N0.8





9.世界遺産マサダ・エリコ・ヤッフォ
イスラエルの旅8日目。とうとう旅の最終日がやってきた。泣いても笑っても今日かぎりでイスラエルとお別れだ。少しメランコリーな気分になりながら、今朝も変わらず5時に起床。体調も好調だ。


今日の帰国便は深夜の0時30分発なので、まるまる1日を観光に使うことができる。そこで今日の観光は世界遺産のマサダ遺跡、次いで世界最古の町と言われるエリコ遺跡、そして最後はテルアビブの隣町・ヤッフォの街観光である。


サンライズ風景
今朝は死海のサンライズ風景を撮影しようと昨日から心待ちにしていたが、その時間が迫った来る。その機会を逃したら大変と、絶えず窓外の夜明けの様子をうかがいながら過ごす。以前、ヨルダン側ではサンセット風景を見ることができたので、今朝の機会で死海のサンライズ、サンセットの風景が完成することになる。


そろそろサンライズの時間が近づいたと思われるので、カメラ片手にビーチへ出かける。日の出前の少し明るくなった道をビーチへ向かうと、人の気配はまったくなく、誰一人として人の姿は見かからない。


ビーチに到着すると、目の前に無風状態の死海が静かに眠るように広がっている。その中でただ1人、悠然と死海に浮かぶ人がいる。その遠く向こうに、対岸のヨルダン側の山並みから朝日が静かに昇りかけている。太陽から伸びる黄金色の光の線が鏡のような海面に映えている。なんとも美しい光景である。そんな息を呑む素晴らしい光景に、しばし見とれて時を過ごす。


死海のサンライズ風景。対岸はヨルダン。


(動画)死海のサンライズ風景(イスラエル側)


撮影を終えてホテルへ引き上げる。独りでとぼとぼ歩いていると、向こうから老人が1人やって来る。これからビーチに行くらしい。挨拶を交わして話しかけてみると、オーストラリアからやって来たという。ツアーグループで来たそうだが、10日間の旅程という。お互いに「良い旅を〜!」と言いながら握手を交わし、ホテルへ戻る。


安息日の朝食
今日5月29日は土曜日で、ユダヤ教のシャバット(安息日)に当たる。この安息日は金曜日の日没から始まり、土曜日の日没に終わるのである。その間、一切の労働や創作活動は休むことになっており、バスの運行や車の運転も休息することになっている。ユダヤ教徒だけがその戒律を守るわけだが、家族で行楽に出かけるのもままならないらしい。


今朝はその安息日で、ホテルの朝食の料理なども前日に調理されたもので、ホットな料理は出されない。だからパンなども冷めたコツコツしたもので、味気ないかぎりである。いつも焼き立てのおいしいパンが食べられたのだが、この日ばかりは勝手が違う。本来ならホテルのスタッフの労働も休息するのだろうが、仕事がらそれもできないので、最低限の対応をしているのだろう。


また、エレベーターの運転も休止される。2基あるうちの1基が止められて利用できない。こうして安息日になれば、宿泊客も巻き込んでその影響が出る。郷に入れば郷に従いで、こればかりは勝手が違ってもどうにもならない。


世界遺産マサダ
とにかく旅行最後の朝食を終えると9時、ホテル出発である。死海沿岸を北上しながら、世界遺産になっているマサダ遺跡に向かう。現在、イスラエルにはアッコをはじめ6ヵ所の世界遺産があるが、そのうちの一つがこれから訪れるマサダである。ここは2001年に登録された遺産である。


マサダの世界遺産表示板

荒野と岩山が続く景色。昨日の「ロトの妻の柱」見物の際にも眺めた草木1本もない荒野と岩山が広がるユダヤ砂漠を左手に見ながらしばらく走行すると、死海の西のほとりにそびえる岩山が見えてくる。これがマサダの要塞である。


高さ400mのマサダ遺跡のある山。頂上に遺跡が広がっている。

“マサダ”と言うのはヘブライ語で「要塞」を意味するそうで、その昔(西暦73年)、ローマ軍に追い詰められたユダヤ人が集団自決を遂げた場所である。その意味で、この高さ400mの山は、イユダヤ人にとっては忘れ得ぬ場所となっている。


紀元前120年ごろに要塞が建設され、その後、ローマ帝国時代にユダヤ地区を統治したヘロデ大王が離宮兼要塞として改修し、難攻不落と言われてきた城塞である。


西暦66年に始まったローマ帝国との戦争(ユダヤ戦争)は、70年になってローマ軍によるエルサレム陥落で一応終結する。その後、ローマ軍に追い詰められた ユダヤ人グループ約1000人が最後の拠点としてこのマサダに立てこもり、最後の抵抗を試みる。


しかし、15000人のローマ軍によって包囲され、2年近く抵抗したものの、73年に攻め落とされる。その際、2人の女と5人の子供を残して全員が集団自決したという。ローマ軍に降伏して奴隷となるよりは、死を選んだわけである。この悲劇を胸に、ユダヤ人は世界に散り、それ以後流浪の民となる。


国防軍の宣誓式
こうした歴史的経緯から、現在でもなおユダヤ人にとっては特別の思いがこもる場所でもある。イスラエル国防軍の入隊宣誓式は、このマサダ要塞の頂上で行われるそうで、兵士にとってはユダヤ人全滅の悲劇を二度と繰り返さないことを心に誓う場所となっている。この宣誓式は夕闇せまるころ、松明の明かりの中で行われるそうで、なかなか幻想的な儀式の中で国家への忠誠を誓うという。


ロープウェー
高さ400mのここマサダは、エルサレムに次ぐ人気の観光場所となっており、訪れる観光客の利便を図るため山頂までロープウェーが設置されている。この山頂へ達するためには“蛇の道”と呼ばれるその名のように蛇行する細道を1時間近くかけて登る必要がある。このロープウェーのお陰で、わずか数分で頂上まで上ることができるわけだ。


ロープウェー駅から見たマサダ遺跡の山。頂上までロープウェーで結ばれている。

バスを降りてロープウェーの駅へ移動する。目の前には高さ400mのマサダの岩山がそびえている。砂漠の中にそびえる様子は何となくオーストラリアのエアーズロックに似ている。だが、エアーズロックは高さ348mなので、マサダ城塞が少し高いことになる。山の山腹には蛇のようにジグザグとくねった登山道が見える。時間があればこの道を登ってみたい衝動に駆られる。


ロープウェーに乗ると、山頂めがけてぐ〜んと動き出す。眼下には広がる砂漠とその遠くに死海が眺められる。背後はごつごつとした不毛の岩山が連なっている。途中で下りのワゴンと出合うと、あと半分の距離である。砂漠と死海のパノラマ風景に吸い込まれながら、約3分程度で山頂到着である。


(動画)マサダ遺跡のロープウェーからの眺め


マサダ遺跡
山頂駅で降りると、断崖にへばりつくように設けられた細い通路を通って入口門へ至り、そこをくぐって遺跡内に入る。この通路は当時のものらしく、ここで敵を迎え撃つ重要なポイントとなっていたようだ。この通路が唯一の城塞内へ通じるルートなのだ。だから、ここで敵を封じ込めることができれば、城塞内への侵入は不可能というわけだ。


(動画)山頂駅付近からの眺望。遠くに死海を望む。


山上にかなり広い平地があり、そこかしこに住居跡やローマンスタイルの大浴場、倉庫、貯水槽、シナゴーグ(礼拝堂)、納骨塔などの跡が見られる。また死海側に突き出た断崖には三段のテラスが設けられ、そこに宮殿が造られている。全体を一見しても、かなり規模の大きい城塞であることが分かる。これら遺跡の要所、要所をめぐりながら見物する。


マサダ遺跡の模型。断崖に三段のテラスがあり、宮殿が造られている。


部屋の装飾の一部が残っている


遺 跡


室内の模型


ローマンスタイルの浴場跡


(動画)ローマンスタイルの浴場跡



見張り塔?


頂上から見た蛇の道


同 上


シナゴグ跡(ユダヤ教の礼拝所)


納骨塔


ローマ軍から投げ込まれた投石器の弾丸


床面に装飾が残る


同 上



 頂上に広がるマサダ遺跡の全容



 同 上

                           
                            (動画)マサダ遺跡からの眺望と遺跡

 

                           
                           (動画)山上に広がるマサダ遺跡の全容

                                  

                           (動画)山上に水洗トイレの設備があるとは驚き!




化粧品メーカー「AHAVA」(アハバ)
遺跡見物に1時間以上を費やしてから、再びロープウェーで下山する。その麓には死海にある有名な化粧品メーカー「AHABA」の売店があり、そこに立ち寄る。このメーカーは高度な専門知識と技術を駆使して神秘的な死海からミネラル成分などを抽出して優れたスキンケア製品の数々を世に送り出している有名メーカーである。


アハバのショップ


アハバの店内

店内の陳列棚には泥石鹸、塩石鹸、ミネラル石鹸など各種の石鹸をはじめ、さまざまな化粧品類が並び、店員が熱心に説明している。石鹸などは複数個購入するとオマケが付くなどして割安になっている。これに乗せられて、私も3種類の石鹸を購入することに。有名メーカー品だけに日本国内で買うと割高になるため、ここでまとめ買いするメンバーもいる。


世界最古の町「エリコ(ジェリコ)」へ
一通り買い物を終えると、次の観光地エリコの町へ移動する。マサダから死海沿岸をさらに北上し、その北端部のクムランを通り過ぎて内陸部に入り、少し走ると目的地エリコである。この町はベツレヘムと同様、パレスチナ地区にあるため、国境のイスラエル軍検問所を通過して町内に入る。特にうるさいチェックはなく、何事もなくスムーズに通過する。


移動の途中で見られるナツメヤシの植林

ベツレヘムと違って、緑の多いのどかな田舎の風景が広がっている。もともとこの地にはオアシスがり、それで人々が住み着いたそうで、死海に近いこともあって海抜マイナス250mの低地となっている。紀元前8000年には周囲を壁で囲った集落ができていたと言われ、世界でも最古の町と言わており、旧約聖書にも度々登場する町だそうだ。


エリコの町に入ったところ


エリコの戦い
また、この町は歴史的にも「エリコの戦い」としても知られている。3000年の昔、モーセの後継者ヨシュアに率いられてイスラエルの民は、神様が「あなたがたに与える」と言っていた約束の地カナン(現在のパレスティナ地方)を目指して前進して行く。


しかし、その前にカナン人の都市の中でも有数の堅牢な城壁に囲まれた都市エリコを突破しなければならない。戦いの初日、イスラエル軍は城壁を一周するだけで帰る。その次の日も、その次の日も無言で同じとことを繰り返す。こうして心理作戦に出る。エリコの守備軍もかなり疲れてくる。


そして7日目、この日だけは城壁を7周する。その7周後、先導する祭司7人は一斉に角笛を吹き鳴らし、同時に指揮官のヨシュアは「エリコに向かって大声で叫べ」と合図し、イスラエル軍は一斉に勝鬨の大声をあげる。すると、それだけであの頑丈な城壁が崩れ落ちたのである。もちろん神が崩したのである。城壁をなくしたエリコ側は防衛もできず、陥落して全滅したという。(旧約聖書:ヨシュア記による)


この聖書の話は発掘調査によって証明されてはいないが、城壁が崩れたのは恐らく地震によるものだったのではないかと推測されている。


エリコの遺丘
町の片隅に小さく低い盛り土のような丘が見える。ここが遺跡の丘で、近年発掘調査によって次第にその全容が分かって来ている。ここにはすでに1万年前、人が住んでいたと思われる痕跡が発見されている。そしてそれは年代を重ねるに従い、地震や火災などによる破壊と建設が繰り返されたらしく、地層の幾層にもわたって時代ごとの痕跡が発見されている。


遺跡現場は5〜6mほども深く掘り下げられており、むき出しになった地層が古代の人々の営みを物語っているようだ。発掘調査が進めば、エリコの戦いの証拠が発見されるかもしれない。



発掘された遺跡


深く発掘された遺跡


遺跡が二重の城壁で囲まれていたこを示す図面


時代ごとの層が見える

この遺跡の丘から眺めるエリコの市街は緑の樹木に埋もれるように立ち並ぶ民家が眺められる。この草木1本も見られない死海西岸地区の砂漠地帯では、きわめて珍しい光景である。それもこれも“エリシャの泉”の恩恵である。これで灌漑が行きとどき、町中全体が緑化されている。



 遺跡の丘から眺めた緑多きエリコ市街

                  
                  (動画)エリコ遺跡の丘の全容。誘惑の山も見える。エリコ市街の様子も見える。




誘惑の山
遺跡の丘の背後には低い山並みが見える。その中にイエスゆかりの“誘惑の山”がある。そこへはロープウェーが設けられて頂上へ上ることができる。そのいわれとは・・・

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「イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。(ルカ)」とあり、次の誘惑があったとされる。


問:「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」(与えら
   れている特権・力を自分のために使ったらどうかという誘惑。)
反問:「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言
    葉で生きる」と。
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イエスはここでの誘惑のほか、エルサレムの神殿の丘など数回悪魔から誘惑を受けたとなっている。


誘惑の山の中腹にはギリシャ正教の「40日修道院」が建てられており、その側にある洞窟でイエスが40日間断食してこもったという。この後、悪魔の誘惑に3回出遭うことになる。その3回目の誘惑がこの誘惑の山での出来事と言われている。


エリシャの泉
エリコはエリシャの泉のお陰でオアシスの町として栄えている。旧約聖書によると、ここの水が汚くて飲めないと住民が訴えるので、預言者エリシャが水源に塩を撒いて清めると、それ以後きれいな清水となったといわれる聖書ゆかりの泉である。


エリシャの泉は遺跡の丘のすぐ近くの公園にも噴水として湧き出ているのが見られる。


エリシャの泉。すぐ向こうは遺跡の丘。


泉の側ではナツメヤシの木が実をつけている


昼 食
遺跡の見学を終えると、近くのキブツで昼食の時間である。例によってビュッフェスタイルの食事で、飲み物はスプライト1本(3ドル)を注文して喉を潤しながら十分にいただく。


ヤッフォへ
昼食の後は、この旅の最後の観光地ヤッフォへ向けて移動する。再び検問所を通ってイスラエル側に戻り、エルサレムの方向へ走行する。途中、エルサレムを通過するのだが、今度は市街に入らず迂回して直行する。


歴史のある町
エリコから約2時間足らず走ると、地中海沿岸のヤッフォの町に到着である。町の入口には20世紀の初めにオスマンの皇帝によって建てられたと言う時計台(クロック・タワー)が目を引き、その側のロータリーには今を盛りの花が咲きそろって、潤いのある素敵な光景を見せている。ここは今度の旅の初日に1泊した町でもある。


ヤッフォの入口にあるクロック・タワー。ロータリーの花が美しい。

この町はテルアビブに隣接する古い町で、紀元前1800年〜1600年ごろに築かれたという。イスラエル王国のソロモン王がエルサレム神殿造営のために、レバノンの糸杉をここから陸揚げしたという歴史がある。また、聖書との関連ではヤッフォの皮なめし職人シモンの客であったペテロを、ローマ軍のコルネリウスの使者が訪ねたことにより、キリスト教が異邦人へと広がっていったとされる。


13世紀にはエルサレム巡礼の玄関口となったという。1799年にはナポレオンがアッコ攻略に失敗した後、この地に立ち寄った史実もある。現在は数多くの芸術家が住み、ギャラリーは観光客で賑わっていると言う。


聖ペテロ教会
ここで海岸沿いの旧市街を中心に約1時間ほどの徒歩観光が始まる。ここは地中海を見下ろす小高い丘になっており、その海沿いに赤レンガ造りの聖ペテロ教会が建っている。この教会は十字軍時代のフランスのルイ9世が造った要塞の上に、1888年から1894年にかけて建設されたという。またこの場所は1799年にナポレオンがアッコ撤退後に滞在したところでもあるそうだ。


聖ペテロ教会


この教会は高い鐘楼を持つ


教会前で土産品などを売る露天商

背後に白く高い鐘楼を持つ教会の内部に入ると、高い天井がそびえ、祭壇上の放射状の装飾が印象的である。


聖ペテロ教会の内部


皮なめしシモンの家
教会見学の後は、この辺りに広がる旧市街の観光である。まずは「皮なめしシモンの家」を訪れる。ここはイエスの弟子ぺテロが伝道の途中に泊まった場所と言われている。次のような話になっている。

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ヤッフォの海のそばに住む皮なめしシモンの家に滞在していた使徒ペテロのもとに、カイザリア在住ローマ軍の百人隊長コルネリウスの使いがやってきて、イエスの信仰を教えてほしいと請うた。当時ユダヤ人が異邦人と交際することは禁じられていたが、ペテロは天からの異邦人伝道のお告げを受けて、カイザリアにてコルネリウスに会い、イエスの教えを説いたという。
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これが異邦人にキリスト教が伝わる画期的な出来事だったが、これをきっかけに国外にもイエスの福音が伝えられることになった。しかし、ペテロはユダヤ人の強い非難を浴びることになったという。当時、皮なめし業はひどい悪臭を放つので蔑まされた職業(これは日本のエタの歴史に通じるところがある)だったが、ペテロはイエス同様、そうした人々の中で伝道したという。


ぺテロが滞在したというシモンの家は、狭い路地の一角にある石造りの変哲もない建物である。最近は観光客が増えて喧噪となり、家の住人は解放しなくなったそうで、中の様子は分からない。扉は固く閉じられ、入口のアーチ部分に「HOUSE OF SIMON」と書かれているだけである。確かに古い家ではあるが、これがイエス時代の2000年前からあったとは信じ難いのだが・・・。


皮なめしシモンの家


旧市街の路地
シモンの家を通り過ぎて細い路地をめぐって歩く。古い石造りの建物に囲まれた狭い路地を通り抜けて行く。路面に敷かれた石畳は摩耗して、いかにも長い年月が過ぎたことを物語っているようだ。ヨーロッパの古い街の路地風景とよく似た光景である。


芸術家の住むギャラリーの路地があったり、数十匹の猫がたむろする猫屋敷があったり、学生たちが卒業記念の写真撮影をしている現場に出あったりしながら、狭い旧市街の雰囲気を堪能する。


年季の入った石畳の路地


門に取り付けられたユダヤのマーク


段差がわかるように黄色のペンキが塗られている


おしゃれな地番表示。数字を魚の数で示している。


花が咲き誇る路地


芸術家のギャラーが並ぶ


石畳とアーチの門が素敵


猫屋敷。これは世界共通の風景。


こんなところで遊んでいる


卒業記念アルバム用の撮影風景。バレリーナのトーシューズと衣装をつけている。

公園の一角には発掘中の遺跡があり、古代エジプトのヒエログリフ(象形文字)が刻まれた2本の石柱が立っている。多分、紀元前13世紀のエジプト王ラムセル2世に関係する遺構かもしれない。ここに限らず、この丘一帯の地底には古代の遺跡が埋もれており、発掘調査が進められている。


ヒエログリフが刻まれた石柱(左右2本の石柱。上の横石は支柱。)


公園にあるモニュメント


WISHING BRIDGE
聖ペテロ教会の手前の一角に願いが叶えられるという細いウィッシング橋が設けられている。この橋の手すりに誕生日と星座の関係を示す12個のマークが取り付けられており、海側を向いて自分の該当する星座のマークの前に立ち、願い事をすると叶えられるという言い伝えがある。


ウィッシング橋の表示


ウィッシング橋は短く小さな橋


欄干に取り付けられている星座のマーク板

星座と誕生日の関係は次のようになっている。この星座マークが彫り込まれた金属板が橋の手すりに取り付けられている。
おひつじ座 3月21日〜4月20日
おうし座 4月21日〜5月21日
ふたご座 5月22日〜6月21日
かに座 6月22日〜7月23日
しし座 7月24日〜8月23日
おとめ座 8月24日〜9月23日
てんびん座 9月24日〜10月23日
さそり座 10月24日〜11月22日
いて座 11月23日〜12月22日
やぎ座 12月23日〜1月20日
みずがめ座 1月21日〜2月19日
うお座 2月20日〜3月20日

筆者はさそり座の前に立ち、「これからも元気に地球の旅ができますように」と願ってみたのだが・・・。


ハワイのホノルル?と見間違いそうなテルアビブの遠景




 公園から眺めたテルアビブの遠景

                
                (動画)公園からの眺望。海は地中海。アンドロメダの岩礁やテルアビブの遠景が見える。




  
アンドロメダの岩
公園の海岸沿いに立つと、眼下に小さな白い灯台が見える場所がある。その向こうの海に波の間に見え隠れする岩礁がある。これがアンドロメダの岩と呼ばれるもので、そのいわれとなるギリシャ神話は次のようなものである。


波間に顔を出しているアンドロメダの岩礁

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アンドロメダはエチオピア王ケフェウスと王妃カシオペアの娘。ある日カシオペアは、海の妖精ネーレウスの娘よりも自分の娘は美しいと自慢したために、ネレーウスの祖父海神ポセイドンの怒りをかった。


ポセイドンは恐ろしい大鯨を送って、エチオピアの沿岸を荒らし回った。ケフェウスは、娘を生贄として捧げない限りポセイドンの怒りは収まらないという神託を受け、泣く泣くアンドロメダを海岸の岩に鎖で繋ぐ。


そこに通りかかった主神ゼウスの子ペルセウスは、持っていたメドゥーサの首を使って大鯨を退治した。彼はほうびとして彼女を妻にもらいうけた。二人は7人の子供をもうけて幸せに暮らした。ケフェウス、カシオペア、アンドロメダ、ペルセウスと愛馬ペガサスは、のちに星座となった。 (ギリシャ神話より)              ***********************************************                        
そのすぐ近くに、OTTOMAN時代(1515〜1917年)のものとされる古いキャノンが3門、海側を向いて並べられている。ヤッフォに攻め入る軍艦などをこれで迎え撃ったのだろうか?


OTTOMAN時代の大砲


世界遺産「テルアビブの白い都市(ホワイト・シティ)」
旧市街をしばらく探訪した後、バスに乗ってすぐ隣接のテルアビブの町へ移動する。ここに世界遺産の「白い都市」があるそうで、それを車上から見物しようというのだ。


テルアビブの中心地区では1920年代から1950年代にかけて、バウハウス様式(合理主義的で機能的なもの)やインターナショナル・スタイル(世界共通の様式)を採り入れた白や明るい色の建造物が建てられている。現在でもこうした建造物が市内で4000軒以上も見ることができるそうで、これらが一都市に集中しているのは類を見ないということで、その優れた例証として2003年に世界遺産に登録されている。


走る車窓から町並みを眺めると、別に変哲もない建物が立ち並んでいるだけである。観光客がただ眺めただけでは特徴がつかめないので、説明を受けないことには何も気づかない。だが、説明を受けてもよく分からないといった感じである。角の丸い建物がそうだと言うのだが、集団の建造物なので街中を歩き回ってみないと分からないのだろう。


白い都市のビル


同 上


人で賑わうテルアビブのビーチ


テルアビブの海岸沿いのストリート


最後の夕食
白い都市の1本のストリートを素通りして見物した後、ヤッフォへ引き返してレストランへ向かう。ヤッフォの通りのレストランへ入ってイスラエル最後の夕食となる。出された料理は海鮮料理で、何と珍しくもムール貝をはじめ、イカ、小エビ、魚のから揚げと、なかなかの種類豊富。これにデザートはスイカ、コーヒでしめくくる。


最後の夕食をとったレストラン前の通り(ヤッフォ市内)


空港へ
最後の海鮮料理でお腹を十分に満たすと、いよいよベングリオン空港へ向かって移動する。ここから帰国の旅が始まるのだが、飛行便の出発はまだまだ先の深夜0時30である。まだ4時間近くの余裕時間があるのだが、イスラエル出国は入国時より厳しい手続きがあるので余裕を見て早目に行こうというわけだ。


厳しい出国審査
空港に到着すると、さすがにまだ搭乗便のカウンター前には人の気配がなく、チェックインカウンターのスタッフの姿も誰一人として見えない。荷物のチェックは受けられるので、まだ誰も並んでいないチェックポイントに並んで待つ。


まだがらんとしたテルアビブの空港

間もなく女性の係官がやって来て事前調査の質問が始まる。われわれはグループなので、その中の1人が代表になって質問に応じる。添乗員さんやガイドさんは対応不可で、あくまでも一般観光客でなければいけないという。質問内容は主にどんな土産物を買ったか、他からもらった土産物や預かり物はないか、などのようだった。


質問が終わると、やっと荷物のチェックである。X線検査に通した後、各自の荷物はすべて全開されて中身を一つひとつチェックされる。これにかなりの時間がかかり、順番待ちの行列ができている。これが終わると、やっとチェックインができる。


私の場合は5kg程度の手荷物だけだが、X線検査を受けると、なぜか係官がそのままチェックインカウンターへ行ってよいと指示する。一人だけ早々にチェックを終わり、チェックインカウンターの前に並んで待つ。カウンターのスタッフはまだ誰も来ていない。


ようやく一行の皆も荷物チェックが終わり、カウンター前に並ぶ。時間が早いので、ここで立ち並んだまま、ずいぶんと長い時間を待つことになる。ようやくスタッフが現れ、チェックイン手続きが始まる。今度はいの一番なので文句なしに通路側の席が取れる。


チェックインが終わるとパスポートコントロールで出国手続きである。ここでもパスポートにスタンプを押さないように願い出ると、搭乗券にポンとスタンプを押してくれる。やれやれ、これでやっと出国OKである。


搭乗券の裏面に押されたイスラエル出国のスタンプ

出発ロビーに出ると、ここで長〜いこと待つことになる。免税店を見て回ると疲れるばかりだし、それではインターネットでもして時間をつぶそうと思い、通りかかった空港スタッフにその在り処を尋ねると、この空港にはその設備はないと言う。ということは腰かけてぼけ〜っと待つほかはないと言うことだ。ジュースでも飲もうとスタンドでオレンジジュース1杯を注文する。6ドルと高い。


テルアビブ空港の待ち合いロビー


離 陸
ようやく搭乗時間が来て搭乗開始となる。厳しいというから、搭乗ゲートでも荷物のチェックがあるのかと覚悟していたが、何のチェックもなく搭乗となる。出国の厳しさについては、昨年夏に体験したベネズエラのカラカスからアメリカ・ヒューストンへの出国に際しての場合が、イスラエルより厳しいチェックだった。質問チェックも英語が話せるか否かは問わず、すべて個人別のチェックを受け、その上、靴も脱がされ、さらに荷物検査は搭乗ゲートでも中身全開でチェックを受けた。


機内に入ると、指定の座席は珍しくも2階席で、なんだか特別席に座ったみたいな感じである。悦に入って離陸を静かに待つ。間もなく離陸となり、機は深夜のイスラエルの空に吸い込まれて行く。これで12時間は世話なしだ。次は韓国インチョン(仁川)空港で最後の乗り継ぎが待っているだけだ。


隣席にはやや太っちょの男性が腰かけている。普通なら話しかけるところだが、さすがに旅の疲労でその気力もなく、無言のまま目を閉じる。8日間のイスラエルの旅の思い出を静かにたぐっていると、いつの間にかうとうと眠り始める。機は水平飛行に移って静かに飛行する。      



(次ページは「インチョン空港乗り継ぎ&あとがき」編です。)

  









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