写真を中心にした簡略版はこちら「地球の旅(ブログ版)」   







   N0.1




カンジスの流れで身を清めるヒンドゥーの聖地ベナレス
茂る菩提樹に釈迦への思いを馳せる佛教の聖地サルナート
完璧な均整美を見せながら白亜に輝くインドのシンボル・タージマハル

・・・ここにインドの原風景が見える・・・



インド旅行日程(8日間)

日付 日数 ル − ト 泊数 タイムテ−ブル・内容
2005年
11/10
(木)

 成田 → デリー 
   12:00発 → デリー18:00着
 
    
  11(金)  デリー → ベナレス   車中 夕方まで市内観光
18:30発 → 07:30着(寝台車)
  12(土)  ベナレス    佛教聖地サルナート観光
ヨーガ教室を体験
  13(日)  ベナレス → カジュラホ     ガンジス川の沐浴風景見学
13:00発 → 13:30(空路)
カジュラホ寺院群見学
  14(月)  カジュラホ 〜 ジャンシー → アグラ    オーチャー遺跡見学
新幹線18:20発 → 9:00頃着
  15(火)  アグラ タージマハル、アグラ城見学
ケオラデオ国立公園
  16(水)  アグラ→ジャイプール→デリー →成田  機中 アンベール城、風の宮殿観光
22:40発→
  17(木)  成 田    →9:00着


(旅のコース



1.インドという国
 
今度の旅は北部インドをよくかけ巡ったものである。夜行列車、新幹線、バスを乗り継ぎながらデリ−、ベナレス、カジュラホ、アグラ、ジャイプ−ルの5都市の間を走りに走りまくったという感じである。ハ−ドな行程ながらも、見所いっぱいの地域だけに、疲れを忘れながらかけ巡る旅でもあった。いま、BRICs(ブラジル、ロシア、インド、中国など台頭しつつある新興大国のこと。BRICsはそれぞれの頭文字を組み合わせた造語)の一角として世界的に注目を浴びているこの魅力あふれるインドとはどんな国なのだろう? 以下にその概要をまとめてみよう。

・正式国名 インド共和国

・国土面積
328万7263kuで世界第7位。第1位はロシア、3位は中国、5位はブラジル。

・世界遺産
インドには19ヶ所の文化遺産と5ヶ所の自然遺産の計24ヶ所がある。(日本12ヶ所)

・人 口

インドは10億5000万人で世界2位。第1位は13億人の中国。中国の年間人口増加率は0.9%であるのに対し、インドのそれは1.9%となっており、今世紀中には中国を追い抜いて世界一の人口になると予想されている。

・首 都 ニュ−デリ−
このほかムンバイ(旧ボンベイ)、コルカタ(旧カルカッタ)、チェンナイ(旧マドラス)がインド四大都市。デカン高原南部のバンガロ−ルやハイデラバ−ドは特にIT関連ビジネスで注目を浴びている。

・人 種 インド・ア−リヤ族、ドラビダ族、モンゴロイド族など。

・言 語 公用語はヒンディ−語、他に憲法で公認されている州の言語が1
       8。

・宗 教 
ヒンドゥ−教徒82.7%、イスラム教徒11.2%、キリスト教徒2.6%、仏教徒0.7%

・通 貨 ルピ−(為替レ−ト:1ルピ−=約2.8円……05年12月現在)

・インド略史
*5000年前のインダス文明に始まる。パキスタン領内にあるモヘンジョダ
  ロ、ハラッパ−が有名。

*紀元前1500年頃、中央アジアから騎馬民族ア−リア族がインドに進
  出。カ−スト制度などが定着。

*その後、ブッダによって仏教が興り、紀元前250年頃にはアショ−カ王
  による布教で全国に広まる。その後、復興したヒンドゥ−教との共存が
  続く。

*紀元1200年頃からイスラム勢力の進出が始まる。1556年のアクバ
  ル帝即位から約100年がイスラム系ムガル王朝の最盛期。

*その後、西洋列強の進出が始まり、1877年にイギリスによって併合さ
  れ、以後100年間イギリスの植民地となる。

*1947年、マハトマ・ガンジ−らの活動によってイギリスより独立。しか
  し、宗教的対立から結局、パキスタン・インド・セイロンの3つに分裂
  独立。その後、パキスタンからバングラデシュが分離独立して現在に
  いたる。この分裂独立の際の国境線の引き方についてインドとパキ
  スタン双方にかなりの不満が残り、現在でもテロを頻発させる複雑な
  問題となっている。

・ヒンドゥ−教
ヒンズ−教徒が人口の8割を超えるインドでは、これを抜きにしては語れない。上述の略史に見たように、紀元前にインドに入ってきた肌色の白いア−リア族は、バラモン教という宗教を信仰していた。これは雷、火、雨、水など自然界のさまざまな物を神として崇拝する多神教である。支配者であるア−リア人は自分たちの都合のいいようにバラモンと呼ばれる司祭者を最高権威者とし、次いで政治や軍事にたずさわるクシャトリヤ(王族、貴族、武士)、農業や商工業に従事するビアイシャ(庶民)、ア−リア族に征服された人々を中心とするス−ドラ(隷属民)といった身分秩序の原形をつくった。その後、これが細分化されて発達し、カ−スト制となった。


紀元前6〜5世紀になると、クシャトリヤやビアイシャが従来のバラモン教に不満を持ちはじめ、新たに成立したジャイナ教や仏教を支持するようになる。その後、仏教はインドの隅々まで広まっていく。一方、バラモン教は土着の信仰や仏教の影響なども取り入れてヒンドゥ−教という新たな宗教に発展した。4世紀頃になると仏教は衰え、ヒンドゥ−教がインドに根付いていった。


ヒンドゥ−教はバラモン教と同じく多神教で、破壊の神シヴァ、維持の神ヴィシュヌ、創造の神ブラフマ−の3神をはじめとして、無限に近い神々を信仰し、民衆の間に浸透していった。宗教といっても特定の教祖や体系化されたものはなく、教義としては創造→存続→破壊の過程が永遠に繰り返されるとする輪廻の思想を説き、煩悩に満ちた輪廻の世界からの解脱を究極の理想としている。

・軍事力
兵役は志願制。陸軍110万人、海軍5.5万人、空軍17万人。98年5月、二度にわたる地下核実験を実施して以来、信頼できる最小限の核抑止力を保持するとしているが、核実験の自発的な停止を継続。ミサイル開発は継続。

・主要産業 農業、工業、鉱業

・主要貿易品目(03年)
輸出……宝石、衣料、綿糸・綿布、医療品、石油・石油製品
輸入……石油・石油製品、宝石類、電気製品、金、機械類

・主要貿易相手国(03年)
輸出……米国、UAE、香港、英国(日本は11位)
輸入……米国、中国、ベルギ−、スイス(日本は8位)

・経済概況
1947年の独立以来、混合経済体制下で重工業を重視し、輸入代替工業化政策を進めてきたが、91年外貨危機を契機として経済自由化路線に転換し、諸種の経済改革政策を断行した。その結果、90年代中盤には3年連続で7%を超える高い実質成長率を達成。2000年に入ってやや落ち込んだが、03年には8.2%と高成長を達成した。経済改革派のシン首相が1年半前の就任以来進めてきた外貨導入や民営化の成果が開花し、個人消費にも火がつきつつある。今年(05年度)の経済成長率は8%台が確実視されている。インドの国内総生産(GDP)は15年ころイタリア、32年には日本に追い付くと予測されており、中国、アメリカに次ぎ世界3位になると予想されている。

・日本の経済協力(04年)
有償資金協力1344億円、無償資金協力30億円。主要援助国の順位は1.英国、2.日本、3.オランダ、4.米。デリ−の高速都市鉄道「デリ−メトロ」は日本の政府開発援助(ODA)によるものである。

・教育制度
州によって異なるらしいが、基本的には10(小学校5年、中学校3年、高等学校2年)・2(上級高等学校2年)・3(大学3年)制をとっている。この上に大学院2年がある。就学率は初等教育71%、中等教育(高校)49%(2000年)で、2001年における識字率の比率は総人口の36%に過ぎず、6億7000万人が非識字者人口となっている。

・カ−スト制度
日本の被差別部落とよく比較されるヒンドゥ−教にまつわる身分制度で身分や職業を規定している。紀元前13世紀頃にア−リア人のインド支配に伴い、バラモン教の一部としてつくられた。カ−ストは基本的には4つ(1.司祭など神聖な職につくブラフミン、2.王族や武士などのクシャトリア、3.商業や製造業などにつく平民としてのビアイシャ、4.人々の嫌がる職業にのみつくことができるス−ドラ。この階級はブラフミンの影にすら触れることはできない。)の階級が設けられ、親から受け継がれるだけで、生まれた後にカ−ストを変えることはできない。現在は憲法で禁止され、表面的には消滅したかに見えるが、現実は地方の農村などでは厳しく厳然として存在しているという。

・日本からの投資事情
日本の個人投資家はインドに熱い視線を送る。インド株で運用する投資信託の残高は04年9月末の約20億円から、今年05年9月末には250倍の5千億円を突破した。(この項05年11・14日付、日本経済新聞) 

・自動車事情
インド自動車工業界によれば2006年3月期の自動車生産台数は前年度比10%以上増え約140万台に迫るという。5年後の10年には自動車生産でインドの世界10指入りが視野に入ったといわれる。(この項05年11・14日付、日本経済新聞)

・携帯電話事情
世界最速の成長市場といわれる携帯電話市場。その加入者が06年にも1億人を超えると予測されている。(この項05年11・14日付、日本経済新聞)

・IT産業事情
南インドのカルタナカ州にある都市バンガロ−ルは、インドのシリコンバレ−として世界的にも有名で、86年の米大手半導体企業テキサス・インスツルメンツが進出して以来、IBM、モトロ−ラ、インテルなど大手IT企業のほとんどが進出している。その背景には、バンガロ−ルがインドの国防戦略を下支えする軍事技術都市だったこと、インド科学大学院大学がある科学技術の先端都市であること、それにアメリカなどに頭脳流出したインド人たちが帰国し、次々とベンチャ−企業を設立したことなどがあげられている。


インドのITサ−ビス産業は、海外企業から受託したソフトウエア開発業務を中心に急成長を遂げている。この躍進の原動力は教育にあると言われている。インドでは数学と科学が知的教養として長年重要視されてきたため、生徒たちの多くは数学と科学を好むとされ、それが純粋な頭脳集約型のソフト産業を支えている。さらにエリ−ト層のインド人は例外なく英語に堪能なのも強みとなっている。優秀な人材の多くは米国の大学に留学する。そのまま現地の有力企業に就職する人々は米国との橋渡しとなり、ソフトウエアの米国への輸出が66%以上と突出している背景には彼らの存在が大きな意味をもつ。さらには、これらの人的資源が帰国して、母国のIT産業の基盤を支えている。


2004年度のインドのソフトウエア輸出額172億ドル(約2兆円)の大半は欧米向け。取り引きが増えているとはいえ日本向けは3%程度にすぎない。しかし、日本の携帯電話や家電製品でも静かにソフトのインド化が進んでいる。英語を媒介に欧米企業を主な顧客としてきたインドのソフトウエア産業だが、言葉の障壁が低くなれば日本向けの輸出比率が高まることは間違いない。(この項05年11・15日付、日本経済新聞)


また、1989年には世界で初めてHotmailとしてEメ−ルを発信したという。これもイギリスの植民地だったお陰で英語に強く、この面で先進することができたのだという。その意味で、イギリスの100年間におよぶ植民地化は感謝こそすれ、反感を持つものではないという。(現地ガイド氏談)

・鉄道事情
「列車の時刻表はあるが、それはあってもないに等しく、当てにならない。」とは添乗員さんの嘆きの声である。そんなインドの鉄道はどうなっているのか? 英植民地下の1853年、綿花や紅茶などの産品を内陸から積み出すため初めての鉄道が開通。アジアで最も早かった。独立後の1951年、国有化。国営インド鉄道という単一の事業者が持つ鉄道網としては世界一の規模。植民地時代は広軌、狭軌が混在したが、広軌への統一が進められている。インド鉄道の職員は144万人。電化で架線に2万5千ボルトの電流が流れるようになり、車両の屋根にのぼる乗客は少なくなった。


国営インド鉄道は年間51億人(03年)を運ぶ。うち8割が鈍行自由席の乗客である。バスよりも運賃が安いので鉄道の利用が多い。いきおい鈴なりの列車風景が見られることになり、乗降にも押し合いへし合いとなって停車予定時間の何倍もの時間を要することになる。この状況が各駅で続くので、その結果は大幅な列車遅延となってしまう。その上、北部インドでは1〜2月にかけて気温の温度差が大きくなるため霧が発生し、これがしばしば列車や飛行機を止めてしまうことにもなる。


鈴なりの乗客を乗せて出発するインドの列車(ビハール州パトナ県)
(05年11月22日付朝日新聞記事より)


路線延長約6万3200kmで、その大半は植民地時代に英国が残していった。貧しいインドにとって鉄道網の維持管理は手に余る。電化率は約28%。信号と電動転轍機を一括管理・操作する装置など導入されている駅は4割。多くの駅では係員が人力でポイントを切り替えている。鉄道省によると、路線延長は米国、中国、ロシアに続く世界4位の規模。乗客数は日本に次ぐ世界2位。(この項05年11・22日付、朝日新聞)

・食事作法
インドでは右手の指だけを使って食べる。それも親指、人差し指、中指の3本で指先の第二関節までを使うのが上品とされる。左手は不浄の手として決して使うことはない。日本料理は目と舌で味わうものと言われるが、インドではそれが「指と舌で味わうもの」ということ。最初に触覚で味わい、それから味覚で味わうことになるので、人間の五感のうち二感を使用することになる。箸やフォ−クなどを使った作法では体感できない独特の食事感覚があるらしい。ナンやパン類も右手で器用にちぎり、それにカレ−を載せて食べる。ゆで卵の殻を剥くときなどは両手を使うらしい。(食事の後の汚れた指先はどんな処置をするのかガイド氏に聞き忘れた)

・食事事情
インドでは65%の人たちがベジタリアンで肉は一切食べないという。また、柿、白菜などはインドでは栽培されないという。南・東インド地域では米にカレーを載せて食べ、北・西インド地域ではナンにカレーを載せて食べるという。

・おしゃれ事情
インド女性の象徴になっている額の赤い丸印(ビンディ、クムクム、ティカなどと呼ばれる)は、ヒンドゥ−の結婚式で女性たちが額につけた赤い印が起源とされている。これはシンドゥ−ルと呼ばれる粉をつけたもので、結婚している女性の証として夫がなくなるまで付けるものとされる。「夫以外の男性には仕えません。」という貞節の意味が込められているという。現代ではカラフルなシ−ルなどが用意され、それを貼るだけで、おしゃれ感覚として利用されている。また、鼻や耳にピアスをする女性が多い。
 




 額の赤い丸印が“ビンディ”








民族衣装のサリ−だが、今は全身を覆う長い衣装になっている。10世紀頃には膝上ルックの短いスタイルで身体をあらわに見せる衣装だっという。その原形はカジュラ−ホ遺跡の寺院群にある彫刻に証拠が見られる。当時、年のほとんどを軍隊で過ごす男性たちが、たまに帰郷する折に女性のあらわで魅力的な姿を見て心なごみ、癒されるようにしたのだという。それがイスラムの侵入後、その影響で頭のてっぺんから足のつま先まで全身を包み隠すようになったという。それが今も続いているというわけだ。いま流行のヘソ出しルックだが、これも原形はインドの古代にさかのぼる。

・トイレ事情
インド人口のうち7億人を超える家ではトイレがなく、野外やバケツに排泄しているといわれる。地方の村では人々は外で排泄をしているが、女性は日の出と日の入り後にしか安心してできないという。このような自然の摂理に逆らった生活が身体の不調につながり、女性のプライバシ−や尊厳を奪っている。また毎年、インドでは下痢などの病気で50万人が死亡しているとみられ、インド人の多く、特に子供たちは不衛生のため胃腸や寄生虫の病気にかかっているという。


私が見聞した範囲はホテルや空港、列車内、観光地、それに一般家庭のトイレだけであるが、いずれも次の状況であった。
*トイレットペ−パ−……空港、列車内のトイレにはペ−パ−が置かれて
  いない。上級クラスのホテルにはちゃんと置かれている。
*便器の位置とスタイル……オランダもそうだが、男性用トイレの便器の
  位置が高く、背が低いと爪先立ちが必要。インド人は足が長いのだ
  ろうか? 寝台列車内では車両の端に2箇所のトイレが設けられてお
  り、その一方は洋式、他方は股がり方式であった。
*ホテルや観光地のトイレでは洗い流すための手桶と水道蛇口が設置さ
  れている。
*用便後の処置……通常の場合、設置されている手桶に水を汲み取り、
  これを右手で持ち、それを後方お尻より流しながら左手を前方より差し
  入れて局部を洗い流す。つまり、手動式の水洗トイレというわけであ
  る。“水洗”という面では日本よりはるかに先進国であったというわけで
  ある。こうして左手は用便に使用するため「不浄の手」とされ、食事や
  握手の際には一切使用しない。
*水洗後の処置……手桶の水で洗い流した後は、ペ−パなどで拭くこと
  はせず、しばらく待って自然乾燥させるのだという。湿度の低いインド
  だからできることなのだろう。(現地ガイド氏の話による。)


写真右のように小さな手桶が用意され、専用の蛇口まで設けられている。

・インドの標準時間
インドの国土は東西に約2000kmの長さになり、その両端では時差が生じるわけだが、これが国内1つの時間に統一されている。インドの中央部に近い所にあるアラハバ−ドの街の時間が標準時間として決められ、全国この時間で動くことになっている。


2.寂しさつのる旅の終わり
 
あ〜、よく眠った。5時間もぐっすりと寝込んでしまったのである。さすがに旅を終えて帰国便に搭乗すると、それまでの疲れが一気に吹き出る感じである。機内で横たわって眠るのは初めての経験である。往きもそうだったが、インドからの帰国便もかなりの空席があり、機内はゆったりとしている。たまたま3席が空席になっているので、ここを利用して横になれたわけである。ハ−ドな旅の疲れもあって、長時間熟睡できたのであろう。こんな睡眠ができたら、飛行機の旅もずいぶんと楽になるのだが……。
 

用便を済ませて席に戻ると、タイミングよくライトが点灯し、やがて最後の食事の配膳が始まる。帰路の便の飛行速度は上空の偏西風に乗れるのでとても速い。向かい風の往路は9時間半もかかるのに、帰路便はそれより2時間以上も短い7時間で飛べるのである。疲れた身体にはなんとも有り難いことで、まさに偏西風さまさまである。
 

配膳されたスナックを頬張りながら、静かにインドの旅の思い出の糸を手繰り始める。機はすでに日本上空に入っている。時はひとときも休まず流れ、数々の体験を過去の思い出へと変えて行く。興味深く、変化に富むインドの旅も、すでに過去のものとなってしまった。旅が無事に経過したことはうれしいことだが、あとは思い出を手繰って脳裏に浮かべることしかできないのが何とも寂しいかぎりである。それはともかく、この刺激的なインドの旅の思い出を忘れないうちに記録に残しておこう。


3.インドの首都・デリ−へ
 
今度の旅はツア−を利用することにした。めぼしい旅行社の商品を比較検討した結果、この日程と内容でこの料金であれば、個人で行くよりも安上がりと判断したからである。移動がスム−ズに行かない地域なので、限られた日数で個人で巡るのは無理である。そこで、旅行社にビザの申請(査証料1200円、代行手数料5250円)を依頼し、旅の準備は整った。エア−ラインはデリ−直行便のエアインディアである。
 
                    (デリーの位置)


エアーインディア機内の様子
よく晴れ上がった秋空の下、機は定刻の昼12時より少々遅れて成田を離陸し、日本列島に沿って西へ飛行する。6割ぐらいの乗客で座席はかなりの空席が目立つ。機材は古く、今では普通となったシ−トの小型テレビもついていない。おまけに座席ライトも壊れて点灯しない。しかし、この機長はサ−ビス満点で、今どこそこの上空を通過中とか、今どちら側の窓に何が見えるとか絶えず案内してくれるのである。
 

エアインディアは初体験でサリ−服姿の乗務員が珍しい。通りかかるチャンスを狙って撮影しようとすると、それに気付いた乗務員が立ち止まり、わざわざポ−ズをとってくれる。珍しいことに日本人スタッフの姿が1人も見えない。インドへのメインル−トなのに日本人乗務員がいないということは、経費節減のためなのだろうか?
 

サリー姿の乗務員

ふと後方を振り返ると、なんと機内の積み荷倉庫が丸見えになっている。客室との隔壁もなく、ただ碁盤状のベルトのネットが張られているだけである。こんな機内を見たのは初めてのことである。おやおや、なんとぞんざいなことだろう。これではちょっとエア−ラインの品格を下げはしないのだろうか?
 

機内後方では積荷倉庫が丸見え

カレーの機内食
私が座る3席続きの座席には、インド人の友人を尋ねてムンバイに行くのだという日本人のお嬢さんが窓側に座っており、一つ離れて通路側に私が座っている。時折、四方山話を語らいながら時を過ごす。早々と出入国カ−ドが配布さるので、忘れないうちに記入しておこう。やがて飲み物のサ−ビスが始まり、続いて昼食の配膳となる。今日はチキンと魚料理の2種類が用意されており、チキンを所望してみる。インド料理らしく、カレ−で煮込まれたチキンで、これにご飯が添えられている。味はまあまあで、早くも本場カレ−の序曲が始まる。
 

機は日本列島に沿って南下し、香港上空から中国大陸に入ってミャンマ−を通過し、インド大陸に入る。すると間もなく機長から「右手にヒマラヤ山脈が見えます。」との案内があり、席を立ってドアの窓から眺めてみると、遙か遠くに輝く白い線が見える。あれがそうなのだ。


エベレスト山が見える!
席に戻ってしばらくすると、今度は「右手にエベレスト山が見えます。」との機長の案内にすっ飛んで行って窓に近寄って見る。すると、ぼやけた白線の中に白く輝く突起物が見える。あれに間違いない。もう少し近くならくっきりと見えるのだろうが、これではちょっと遠すぎる。 


白くぼやけた線の中央部に高い塊が見える。これがエベレスト山?

やがて最後の食事にサンドイッチが配られ、機は高度を次第に下げて行く。デリ−の気温は20何度とかで、現地時間の案内放送もある。時差はマイナス3時間半で、日本より遅くなっている。ここで時計を現地時間に合わせておこう。いよいよ着陸態勢となり、機はデリ−のインディラ・ガ−ンディ−国際航空に滑り込む。ほぼ定刻の夕方6時の到着で9時間半の空の旅である。この地は日本と同じく日暮れが早く、辺りは真っ暗である。とにもかくにも、こうしてインド大陸に第一歩を踏み入れたわけである。
 

入国審査は時間がかかる
入国審査に行くと、すでに長い行列ができている。外国人パ−トには2名の係官が対応しているが、それが手間取ってなかなかさばけない。やっと順番が来て「ナマステ(こんにちは)」とヒンディ語で挨拶しながらパスポ−トとEDカ−ドを差し出すと、にっこり笑ってポンとスタンプを押してくれ、「OK」と言ってEDカ−ドの半券(出国用)を渡してくれる。そこで「ダンニャワ−ド(ありがとう)」と言って受け取り、やっとインド国へ入国となる。これまでに1時間もかかってしまう。
 

ルピーの交換レート
荷物受け取りのフロアに両替所があるので、早速両替する。ドルも持参しているので、とりあえず2000円をルピ−に替える。受け取ったルピ−は720ルピ−。これで換算レ−トを計算すると1ルピ−=2.78円(手数料込み)となる。窓口では計算書も何も渡されず、ただ小型電卓に金額を表示して見せるだけである。なんという簡素化? それとも手抜き? 入国早々、インドらしい対応を経験させられる。
 

マリーゴールドの花輪
一行の荷物が揃ったところで、フリ−パス同然の税関を通り、現地ガイドの出迎えを受ける。バスの乗り口で一人ひとりに歓迎のマリ−ゴ−ルド(注)の花輪を首に掛けてくれる。


マリーゴールドの歓迎花輪

このガイド氏はデリ−大学卒のインテリで、流暢な日本語も大学で勉強したという。敬虔なヒンドゥ−教徒で、大卒以来12年も日本人観光客のガイドを勤めいるという。日本の諸事情はもちろん、宗教、遺跡の歴史についても深い造詣がある。頼り甲斐のあるガイド氏で、今日から帰国日まで一行のスル−ガイドを勤めることになる。
 

期待はずれのホテル
街灯の少ない暗がりの道路を市内に向けて走り出す。空港は市内から19km離れた郊外にあり、途中の渋滞もあって1時間かかってやっと今宵のホテルに到着。裏通りの暗く、雑然とした通りにあるこのホテルは、ネオンばかりが明るく輝いている。大手旅行社のツア−が利用するホテルとしては不相応な下位ランクのホテルで、おや?と首をかしげたくなる。とまれ、キ−をもらって部屋に落ち着いたのは夜の9時を回っている。
 

左がホテルのネオンサイン

とりあえず部屋の様子を写真に撮っておこう。ベッドはキングサイズで広々としているが、ボ−ドの上にマットが敷いてあるだけなのでクッションがなく、ゴツゴツとして身体が痛い。でも、これが健康にはいいのかもしれない。


ベッドはキングサイズだが・・・

テ−ブルの上にはリンゴ1個と未熟の青バナナ2本が用意されている。バスル−ムは一応大理石張りになっているので感心していると、浴槽の中に大きなバケツと汲み桶が置かれている。ややっ、これは一体何だろう? 係が掃除用のバケツを置き忘れたのだろうか?
 

浴槽の中にバケツと手桶が・・・

奇異に感じて、翌日ガイド氏にそのことを尋ねてみると、次のように説明してくれる。つまり、インドの人たちには浴槽に湯を溜めて全身入浴する習慣がなく、ただ身体を洗い流すだけなのだという。そこでインド人宿泊客用にバケツと汲み桶を用意しているのだという。初夜から珍しい異文化体験である。
 

邪魔なバケツをどけてシャワ−を浴びようとすると、プラスチック製のノズルはひび割れていて、お湯が全方位に飛散する始末。これではお話にならないと、シャワ−をあきらめ、お湯にタオルを浸して身体を拭くだけにする。浴槽には栓もなく、お湯を張ることもできない。浴室から出ようとすると、突然停電して部屋は真っ暗。ちゃんと用意してきたペンライトをバッグから取り出そうと手探りで歩いていると、パッと点灯して復活する。危ない危ない。この調子だと何が起こるか分かりはしないぞ……。
 

お腹が猛烈に空いてくる。一応機内では夕食に当たるサンドを食べたのだが、やはり腹持ちが悪い。そこで、こんな時のために持参した機内食の残りのパンを取り出し、テ−ブルに用意されたバナナ1本とリンゴ、それに日本から持参したミカンを食べてお腹を満たす。これでどうにか明日の朝までしのげそうだ。明日は出発が9時なので、少々ゆっくりできる。洗濯など済ませて床に就いたのは11時前である。とにかく、インド最初の夜は、こうして固いベッドの上で夢を結ぶことになる。


4.デリ−のこと
 
人口は約1378万人、インド最大の人口都市ムンバイ(1450万人)に次ぐ大都市で、ニュ−デリ−とオ−ルドデリ−に分けられる。1911年に、それまでの帝都だったカルカッタ(現在のコルカタ)からデリ−遷都が宣言され、1931年に従来のデリ−の南に新しい都市ニュ−デリ−が完成し、首都機能はここに移った。オ−ルドデリ−は今では雑然とした汚い街になっているが、昔からある街でフマユ−ン廟(世界遺産)など歴史的建造物が多く、以前は緑と水の豊かな城下町であった。セポイの反乱(1857年)後、この街は略奪により阿鼻叫喚のうちに廃虚と化してしまったという。
 

このデリ−はもともと経済的地位は低い街であった。それはムンバイやコルカタのように港を持たないからだといわれる。その後、世界の各地からデリ−への企業の進出が進み、現在では国内4番目の経済的地位を占めるに至っているという。ニュ−デリ−では2005年10月30日にテロにより50人以上が死亡し、200人以上が負傷している。
 

2001年には、デリ−の州政府は新しい法律を施行し、すべてのタクシ−、バス、オ−トリクシャ−などの公共輸送機関は天然ガスを燃料にして走ることになっている。そのため市内の空気の清浄度合いは全国一だそうで、緑の多さもアジア一という。
 

前述したように、この街には日本の経済協力で地下鉄が建設され、現在42kmにわたる路線が完成している。ところが、工事は日本が参加したが、その車両は韓国製を買うことになったという。というのは、日本製の車両だとメンテナンス費用が高くつき、1駅間の運賃が160円にもなってインドの物価水準に合わないからだという。
 

この街に住む日本人は約8000人。車両の交通規則はイギリスの植民地だったこともあって、日本と同じく左側通行となっている。そして、ほとんどの交差点には信号機がなく、ロ−タ−リ−が設けられてスム−ズにくるまは流れている。こんなわけで、市内はロ−タリ−だらけとなっている。



(次ページは「デリー市内観光編」です。










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