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   no.5
(ブラジル・アルゼンチン・ペルー)



(ブラジル編)



5.サン・パウロ・・・・パウリスタ大通り・イビラプエラ公園・東洋人街
 
五日目。今日はサン・パウロへの移動日である。出発は午後の便なので、朝はゆっくりできる。起床も7時半と、たっぷり睡眠を取って気分爽快。豪勢な朝食をゆっくりと済ませ、部屋に戻ると家族へ2通の便りをしたためる。
 

空港へ
ホテルを11時に出発し、空港へ向かう。今朝は晴れたり曇ったりの天気だが、3日間とも晴れ続きだったので、ここらでアマゾンのスコ−ルにも遭ってみたい。そんな心のうちを話していると、ちょうど出掛けになって偶然にもスコ−ルがやってきた。それほど激しいものではないが、これで一応はアマゾンのスコ−ルを経験できたというわけだ。なんとも、おあつらえのお膳立てではある。でも、今日のアマゾン河クル−ズに出かけている人たちは、このスコ−ルに困惑していることだろう。1日遅れで、好天に恵まれたり、あるいは悪天候に遭ったりと、その時々の運次第なのだ。とにかく旅行の時には、好天気が続いてほしいものだ。
 

空港に着くと、そこのレストランで昼食となる。やゝ早目の昼食を終えると、後は2時45分の出発時間まで、空港ロビ−でひたすら待つことになる。こんな待ち合いの時間が、ほんとにやりきれない。
 

サン・パウロへ
定刻に飛び立った機は、赤道直下のマナウスから南米大陸を南下してサン・パウロへ向かう。機内は空席もあって、ゆったりとしている。隣席には30歳前後の若いカップルが座っている。耳をすませて彼らの会話に聞き入っていると、どうもフランス語で話しているようだ。彼女のほうがスペイン語の新聞を見ながら彼に翻訳して聞かせている様子である。
 

しばらく、その状況をうかがってから、「すみません、フランスの方ですか?」と思い切って話しかけてみる。すると、「はい、そうですよ。」と、彼女はこちらを振り向きながら、にっこりと返事する。「ご夫妻なんですか?」と続けて質問すると、そうだとのこと。そこで、「ボンジュ−ル マダム エ ムッシュ−」と、あいさつを述べながら「英語、話されますか?」と尋ねる。すると首を振りながら「少しだけなら。でも、主人は話せますよ。」という。そこで今度は、若い夫のほうとの会話が始まる。
 

夫妻は今、5週間の長期休暇を利用して、南米を旅行しているところだという。日本には来たことがあるのかと尋ねると、まだ行ったことがないという。その理由を尋ねると「日本は物価が高いですから。」という。なるほど、彼ら欧米人には、距離的にも物価的にも南米のほうが近くて安あがりなのだ。その後は旅の話になり、ペル−のクスコやチチカカ湖では高山病で苦しんだことなど、ジェスチュアまじりに話して聞かせる。われわれの会話の内容を、今度は夫のほうが妻に対してフランス語に翻訳しながら聞かせている。
 

その後は会話も途切れ、時折思い出したように双方から話しかけたりしているうちに、やがてサン・パウロ市内の空港に3時間ちょっとで無事到着。現地時間は夜の7時30分、マナウスとの時差は1時間である。ここの日没は6時半ごろということで、辺りはすっかり暗くなっている。現地の気候は、いま冬が過ぎて春が訪れたころである。
 

サン・パウロのこと
ここサン・パウロ市は平均標高が800mの高地で、海岸線より内陸部へ80kmほど入り込んだ南米最大の近代都市である。その地理的位置は南回帰線上に位置し、北回帰線上にある台湾の高雄と対称的な位置関係にある。サン・パウロ市が所属するサン・パウロ州の面積は、ブラジル全国26州のうち11番目の大きさで、州人口4500万人のうち2000万人がこの都市に住み、国民総生産の50%を生み出す産業都市となっている。しかし、ここはリオのように風光明媚なリゾ−ト地などはなく、それだけにめぼしい観光ポイントも少なくて観光面では見劣りがする。
 

市中心部には何千という高層ビルが林立し、地下鉄も走る近代都市でありながら、その一方では、州民の2割もがバラック建てに住んで郊外に貧民街を形成するという格差現象が見られる。それほど貧富の格差は大きく、それが窃盗や盗難などを多発する原因にもなっており、治安状態を悪化させている。その中にあって、日系人社会は今年で移民92年目を迎えており、その全人口130万人のうち70〜80%がサン・パウロ市に住んでいるという。 
 

ホテルへ
空港ロビ−で現地日本人ガイドさんの出迎えを受け、バスに乗って暗くなったサン・パウロ郊外から中心部にあるホテルへと移動する。空港から半時間少々で今日の宿ヒルトン・サンパウロへ到着。8時過ぎのことである。このホテルは市中心部に位置する32階建ての高層円筒型ホテルで、380室を有する大規模ホテルである。しかしツインル−ムでも、それほど部屋のスペ−スは広くない。
 

早速、キ−をもらって各自の部屋へ。夕食は途中の機内食で済ませているので、今夜の予定は何もなし。この部屋は階数が高いので窓からの眺望がすばらしい。しばし、サン・パウロの美しい夜景に見とれた後、洗濯・入浴ををすませて、早くも9時半には床に就く。
 

6日目。今朝は十分の睡眠を取って6時に起床。真っ先にカ−テンを開けて窓外の様子を確かめる。今日の天候も申し分のない快晴である。昨夜の夜景から一転して、今朝は林立する高低様々のビル群が朝日を受けて輝いているのが見える。これが大都市サン・パウロの朝の風景である。パノラマ写真を撮っておこう。



 朝日に映えるサン・パウロ市内の景観(ヒルトンホテルよりの眺望)










ヒルトンホテル前のストリート 朝の風景









市内観光
今日の午後は、早くも次の観光地イグアスへ移動する予定なので、この街にはわずか24時間も滞在しないという駆け足ぶりである。朝食を済ませて8時半過ぎ、早速市内観光へ出かける。バスは高層ビルが立ち並ぶ一大ビジネス街・パウリスタ大通りを通り抜け、イビラプエラ公園へと向かう。
 

サン・パウロは1800年から1930年にかけてがコ−ヒ−景気の最盛期だったそうで、当時はこれだけでブラジルの経済が成り立っていたという。その当時、これで儲けたコ−ヒ−貴族たちの宴の跡である高級住宅が、今でも中心部に残っている。この大通りは、コ−ヒ−貴族全盛の時代から工業化時代へと進展するなかで、一大ビジネス街に変貌を遂げたわけで、その100年の歴史を集約した通りでもある。この内陸部に位置する街が南米最大の都市へと発展できたのは、ここから1時間ほどの距離にあるサントスの港があったからだという。生産されたコ−ヒ−は、すべてこの港へ運ばれ、そこから各地へ輸送されたのである。
 

このサン・パウロ市は丘陵地帯になっているため坂が多く、そのため斜面に建てられた家々には地下室が多いという。そこは家賃が安いため、以前は多数の日本人が地下室を借りて住んでいたそうである。市中心部の家賃は高く、到底庶民には手が届かない。いきおい、30km〜40km離れた郊外に住む結果となり、そこからの通勤となる。そのため、朝5時ぐらいから郊外バスのラッシュが始まるという。
 

公園にさしかかると、道路端で若い女性たちが人名の書かれた大きな旗を振っている。今、市長選の選挙運動の最中だということで、支持者の旗を振りながら応援しているのである。






選挙運動風景
今度サン・パウロ市長に立候 補する現サン・パウロ州副知 事ALCKMIN氏の名前が入っ た旗を振っている。





話によると、この国の選挙制度は厳しいものである。18歳以上の者が選挙権を持ち、投票が義務づけられているという。そのため投票をさぼると罰金が科せられるそうで、投票所に行った証拠として証明印までもらう必要があるという。だから面倒でも、みんな否応なしに投票所に行くそうだ。そうでもしないと、投票する人たちが少ないのだろう。
 

イビラプエラ公園
やがてバスはイビラプエラ公園に到着。ここはセントロより南方5kmに位置する大公園で、サン・パウロ市政400年を記念して造られた市営公園である。ユ−カリの樹が茂る広さ120ヘクタ−ルの公園には、大小の池、スポ−ツ・フィ−ルド、ジョギングコ−ス、日本庭園、各種文化施設などが設けられている。
 

フォトストップでバスから降りると、外気はさわやか。気温は25度と、マナウスよりぐっと低い。目の前の池には2本の噴水が、ゆるやかな放物線を描きながら静かな水面に落ちて細波をつくっている。なんとも心なごむ風景である。
 



 広大なイビラプエラ公園の風景。噴水が描く2つの弧が美しい。





目を後ろに転じると、そこには大きな人間の群像が置かれている。それはバンディラス記念像である。バンディラスとは、植民地時代にブラジルの奥地を探検し、サン・パウロ市の基を築いた奥地探検者たちのこと。小さなポルトガルの国が、南米の半分ほどの領土を占めるに至ったのだが、発見当時は現在の1/3ぐらいしかなく、それがこの探検者たちが奥へ奥へと進行して領土を広めたわけである。この記念像は、その業績を讃える巨大な石像なのである。
 





バンディラス記念像
先頭には2頭の馬が
先導している。









ブラジル進出に限らず、ポルトガルははるばる九州・長崎にも上陸して布教活動に努めるなど、世界各地に進出して勢力を伸ばしてきた。その影響で、日本人が最初に使い始めた外国語はポルトガル語といわれている。その影響で、長崎などでは多数のポルトガル語が現在でも使われている。例えば、佐賀の銘菓「丸ボ−ロ」のボ−ロはお菓子という意味のポルトガル語、カステラはお城という意味。また、ガラスのことをビ−ドロ、長椅子のことをバンコ、カボチャをボ−ブラと呼ぶのもポルトガル語からきたものである。それにポルトガル語のポンからきたパン、ボタン、ザボンなど数多く使われている。
 

東洋人街
その後、バスは最高級住宅街のあるモルンビ−ク地区を通り抜け、左手に有名なサッカ−チ−ム、サンパウロ・フットボ−ル・クラブの本拠地競技場を見ながら東洋人街へと移動する。サッカ−競技場に入って見学する時間はないらしい。途中の道路はかなりの渋滞で、なかなか進まない。やがて、バスはサン・パウロの中心セ−広場からすぐの所にある東洋人街へ到着。 






サンパウロ・フットボ−ル・ク
ラブの本拠地競技場








ここ東洋人街は日系移民をはじめ、中国、韓国の人たちが商店を連ねて商店街を形成している。その中にある1軒の土産品店に案内され、みんなは土産品を物色し始める。その間にメインストリ−トへ足を伸ばしてみる。そこには赤いポ−ルに提灯形のランプが付いた街灯が並び、通りの中ほどには日本の朱塗りの鳥居も見える。





東洋人街のメインストリート
向こうに鳥居が見える。







それぞれの商店には日本文字の看板が並び、あたかも日本に戻ったような錯覚さえ覚える雰囲気である。ここでは日本の書籍雑誌をはじめ、和菓子、日本食など、ほとんどのものが売られているという。在住の日系人は、ここに来れば日本の味が得られるというわけだ。ストリ−トを歩いてみたいが、その時間はなさそうだ。記念の撮影だけをして引き上げることに。
 

第二次大戦中、ブラジルの日系人は敵対国ということで、彼らの所有する土地などは没収されたそうだが、収容所に収容されるようなことはなかったそうだ。それも終戦後は、没収財産もすべて戻されたそうで、恵まれた環境にあったという。最近は、日本へのUタ−ン現象が見られ、現在20万人ぐらいの日系人が出稼ぎに行っており、そのうちの半数ぐらいは日本に定着しているという。現地ブラジルでは、なんとか食べてはいけるが、まとまったお金を得るには無理らしく、いきおい日本へ出稼ぎに行き、工場などで厳しい仕事に従事しながらお金を貯め、家造りの資金を稼ぐのだという。
 

空港へ
東洋人街を最後に、あっけなくサン・パウロ観光を終え、バスは空港へと向かう。この街は遺跡やリゾ−ト地域などもなく、ただ商都だけという感じなので、観光客には少し物足りない所でもあるようだ。これから1時発の飛行便でイグアスへ向かうのだが、今日の昼食は和食弁当である。
 

空港に到着すると、各自弁当とミネラル水をもらい、ロビ−で出発を待つことになる。お腹も空いたので、その間に弁当を開いて食べ始めていると、そろそろ搭乗時間だという。慌てふためいて弁当をかき込み、残りは処分して席を立つ。実のところ、和食といってもご飯はパサパサで、いただけるものではないのだ。とにかく、なんとかお腹をふくらませて機上の人となる。この地最後の弁当にも失望させられた上に、24時間も滞在しない短時間の観光で、なんとも心残りのするサン・パウロ遊覧ではある。



(次ページは、「イグアスの滝」編です。)










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