写真を中心にした簡略版はこちら「地球の旅(ブログ版)」   






    N0.1
(ヨルダン・シリア・レバノン)




不思議な塩湖・・・死海浮遊体験
切り立つ巨大岩の裂け目の向こうに現れる古代遺跡ペトラ
旧約聖書・十字軍・アラビアのローレンスの世界へいざなう中近東



中近東旅行日程(10日間)

日付 日数 ル − ト 泊数 タイムテ−ブル・内容
2006年
/17(金)

 関 空 → ドーハ 
 機中 23:45発 → 
 
    
  18(土)  ドーハ → アンマン →(バス)死海    1 ドーハ6:05着
12:45発 →アンマン14:50着
  19(日)  死海 → ワディ・ラム砂漠 → ぺトラ    死海浮遊体験、バスで移動
砂漠クルーズ
  20(月)  ペトラ → アンマン     ペトラ遺跡観光、
バスでアンマンへ
  21(火)  アンマン → ダマスカス    ジェラシュ遺跡観光、バスで移動
  22(水)  ダマスカス → パルミュラ    パルミュラ遺跡観光、バスで移動
  23(木)  パルミュラ → (バス)ハマ   1 クラック・デ・シュバリエ観光、水車
  24(金)  ハマ → レバノン →(バス)ダマスカス    パールベック、アンジャル遺跡観光
  25(土)    ダマスカス → ドーハ →関空  機中 午前、ダマスカス市内観光
15:40発 → 22:40発 → 関空
  26(日) 10  関 空 14:45着



(旅のコース)




(ヨルダン編)

1.ドーハへ

いよいよ世界の火薬庫ともいわれるきな臭い中近東地域へ足を踏み入れることになる。周りの目から見れば、どうしてそんな危険地帯にわざわざ出かけるのか?と思われがちなのだが、この地域には世界遺産にも登録されている珠玉の古代遺産が点在しているのだ。


なかでも圧巻なのはペトラ遺跡やパルミュラ遺跡などであろう。その上、死海で不思議な浮遊体験もできるとあっては、旅心はいやが上にも盛り上がり、はやされて、テロの危険など何のそのという気持ちになってしまう。とはいうものの、訪問国のヨルダンもシリアもイラクに隣接する国々であり、硝煙の匂いがただよって来そうな地域でもある。


しかし、いったん火がついた旅心を抑えるすべはなく、それには目をつぶってただ猛進する以外に手はない。こうして私の中近東の旅は始まった。しかし、交通の不便さなどを考慮して、この旅もツアー参加となる。


国内乗り継ぎ便の到着遅れもあって、関空に着いたのは出発時刻の1時間前。果たして搭乗できるのかとハラハラドキドキものだったが、事前に連絡していたお陰でどうにか搭乗できることに。とまれ、1席の空きもない満席のカタール航空便は、美しい夜景を見せる深夜の関西空港を無事に離陸。これよりカタールのドーハ空港まで12時間の空の旅が始まる。目的地はヨルダンのアンマンだが、そこへの直行便がないのでドーハで乗り継ぎとなる。


飛び立った機は、日本列島を離れて朝鮮半島を横切り、北京上空を通過して順調に飛行する。その後、インド北部を横断してアラビア海に出ると、そこからペルシャ湾をめざし、その中央部に突起する小国カタールの首都ドーハ空港に到着。その間、深夜の夕食と到着前の軽い朝食のサービスを受ける。


ドーハ空港の様子
早朝の6時に到着したドーハ空港は気温22℃で晴れ。そのこぎれいな空港はトランジット客であふれ返っている。座る場所もないほど込み合い、女性用トイレなどは長蛇の列で、女性組は1時間も待たされたとこぼす始末。このあふれるトランジット客の受け入れ施設にしては手狭な空港で、早急な施設の改善が望まれる。みんなここを中継点にしてエジプト、中近東方面へ向かうわけだ。


カタールのドーハ空港


バスを待つ乗客(ドーハ空港にて)

なんと、ここで6時間以上も乗り継ぎ待ち時間があり、その消化に苦労する。この空港でも乗り継ぎ客には無料の市内観光バスがあるそうだが、これも先着組に占められてすでに満席とのこと。やむなく、空港で待つしかない。長時間待ちの乗客にはスナック券が配られ、それで2階のカフェを利用できる。お腹は空いていないが、時間つぶしにカフェに行ってみると、ここも人であふれテーブルは満席状態。スナック券と引き換えにサンドイッチとジュースをもらい、片隅に空き席を見つけて腰を下ろす。その後はロビーの免税店をのぞいたり、ガイド資料に目を通したり、同行仲間とおしゃべりなどして過ごし、やっとのことで12時45分発の搭乗時間を迎える。


ドーハ空港トランジットロビーにある免税店

2.首都アンマンへ

入 国
ドーハを定刻に出発した機は西へ向けて飛行する。眼下に砂漠が広がるサウジアラビアの上空を横切って飛行すること3時間、午後3時前に目的地ヨルダンのアンマン空港に到着。気温15℃で少々冷やついている。


アンマンへ向かう途中。こんな砂漠が広がっている。


アンマン近くの上空


アンマン空港に着陸

早速、現地ガイド氏の出迎えを受け、一行のパスポートをまとめて入国手続きをしてくれる。一行は入国係官の審査を受けることなく、端の特別ゲートからフリーパスで通過し、荷物を受け取って到着ロビーへ出る。ビザは現地取得だが、それもまとめてしてくれる。ここで忘れずに時差の調整をしておこう。時計を7時間戻せばOKである。


アンマン空港到着ロビー

快適なバスと道路
これで無事入国を済ませた一行は出迎えのバスに乗り、午後4時空港を出発して本日の宿泊地・死海へ向かう。このバスはトイレ付きで乗り心地満点。ハイウェーの道路整備も良好で、快適な走行を見せる。到着前までは劣悪なバスと道路状況を想定していただけに、これは意外なことでうれしい誤算である。


ヨルダンのこと
立憲君主制で正式国名はヨルダン・ハシミテ王国だが、日本語の通称はヨルダン。人口約560万人で、その首都はアンマン(人口約120万人)である。公用語はアラビア語、宗教はイスラム教でスンニー派が92%を占め、キリスト教は4%。通貨はヨルダン・ディナール(06年4月3日現在のレートは1ディナール=166.00円)。時差はマイナス7時間。


日本の国土面積の約4分の1に相当するヨルダンの国土(92,300ku)は、およそ50万年前の旧石器時代に人類が住み着いていたことが知られ、紀元前8000年頃には人類最古級の農業が営まれていたという。西アジアに文明が発達すると交易の中心地として栄え、紀元前13世紀頃からはエドム人が住み着き、アンマンには旧約聖書に登場するアンモン人の国があった。紀元前1世紀頃には南部にペトラ遺跡を残したナバテア王国が発展するが、紀元1世紀から2世紀にローマ帝国に併合される。


7世紀よりイスラム諸王朝の支配を受け、16世紀からはオスマントルコの支配下に入る。1919年には英の委任統治領となり、1923年にトランス・ヨルダン王国を建国、その後1946年にはトランス・ヨルダン王国として独立する。1950年にはヨルダン・ハシミテ王国と改称。


貿易品目では輸出(衣料品、燐鉱石、カリ、化学肥料、医薬品)、輸入(原油、自動車・車両、機械類、電気機器)となっている。経済協力面では、日本はこれまで同国に対して技術協力、無償資金協力、円借款など積極的な経済支援を実施しており、中東地域ではエジプトに次いで第2位の被援助国となっている。


死海へ
バスはアンマンの市街地を抜けるとハイウェーに乗って走行する。


アンマン市街の商店

空港から南へ向かって走ること約1時間で死海に到着する。その途中、大渓谷の壮大な風景が広がるポイントでフォトストップとなる。国土の西部には大地溝帯の北端でもあるヨルダン渓谷があるのだが、この地域には死海もあり、標高が極めて低く、冬でも温暖で、近年の灌漑技術の発達によってトマトなどの野菜や果物の一大生産地に変貌している。国土の80%が砂漠地帯であるヨルダンでは、この地域は貴重な生産基地といえるのだろう。



     これがヨルダン渓谷。左手遠くにかすかに見える山並みとこの丘の間に渓谷が広がっているのだが、ここからは見えない。



この大渓谷を右手に見ながら緩やかな下り坂を進むと、やがて「海抜0メートル」の標識が現れる。ここでもストップして記念撮影である。これより18km先には死海が横たわっているのだが、そこは海面下400メートルで地上で最も低い場所となっている。バスはここからさらに下り坂を走り下り、海面下の地帯へ入って行く。今の時刻は5時ごろで、ちょうどサンセットの時間が迫っている。


海抜ゼロメートルの標識

さらに道路をどんどん走り下って行くと、やがて右手に死海が見え始める。進むにつれて、みるみる目の前に湖面が広がって来る。その湖面の対岸はイスラエルで、その山並みの向こうに、いま夕日が落ちかかっている。湖面には美しい黄金色の光の帯を浮かべながら、死海の静かな夕暮れ風景を演出している。この風景は東側にあたるヨルダン側からしか見られないのだが、ここには爆弾テロなどとは無縁ののどかな光景が広がっている。


遠くに死海が見えてきた


死海に落ちる夕日。対岸はイスラエル。

死海のこと
この死海は“海”ではなく、実は塩湖なのだ。この湖は、東アフリカを分断する大地溝帯の北端に位置しており、この死海を含むヨルダン渓谷は、白亜紀以前にはまだ海であったと推定されている。その後の海底隆起により、パレスチナ付近の高原が形成されると同時に、ヨルダン渓谷付近に断層を生じたと考えられている。


死海はイスラエルとヨルダンの国境に細長く横たわる長さ60km、幅17kmの湖で、最深部は400m。南部区域は水深が浅く、結晶化した塩が見られる。死海の水には健康維持に不可欠なミネラル成分(ナトリウム、カリウム、マグネシウム、鉄、臭素、カルシウムなど)が豊富に含まれており、それらが血液の循環を高め、皮膚からの老廃物の除去を促進させる。このため、身体を健康にし、美容にも効果があるという。実際に死海周辺のスパではこの高濃度のミネラルがアレルギーや皮膚病、リウマチ、関節痛、筋肉痛などに悩む人々を癒している。


このことは何千年も前から「生命」と「癒し」の源として、またその海水はその地域の特殊な気候条件と相まって美容・健康および皮膚病・傷その他多くの病気に有効であることが認められ、今日に至るまでその効果は世界的に高く評価されている。

死海の衛星写真。死海の北端にグリーン地帯が細く伸びているのがヨルダン渓谷。
湖の左岸がイスラエルで右岸がヨルダン。

死海の塩分は、国際河川であるヨルダン川および周囲から涌き出る温泉から供給されていると考えられている。この死海からは流れ出る川がなく、年間を通じて大量の水が蒸発するので死海の水の塩分はきわめて濃く、一般の海の塩分濃度が4〜6%であるのに対して、死海は25%の高濃度となっている。

この濃い塩分濃度のため浮力が大きく、人が死海に入っても沈むことはなく、ぷかぷかと浮遊できるのである。写真などでよく見かけるように、浮かんだまま読書もできるという不思議体験ができるわけである。またこの塩分濃度のため、湧水の発生する1ヶ所を除いて魚類などの生物は確認されていない。「死海」という名称の由来もここにあるわけで、何の生物も生息し得ない“死の海”を意味している。


近年問題になっているのは、死海の水位が年々低下しているということ。このまま水位が低下し続ければ、40〜50年後には死海は消失してしまうだろうといわれている。この水位の維持にはヨルダン川などからの流入量と水の蒸発量のバランスが必要だが、近年、ヨルダン川からの取水量増加やビジネス用に死海からの取水量が増えたりして、そのバランスが崩れているらしい。


リゾートホテル
バスは空港から1時間ほどかかって、今宵の宿泊ホテルに到着。ここは死海のビーチ沿いに建つリゾートホテルで、目の前のビーチはホテルのプライベートビーチになっているようだ。ビーチは夕方5時には閉鎖されるとのことで、今夕の浮遊体験はできず、明日の楽しみに持ち越しである。上の道路からビーチへ続くなだらかな斜面にホテルは建っており、死海を眺望できる絶好のロケーションにある。しかし、われわれツアー組に割り当てられた部屋は、残念ながら裏手側で死海は見えない。


部屋に入って荷物を置くとすぐに、そのまま下段の展望所に出て夕暮れの眺望を観賞する。う〜ん、なんと美しいことだ〜! この時季のサンセットは早く、すでに夕日は対岸の山並みに落ちようとしている。辺りは風もなく、夕日に染まる湖面が静かに、そして穏やかに広がっている。対岸の彼方の戦乱を忘れさせてくれる素敵な風景である。この崇高で美しい自然の風景に抱かれながら、どうして人間どもは争いばかりを切りなく続けるのだろう?




           ホテルの展望台から眺めた死海のサンセット風景。対岸はイスラエル。



夕食はバイキング料理
夕食までに時間があるので、部屋に戻るとシャワーを浴び、洗濯をすませて、さっぱりした気分で食堂へ出向く。夕食はバイキング料理で、アラビア風の料理が並ぶ。パンの代わりのナン、ラム肉の煮込み、トマトや野菜などの炒め料理、マッシュポテト、ゆで卵など。これにリンゴ、オレンジ、バナナ、ナシなどのフルーツ、そしてケーキやプリン類。最後はコーヒーかティーである。飲み物はハイネッケンの缶ビールを注文する(1本5米ドル)。以後の旅でも、ほぼこのようなバイキング料理が出され、少々飽きることになる。


とまれ、満腹となったお腹をさすりながら部屋に戻り、時差で睡眠不足の体をベッドに横たえる。こうしてヨルダン第一日目の夜は、死海のほとりで初夜の夢を結ぶことになる。9時就寝。



(次ページは「死海浮遊体験」編です)










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