写真を中心にした簡略版はこちら「地球の旅(ブログ版)」   





   N0.4



6.ベナレス観光……仏教の聖地・サルナ−ト、「初転法輪像」、ヨ−ガ
             教室

 
3日目。寝台車のベッドの上で時折目が覚めると、列車はいつも止まっている様子で走っている気配がない。それが駅でもない所で止まっているようだが、信号待ちでストップしているのだろうか? この様子では到着はいつのことになるのやら……そんなことを考えながらまた眠りに落ちる。
 

夜明けの車窓風景
こんなことを何度か繰り返しているうちに、窓外はかすかに白み始め、夜明けが始まっている。動く寝台車の上でも結構眠ったようである。ベッドから注意深く下りて、窓のカ−テンをそっと開いてみる。その向こうにはインドの静かな夜明けの風景が朝もやの中に広がっている。田園風景のようで、その中に森の黒い影が早暁の空に素敵なシルエットを見せている。今日も快晴のようだ。
 

夜明けの田園風景


夜明けの車窓風景

再び上段ベッドによじ上り、今は快適に走る列車に揺られながら、しばらくぼんやり過ごしていると、周りの乗客たちもぼつぼつ目覚め始めたようだ。しばらくすると、狭い通路をチャイ売りのお兄さんが往き来し始める。車内の朝はチャイ売りで始まるのだ。時計を見ると6時を回っている。到着予定は7時半なのだが、果たして何時に着くのだろうか? しょっちゅう信号待ちの長い停車があっているようだったから、大幅な遅延になるのもかもしれない。インドの鉄道事情では、これも想定内というところか……。
 

ベッドのシ−ツと毛布を畳んでいると、車掌がそれらの回収に回ってくる。下段ベッドを畳んでシ−トに戻すと、そこに2人ずつ向かい合わせに腰掛ける。車窓に流れる田園風景を眺めながら、みんなで朝の会話が始まる。今日の旅の始まりである。本日の行動予定は、まず宿泊ホテルにチェックインし、そこで朝食。その後、ベナレス郊外にある仏教の聖地・サルナ−トを観光、そして午後はヨ−ガ教室でヨ−ガの指導を受けることになっている。
 

ベナレス到着
しばらくすると、窓外の風景に変化が見え始める。これまでの田園風景から住宅が点在する風景に変わっていく。ベナレスの町に近づいたようで、どうにかたどり着けそうである。いよいよ建物密集地帯に差しかかったかと思うと、列車は7時50分ベナレス駅のホ−ムに静かに滑り込む。デリ−を出発してから13時間20分後のことである。到着予定より20分の遅れだが、これくらいの遅延であれば申し分ないことである。あんなに一時停車が頻繁にあったようだが、よくこの遅れで収まったものである。当初から待ち時間を織り込んだダイヤになっているのだろうか?


ベナレスの駅のホーム
 
ベナレスのこと
ここベナレスの町はガンジス川沿いに位置する都市で人口約116万人。ワ−ラ−ナシ−県の県都であり、またヒンドゥ−教、仏教の聖地として重要な都市でもある。ところが、この地名の呼び方には、次のようにいろいろあってややこしい。

・バナラシorヴァラナシorヴァ−ラ−ナ−スィ−(Varanasi)……独立後の
                                      正式名称。

・ベナレスorベナリ−ス(Benares)……イギリス植民地時代の呼称。日本
                  語ではベナレスが一般的に使われている。

・バナ−ラスorバナラス(Banaras)……現地での一般的な名称で、現地
            の人はこれで呼んでいる。バナラスは日本語的発音。
 

ここベナレスは紀元前6世紀〜5世紀頃、この地にあったカ−シ−国の首都として栄え、歴代王朝の支配を受けていたが、その後12世紀に入るとイスラム勢力に征服され、町は破壊されるにいたる。16世紀のムガル帝国のもとではイスラム、ヒンドゥ−の共存が図られ、ベナレスの再建が進んだ。それが17世紀に入って6代皇帝になると聖像崇拝禁止の方針で多くの宗教施設が破壊され、現存の建物の多くは18世紀以降に建てられたものである。18世紀後半よりイギリス東インド会社の進出でイギリスの統治下に置かれ、ベナレスという呼称はこの統治時代のものである。

                    (ベナレスの位置)               


ホテルへ
やおら腰をあげてホ−ムへ降り立つ。ス−ツケ−スはポ−タ−が運び、出口へ向かう。線路をまたぐ陸橋を渡っていると、駅舎の屋根の上にサルの群れが飛び回っている。駅でお猿さんの出迎えを受けるとは想定外のことである。何を餌に生活しているのだろう? そんなことを思いながら階段を下りると、その前の広場にはすでにバスが待っている。白塗りの天井の高い(というより床が高い)瀟洒なバスである。客待ちの何台ものオ−トリクシャ−も並んでいる。 


陸橋から見た駅のホーム


駅舎の上にはサルの群れが・・・


この白バスがチャーターバス


客待ちのオートリクシャーが並ぶ

一行の荷物を運び入れたところで、ホテルへ向けて出発である。これでやっと旅装が解ける。しばらく走ってホテルに到着。幸いなことに、部屋が空いているということで、早朝からのチェックインを受け入れてくれる。このホテルはなかなかデラックスで、昨夜のホテルとは雲泥の相違である。昨夜はランクがちょっと低すぎたようだ。
 

朝食はバイキング料理
部屋に入ると、そこからの眺望はなかなかのもので、市内の様子が丸見えである。ヒンドゥ−教の聖地だけあって町の規模も大きく、コンクリ−トの建物が意外と目立つ。ここで洗面を済ませると、早速朝食へ出向く。インド料理が並んだバイキング料理である。ナン、ライス、パン、ヤキソバ、玉子料理、ス−プ、カレ−、チキンのカレ−煮、サラダ、リンゴ・バナナなどのフル−ツ類、ヨ−グルト、コ−ンフレ−ク、ジュ−スなど、なかなかのご馳走である。
 



ホテルの窓から眺めたベナレス市街の風景





サルナートへ
食後の一息を入れると、この町の郊外10kmのところに位置する仏教の聖地サルナ−トの観光へ向かう。バスに揺られながら車窓から飛び込む町並みの風景を物珍しげに眺めていると、やがて30分ほどで到着。


サルナートへ行く途中の風景


山積みした果物を売っている


砂糖キビやイモを売っている

静かな森に囲まれた聖地サルナ−トは四大仏教遺跡(釈迦誕生の地であるルンビニ、釈迦が初めて悟りを開いた地ブッダガヤ−、釈迦が初めて説法をした地サルナ−ト、釈迦の最期の地クシナガ−ル)の一つで、悟りを開いた釈迦がここで5人の弟子を前に初めて法を説いた場所である。この説法で仏教が初めて成立したといわれる。つまりその説法の瞬間にここで仏教が誕生したというわけである。仏教誕生の地にはるばる海を越えてやって来たのかと思うと、仏教徒としては実に感慨深く、また感銘深いものがある。
 

鹿野園
ブッダガヤで悟りを開き、説法を決意した釈迦は、古来より宗教上の聖地と見なされ多くの人々が集まるベナレスへ向かう。ブッダガヤからこの地まで300kmの道程を徒歩で向かったという。そして、その郊外のサルナ−トでかつて苦行を共にした5人の旧友に会い、彼らを前に「中道」(仏教の基本的教義の一つ)のあり方などを説いたという(初転法輪)。この5人の修業者たちはその説法に感銘し、釈迦の弟子(仏弟子)になったという。この時、説法を聞いたのはこの5人と周りにいた鹿だったことから、この地を鹿野園(仏典での名称・ろくやおん)とも呼ばれている。現在、遺跡一帯はDEER PARKとなっている。
 

ムルガンダ・クティ寺院
バスを降りると、まずムルガンダ・クティ寺院を訪れる。入口門を入ると、長い通路の両側にはカラフルな旗がはためき、高い尖塔をもつ寺院へと誘導している。


ムルガンダ・クティ寺院

この寺院の歴史は新しく、1931年に建立されたものだという。だが、ここには釈迦の遺骨(仏舎利)が祀られているのだ。それだけでも、すごいことである。なにせ釈迦の存命期間は紀元前5〜6世紀のことのなのだから……。
 

靴を脱いで寺院の中に入ると、それほど広くはないが天井の高いがらんどうの長方形の部屋があり、大理石張りの床が広がっている。そして正面奥の祭壇には座禅を組む金色の釈迦如来像が祀られている。柔和で慈悲深いその姿に接すると、思わず手を合わせ、こうべを垂れてしまう。


金色の釈迦如来像

これは5世紀頃の作とされる傑作・初転法輪像のレプリカで、そのオリジナル仏像は近くの博物館に安置されている。これは一枚石に彫り上げられた見事な石像で、このサルナ−ト遺跡から出土したといわれる。釈迦の最初の説法を描写した傑作とされている。(→こちらを参照)
 

ところが、この石像の鼻が少し欠けている。これはイスラム勢力の破壊行為によるものらしく、偶像崇拝を排除するために破壊したらしい。しかし、仏像の全体を粉々に壊してはいない。数ある仏像を破壊するのも大変な作業で、それを避けるためにほんの指先1本とか、耳一つなど、仏像のほんの一部を破壊して作業の合理化を図ったらしい。イスラム勢力は、仏教徒が瑕疵のない完全な仏像でなければ信仰の対象にしないということを知って、そのような行為に及んだという。博物館には、一部を傷つけられたそんな仏像が多数置かれている。
 

寺院の壁画
祭壇の前にはちょうど今、信者のグル−プが来て説法を受けている最中である。他国から遠くはるばると来院したのかどうかは分からない。祭壇の置かれた前方壁面を除く後方の3壁面には、少しの隙間もないほどびっしりと釈迦の誕生から涅槃までの生涯が見事な壁画で埋め尽くされている。これは日本人絵師、野生司香雪氏が大菩薩協会より日本政府を通じて委嘱を受けて作成に当たったもので、仏紀2498年より同2502年にいたる4年の歳月をかけて描かれたという。これにかかわる費用は英国人ブロ−トン氏の寄付をはじめ、制作者本人及び日本政府、それに日本やインドの篤信者の寄付によって支えられたとされる。作者本人がそのことを記した掲示が壁面の片隅に掲げられている。    
 

釈迦誕生の図(左側)


菩提樹の下で悟りを開く


布教して回る


涅槃の図


野生司香雪氏が記した掲示文

釈迦説法の像と菩提樹
この寺院の建物のすぐ右手には大きな菩提樹が茂り、その下には釈迦が5人の仏弟子を前に説法をしている等身大の像が置かれている。あまり風格のない人形像だが、ここでの説法が仏教誕生となったことをしのばせるには十分だろう。この像の背後には大きな菩提樹が天高く茂っているのだが、これは曰く因縁のある特別の菩提樹なのだ。
 








 初説法の像
 後方はゆかりの菩提樹
















大きくそびえる菩提樹。右手に像がある。

というのは、ブッダガヤの菩提樹の下で釈迦は悟りを開いたのだが、なんとその記念すべき菩提樹の根分けをして分植されたものがこの菩提樹だというのである。仏教信徒にとってみれば、なんとも有り難く、感動的な樹木なのである。ふと見ると、この説法像の横に係の人がひっそりと木の葉を持って立っている。なんと、この菩提樹の落ち葉を拾い集めて参詣者に記念物として配っているのである。これは有り難いことだと、釈迦に縁のあるこの記念葉を1枚いただくことにする。









 記念に持ち帰った菩提樹の葉














 



(次ページへつづく・・・)










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