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   no.2
(ブラジル・アルゼンチン・ペルー)

(ブラジル編)




3.マナウス(アマゾン)・・・・ ゴムの栄華・アマゾナス劇場の嘆き・シュ
                  ラスコ料理

 
3日目。今日はアマゾンの中心にあるマナウスという町へ移動する日である。アマゾンと聞いただけで、なんだかわくわくしてくる。世界一の大河、ジャングル、ピラニア、ワニ、アナコンダ……いろんなことが連想されてくる。さあ、どんなことが待ち受けているのだろう。天候が晴れであることを祈るばかりだ。
 

今朝は5時半に起床。十分とはいえないが、どうにか睡眠らしい睡眠が取れて体力も回復。ゆっくりと全身を目覚めさせてから身仕度を整え、食堂へ。6時からの朝食は、ちょっと早すぎる。それでも、とにかく胃袋に入れないと元気が出ない。ビュッフェスタイルの食堂には、食欲をそそるように豊富な種類の食べ物が並んでいる。なかなか豪勢なものだ。その中からパン、ミルク、スクランブルエッグ、ハム、ソ−ゼ−ジなどを少しずつつまんで皿に盛り、朝食とする。
 

コ−ヒ−を入れにやってきたウェイタ−に、ミルクも入れるように頼むと、カップの3分の1をコ−ヒ−、それに3分の2はミルクをたっぷりと注いでくれる。日本では考えられない調合だが、ブラジルコ−ヒ−はコクがあって濃いので、それでちょうど良い按配になるのである。なかなか心得たものである。デザ−トには、パパイヤ、パイナップル、スイカ、ピ−チなどを皿に盛ってたっぷりといただく。スイカが日本のよりも甘くておいしい。
 

朝食後は、ホテル前に広がるコパカバ−ナ海岸へ出てみよう。このビ−チで、若い日本人男性が強盗に遭ったという記事がガイドブックに載っていたので、周囲を見回して人がいないことを確認し、浜辺へ出てみる。そこには3kmに及ぶ長い長い、そして白く美しいビ−チがカ−ブを描いて続いている。早朝とあって、さすがに人影は見られない。渚には大西洋から送られてくる白い波が静かに打ち寄せている。少し風があれば、サ−フィンも楽しめそうだ。左手遠くの山陰には、昨日登ったポン・ジ・アスカ−ルの巨岩が突き出ているのが見える。ここで、パノラマ写真を撮っておこう。



 人影もない朝のコパカバ−ナ海岸(全長3km)




ビ−チに沿った遊歩道では、朝のウォ−キングをしている人の姿が見られる。その長くて美しい歩道は、格好のジョギングやウォ−キングコ−スでもあり、早朝の車が少ない時間帯に大西洋の海原を眺めながらウォ−キングなどするのは最高の気分であろう。
 





コパカバ−ナ海岸沿いの遊歩道。










マナウスへ
7時にホテルを出発したバスは一路空港へ向かう。今朝の空は曇りだが、アマゾンの天候はどうなのだろう。リオからマナウスへは約4時間の飛行なのだが、途中、首都ブラジリアに立ち寄るため5時間かかって12時50分、マナウスに無事到着。現地時間はリオよりさらにマイナス1時間で合計13時間の時差となる。気になる天候は晴れで、赤道直下の熱帯の空が広がっている。ラッキ−!と心の中で叫んだが、湿度の高い蒸し暑さである。出迎えのバスに乗って早速、市中へ移動する。現地ガイドは在住40年という年配の日本人男性で、職を引退してからガイドを始めたという。
 

マナウスのこと
ここマナウスは、アマゾンのまっただ中にありながら人口150万人の大都市なのだ。この町は、世界一の長さを誇る3150kmのアマゾン河の支流であるネグロ川と本流のソリモンエス川の合流地点に位置している。
 

マナウスの繁栄は19世紀末の一大ゴム・ブ−ムに始まる。アマゾン上流で天然ゴムが発見され、一攫千金を夢見てヨ−ロッパから大挙して人々が押し寄せたのである。そのほとんどは、スペイン人、ポルトガル人、イギリス人、ドイツ人などが占めている。世界のゴムの80%を供給したほどの空前のゴム・ブ−ムで大金を得た彼らは、ヨ−ロッパのぜいたくをアマゾンに持ち込み、栄華を満喫したのである。その象徴がアマゾナス劇場の建設である。
 

この大ブ−ムは、その後40年間続いて1920年代に終わりを告げる。それは、ゴムの木の種をこっそり東南アジアのマレ−シアに運んで植えつけたからである。そこでは、ヨ−ロッパに近い地の利を生かして増産され、世界のゴム需要はその地に向けられてしまったのである。 


衰退したマナウスは、その後、日本などから多数の入植者を受け入れ、開拓農業に注力するが、自然条件の悪さでこれも失敗、現在では電気・自動車などを中心とした各種の企業が進出して、これらの近代産業で成功を収めているという。多くの日本メ−カ−も、この地に進出している。
 

アマゾンの歴史をたぐれば、アンデス山脈を越えて進入してきたスペイン人が、もともとアマゾン地域の半分以上を占拠していたという。そこに、西からポルトガル人が進入し、その後両者は合流して一つの国をつくった。ところが、うまいこと裏をかいてポルトガル人が占拠し、スペイン人を追い出してしまうことになる。こんな歴史から、スペイン語の多い南米諸国の中で、ブラジルではポルトガル語が使われているのだろう。
 

ガイドさんの話から、もう少し現地の様子を述べてみよう。現地住民の80%はインディオの人たちで、多い家庭では20〜30人の家族がいる。子供たちは10歳ぐらいになると体も大きく成長し、子供を生む者もいるという。その年頃になると大人とみなされ、12〜3歳で結婚して毎年毎年子供を生むという。だから、子供15人〜16人生むのは普通で、多い人では40歳代で40人の子持ちもいるという。そんな大家族でも、お金なしで食べていけるところがここマナウスだという。男女の比率は10人のうち7〜8人が女性で、男子1人に女性4人という男天国の地でもある。  
 

現在、日本からの移民は1000人、これに日本企業関係者を合わせて2000人足らずの日系人が住んでいる。移民の人々は3地域に分かれて住んでおり、そこで養鶏・野菜・果物の生産に従事している。マナウスに500社ほどある企業のうち約20%が日系企業で、テレビの部品、コンピュ−タ−部品、オ−トバイ(ホンダ・スズキ)などを生産している。一番好調な企業はホンダで、オ−トバイの需要が伸び続けているという。また、ホンダの車が進出しているという。
 

道路を走っていると、電柱の根元から1.5mぐらいの高さまで白いペンキ様のものが塗ってある。これは石灰を塗ってあるそうだが、湿度の高い当地ではこれで防湿しないと湿気でボロボロになってしまうそうだ。だから、家の壁などにも石灰を混ぜて使うのだという。 
 

通りの家々の窓には、どこも鉄格子がはまっている。30年ほど前までは泥棒などもまったくおらず、夜歩いても、昼間家を空けて外出しても何の心配もなかったという。ところが現在では、家の窓に鉄格子を取り付けないと危なくて住めなくなったという。
 

自動車の値段は家を買うより高く、いい車になると5万〜6万ドル(約500万円〜600万円)、普通クラスの車で2万〜2万5千ドルはするそうだ。だから、普通の人たちは車が持てないという。車を買うくらいなら家を買ったがましなのだという。500万円〜600万円の金額だと、普通の家で2軒は買えるという。マンションは高いけど、広い敷地を持つ住宅であれば安いのだという。
 

昔、日本人が入植して農業での成功を目指したが、土地の条件が悪く、一回焼き払って作物を作るが、二回目からは育たないという。それも昔は、ここから船で12時間ほども離れた場所(今は道路もできて便利になっている)に入植させられ、そこで野菜など作っても運んでいるうちに萎びてしまう。それに、昔の現地人はほとんど野菜は食べないので、折角運んで来ても売れなかったという。そんな事情から、みんな入植地を離れてしまったという。
 

アマゾンの人口は260万人(戸籍に登録されている人)、これに戸籍に登録されていない人口が同数もいるという。田舎地域では自分の年齢も知らない人が多数存在し、文盲の人も多いという。学校に行くよりも、まず食べることを覚えるのが優先との考えがあるからだ。
 

マナウスの観光シ−ズンは6月〜9月が最良で、10月になったら観光客は減ってくるという。この9月の時期は川の水がどんどん減っている時期で、11月から6月にかけては川の水が増していく。源流域のアンデス山脈の雪解け水の量が関係しているのだ。このため、アマゾン川の水かさは、例年10m〜18mの間で増減を繰り返すという。
 

道路沿いの木々の幹にも根元に白いペンキ様のものが塗ってある。これは白蟻防止用の薬品だという。この地は白蟻が多く、木造住宅はすぐに被害を受ける。その他、大小さまざまの蟻が多く、木の枝の上にも大きな巣を作るという。最近は、木造住宅は少なくなり、レンガ造りの家が多くなった。それは森林開発で木材が少なくなり、値段が高騰したためである。それに比し、近郊で赤土がいくらでも採れるので、レンガが安いのだという。
 

バスが中心街に入って来ると古い家並みが見えてくる。よく見ると、家の土台付近の低い位置に小窓が設けらている。それは昔、奴隷のインディオたちが入れられていた地下室の窓だという。こんな家が、あちこちに今でも残っており、往時の様子を物語っている。
 

和食の昼食
昼時なので、バスはレストランへ直行。今日の昼食は和食なのだ。ここのオ−ナ−が日本人だそうで、従業員は現地人である。献立は、マグロの刺身とミソ汁、それにご飯を中心にした日本食である。このミソ汁がなかなかおいしく、ご飯も国内の米が使われていて文句なし。ただ、生ものを避けるため、喉から手が出るほどほしい刺身なのだが、箸を付けないでおこう。南米での下痢は半端じゃないというから、安全第一をとっておくためだ。それでも、3日ぶりに和食にありついて、大満足の昼食である。
 

市内観光
お腹が落ち着いたところで、午後の観光が始まる。バスは、この町の栄華時代の象徴アマゾナス劇場に到着。ゴム・ブ−ム時代の金持ちたちは、どんどん流入するイギリスポンド通貨が懐にあふれ、ブラジルの通貨は役に立たないから紙屑にして投げ捨てていたという。衣類の洗濯物でも、わざわざこの地からヨ−ロッパまで送っていたというほどお金に糸目を付けない豪奢な生活ぶりで、使っても使ってもお金が減らない状態だったという。そこで、町のトップが相談した結果、アマゾンに第二のパリを作ろうということになり、アマゾナス劇場をはじめ、裁判所その他の建物を建設したという。
 

アマゾナス劇場
それだけに、この劇場は贅を尽くした建物で、ド−ム屋根のタイルをはじめ、建築資材はすべてヨ−ロッパから輸入したもので、内部もイタリア大理石の階段やしゃれたシャンデリア、それにオ−ストリア製のイスなど豪華な調度品がそろっている。
 

劇場正面に立つと、イタリア・ルネッサンス様式の瀟洒な建物が、淡いピンク色を放って蒸し暑いアマゾンの空の下に不似合いに建っている。石造りの欄干が設けられた階段が、左右両側から正面玄関に向かってカ−ブを描きながら上りあがるように造られている。






マナウスのシンボル
アマゾナス劇場。
ルネサンス様式の優雅さがただよう。








1階ホ−ルに入ると、正面に黄金色の緞帳が垂れ下がった舞台が見える。場内も舞台も、それほど広くはない。






正面舞台。
きらびやかな黄金色の緞帳がかかる。








上を見上げると、3層になった桟敷席がヨ−ロッパのオペラハウスのム−ドをいやがうえにも醸し出している。パリのオペラ座を摸して造られたというだけのことはある。この劇場には、当時ヨ−ロッパから一流の歌手を招いてオペラが上演されたという。
 





劇場内部の3層になった桟敷席がオペラハウスのムードをただよわせる。







2階に上がれば豪華なホ−ルがある。そこには飾り立てた幾つものシャンデリアが輝き、宮殿風の列柱が並んでいる。あたかもベルサイユ宮殿の一室を思わせるきらびやかなホ−ルである。かつてはこのホ−ルで、着飾った社交会の紳士・淑女たちが夜ごとにダンスを楽しんだという。今は、往時の華やかさをしのばせる空間だけが、嘆くように寂しく広がっているに過ぎない。
 





ヴェルサイユを思わせる絢爛豪華なホール。
ここで、夜毎に夜会が行われた。







2階のバルコニ−に出ると、教会やビルが立ち並ぶ市内の一部が目に飛び込んでくる。すぐ目の前には、円形に並んだ緑の樹木に囲まれたセバスチャン広場が見える。その中央には記念碑が建っている。




 劇場のバルコニーから見たマナウス市内の風景。正面はセバスチャン広場。




劇場を出て、今度はセバスチャン広場から劇場を眺めてみる。わざわざヨ−ロッパからタイルを輸入して貼り付けたというド−ムが、赤道直下の熱い太陽に照りつけられて輝いている。これは帰国後、写真を虫眼鏡で見て分かったのだが、建物上部前面に描かれた2人の女性像の間に、「1896」と書かれているのである。つまり、今から100年ちょっと前に建てられたということの証左であろう。今から想像するに、周囲はまだジャングルに覆われていたに違いなく、その中にこんな瀟洒な建物が突如として出現した当時は、何か場違いな感じさえ与えたのではないかと思われる。当時の金持ち紳士たちは、どえらいことをしでかしたものだ。
 





セバスチャン広場から劇場を望む。
太陽に映えるドームが美しい。















セバスチャン広場に立つ記念碑















中央市場
次は中央市場へ向かう。ここは120年前に造られた中央市場で、果物市場、野菜市場、魚市場があったという。ところが現在は、お土産品店、薬草の売店などが並ぶ市場に変わってしまい、現在の中央市場は別の場所に移転したという。ここでの品物の売り方は、大きなスイカでもカボチャでも決して切り売りはせず、1個売りが慣習になっている。それだけ価格が安く、例えば魚でも紐に通して吊るした1下げ(10数匹もある)のものが1ドル〜2ドル、肉は1kgで2ドル〜3ドル、鶏は1羽幾らという単位で売られる。
 

現地人は、ほとんど米は食べず副食にするぐらいで、主食はパンヤというマンジョカイモをすりつぶして作ったもので、それを煎って食べるという。米の食べ方は、いったん炊いたご飯を水洗いし、それにニンニク・タマネギなどを入れて味付けしたものを食べるという。だから、粘り気もなにもないパラパラしたもので、到底われわれの口には合わない代物だ。しかし、現地人はそのほうが好みで、日本のように粘り気で固まったご飯は食べないという。このパラパラ飯を主食のパンヤと一緒に食べるのだそうだ。米は副食なので、重きを置いていないという。このパラパラご飯は、ホテルやレストランで経験できる。
 

まず、移転したという中央市場を訪れる。そこは屋根だけが覆われた吹き曝しの建物で、床には果物・野菜がどっさりと山積みされている。午後とあって、買い物客の人影は少ない。バナナの種類も豊富で、小さいのから大きいの、それに黄色く熟れたもの、青く未熟なものなど様々である。そのうち数本を買ってもらって試食したが、日本で食べるバナナと違い、コツン、コツンとして固く、折るのもブヨン、ブヨンとして簡単に折れない代物である。味も見かけとは違って、それほどおいしくはない。ちょっと、期待外れの感じである。これらのバナナは、直接食べるものは少なく、そのほとんどの種類が加工調理して食べるバナナなのである。その他には、とうがんに似た大きく長細いスイカやカボチャ、それにオレンジなどが山積みされてカラフルな情景が建物いっぱいに広がっている。


 青果市場の風景。さまざまな果物・野菜類が並ぶ。






 バナナの山















オレンジとリンゴの山















手前の青いのはスイカ。
その向こうはカボチャ。









ここを抜けて隣の建物に入ると、そこは魚市場である。ここにはアマゾンで獲れた大小様々の魚が店先に並んでいる。生臭い匂いが場内いっぱいに漂っている。そこには魚店が何列にも並び、そこで威勢のいい若者たちが魚をさばいている様子は壮観である。日本では見慣れない大型のナマズや大魚に目を見張り、アマゾンがはぐくむ豊かな魚類に驚かされるばかりである。現地の漁師たちは、大きな魚を獲ると自分では食べずに、それを売りに出し、お金が入ると1週間ぐらいは遊んで暮らすという。
 





魚市場の風景。
こんな店の列が何列も並ぶ。













アマゾンで獲れたデカイ魚が横たわる。









ここから次は、海岸沿いに建つ昔の中央市場へ移動する。ここは前述したように、120年も前に造られた歴史のある建物で、現在は土産品店などが入っているに過ぎない。中に入ると、薄暗い中に現地の民芸品などを売っている土産品店が何軒も並んでいる。グル−プの女性仲間は、格好の土産品を見つけたらしく、一軒の店で店主も驚く100個単位の買い物をしている。私も、原色のカラフルな鳥の羽であしらった小さな壁掛け3枚(4ドル)をアマゾンのみやげに買うことにする。
 





120年の歴史をもつ旧中央市場の
建物。













その内部には土産品店が並ぶ。









ここが終わると、次は自然科学博物館へ。ここは町の郊外にあって、かなり離れており、橋本さんという日本人が館長として運営している。大きな建物ではないが、南米の珍しい蝶を集めた昆虫コレクションやアマゾンの珍しい魚類の剥製、それに長さ数メ−トルもある巨大魚ピラルク−が3匹悠然と泳ぎ回る水槽設備がある。巨大なジンベェザメは日本の水族館で見たことがあるが、こんな大魚も珍しい。蝶や巨大カブトムシなどの展示が多いだけに、昆虫好きにはこたえられない博物館であろう。ガイドさんの話によると、ピラニアよりも危険な魚がいるという。それは「カンジル」と小さな魚で、それが集団となって人間の穴という穴の部分に入り込み、絶対出て来ないそうだ。 
 

ここを最後に、今日の観光は終わりとなる。もう夕方の5時を回っている。体も疲れ果て、早くホテルで休みたい。バスは、これも郊外にある今夜の宿へ向かう。到着してみると、その名のように、なかなか瀟洒なリゾ−トホテル(トロピカル ホテル マナウス、料金:シングル…$270〜$323、ダブル…$310〜$372)である。ここに2泊するので、ゆっくりとリゾ−ト気分が味わえるに違いない。
 

今夕のディナ−は、レストランに出かけて名物肉料理のシュラスコ料理、それまでホテルでしばしの休息だ。独りにはぜいたく過ぎるデラックスな部屋に落ち着くと、早速シャワ−を浴びて休息をとる。エアコンも効いて快適だ。しばらく、横になろう。
 

夕食はシュラスコ料理
7時になって、夕食のレストランへ。屋外に突き出た屋根だけの涼しい感じの場所で、そこに設けられたテ−ブルで食事が始まる。肉を焼く煙が室内に立ち込めず、このほうがいいのだ。今夜はシュラスコ料理というブラジル風焼肉料理である。その焼き方が独特のもので、剣のような長い鉄串に肉の塊を突き差して焼き上げ、それを串ごとテ−ブルまで運び、客の目の前でスライスして皿の上に削ぎ落とすのである。
 

その肉の種類も牛・山羊・豚・鶏などと多く、それがまた、それぞれ違った部位の肉(舌、耳など)に分けられるので、全部で10数種類にも上るのである。席に着くと早速、焼き立ての肉をギャルソンが運んできて串を突き立て、皿の上でスライスする。一口食べると、これはスゴイ! ウマイ! 今夜こそはビ−ルを所望しないと、この肉料理なのにそれなしではいられない。
 






シュラスコ料理
皿に突き立て、肉をスライスする。















ひと切れ食べ終わると、すぐまたギャルソンが別の種類の肉を持って来て「スライスしましょうか」と尋ねる。でも、薄くスライスしてもらうことが肝心だ。うかつに調子に乗って食べ過ぎたら、肉だけに後でお腹がもたれて大変なのだ。違う種類の肉が回ってくるのを待って、次々にスライスしてもらう。鶏以外は、どれが何の肉かよく判別できないが、どれもうまい肉である。これだけの肉料理を日本で食べたら、かなりの高額になりそうだが、この地では肉や魚は安いのだという。
 

肉以外のサラダなどの料理は、バイキング方式で別のテ−ブルに置いてある。それを適当に皿に盛って取りながら、たっぷりと肉をいただく。一段落すると、肉を焼いている炉の所へ行って、その様子を写真に収める。すると、一人のギャルソンが写真を撮りなさいといいながら鉄串を持ち、ポ−ズをとってくれる。それが、この写真である。
 





肉を焼いている大きな炉         














これが焼き立ての肉だ!                    









ホテルへ
珍しいブラジル風の焼き肉料理に満足しながら、バスに乗ってホテルへと帰路を急ぐ。その途中、ガイドさんからいろいろと現地の様子をうかがう。この地では肉の値段は安く、豚でも牛でも同じ値段で上質肉だと1kg3ドル。最低賃金と決められている月額平均給与は100ドル足らず、企業で働いている人で200ドルちょっと、警官は300ドル、教員は350ドルぐらいだという。これに対してIT関連技術者の給与は高く2000ドルほど、組み立て作業の女子従業員で200ドル〜250ドルぐらい。
 

この地では、肉・魚・野菜などの生鮮食料品が安いから100ドルぐらいの収入でも、なんとか食べていけるのだという。月300ドルもあれば、ここでは結構ご馳走を食べて暮らせるそうだ。だから、1000ドルも収入があると高給家庭で、メイドさんを使うぜいたくができるという。マナウスのタクシ−数は4000台、料金は乗っただけで1ドル、それから距離に応じて加算されるので結構高くつくという。
 

こんな話を聞きながら走っていると、バスはホテルに到着である。今夜は早めの終了で、夜の時間はたっぷり。明日の出発は遅いので、初めてゆっくりと夜がくつろげる。十分に睡眠を取って体力の回復を図ろう。早めに9時半就寝。



(次ページは、「アマゾン河クルーズ」編です。)










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