写真を中心にした簡略版はこちら→ 「地球の旅(ブログ版)」






     N0.1




妖精と戯れギネスが味わえる国・・・アイルランド
バグパイプの音にスコッチが味わえる・・・スコットランドの首都エジンバラ
ピーターラビットと絵葉書の世界が広がる・・・湖水地方



アイルランド&イギリス旅行日程(13日間)

日付 日数 ル − ト 泊数 タイムテ−ブル・内容
2006年
/26(月)

 成 田 → ロンドン → ダブリン 
   10:50発→14:55着(ロンドン)
16:50発→18:05着(ダブリン) 
 
  27(火)  ダブリン   市内観光
  28(水)  ダブリン  市内観光
  29(木)  ダブリン → ゴルウェー    2  鉄道で移動、その後観光
  30(金)  ゴルウェー
 観 光
7/1 (土)  ゴルウェー →ダブリン→ エジンバラ     13:20発 → 14:20着
   2(日)  エジンバラ  市内観光
   3(月)  エジンバラ→ウィンダミア(湖水地方)     鉄道で移動、その後観光
   4(火)    ウィンダミア  観 光
   5(水) 10  ウィンダミア   観 光
   6(木) 11  ウィンダミア → エジンバラ   1  鉄道で移動
   7(金) 12  エジンバラ → ロンドン →  機中  10:15発→11:40着(ロンドン)
13:50発 → 
   8(土) 13  成 田  − 9:10着



旅のコース






1.旅の準備

1年ぶりに独り旅に出ることにした。今度の旅の目的地であるアイルランドとスコットランドは、本サイトの閲覧者からの勧めもあり、また未知の地域でもあるので、かねがねから念頭に置いていた。そしてこの機会に、美しい風景で有名な湖水地方もめぐってみたいと考えた。また、リトアニアで出会ったスコットランド人の話では、「この地域のベストシーズンは7月でしょう。」という話も聞いていたので、その機会を狙っていた。時はめぐり、それが今回やっと実現することになったわけである。


航空券の手配
そこでまず、旅の時期を7月と決め、4月に入って航空券の手配を始めた。ところが、7月に入ると途端に料金が高くなることが分かり、その変わり目のぎりぎり6月末ごろの出発を考えた。次にエアーラインだが、アイルランドに渡るのにはKLMが便利とのことで調べてみると、料金比較ではBritish Airways が割安と分かった。


コースの検討
そこでこのエアーラインを利用することにし、コースの検討に入った。その結果、ロンドン経由→アイルランド(ダブリン)入りを決め、そこから英国エジンバラへ移動するコースを選んだ。これと反対にロンドンからエジンバラに移動し、そこからアイルランドに入るコースも考えられたが、初日の現地到着時間がダブリンの方が早目だったこともあり、最終的に前記のコースを選ぶことにした。


ダブリン〜エジンバラ間の航空券
これで日本〜現地間のチケットを確保し、問題のダブリン〜エジンバラ間の航空券の手配に入った。ところが、この区間はBritish Airways もKLMも就航便がなく、唯一アイルランドのエアー・リンガス(Aer Lingus )のみである。そこで、旅行社に当たってみると、その格安チケットは扱っておらず、普通運賃になるので約3万円ほどになるという。それではと、エアー・リンガスのHPで確認してみると、なんと29ユーロ(約4200円)、これに+税金+手数料を加えて計53ユーロ(約7600円)となっている。


そこで早速、オンラインブッキングし、チケットを確保した。これはチケットレスになっており、画面に出された内容をプリントアウトして現地に持参し、チェックインカウンターに提示すればいいことになっている。これで割安でチケットを確保し、旅行社が提示する料金より1/3以下でゲットすることができた。


宿の手配
次は宿の手配である。今度の旅は短期でもあり、すべて予約することにした。これで現地で宿を探す時間のロスが防げるからである。今はインターネットがあるので簡単にオンラインブッキングができ、ひところ昔とは様変わりである。まず、ホテルを当たってみると、大都市になればどの場所も高く、最低1万円〜2万円台と馬鹿高い。そこで1万円以下で泊まれるB&Bやゲストハウスを選ぶことにした。その結果、1泊7000円〜11000円程度の範囲で収めることができた。ユースはより安いが、地の利や年齢的なことを考えて敬遠することにした。ダブリン、エジンバラ、湖水地方のウィンダミアの3ヶ所すべてをオンラインブッキングし、ゴルウェーについては電話とメールでのやりとりで予約した。


こうして、チケットや宿の手配はすべてオンラインや電話ですませ、準備完了である。果たしてどんな旅になるのか、期待に心をときめかせながらヨーロッパの西端に向けて旅立つことになった。


2.アイルランドの首都・ダブリンへ

いよいよ出発の日、成田空港は生憎と雨模様である。降りしきる雨の中、定刻よりやや遅れて飛び立ったBritish Airways機は一路ロンドンを目指して飛行する。満席の機は日本海を渡り、サハリンの西上空を飛行しながらシベリア大陸に入り、ユーラシア大陸の北端沿いにモスクワ→ヘルシンキ上空と飛行を続ける。そして南下しながら飛行すると、間もなくロンドンに近づく。


Landing card
こうして12時間の飛行で、小雨にけぶるロンドン・ヒースロー空港に午後3時前到着。その間、出発後の昼食と到着直前に機内食が配膳され、その後ランディング・カード(入国カード)が配られる。このカードの記入項目は少なく、氏名・国籍・滞在先など簡素なものである。パスポートナンバーや飛行便名などの記入が要求されないので手間がかからない。


到着したロンドン空港は、気温14℃でややひんやりとしている。ここで乗り継いで、さらに最終目的地アイルランドへ飛行することになる。


アイルランド行き乗り継ぎの特殊性
アイルランドへの乗り継ぎの場合、次のように特殊な審査が行われる。機内シートのポケットにある日本語版案内によれば、アイルランド行きの乗客は降機したら「Flight Connections」の表示にしたがって進むようになっている。これは機内放送でも日本語で案内される。普通の場合、乗り継ぎは「Transit」の表示になっているのだが、ここ英国では前記の用語が使われている。


そこで、案内表示にしたがってかなりの距離を進むと、ようやく
“アイルランド”の表示が現れ、その方向に受け付けカウンターがある。そこで搭乗券を示すと、そこのパスポートコントロールで審査を受け、その後、10分ほど歩いて「××番〜○○番」のゲートに行ってくださいという。ここでは未だ搭乗ゲートナンバーが分からないらしい。


指示にしたがって、すぐ横手のパスポートコントロールで審査を受ける。ここは一般の入国審査ではなく、アイルランド行き旅行者のイミグレーションなのである。パスポートと航空券を提示すると、若い係官は「カンコウですか?」とにっこり笑いながら日本語で問いかけてくる。そこでこちらも日本語で応答する。いったいこれはどういうムードなんだろう? ロンドンでは何かとうるさい質問が行われるので身構えていると、案に相違して「何日滞在するんですか?」と簡単な質問だけで終了。あとは“HEATHROW”のスタンプをポンと押してくれる。あっけない審査である。


このスタンプから判断すると、英国入国の審査を受けたことになる。アイルランドに行くのに、なぜこのような手続きがなされるのか? 話によると、ロンドン経由の場合にかぎり、英国が代わって審査を行うらしいのだ。アイルランド政府からの委託らしいのだが、そこまでなぜ国家主権を委譲するのだろう? これには両国間の歴史的な経緯があるのだろうが、とても不合理に思えてしようがない。


とまれ、審査を終えて搭乗ゲートへ向かう。そこまで10分歩くと告げられたのだが、その通路のなんと長いことか。たっぷり10分超は歩かされた感じである。6kgを超える荷物を持つ身には、その重さがこたえる。モニターTVで搭乗ゲートを確認し、やっとベンチに腰を下ろす。


エアー・リンガスの機内サービスは有料
アイルランド行きエアー・リンガス機は30分遅れで搭乗口を離れたものの、離陸までに35分もかかってしまう。このヒースロー空港の混雑振りには、ほんとに驚かされる。なんと離陸待ちの飛行機が2列に並んで順番を待っているのだ。


雨のロンドン・ヒースロー空港


ロンドン空港近くの様子


やっと飛び立つと、水平飛行を待ちかねたように飲み物の機内サービスが始まる。いつもの調子でコーヒーを頼みカップを受け取ると、何やら話している。聞き返すと「支払いをお願いします。」という。無料とばかり思っていた私には寝耳に水のことで、「??!!」と脳内は混乱する。「これ無料ではないの?」と問うと、「有料なんです。」という。そこで「幾らなの?」と尋ねると、「2ユーロ(約300円)です。」という。仕方なく、成田で交換してきたばかりのユーロ通貨を早速支払う。(陰の声:それならそれと最初から言わんかい!)


二重の入国審査
目的地のダブリンへの飛行は、そのたっぷりとつがれたコーヒーをゆっくり飲む間もないほどの距離で、約1時間ほどでダブリン空港へ到着。だが、定刻より50分遅れの夕方7時前のことである。これでやっと目的地に着いたわけであるが、成田からロンドン乗り継ぎ待ち時間の2時間を加えて、都合15時間を要したことになる。なんと長いことよ!


ダブリン空港に近づいてきた


厚い雲に覆われたダブリン空港

でも、ありがたいことに、ロンドンの雨もこの地では止んでおり、雨上がりの風景が広がっている。「Arrival」の表示にしたがって進むと、入国審査である。「えっ、また入国審査なの?」。ロンドン経由の乗客はフリーパスにしてよさそうなものだ。それが皆一律に長い行列に並ばせ、入国審査を受けさせるとは何事だ! あのロンドンでの入国審査はいったい何だったんだ!! そんな思いが込み上げてきて憤まんやるかたない気持ちである。ようやく順番が来て審査を受ける。ここでは何日滞在するのかを問われただけで、アイルランド国のスタンプが押される。


ここで不合理に思うことは、アイルランドへ直接入国する場合は1回の入国審査で済むのに、ロンドン経由の場合のみ2回の入国審査を受けることになることだ。これはどう考えても腑に落ちない。ロンドン経由の乗客のみが無用の時間と手間をかけさせられることになる。ロンドン経由ということに、いったいどんな問題があるというのだ!


つのる憤まんを抑えながら、とまれアイルランド・ダブリン空港に第一歩を印す。荷物受取所の横にエアー・リンガスのカウンターがあるので、まずはそこでエジンバラ行きチケットのリコンファームを行う。そして、預け荷物はないので、そのまま到着ロビーへ。税関審査は何もなく、フリーパスである。


ダブリン市内へ
空港玄関を出ると、目の前に市内各コース行きのバス停が並んでおり、2階建てのダブルデッカーバスが停まっている。宿がダブリン市内中心部近くなのでシティセンター行きのバスを選んで乗り込む。中心部まで半時間の距離だが、片道料金5ユーロ(750円:チケットはドライバーから購入できる)とけっこう高い。荷物があるので1階に席を取ると、間もなく出発である。ダブリン空港〜シティセンター(市内中心部のオコンネル通り)間は、この空港バスが10分〜15分間隔で走っている。


アイルランドという国
車窓から流れる街の風景を眺めていると、とうとうヨーロッパ最果ての国アイルランドに来たのだなあという思いがわいてくる。ここで、アイルランドのことについて少々触れることにしよう。


この国は北大西洋地域にあってイギリス(ブリテン島)に寄り添うようにヨーロッパの最西端に位置する人口392万の国で、北海道とほぼ同じ国土面積を有している。国名はアイルランド、首都はダブリン、言語はアイルランド語(ケルト語)及び英語で人口の約88%がカトリック教徒である。1973年にECに加盟し、現在の通貨はユーロとなっている。


歴 史
この国は今なお、プロテスタント教徒とキリスト教徒の対立という根深い問題を抱えた国である。その歴史をたどれば、アイルランド島に最初に人々がやってきたのは紀元前7000年ごろと考えられ、スコットランドから渡って来た狩猟民族(ピクト人)が居住していた跡が発見されている。紀元前3世紀ごろになると、ローマ帝国やゲルマン民族に追われるように鉄器文化をもつケルト民族が渡って来る。5世紀になると聖パトリックが渡来し、ケルト社会のキリスト教化につとめ、初期キリスト教の時代に入る。


9世紀から10世紀の始めにかけて北欧のバイキングが内陸部へと攻め入り、交易を営みながら商業都市を各地に建設して行く。12世紀になるとアングロ・ノルマン人が侵入し、その貴族たちとイギリス国王の支配が進んでいく。17世紀初頭になると、抵抗勢力のアイルランド人領主連合がイギリス国王ジェームス1世によって鎮圧され、アルスター地方に英国国教会などのプロテスタントを多く移入する。これによって当地域はプロテスタントが支配する地域となり、現在の北アイルランド問題の起源となっている。この地方のカトリックのアイルランド人は追放され、移住してきたプロテスタントは規模を拡大して、他の地方とは異なる社会が形成されて行く。


1800年、合邦法によりアイルランドは完全にイギリスに合併されることとなる。当時の人口は450万人、そのうちプロテスタントが50万人でそのほとんどが地主階級、その他の315万人のカトリック教徒の大半は農業労働者か小作人であった。


1845年に発生したジャガイモの胴枯れ病によって、それを主食とするアイルランド人は大飢饉に見舞われ、チフスの流行とあいまっておよそ100万人の死者を出すこととなる。その後、内乱の危機をはらみながらもイギリスからの独立運動が展開され、ようやく1921年、イギリス連邦自治領として認められることになる。1949年にはアイルランド26県のイギリス連邦よりの離脱を宣言し、悲願のアイルランド共和国が成立する。しかし、北アイルランドはイギリス連邦の自治領として残ることになる。


この後も北アイルランドでは南北統一をスローガンとするカトリック系武装組織IRAの襲撃や根強い民族主義紛争が続いている。しかしイギリス、北アイルランド、アイルランド共和国の三者会談で現実的解決策を協議するなど、前進する努力が払われた。その後、IRAの停戦決定を経て、1998年には和平合意がなされ、現在その実行実現が推し進められている。


妖 精
こんな複雑で紆余曲折の歴史をもつ国ではあるが、その国土にはぐくまれた様々な文化が花開いている。なかでも妖精は、この国と密接な関係を持っている。妖精伝説はアイルランドが発祥の地だと考えられており、その起源はアイルランドの先住民であるケルトの神々の名残、自然の擬人化、土地の精霊、この世をさまよう死者の魂など、諸説があげられている。こうした土壌を背景に、多くのファンタジーの傑作が生まれており、その代表がピーターパンと言えるのだろう。


ギネス
イギリス、アイルランドに限らず、世界各国のどのパブにも必ず置いてあるビールといえば、ギネスビールであるが、それほどこの愛飲家が多いということである。だから、これがなくてはパブも開けないというわけだ。現在、世界の150ヶ国で飲まれているというこのビールは、アイルランドが発祥の地なのである。アーサー・ギネス氏がダブリン郊外で醸造工場を創業したのが始まりである。


ギネスはビールだけではない。かの有名な“世界一”を収集した本である「ギネスブック」はギネス社の関連会社「ギネス・ワールド・レコード社」が発行しているもので、さまざまな分野の世界一を認定、掲載している。これはギネス社の社長が仲間と狩りに出かけた時の出来事がきっかけで、1951年にギネスブックの初版を発行している。


首都ダブリン(Dublin)
ダブリンはアイルランドの首都で、パリやウィーンに次ぐ芸術の都でもある。ケルト文化と妖精の神話は今でも深く人々の生活に根付いており、熱烈なカソリックへの信仰はプロテスタント国教会を持つイギリスとの間に軋轢を生み、幾度となく激しい闘争を繰り返してきた。そんな波乱の歴史の中で、10世紀以上の間この国の文化の中心であり続けてきた街でもある。現在人口は100万人で、ヨーロッパから多数の観光客が訪れる国際都市でもある。


今宵の宿へ
バスは市内の中心部に入り、ダブリンのメインストリート・オコンネル通りに差し掛かる。この通りは4車線で中央に広い分離帯が設けてある。乗車の際に、この通りで降りたい旨を女性ドライバーに告げていたが、忘れずにここがその停留所だと教えてくれる。降りる際に、
Parliament 通りはどこかを尋ねると、向こうの川を越えた所だと教えてくれる。


ダブリンのメインストリート・オコンネル通り


オコンネル通り(中央分離帯の上より撮影)

礼を言って下車すると、まずは川の方向へ歩き出す。市内中心部には
Liffey川が流れており、これを堺に南北に街が広がっている。とはいうものの、川がどの辺りなのかよく分からない。しばらく歩いて若い通行人に尋ねる。すると、こちらの方だというので、メインストリートから横に入って行く。方向を間違ってはいけないので、間をあけずに、再度別の人に尋ねる。すると今度は、向こうの方だというので引き返す。おやおや、川はいったいどちらの方向なんだ! 尋ねるたびに方向が違う。若い人はどうも当てにならない。


そこで今度は、年配の婦人に尋ねてみる。すると、「あなたは反対の方向へ来てますよ。川はあちらなんですよ。そちらへ行くと橋が見えます。」と教えてくれる。重い荷物を持っているのに、とんでもない方向へ来たものだ。婦人の言葉を信じて再びメインストリートに戻り、てくてく歩き出す。念のために、もう一度通行人に尋ねてみる。やはり方向は間違いないようだ。オコンネル通りをしばらく進むと、その末端にやっと橋が見えてくる。ここまで来るのに、かなりの時間を費やした。気温はひんやりとしているが、冬のジャケットを着て歩いていると汗ばんでくる。


市内を路面電車が走っている


街の中心を流れるLiffey川。水は濁って汚れている。

日本を発つ前に、到着が遅くなる旨の連絡を宿にしていたのだが、その折に宿までの行き方を尋ねておいたのだ。それによると、オコンネル通りで下車し、あとは尋ねればすぐに分かるとのことだった。ところが、不慣れな土地では、なかなかそう簡単に行くものではない。だが、ここまで来れば、あとは分かりやすいはずだ。地図を広げて宿の位置を示し、店の人や通行人など、何人もの人に聞きまくりながら歩いて行く。この季節のヨーロッパは日暮れが遅く、9時過ぎまではカンカンに明るいので助かる。


こうして尋ね尋ねて探し回り、この街一番の盛り場テンプル・バーの向かいにやっと宿を見つけたのは夜8時半のこと。バスを降りて宿に着くまで30分もかかっている。地理を知りながら歩いても、15分近くはかかる距離のようだ。宿のあるParliament 通りは短く目立たないストリートなので、近くの人でもなかなか知らないわけだ。しかも、このゲストハウスの入口はドア1枚分の間口しかないちっぽけなもので余計に目立たないのだ。


ようやくこの入口を見つけ、階段を上って2階のフロントに至る。予約は間違いなく確保されており、早速チェックインを済ませ、それぞれ建物入口と自室のキーの2本をもらって部屋へ入る。そんなに新しくはないが、ダブルベッドが置かれシャワー室も区別されて、まあまあの部屋である。部屋のコーナーにはティーセットも置かれ、湯沸しポット、コーヒーに紅茶、砂糖にミルクがちゃんと備えてある。これはありがたいことだ。


荷物を置くや否や、外に飛び出て周りの様子を探索する。道路向かいにはテンプル・バーの通りが見え、団体の観光客が引率されて見学している。そう、この盛り場の通りはダブリンの有名な観光スポットにもなっているのだ。だからダブリンに来た観光客は、一度はこのテンプル・バーを見学に来るところでもある。



 ダブリンの盛り場テンプル・バーの賑わい。この一画がテンプル・バー界隈になっている。



夕暮れのDame Street 。左側がテンプル・バー界隈。




ふと向かいの通りを歩いていると、コンビニ店を見つけ、そこで早速バナナ2本、オレンジ1個を仕入れる(合計で2ユーロ足らず=300円足らず)。もう9時ごろというのに、空は明るく、やっと夕暮れになった感じである。時差ボケもあるので、今日の散策はこれぐらいにして明日に備えよう。


部屋に戻ると、すぐにお湯を沸かしてコーヒーを入れ、日本で食べ残しのパンと、先ほど買ったバナナやオレンジで夕食とする。今夜はこれで辛抱だ。その後は洗濯、シャワーを済ませ、やっと床に入る。夜10時、ダブリン第一夜はこうして暮れて行く。



(次ページは「ダブリン市内観光」編です。)










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