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    N0.14
(ヨルダン・シリア・レバノン)



(レバノン編)


旅のコース




10.バールベック遺跡

旅の8日目。いよいよ明日は旅行最終日となる。寂しいかぎりだが、時の過ぎるのを止めることはできない。早朝5時半の空はまだ暗い。やがて白み始める空を眺めれば、今日も雲のかけらはどこにも見当たらない。この地は“曇り”という言葉を忘れ去って、ただ“快晴”という言葉しか知らないようだ。


う〜んと背伸びして深呼吸一番、今日も走るぞ310km。今日のコースは国境を越えてレバノン国内に入り、そこで2つの遺跡を見学して再びシリアに入国、そしてダマスカスに向かうという忙しい旅である。これまで北上を続けてきたバスの旅も、今日は反転して南下し、レバノン国内へ入ることになる。


ロケーションのよいこの部屋から、まずは窓外の景色をのぞいて見よう。6時を過ぎると、朝日が昇って街並みを明るく照らし始める。この街も石造りの建物ばかりで、街全体が白とベージュ色に染まっている。そんな街並みのあちこちに、その存在を知らせるかのようにモスクのミナレット(尖塔)がそびえている。雲ひとつない青空に抱かれて、ハマの街はいま目覚めようとしている。




             朝のハマ市街の様子(ホテルの窓より)




朝食を済ませた後、バスは8時にホテルを出発し、南のレバノン国境に向けて走り出す。ハマから2時間近く走ると、レバノン国境である。この国の正式名称はレバノン共和国、通称レバノン。西に地中海、南にイスラエル、その他はシリアに囲まれた面積1万平方キロの小さな国で、岐阜県ほどの広さである。人口380万人で首都はベイルート、言語はアラビア語、フランス語となっている。通貨はレバノン・ポンドで1ポンド=0.075円(06年5月5日現在)となっている。


この国の歴史をたどれば、歴史的にはシリア地方の一部であったが、古代にはローマ帝国に征服され、中世にはイスラム世界に組み込まれる。第一次大戦後、フランスの委任統治下に入るが、第二次大戦中に独立を達成。しかし、その後1975年〜76年にかけて内戦が起こり、国は荒廃する。これに乗じて周辺国のイスラエルやシリアが侵攻し、2005年にはラフィーク・ハリーリー前首相が爆弾テロにより暗殺されるなど政情は悪化するが、シリア軍は2005年4月に撤退する。


主要産業は貿易、商業、軽工業(繊維、宝石、食品加工)、金融業などで、わが国の援助としては有償資金協力、無償資金協力、技術資金協力などを行っている。


こんな背景を抱える同国だけに、外務省からも同国の一部地域について「渡航の延期」勧告が出されており、その他の地域でも「十分注意して」の勧告が出されている(06年5月現在)。そのことを念頭に置きながら、これから入国しようとするわけである。何が起こっても保証のかぎりではないということだ。









 レバノン側の検問所
















同 上

国境検問では、これまでと同様に出国・入国の手続きを行うのだが、すべてガイド氏がパスポートを取りまとめ、代表で行ってくれる。少々の時間を費やして入国すると、田園風景が広がるのどかな田舎道を南に向けて走行する。政情不安の緊迫感など、どこにもただよっておらず、ただのどかな風景が窓外に流れるのみである。


レバノン山脈を背景に広がる肥沃な田園地帯

しかし、要所要所に軍の検問所が設けられ、銃を持った兵士がチェックしている。われわれの車両の荷物入れもドライバーに開けさせて検閲している。やはり神経を尖らせているようだ。のどかな風景には不似合いな兵士による検問を何度か受けながら、ベッカー高原を走り抜けて行く。国境から1時間半ほど南に走ったところでバールベックの町に到着。車窓からは早々と遺跡が見えてくる。


バールベックの町に入ると遺跡が見えてくる

遺跡の近くのレストランで昼食となる。フロアでは床にナン焼きのカマを置き、おばさんがあぐらをかきながら直径40cmぐらいの大きなナンを焼いている。おいしそうだが、1人で食べるには多すぎる。料理はこれもおいしそうなシチュウ風の煮込みがあるので、これをライスに掛け、ラム肉一切れを載せていただく。これがなかなかおいしく、久々に日本食にありついた感じで満足のいく昼食となる。


大きなナンを焼いている。香ばしい匂いがただよう。


シチュー風のおいしい料理

昼食を終わると、ここから歩いてすぐの遺跡へ向かう。遺跡の周囲にはそれを取り囲むように民家が立ち並び、2000年前の古代と21世紀の現代が仲良く共存しているのが面白い。このバールベック神殿は、紀元60年頃ローマ帝国によってレバノン東部のベッカー高原地域に建築された壮大、華麗な神殿群遺跡として有名で、84年に世界遺産に登録されている。


これらの神殿群は一段高い台地の上に築かれたもので、壮大なジュピター神殿、バッカス神殿などの巨大神殿がローマ帝国の威信と威厳を示すかのように建っている。しかし、残念なことにジュピター神殿の建物の姿はなく、ただそれを象徴するかのように高さ22mにも及ぶ巨大な6本のコラム(column:古代ギリシャ・ローマの建築物に見られる石の円柱)が残っているだけである。この神殿の規模は88m×48mだったそうで、その原形が見られないのが惜しいかぎりだが、54本のコラムに囲まれた外観は、さぞかし壮大で荘厳きわまるものだったに違いない。



               中央に突出しているのはジュピーター神殿の6本のコラム。その左手にバッカス神殿が見える。



             左はバッカス神殿。中央はバールベック遺跡のシンボル・・・6本の巨大コラム



        遺跡の周囲は街並みが取り囲んでいる




専門家によれば、世界の古代ローマ遺跡の中では、この遺跡が最も保存状態がよいといわれている。しかし、ここの崩壊度はとても激しく、大小さまざまの遺跡破片が足の踏み場もないほどに痛々しく散乱しているのが見られる。これは恐らく数々の盗難や戦乱、それに地震によって打ち砕かれたものだろう。これではとても保存状態が良好とは思えないのだが、それはバッカス神殿のことを言っているのだろうか?


散乱する遺跡の破片


ひどい散乱状態。中央に立つのは6本のコラム

このバッカスの神殿だが、がっしりと組まれた高さ5mの基壇の上に、確かにその原形を残して見事なたたずまいを見せている。ふと、ギリシャのパルテノン神殿を思い出させるものだが、円柱の高さはバッカス神殿の方がやや高く、建物全体の長さはパルテノンの方が長い。正面に回り、33段の階段を上って行くと恐ろしく高い入口門がある。この門には細かいレリーフが刻まれ、天井にはワシが描かれている。


美しい列柱に囲まれたバッカス神殿










 そびえる入口門
 門の壁面にはレリーフが・・・














門をくぐって中に入ると、神殿の天井は抜け落ちて青空が見えている。それがかえって内部を明るく照らし出してくれるので、その様子がよく見て取れる。とにかく高く積まれた巨石の壁が圧倒するように空間を囲っている。中ほどには中央部へ少しせり出して左右対称に大きな円柱がそびえている。恐らく、建物壁面の倒壊を防ぐための強化柱なのだろう。円柱の頭部、梁の部分、それに壁面などには繊細な彫刻が施され、これらのインテリアはバールベックの最も美しいものの一つに数えられている。


バッカス神殿内部。壁面の高さに圧倒される。

2世紀前半に建てられたとされるこの神殿だが、その当時この門をくぐって寺院内に入った感じはどうだったのだろう? きっと、その壮大で荘厳華麗な内部の雰囲気に人々は圧倒され、神への信仰と畏敬の念を強くしたに違いない。ローマ帝国の威信をかけた壮大な建築物だったのだろう。


惜しくも原形を残さないジュピター神殿だが、その基壇の礎石の一部には1個の重さが約800トンと思われる巨石が3個も使われていたり、また6本のコラムに見られるように、直径が2mを超える巨石がふんだんに利用されている。これらの巨石は、エジプトから運ばれた物もあるようだが、これらはすぐ近くの石切り場から運ばれたらしい。


バールベック遺跡を後にして10分ほど走ると、そこに当時の石切り場が残っている。そこには2000年も前に切り出された世界最大と思われる巨石が現存する。それは"Stone of the Pregnant Woman"(妊婦の石)と呼ばれる21.5m×4.8m×4.2mの巨石で、 推定重量1000トンとされている。まさに地中から巨石が誕生しているかのように見える。その古代に、この巨石をどんな方法で切り出し、どんな方法で運ぼうとしたのか、考古学者の格好の研究材料である。


これが「妊婦の石」の巨石。人間の高さの3倍もある。

エジプトのアスワンには“未完のオベリスク”という巨石が残っているが、これはそれをしのぐというのだろうか? この半分土中に埋もれた“妊婦の石”は、写真で見るとそれほど大きくは見えないが、側に人間が立つとその巨大さが分かるというもの。なにせ、人間の背丈は、この横たわった巨石の高さの約1/3ほどしかないのだから!



(次ページは「アンジャル遺跡」編です。)









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