長崎の世界遺産とわが青春

ユネスコの世界遺産委員会は2015年7月5日、日本が推薦した「明治日本の産業革命遺産」(福岡など8県23施設)を世界文化遺産に登録することを決定した。

その中に、筆者の子ども時代から青春時代にかけて、かかわりの深いものが幾つかあるので、それを取り上げてみたい。


①「長崎:旧グラバー住宅」

 日本の 諮問機関が4日、日本の近代化を支えた8県11市の「明治日本の産業革命遺産」の世界遺産登録を勧告した。

 
「旧グラバー住宅」は、現在の観光名所となっているグラバー園の中にある。平屋建のコロニアル風の建物で、英国の商人・グラバー氏が住んでいた居宅である。長崎港を見下ろす南山手の斜面に位置し、明治時代に外国人の居留地となっていた景勝の地である。

 
筆者の子ども時代、家の近くだったこの一帯は、恰好の遊び場だった。外国人の住む洋館が何軒も立ち並んで、それが子どもの目には珍しく映った。日本住宅と異なり、広い庭園をもつので、なんだか遠い存在に思えた。仲間と連れ立って庭園内に入り込み、よく遊んだものである。

 
その中の一軒にグラバー住宅があった。ここから数十メートル離れた下部に「大浦天主堂」があり、現在ではこの2カ所が長崎観光の目玉となっている。天主堂を含め、この一帯には筆者の幼少時代の足跡が多数残っている場所だが、それが世界遺産になるとは・・・の思いである。
(案内)・・・現在のグラバー園  





②「端島炭坑(軍艦島)」
長崎港外に浮かぶ小島で、長さ480m、幅160mの細長い島である。三菱造船で建造された戦艦「土佐」に似ていることから、通称「軍艦島」と呼ばれる。長崎港から高速船で直行すれば約30分の距離。現在、1日に2便の観光船が運航されている。

 
戦後の日本経済を支えた石炭産業の一翼を担い、最盛期には人口5000人超が住んでいた。全島が高い護岸堤防で覆われ、そこに鉄筋コンクリート造の高層住宅が立ち並んで人口密度世界一と言われた。それも石油へのエネルギー転換で衰退し、無人島となった。

 
隣の島・高島炭坑に事務職として就職した筆者は、同じ三菱経営の端島炭鉱へ出張して、坑内視察に数回潜ったことがある。この島の炭層は傾斜が急で、そのため坑内への斜坑も急傾斜である。そこをトロッコに乗って下り、地底700mの採炭現場へ潜って行く。

 
端島の炭質は粉炭で強粘結炭だが、カロリーが高く、燃焼後の石炭ガラは高級なコークス製品になるものだった。ここの毎日の出炭トン数の記録を高島の分と併せて日々の統計日報を作るのが筆者の仕事だった。世界遺産登録で、観光客は一層増えるに違いない。
(写真)・・・端島(軍艦島)  




③「高島炭坑」
端島と同様、高島も長崎港外に浮かぶ島で、距離的には端島より手前にあってかなり大きな島である。ここも端島同様にエネルギーの石油転換により衰退し、閉山となる。しかし、現在も数百人の住民が暮らしている。この島から端島が遠望できる。

 
筆者は高校卒業後、旧三菱鉱業に事務職員として入社し、この高島炭坑に赴任した。ここで4年間の自由奔放な生活と2年間の受験勉強に明け暮れる計6年間の社員寮生活を過ごした。その間に妻と出会うなど、筆者の青春が埋もれる忘れ得ぬ島となった。

 
高島炭鉱でも職務上、採炭現場の視察に坑内に何度か潜る経験をした。地下へ潜る立坑は300m以上もあり、その穴に作業員を乗せるリフトがついていた。デパートのエレベーターと異なり、乗降するスピードは格段に早く、特に下りの時は体がズ~ンとするほどだった。

 
坑底から地上に出ると、ほっとしたものである。採炭現場では狭い空間に粉塵がもうもうと舞い散って息苦しい。いまこの瞬間に壁が崩落したら生き埋めになる。そんな環境の中で日本経済を支える石炭が掘られていたのだ。粉塵で真っ黒になった自分の顔が懐かしい。
(写真)・・・高島炭鉱跡

 

(高島全景)


④「小菅修船場跡」
ここは長崎市小菅町の戸町トンネルを出た所にある。左手下に斜面のドックが見える。上空から見るとソロバンに似ているということから、「ソロバンドック」の名で親しまれている。筆者は今でも毎週2回、バスの車窓からここを眺めながら通っている。

 
1868年に完成した日本初の西洋式ドックで、現在の三菱重工業長崎造船所の礎となった。戦時中には軍用艦艇、魚雷艇の建造、戦後には漁船の建造や修理に利用されたが、昭和28年に完全に閉鎖された。終戦直前には1人乗りの高速特攻魚雷艇が建造されていた。


小学時代の筆者は、このドックから徒歩5分の所に住んでいた。強烈な印象として残っているのが、米軍機による爆弾投下で、ドックの敷地に直径50mほどの大きなすり鉢状の穴できたことだ。50kg爆弾が投下されたとのことだった。この時、筆者は防空壕の中で震えていた。

 
このドックは戦時中とのいやな思い出とつながっているが、今でも前をバスで行き来する度に複雑な思いで車窓から眺めている。今では知る人ぞ知るで、ひっそりと斜面船台が静かに横たわっている。先日放映された「ぶらタモリ長崎編」で紹介されたばかりだ。
(写真)・・・小菅修船場跡  



⑤「ジャイアント・カンチレバークレーン&第三船渠」
この2つはグラバー園の対岸に位置する飽の浦地区にある。現在の三菱重工の構内にある。この大型クレーンは対岸のグラバー園から眺めても目立つ存在となっている。これより少し離れて右手側に位置するのが第三船渠(ドック)である。

 
当時小学生だった筆者は、父の仕事の関係で電気も通じない文化果つる?太田尾という小村の社宅に住んでいた。そこから山を越えて隣の西泊地区に出ると、そこからまた山を越えて立神の小学校に通っていた。この山の峠から三菱造船の船台が眺められた。
 

その船台の横にあるこの大型クレーンとその先にある第一、第二、第三ドックを峠から見下ろしながら通学していた。ある時、この第二船台で「戦艦武蔵」が建造され始め、船台全体が目隠しの防護幕で覆われていたのを思い出す。峠付近には警官がうろうろしていた。
 

「戦艦武蔵」が完成して出港する時は大変なものだった。造船側の一帯はもちろん、対岸のグラバー園側一帯も厳重な緘口令が敷かれ、各家庭は雨戸を閉めさせられ、戦艦を見ることを固く禁じられた。とは言え、雨戸の節穴から覗き見したものだった。

(写真1)・・・ジャイアントクレーン


(写真2)・・・第三船渠
 



当時の三菱造船船台:右側が戦艦「武蔵」を建造した第二船台


現在の船台


筆者が住んでいた太田尾の位置


筆者が住んでいた太田尾の位置


⑥「回顧編」
長崎市に存在する世界文化遺産は①「旧グラバー住宅」②「端島(軍艦島)」③「高島炭坑」④「小菅修船場跡」⑤ジャイアント・カンチレバークレーン」⑥「第三船渠」「旧木型場」⑧「占勝閣」の全部で8ヶ所。このうち6つが筆者の少年期から青春期に深いかかわりをもつ。
 
これらは造船業と石炭産業に関連する遺跡だが、これらと深く関わりを持ちながら成長してきたわけである。それができたのは、父の仕事関係で長崎市内を転々と移転したことによるもので、その移転先でたまたまこれら遺産と接触したわけである。
 
特に印象深いのは、当時は電気もなくランプでの生活を送っていた太田尾という場所(長崎港口にある)。ほんとに文化果つる場所といってよかった。だが、それと引き換えに海と山の自然にまみれて過ごした少年期の体験が今の筆者の人生に一つの大きなエポックをつくっている。
 
また端島(軍艦島)と高島は筆者の青春が埋もれた忘れ得ぬ島となっている。いま軍艦島は観光人気が高く、遺産登録が発表された翌日には通常の5倍の乗船予約が殺到している。しかし、島上陸に人数の制限があるため希望が叶わない人が続出している。また、風波があ日は欠航となるので上陸の条件が厳しい。端島が観光資源と
して脚光を浴びるのを見るにつけ、感慨深い思いである。 

                               
(完)
                         2015年7月記
 
                       向井 靖雄 





inserted by FC2 system