの注文に変更する。飲物はワインのサ−ビス付きで自由に飲めることになっている。
 

やがて真っ先に運ばれて来たのは、ビ−フステ−キ料理である。それを注文した組は、草履のようなデカイ肉を前に手をこまねいている。肉の厚さも優に3cmはあるのだ。それにナイフとフォ−クを突き立ててスライスする。ところが、調理の程度は火にあぶっただけのレアもいいところで、分厚い肉のほとんどが血もしたたるような生肉なのである。だから、ナイフを入れても肉身が切れず、思わず力を入れるのでテ−ブル全体までがゆさゆさと揺れる始末である。みんな苦笑しながら、ナイフを使っている。やはり、ビ−フをパスしたのは正解である。
 

やがて、私が注文したパスタが運ばれてくる。それが普通の麺様のスパゲッティかと思いきや、細切れのパスタなのである。期待を裏切られてがっかりしながら、ワインで流し込み食事を始める。みんなの料理が出揃ったところで見比べてみると、結局サ−モン料理が一番おいしそうである。“隣の花は美しく見える”の口である。デザ−トには、ボリュ−ムたっぷりのアイスクリ−ムが出され、お腹をさすりながらやっとのことで食べ終わる。
 

遅れ気味に始まった食事を終えると、すでに舞台ではタンゴショ−が始まっている。舞台はうらぶれた建物の壁に靴下やシャツが干してある下町の様子がしつらえられ、それをバックに幾組かのカップルが歯切れのいいバンドネオンの響きに乗りながらタンゴを踊りまくる。初めて見る本場の生のタンゴ演奏とダンスに、ただうっとりと酔いしれるばかりである。流麗なダンスもさることながら、バンドネオンのザクザクという歯切れのいい響きがなんとも心地よく、“これがタンゴだ!”という雰囲気をたっぷりと味わわせてくれる。
 





タンゴのリズムにのって舞う華やかなダンス。









しなるようなカップルのダンスを見ていると、ただステップを踏むだけではなく、足を相手方の内股に掛けて蹴上げるような所作を交互に織りまぜながら踊るのである。プロの社交ダンスでも、こんな形のダンスは見たことがない。やはり、タンゴの本場だけに、激しいバリエ−ションが取り入れられ、進化を遂げているのだろう。
 





う〜ん、カッコイイ!











数カップルのタンゴが終わると、ガウチョのフォルクロ−レやインディオによるアンデスのメロディ−などを楽しませてくれる。そしてラストは、しぶい年配のオ−ケストラが奏でる名曲「ラ・クンパルシ−タ」である。その名演奏ぶりは、さすがに聴衆をうならせるものがる。これまで何百回となく、この名曲を聞き続けてきたが、本場の生演奏で聞くのはこれが初めてである。心の奥底まで染みとおるようなバンドネオンの響きは、また格別のものである。
 





3組のカップルが踊る。
















フォルクローレ(民謡)を歌う。









うっとりと聞きほれている間に、2時間にわたるタンゴショ−は終了となる。時計の針はもう12時を過ぎている。これから、やっとホテル入りで、7月9日大通りにあるグラン コロン ホテルへ移動する。耳元に残るタンゴのリズムを振り切って眠りに就いたのは夜中の1時過ぎである。
 

市内観光
8日目。今朝はゆっくりと7時に起床。午後からの市内観光までフリ−タイムである。窓から外を眺めると空は快晴。ほんとに天候に恵まれている。でも、外気は13度と冷え込んでいる。
 

目の前には広大な通りが一直線に走っている。昨日は夜で見えなかったが、その道路の幅の広さには目を見張るものがある。これは7月9日大通りで、市内を南北に貫く道幅144m、長さ2500mの世界一広い通りで、その両端はそれぞれ駅で終わっている。アルゼンチンが独立した日の1816年7月9日を記念して名付けられ、今ではこの街のシンボルとなっている。
  

その歴史をたどれば、16世紀末からスペイン人の植民地政策が本格化し、13の都市にスペイン人町が建設された。19世紀に入り、ヨ−ロッパの市民革命の影響を受けて自由と独立の思想が普及し、遂に1816年7月9日トクマン市で独立を宣言したのである。
 

今、アルゼンチンの人口は3300万人、その1割に当たる300万人がこのブエノスアイレスに住んでいる。人口の構成はイタリア系が35%で最も多く、次いでスペイン系28%など、97%が白人系となっている。日系人は3万5千人で、その70%が沖縄県出身者だという。人口は少ないが、国土面積は日本の7.5倍もあるという。
 

大通りの中央部分は公園に使うほどの余裕ある道幅で、その両サイドに複数の車両通行帯がそれぞれ設けられている。大通りの中央には、次の写真で見るように大きなオベリスクが突っ立っている。これはブエノスアイレスの町設立400周年を記念して建てられたもので、その高さは67mもある。この地点に最初のアルゼンチン国旗が立てられたという歴史的なポイントでもある。これを中心に、東西10ブロックにわたる一帯は繁華街で、オベリスクから右手に入った奥には市内一のショッピング街フロリダ通りがある。 






「7月9日大通り」の真中に 建つ67mのオベリスク。









フルーツで朝食
身仕度をして朝食に出かける。今朝は珍しくフル−ツのみにとどめておく。昨夜の食事がもたれて、まだお腹が空かないのだ。パパイヤ、パイン、スイカ、リンゴなど、様々なフル−ツがそろっているのだが、なかでもオレンジがとても甘くておいしいのだ。これまで食べた中での逸品である。感心しながらフル−ツだけの食事を終える。
 

付近の散策
さて、午前中のフリ−タイムをどのように過ごそうか。まずは付近の探索に出かけてみよう。その前に、フロントで土産品店のありかを尋ねておこう。係の女性が、親切にも市内地図にマ−クを付けて教えてくれる。付近には、この1軒しかないという。ついでに切手は売っていないか尋ねると、ホテルにはないという。ホテルの玄関を出て左手に歩き、最初の角を曲がると歩行者天国の通りがある。そこへ向けて歩道を歩いていると、キオスクできれいな花を売っている。それは、とりどりの美しいバラの花で、歩行者の目を留めずにはおかない。だれか捧げる相手がいれば、この花束を買ってあげたいのだが……。
 





大通りの歩道に、きれいな 花屋さんが・・・。










角を曲がると、歩行者天国の通りに入る。細い通りだが、奥行きがありそうだ。朝の9時ごろとあってか、まだ人通りも少ない。ここに土産品店があるかもしれないと思いながら、かなり奥のほうまで歩いてみるが、1軒も見当たらない。さまざまな商店が並んでいるのに珍しいことがあるものだ。あきらめて引き返しながら、途中の公衆電話局に立ち寄り、切手はないか尋ねてみる。すると、ここにはないが、反対方向の通りにある電話局にならあるという。じゃ、後ほど尋ねてみよう。まずは、土産品店探しだ。
 





ホテル横の辻にある歩行者 天国。









教えられた3つ目のブロックを曲がって少しの所に、目指す店を発見。だが、なんとちっぽけな土産品店だろう。この街には、あまり土産物になるような品がないのだろうか? どうも、土産品店が少ないように思えてならない。場所違いなのだろうか?
 

間口も奥行きも狭い店内に入ると、中国系の中年のおやじさんが一人座っている。彼が店の主人だそうで、英語が話せる。いろいろ話を聞くと、6年前、ここに住む叔父さんを頼って香港からやって来たのだという。この店を出してから4年になるそうで、結構日本人客も来訪するそうである。この界隈には、ここ1軒しかないようだから、みんなここを教えられて来るのだろう。
 

陳列を見回しても、アルゼンチンらしい土産品はあまり見当たらない。さすがに、タンゴを踊る人形だけが、やけに多く目に留まる。そこで、その人形の中でも最小のものを選んで買うことにする。これなら荷物にならずにすむ。その代金$3を払って店を出る。
 

この辺りにはめぼしい店もなさそうなので、先ほど教えられた反対方向の電話局へ足を伸ばしてみよう。きびすを返してホテルの前を通り過ぎ、その先の辻を曲がって通りを入って行く。すぐに電話局は見つかり、切手はないかと尋ねると、ここにも売っていないという。折角、ここまで来たのに話が違うではないか! そう思いながら、このあたりで切手は買えないのか尋ねると、郵便局まで行かないとだめだという。だが、その場所が遠いという。
 

そこで、仕方なくあきらめて引き返し始める。余裕時間があるので、便りでも書こうと思ったのだが……。と、突然、向かいの歩道を2人の青年が飛ぶような速さで駆け抜けて行くのが目に留まる。「ん、何事?」と思って見ていると、そのすぐ後を1人の紳士が追っかけている。はは〜ん、ひったくりか、スリに遭ったのだ。気の毒な紳士だが、とても逃げる若者に追いつけるスピ−ドではない。このタンゴの国で、思わぬ場面に遭遇したものである。以前に、パリの地下鉄入口で婦人が少年にひったくられ、大声で叫んでいたのを思い出す。いずこも同じ犯罪風景である。後味の悪い思いを残しながら、ホテルへ戻る。
 

ホテルで昼食
部屋に戻ると、CNNのニュ−ス放送でも観ながら、ゆっくりと時を過ごす。昼食はこのホテルなので、それまでゆっくりできる。12時前になって食堂へ出向き、昼食が始まる。ビュッフェスタイルなので、好みのものが自由に選べる。デザ−トに食べたオレンジが相変わらずおいしいので、チ−フウェ−タ−に「このオレンジは、とてもおいしいけど、どこで採れたものですか?」と尋ねると、誇らしげに「アルゼンチンです。他のフル−ツも全部国産のものなんですよ。」という。「貴国は、おいしい果物が採れるんですね。」と感想をいうと、にっこり微笑みを返している。
 

市内観光
食後の一服を過ごすと、いよいよ市内観光が始まる。バスは最高裁判所前を通ってコリエンティス通りに入る。裁判所の近くには、法律関係の本屋さんが並び、弁護士事務所のオフィスビルが立ち並んでいる。また、この通りには劇場、映画館、レストラン、喫茶店などが立ち並んで賑やかな様相を呈しており、24時間眠らない通りといわれている。この街には地下鉄も走っているのだか、それは1916年に造られたもので、ニュ−ヨ−クに次いで2番目に古い地下鉄だそうである。
 

バスはこの通りを抜けて7月9日大通りへ出ると、それから左へ曲がって5月広場へ向かう。この広場の前にはピンク色の外壁を持つ大統領府があり、そこから議事堂前広場まで市の中心を東西に走る5月大通りとなっている。この通りは、政治・宗教などさまざまな出来事の舞台となった所で、古いブエノスアイレスの面影を色濃くとどめている。通りの東端の5月広場に面して、サンマルチン大聖堂が建っている。バスはここでストップし、大聖堂を見学する。

 






荘厳なサンマルチン大聖堂の内部














聖堂の内部に入ると、ちょうど朝の礼拝があっているところで、荘厳なパイプオルガンの音が寺院の隅々まで響き渡っている。一瞬、厳粛な気持ちにさせられる。ここにはサンマルチン将軍の遺体が祭られているが、彼はアルゼンチン、チリ、ペル−をスペインから開放した3国の父と讃えられる人物なのである。
 

聖堂を出ると、下町のタンゴショ−の店が点在する界隈を通って行く。去年までナンバーワンだったタンゴショ−の店が、今は廃業に追い込まれているという。というのは、上手なダンサ−たちが他の店に引き抜かれ、あっという間にお客が来なくなってしまうからだという。通りに喫茶店やレストランが並んでいるが、それらは夜になるとタンゴバ−になるという。大きな店が終わった後の12時ごろから賑やかに始まり、明け方5時ごろまで続くという。そんな店で有名なラ・クンパルシ−タという店が、通りの角に見えてくる。こんな小さな店は自由が利くそうで、お客が踊りたかったらダンサ−をつけてくれたり、舞台で歌いたかったら歌わせたり、リクエストもできるという。
 

ここからバスは有名なボカ地区へと向かう。この地区はラ・プラタ河畔の異国情緒豊かな地域で、多くのイタリア人が住みついている。16世紀にスペイン人ペドロ・デ・メンド−サが上陸した所でもあり、ブエノスアイレスの発祥の地でもある。またここは、世界の人々に愛好されたアルゼンチンタンゴ発祥の地としても有名であり、本場のタンゴを聴かせる店が数多くある。さらにここは、貧しい移民が多く住んでいる場所でもあるので、素材の安いトタン葺の屋根が多く、また港町でもあるので船の塗料に使った残りのペンキを塗ったカラフルな建物が目立つユニ−クなところでもある。
 

惜しいことに、このボカの港はさびれて25年ぐらい前から使われていないという。そのため、船の墓場みたいに多数の廃船が係留されて汚れていたのが、最近は徐々に一掃してきれいに整理し始め、観光地としてはやらせようとしているそうだ。というのも、すぐ近くに有名なカミニ−ト(小路)があるためで、これはアルゼンチンタンゴの名曲「カミニ−ト」にちなんで名付けられた長さ100mほどの石畳の路地なのである。この曲の作者がボカ地区の生まれだそうで、彼の死後、その思い出を残すために造った小路だという。それが、今では観光名所として、多くの観光客が訪れ、賑わう場所になっている。
 

バスを降りてカミニ−トに入ると、何の変哲もない石畳の道路が続いており、ただその両側に建つ貧弱な建物がカラフルに彩られ、それが春の陽光に映えているのが印象的である。






カラフルなカミニート










そして、小路の両側には、画家の卵たちが思い思いに描いた油絵や水彩画を並べて売っている。タンゴを踊っている絵、カミニ−トを描いた絵、ボカの港を描いた風景画などさまざまである。小型サイズの絵で、およそ$15ほど、大きな型で$50ぐらいである。なかには、これはと思える手頃な絵もあるのだが、小さなバッグ一つの旅では収納に困るので、あきらめざるを得ない。
 





路地の両側では、さまざまな 絵を描いて売っている。








この時間の来訪客はなく、観光客はわれわれのグル−プだけで、ただ春の日差しだけが寂しげにカミニ−トの石畳を照らしている。この写真にある角の2階建ての建物は土産品店で、一行はここのトイレを拝借することになる。 
 

この路地から少し離れて反対側の通りを横切ると、ボカの港に出る。さすがにうらぶれた感じで、沈没しかかった廃船が悲しげな風景をつくり出している。その昔、ここから多くの移民たちが上陸したのだろうが、今はその面影はなく、いかにも寂しげである。いつの日、復活するのだろう。ふと時間がないのに気づき急いで戻ると、みんなはもうバスに乗って待っている。 


ここからバスはレコレ−タ墓地のほうへ移動して付近に停車する。広い公園を横切って墓地へ行くのだが、今日は春の日の学校休日とあって、公園のあちこちに三々五々と集まった大勢の男女高校生たちがたむろしている。カセットをかけて歌ったり、踊ったりするグル−プ、ボ−ル遊びをするグル−プ、寝そべって話しながらムシャムシャとお菓子を食べているグル−プなど、気ままな様子で時を楽しんでいる。その中を横切って、墓地のほうへ歩き進む。
 

フェンスで囲まれた中央に門があり、そこをくぐって墓地内に入って行く。広大な敷地内には、驚くような豪華な墓が整然と立ち並んでいる。まるで町中のストリ−トのような通路を通って、その豪華な墓の造りを見物して回る。この墓地内でも、身分や資産の有無によって階級があるらしく、墓自体の造りもそれに応じてレベルが異なっている。ハイクラスの区域にある墓になると、総大理石張りの見事な造りで、まるでビルの玄関口のような立派な構えを備えている。ガラス張りの墓の中には広い部屋が設けられ、身内の参拝者はそこで休息できるようになっている。
 





これがお墓?
立ち並ぶ豪華な墓










この墓地の一角に、かの有名な元大統領夫人エビ−タ(エバ・ペロン)の墓がある。彼女は、貧しい家に育ち、大統領夫人になって数々の逸話を残した人物で、国民から広く慕われた女性でもある。それが不幸にして33歳の若さでガンにより急逝した。彼女が眠る納骨堂の前には、今でも写真のように年中献花が絶えないという。
 






エビータが眠る墓。
いまでも花が絶えない。















時計を見るともう午後の4時。ここを最後に、1時から始まった市内観光も終わりとなり、空港へと向かう。これから19時20分発の飛行機で、次の訪問地リマへ飛ぶのである。その前に、空港のレストランで夕食を取ることになる。もう旅行も後半にさしかかっている。楽しい時間が過ぎ去るのは早いものだ。ここ、ブエノスアイレスも1日足らずの駆け足旅行で、あわただしく終わってしまう。いつの日か再度訪問して、たっぷりとタンゴの世界に浸ってみたい。



(次ページは「リマ・ナスカの地上絵編」です。)













inserted by FC2 system