写真を中心にした簡略版はこちら→ 「地球の旅(ブログ版)」








       NO.1


12日間・2ヶ国

5000年の歴史がロマンの世界に誘うエジプト
奇岩がつくり出す不思議の国トルコ


1999年11月22日〜12月3日


旅行のコース(エジプト)





エジプト・トルコ旅行日程


日付 日数 ル − ト 泊数 タイムテ−ブル・内容
1999年
11/22
(月)
関西空港→イスタンブ−ル
イスタンブ−ル→カイロ
13:35発→20:00着 乗り継ぎ     22:05発→00:20着
23(火) カイロ(エジプト) ギザのピラミッド、考古学博物館
24(水) カイロ→アブ・シンベル   アブ・シンベル→アスワン 空路、アブ・シンベル宮殿        空路、アスワンハイダム、未完のオベリスク
25(木) アスワン→ルクソ−ル 空路、ルクソ−ル東岸観光、音と光のショ−
26(金) ルクソ−ル→カイロ 午前、ルクソ−ル西岸観光 
午後空路カイロへ
27(土) カイロ→イスタンブ−ル 午前、メンフィス・サッカラ・アブシ−ル
15:50発→18:05着
28(日) イスタンブ−ル(トルコ) ブル−モスク、トプカプ宮殿観光 

 
(ツア−離団して独り旅)

29(月)   8   イスタンブル→カッパドキア 空路カイセリへ→バスでカッパドキアへ
30(火) カッパドキア 終日観光
12/1(水) 10 カッパドキア→アンカラ バスでアンカラへ
   2(木) 11 アンカラ→イスタンブ−ル 機中 12:15発→13:15着(空路)
  3(金) 12 → 関西空港 17:00発→10:45着









苦い思い出
エジプト行きには苦い思い出がある。それは2年前の1997年11月、ルクソ−ル・テロ事件のためドタキャンせざるを得なかったのだ。出発前夜、旅支度もすっかり終えてのんびりテレビを見ていると、エジプトでテロ事件が発生し、死者が出たらしいとの簡単なテロップ情報が画面に流された。
 

一瞬、不安が胸をよぎる。果たして、今度のエジプト行きは大丈夫なのだろうか。その2ヶ月前には、エジプト考古学博物館前でドイツ人観光グル−プがテロに襲われて死亡するという事件があったばかりである。だから逆に、その後の治安は警備が強化されて、かえって安全だろうとたかをくくっていたのが……。その夜は、それ以上の詳しい情報は報道されずに終わった。落ち着かない気持ちで仕方なく床に入り、もんもんとした夜を過ごす羽目になった。


翌朝起きて不安げにテレビをつけると、事件の全容がわかり、それは大々的に報道されていた。ルクソ−ルで日本人を含む多数の観光客がテロによって射殺されたというのである。その事件の大きさと痛ましさに驚きおののくとともに、一瞬、これでエジプト行きは無理かなとの思いが脳裏をかすめる。それでもあきらめ切れず、旅行社と連絡を取り合ってみると、まだ現地の状況がよくつかめず、決定しかねているという。あと一時間後には家を出るのだから、それまでにいずれかの返事をもらいたい旨を告げて、その後の連絡を待つことにする。


とにかく身仕度をし、玄関に荷物を出して落ち着かぬまま時を過ごしていると、やっと連絡が入った。現地での観光はギザ地区のみで、それ以外は予定変更してアレキサンドリアなどへ行くしかないという。当初の予定ではアブ・シンベルまで南下し、アスワンから豪華クル−ザ−で船中泊しながらナイル川を下り、両岸の観光ポイントに立ち寄りながら観光するというコ−スであった。それができないとなれば、今度のエジプト行きは意味がなくなってしまう。


そこで決断が迫られた。果たして、それでも旅行を決行するかどうかだ。そこまで込み上げていた旅への思いを断ち切るように、「では残念ですけど、今度の旅行は断念しますので、よろしく。」と電話口で告げるしかなかった。玄関を出る20分前という文字どおりのドタキャン劇であった。この旅を楽しみに指折り数えていただけに、その時の失望落胆は大きなものだった。このエジプト旅行は、現地係員のみが案内する添乗員なしのフリ−ツア−だったのだ。


こんな苦い経験を残して、今度は2年ぶり二度目のエジプト旅行挑戦である。果たして、何事もなく予定どおりに旅が始まるのだろうか。そんな不安を抱えながら出発の日を迎えた。今度の旅はツア−参加である。個人では現地での移動が困難らしいとのことだからである。ただこのツア−が、たまたま往復ともイスタンブ−ル経由でエジプトに行くので、その帰路にイスタンブ−ルでストップオ−バ−し、この絶好の機会をとらえて4泊5日のトルコの旅を追加延長することにした。


1.トルコ航空機の機内で

エジプト8日間の旅のツア−に参加したのは大人数の総勢35人。予想どおり熟年の参加者ばかりで老人パワ−がみなぎっている。同行の添乗員は超ベテランのユニ−クなさばけた女性である。関西空港を午後1時過ぎに飛び立ったトルコ航空機は、機首を西へ向けて朝鮮半島から中国を横断し、ゴビ砂漠や中央アジアを横切って、これから13時間の飛行を続ける。二度目のエジプト挑戦は、事もなく平穏に始まったのだ。この便にはトルコ人女性の乗務員と3人の日本人乗務員が同乗してサ−ビスをしてくれる。
 

海外旅行の折には、いつも決まって最少限必要な現地語をいくつか覚えることにしている。現地でのコミュニケ−ションを楽しむためと、自分が困らないためである。今度はエジプト(アラビア語)とトルコの二ヶ国語について、次の語をそれぞれ覚えて準備した。

種   類 アラビア語 トルコ語
おはよう サバ−ヘル ヘイル ギュナイドォン
こんにちは アッサラ−ム アライクム メルハバ
こんばんは マサ−イル ヘイル イイ アクシャムラル
は  い ナアム エヴェット
い い え ラ− ハユル
ちょっとすみません ラウ サマハトゥ
おねがい  ミン ファドリカ
 ありがとう シュクラン テシェッキュレデリム
い く ら ビカ−ム ダ  ブネカダル
ど  こ  フェ−ン〜 〜ネレデ
 ごめんなさい アナ ア−スィフ  アフェデルスィニス
さようなら マアッ サラ−マ アラスマラドゥク
バ  ス  オ−トォ−ビ−ス オトビュス
ミネラルウォ−タ− マイヤ アマダニ−ヤ
ビ − ル  ビ−ラ 
ワハドゥ ビル
イトゥネイン イキ
 タラ−タ ウチュ
                                                           
                                                             
エジプトはツア−旅行なので、さほどアラビア語を使う機会はないのだろうが、トルコでは独り旅になるので必要な語は欠かせない。ところが、最も大事なトイレの語と英語のPLEASEにあたる語が分かっていないのだ。そこで、いまのうちに乗務員のトルコ人女性に尋ねておこう。
 

やや遅い昼食の配膳が始まった。食事を手渡す女性に早速、「テシェッキュレデリム(ありがとう)」というと、にっこり微笑みながら「ビッ シェイ ディ−ル(どういたしまして)」と応える。むっつり受け取るよりも、たったこの一言を添えることで、なんと和やかなム−ドに変わることだろう。これが言葉のもつコミュニケ−ションの威力だろう。
 

やがて食後の回収が始まった。先ほどの女性がやってきたので、また「テシェッキュレデリム」と声をかけながら差し出すと、今度は「チョキ ザイセン」とトルコ語で話しかけてくる。「?」と思って、「それどういう意味なんですか?」と尋ねると、「You are very beautiful.」の意味だと教えてくれる。これは良いことを教えてもらったぞ! と早速メモに残しておく。トルコのどこかで、この語を使う機会があるに違いない。その時まで楽しみに取っておこう。
 

しばらくすると、今度は別の乗務員が通りがかったので、早速試してみようと「チョキ ザイセン!」と声を掛けてみた。すると彼女は、「Thank you.」とにっこり微笑んで喜びの反応を示してくれた。これで間違いなしだ。確かに通じている。そこで今度は英語の「Please」と「トイレ」の語を聞いておく必要がある。
 

間を置いて、またその女性が通りがかったので「Pleaseはトルコ語で何というんですか?」と質問してみる。すると彼女は、「ル−トファン」と発音してみせながら、親切にも「Lutfen」と私が持っていたパンフレットに書いてみせる。そこでまた、「トイレットは何というんですか?」と尋ねると、「トヴァレット」と教えてくれる。よし、これで必要な語はなんとかそろったことになる。
 

こうして幾つかのトルコ語を質問し終えると、あとは身動きのできない長く退屈な飛行時間をぼんやりと消化するしか仕方がない。時計はできるだけ見ないほうがよい。照明が落とされた狭い機内の空間で静かに目を閉じ、時の流れを忘れるように、まどろみ始める。
 

13時間かかってイスタンブ−ル空港に着いたのは夜の8時、ここでエジプト行きの飛行便に乗り継ぐため2時間の待ち合わせである。その道程のなんと遠いことか。じっと時間の過ぎるのをただひたすらに待つしかない。
 

やっと離陸した機はカイロへ向けて飛行を続ける。2時間の空の旅である。軽いスナック食がサ−ビスされるが、日本時間からすればマイナス7時間の時差で体は徹夜状態にあり、食が進まない。やがて食事の引き上げも終わり、あとは到着を待つばかりだ。先ほどからEDカ−ド(出入国カ−ド)が配られるの待っているのだが、いっこうにその気配がない。4,200円の書類作成手数料を節約するため、自分で記入作成することにしているのだ。しびれを切らして乗務員に尋ねると、間もなく配られるはずだという。
 

着陸寸前になって、やっとEDカ−ドが配られ始める。それを受け取って見ると、なんとその紙面はミミズが行列したようなアラビア語一色ではないか! これにはお手上げである。通常、どこの国でも英語が併記されているのが普通なのだ。こんな経験は初めてである。そこで乗務員のところへ足を運び、「用語の意味を教えてくれ」と頼むと、「After landed.」というばかりで取り合ってくれない。多分、入国管理のところに行けば、英語記載のカ−ドがあるのだろう。そう解釈して、それまで待つことにする。
 

深夜の零時過ぎ、機はうまいソフトランディングでカイロ空港に到着。早速、問題のEDカ−ドの在処を探してみると、それは審査官ブ−ス前のカウンタ−に置いてある。ここのは確かに英語も併記されている。それを確かめながら、安心して記入を済ませ列に加わる。
 

こうして入国を済ませ、一行の荷物を受け取って出迎えのバスに乗り、ホテルに着いたのは深夜の3時に近い時間である。皆の部屋割りが済むと自室へ急ぎ、シャワ−を浴びてベッドにもぐり、すぐに眠りにかかる。もうとっくに3時を回っている。明朝は7時起床という。これまで徹夜状態が続いているというのに、これでは3時間ほどの睡眠しか取れないではないか!あせる気持ちで疲れた体をベッドに横たえる。


2.カイロ・・・・ロマンを秘めたピラミッド群・燦然と輝くツタンカ−メンの
         黄金マスク


二日目。眠ろうと焦れば焦るほど、目が冴えて眠りにつけない。いったい、どうしたというのだ。こんな経験はないのだが……。開き直って、ただじっと体を横たえている。すると、どこからともなく何やら大きな声が窓外の街で響き渡っている。ああ、これがコ−ランの響きなのだ。拡声器でボリュ−ムアップされたエザ−ン(祈りの時間を告げるお知らせ)の声は、まだ夜も明けきれない真っ暗なカイロの市内に、朝の静けさを破っていっぱいに響き渡る。そうだ、いま私は確かにエジプト・イスラムの世界に来ているのだ。初めて聞くエザ−ンの響きにそのことを実感しながら時計を見ると、5時ちょっと前である。イスラム教徒の朝の祈りが始まったのだ。イスラム教では、夜明け前、昼すぎ、午後、日没後、夜に、それぞれ一日5回の礼拝を行うことになっている。
 

エザ−ンの声を聞きながら、すでにエジプトの旅が始まっているのだという喜びと感動がじんわりと込み上げてきて、いよいよ眠れそうにもない。それでも寝返りを打ちながら、少しでもまどろもうと努力してみるが、どうにもならない。とうとう7時の起床時間になってしまう。 身仕度を済ませて食堂へ行くと、すでにグル−プの何人かが食事している。朝食はバイキング方式で、ゆで卵・ハム・ソ−セ−ジ・トマト・パン・ジャム・バタ−・ミルク・ジュ−スなどを皿に盛って取り、エジプト最初の朝食を取る。
 

ピラミッド観光
8時過ぎ、早々に観光へと繰り出す。今日はギザの3大ピラミッドとエジプト考古学博物館の観光である。いよいよこれからエジプト5000年の歴史をひもどくのかという期待に、私の胸は高鳴る。現地ガイドはワハドという30歳代後半の日本語を流暢に話すエジプト人である。彼が6日間とも一緒に同行し、われわれを案内することになっている。一行を乗せたチャ−タ−バスは、快晴の中をギザへと向かって走り出す。半袖シャツでちょうど良い気温である。 


今日のピラミッド観光では、クフ王の墓である第一ピラミッドの中に入る予定だという。これには問題が伴う。それは1日の入場者数が150人に限定されているからだ。内部の荒廃を防ぐためらしい。近い将来、入場禁止になるのかも知れない。その限られた入場チケットを入手するため、早朝からアシスタントが出かけて並んでいる。果たして、うまく手に入るのだろうか。もし、それができなければ、他のピラミッドに入るしかないという。 
 

渋滞の中をのろのろ走るバスの窓から街の様子をうかがうと、まず目に飛び込んできたのはアラビア語の洪水である。当然のことだが、道路標識から看板、その他にいたるまで、すべてが虫の這った跡形のようなアラビア文字なのである。道路はくるまの洪水である。ここカイロは、くるまの慢性渋滞だそうで、移動にも時間がかかるという。満員のバスが前方を走っている。その窓から数人の男性が窓枠に腰掛け両手で体を支えながら上半身を反るように窓外へ乗り出している。なんとも危なっかしい光景だが、その乗客たちは運賃が半額かタダになるというから面白い。
 

エジプト・アラブ共和国(正式国名)は人口5,500万人、ここカイロは人口800万人でこの国の首都である。人種はアラブ人で90%がイスラム教徒である。エジプト5,000年の歴史は、大きく3つに大別される。最初が古代エジプト、真ん中が紀元前332年マケドニアのアレキサンダ−大王の侵入から始まるギリシャとロ−マ帝国の支配時代、そして紀元後641年にアラブ軍がエジプトに侵入してイスラ−ム教の時代となる。このイスラ−ム時代の969年ファ−ティマ朝になってから首都をカイロに移し、その後マムル−ク朝→オスマントルコの支配時代へと続く。そのオスマントルコからの独立を果たしたのが1805年のムハンマド・アリ朝で、その間1882年〜1921年までイギリスに支配され、1952年エジプト革命により現代の共和国へと続いている。
 

世界最大の墓ギザの第一ピラミッドを建設した王として有名なクフ王は紀元前2550年頃、黄金のマスクで有名なツタンカ−メン王は紀元前1361年〜1352年の在位、紀元前51年〜30年に在位した絶世の美女クレオパトラなどは、いずれも古代エジプト時代の登場人物である。
 

バスはどうにか渋滞を抜け出てギザ地区にさしかかる。前方に目を凝らしていると、突然見上げるような三角形の塊が朝日に輝いているのが見える。あれがピラミッドなのだ! 見上げる角度が、予想していたよりも高いのには驚きである。高台にあるせいなのだろうか。   






バスの車窓から見たクフ王のピラミッド









やがてバスは、ピラミッドの正面にある駐車場に停車する。はやる心で下車すると、目の前に積み上げられた巨大な石の山積みを見上げる。これが4500年前に造られたというクフ王(第一ピラミッド)の墓なのである。現在の高さ137m(本来の高さは146mだったが、頂上部分がなくなった。そのため保存状態の良い高さ143mのカフラ−王のピラミッドに抜かれた。)。欠けた頂上の中央部には元の高さを示すポ−ルが立っている。


 



クフ王のピラミッド。頂上がへずれている。
頂上にポールが立っているのがかすかに見える。








今から数千年も前の時代というのに、よくもまあここまで巨石を積み重ねてデカイ建造物を造ったものだ。それは現代の科学でさえも解明できない多くの謎を秘めている。このクフ王のピラミッドは10万人の民衆が休みなく働いても20年以上の歳月がかかったといわれている。すでに紀元前5世紀頃から、ギリシャ人が観光に訪れていたというのが分かる気がする。
 

周りから「わ〜っ、スゴイ!」という感嘆の声がもれてくる。これまで、この姿を写真や映像で何百回見てきたことだろう。その実物が、古代のロマンを秘めながら4500年の歳月を経て、いま私の前に立ちはだかっている。三角形になってそびえる両辺を空にすかしながら見上げると、無数のレンガを無造作に積み上げたように辺がギザギザに刻まれて見える。ノコギリの歯のようだ。遠くから眺めるとそう見えるのだが、近寄って見ると実はこれが巨石の積み重ねなのだ。
 

どんどん進んでピラミッドの基底部までやってくる。そこでガイド君の説明である。もともと、このピラミッドの表面は外装用の表装石で覆われていたそうだが、いまでは全部剥ぎ取られて、むきだしの状態になったのだという。カイロ市内のモスクを建てるために使われたという。これがもとの表装石だといいながら基底部を指差して見せる。ほんの一部だけが今でも残っているのだ。厚さ30cmもあるその表装石は、きっちりと組まれて一分の隙間もない。もしこれが全面を覆っていたとしたら、太陽に輝くその滑らかな斜面は、さぞ見る者の驚嘆をいま以上に誘ったことだろう。 






基底部に残っている表装石の一部。
斜面のきれいな石がそれである。







それにしても、いったいどこにその入室口があるのだろう。疑問に思いながらガイドについて行くと、見上げるピラミッドの基底部近くに、人間が入れる小さな穴が開いている。その基底部の横の凸凹した巨石を足がかりに一段目へ上り、そこを少し歩いて二段、三段、四段とのぼり上がり、入口にたどり着く。そこは巨石をくり貫いて穴をあけたようになっている。この穴は盗掘のために開けられたものだそうで、掘り進んでいるうちに、偶然内部の大回廊に通じたのだという。今では、この穴が観光客の入口となっている。本来の入口は、もう少し上の段に当初から設けられているようだが、今では使用されていない。









内部の玄室への入口。
この奥から斜面を登って行く。













入口には係員が立っている。カメラ使用代は10エジプト・ポンド(£E)=300円。ガイドが係員にチケットを渡し、薄暗い穴の中に入って行く。いよいよピラミッドの深部に潜り込むのだと思うと、その好奇な感情に全身がゾクゾクする。どんな展開が始まるのだろう。少し水平に進むと、そこから急傾斜の穴が続いている。
                      
 
いよいよ入室である。地下にも玄室が設けられているが、今日は上部の玄室に向かって行く。やや頭を下げながら水平に中を進むと、その先から急斜面の道板が設けられている。両側の岩面には手すりのバーが取り付けられており、足場は板を並べて道板が作られている。そこには足がかりのために横さんが打ちつけてある。その傾斜角度はピラミッドの傾斜に沿って45度ぐらいである。ところどころに照明のためのライトが足下に設けられている 。
 









玄室への登り道は板を敷いて道板が設けられている。
ここはまだ盗掘の穴の部分で天井が低い。











その明かりを頼りにガイドの後ろに従いながら、その急角度の道板を上って行く。盗掘の部分は天井が低いので腰を直角ぐらいに折り曲げた中腰になりながら回廊を登っていく。これが慣れないとなかなか疲れる。この中腰状態で50mほど登ると、ちょっとした踊り場に出る。ここが大回廊に通じる場所なのだ。そこでガイド君と立ち止まって後ろを振り返ると、みんなハーハーと息を切らしながら、かなり遅れて登っている。私が難なくスイスイとわけなく登れるのは、毎日の坂道ウォーキングの鍛錬のお蔭である。
 

みんなの到着を待って再び登り始める。そこから先は大回廊で天井は8mと高くなっており、今度は背を伸ばしながら歩ける。その側壁の石積みは、上になるに従って少しずつ石をせり出しながら積み上げる「せり持ち式」になっている。だから天井の上部になるに従って両方の石壁がせり出して狭くなっている。奥には人の気配もなく、だれもいないようだ。さらに5Omほど登ると、深部の部屋に到着である。ここが王の玄室なのだ。そこはタテ約5m、ヨコ約3m、高さ約3mほどの長方形の空間で、組み上げられた巨石の中に見事におさまっている。その奥の方には蓋のない大きな石棺が安置されている。発見された当時にも、ミイラも何もなかったという。王の遺体が何処にあるのか、現在でも不明だという。






玄室内にある石棺















玄室は巨石を組み合わせて作られている。









壁面の一角に小さな穴が開いている。なんとそれは換気孔だそうで、この部屋から外部へ通じているという。なんと計算された精巧な造りなんだろう。壁面には何の壁画も刻まれていない。
 

いま私は4500年の時空を越えて、ピラミッドの巨石を踏みながらその深部に立っている。その空間には4500年前のエジプトの空気が漂っていそうな気配がする。耳を澄ますと、建造に当たった何百人もの民衆たちの足音や槌・ノミの響きが聞こえてきそうだ。恐ろしいほどの年月を経て、いま私の前にその姿をさらけ出している。ここで記念写真を撮っておこう。
 

この空間でガイドの説明を聞きながら、しばらく時を過ごす。その歴史の重みや巨石の迫力にひしがれながら、やがて元の入口へと下り始める。下りは早いが中腰部分は登りよりもかえって歩きずらい。入口から外に出ると、もう一度ピラミッドの斜面を目でなぞりながらゆっくりと頂上を見上げてみる。斜面が朝日を受けて輝いている。その先には抜けるようなエジプトの青空が広がっている。ここはエジプトなのだ。
 

ピラミッドの前の広場に戻ると、今度はその写真を撮るための好ポイントに案内するという。そこはバスの駐車場の後方である。そこでカメラをかまえてみるが、とても全景が入る距離ではない。崖っぷちぎりぎりまで下がっても、無理である。そこであきらめ、とにかく撮ってみることにする。









これは車中から撮影したピラミッド。














こうしてクフ王の第一ピラミッド見学を終えると、次は砂漠を横断してここから数百メ−トル離れたピラミッド群のビュ−ポイントに移動する。ここからクフ王、カフラ−王、メンカウラ−王の三つのピラミド群が素敵に配置された素晴らしいピラミッド景観が拝めるのである。砂漠の中に正三角形の美しい陰をつくりながらたたずむピラミッドの姿は実に美しいものだ。






ピラミッド群のビユーポイント









この場所は観光コ−スのポイントになっているので、旅行客はみんな立ち寄ることになっている。それを見越して、客乗せのラクダや物売りたちが群がっている。ラクダに乗りたい人は、まとめて交渉するから申し出よとガイドが声をかける。
 

そこで希望を出して、いの一番に乗ってみる。象にはバンコクで乗った経験があるが、ラクダは初めてである。おっとっと、ラクダの高い背中から振り落とされそうである。ラクダが座った状態で足をかけ、鞍にまたがる。鞍の前に突き出た20cmほどの握り棒をしっかりとつかんで身構える。御者の掛け声で、ラクダが足を伸ばしながらのっそりと立ち上がる。後ろ足から立ち始めるので、まるでさかとんぼを喰らって前のめりに振り落とされそうだ。ご婦人方は大丈夫なのだろうか。

 




ラクダの向こうにピラミッドが見える










ラクダが立ち上がると、背が高い高い。歩き出すと、その長い足を交わす度に大きく左右に揺さぶられる。背中の位置が高いから、ぶれも大きいのである。前の棒をしっかりと掴みながら歩調に体を合わせる。乗る前に「ミン ファドリカ(お願い)」といってカメラを御者に預けている。背景の良い位置にくると、御者はラクダを止めてカメラを構える。そしてピラミッドを背景にラクダに乗った姿をパチリ、パチリと2枚ほど撮ってくれる。なかなか手慣れたものである。それからぐるっと一回りすると、ハイ、終わりである。なんとあっけないこと。ほんの20mほどのサ−クルを描いて回るだけである。これで料金$1なのである。なんだか笑えてしようがない。
 

ここが終わると、次はスフィンクス見学へバスに乗って移動である。その途中、車窓から第一ピラミッドの側面の姿がよく見える。太陽光線も逆光でないため、写真もよく撮れる。その麓の部分に、横長の建物が見える。これは太陽の船博物館で、1954年に発見されたクフ王の船と考えられる木造船(長さ43m)が公開されている。
 








車窓から眺めたクフ王のピラミッド














有名な人面獣身のスフィンクスの側で下車し、それを背景に全員で記念撮影となる。もちろん、商売用の写真で1枚500円とか。スフィンクスを正面から見ると、その後方にはカフラ−王の第二ピラミッドがにょっきりとそびえている。3つのピラミッドのうち、これだけがその頂上部分に表装石をそのまま残している。
 

このスフィンクスは頭部が人間の顔、体はライオンという人面獣身で、全長57m,高さ20m。それは岩石をけずって造られているようだ。顔はカフラ−王に似せて造られているという説もある。だがその鼻はアラブ侵入後にけずられ、ヒゲはイギリスに取られて大英博物館にある。こういうわけで、残念ながら元の姿は見られない。人面獣身のスフィンクスは、ここだけではなくルクソ−ルなどあちこちで見られるが、ここのが最大のスフィンクスである。
 





巨大なスフィンクス















スフィンクスの後部















スフィンクスと第二ピラミッド









しっぽがあるのかと思い後部に回ってみると、写真のようにツルンとして何も見当たらない。ただレンガ状の表装石で表面が覆われているのが分かる。もともと、その全身がこれできれいに覆われていたのだろうが、今でははげ落ちてしまっている。後部に回ったついでに、すぐ近くに見える第二ピラミッドの姿をズ−ムでカメラに収める。この写真では、頂上部に残った表装石がくっきりと写っている。

 




第二ピラミッド。
頂上部に残っている表装石が見える。








ここを最後に、ピラミッド群の観光は終わりである。5000年近い歴史の重みと巨石文化の迫力は、想像をはるかに超える圧巻そのものである。いまだ感動覚めやらぬ面持ちでバスに乗り、昼食へと向かう。巨大な遺跡群に圧倒されながら時を忘れて過ごすうちに、もうお昼の時間なのだ。ふとピラミッド地区を振り返ると、そこはかすみがかかって遠景がぼんやりとしか見えない。巻き上がった砂塵のせいなのだろうか、それともスモッグのせいなのだろうか。これでは午後の観光客は残念だろう。この時季のエジプトはベストシ−ズンということもあって、欧米からの観光客や日本人観光客が多い。
 


昼 食
市内のしゃれたレストランで昼食である。その入口門では歓迎の音楽を数人の楽隊がエジプト音楽を奏でながら踊っている。異国情緒たっぷりの歓迎である。入口の側では、女性がアエ−シ(平たいパン。中央アジアではナンと呼ばれている。)をかまどで焼いている。これが焼き立てのものは、香ばしくてなかなかおいしいものである。

 




焼き立てのアエーシ










テ−ブルに着き、初めてのエジプト料理が始まる。トマト、キュウリ、ニンジン、タマネギなどをきざんで盛り合わせた3種類のサラダに、白っぽいチ−ズのペ−ストや黒っぽいペ−ストが並べられている。アエ−シをちぎって、その上にサラダを載せ、ペ−ストを塗って口にほおばる。ペ−ストにはスパイスがよく利かされている。さほどおいしいとは思わないが、食べ慣れると結構な食べ物なのだろう。これにポテト、チキン、羊肉などが次々と出されて食が進む。
 

さらにまた、ライスをオイルで炒めた中華料理の焼き飯風のご飯が皿に盛られて出される。懐かしいコメのご飯に、思わず手が伸びてすくい取る。ポロついて具らしいものはほとんど入っていないが、ほどよい塩味がついて焼き飯のようにうまいものである。ス−プが付かないのが残念である。そこでビ−ルを注文して喉を潤すことにする。中ビン1本、11£E=330円。ビ−ルの料金は観光で回った地域では11£E〜15£Eの範囲である。
 

席を立ってトイレに行くと、チップ取りの少年が待ち受けている。用を足し、手洗いを済ませると、トイレットペ−パ−をちぎって手渡してくれる。それで手を拭き終わると、1£E=30円を手渡す。エジプト内では空港、レストランその他ほとんどのトイレで、チップが必要だ。ヨ−ロッパなどでもそうだが、エジプトはそれが徹底している感じである。だから常に1£E紙幣を用意してトイレに入らないといけないのだ。日本に住む私たちには、なんとも不便でやっかいな慣習ではある。
 

パピルスの買い物
お腹が満腹になると、次はお決まりのショッピングに連れていかれる。ツア−旅行だと、これに付き合わされるのがやっかいだが、それは致し方がない。行き先はエジプトみやげで有名なパピルスの専門店である。広い店内には古代エジプトの絵画が描かれた見事なパピルスが所狭しと展示されている。


ここではまずパピルスペ−パ−作りのデモンストレ−ション作業を見せてもらう。下の左の写真の中央に立っている細いグリ−ンの植物がパピルスの材料である。






真中の細い竹のような棒がパピルス














パピルスをローラーで押し伸ばす









右の写真は、その作業工程である。この植物の断面は丸いのではなく、ほぼ正三角形という珍しい形状をしている。そのため、ピラミッド形をした植物ということで古代からエジプト人に愛用されてきたそうだ。
 

作業工程では、まずこれを薄く縦割りに削いでいく。ちょうど竹の性質のように、それは筋目に沿ってパリっときれいに削がれていく。それを適宜な長さに切って一本一本を棒のロ−ラ−を転がしながら押し伸ばす。次にそれを織り合わせ、面を作っていく。
 

必要な大きさの面に織り上がると、それをしばらく乾燥させ、プレス機にかけて数時間プレスする。古代では、石を載せてプレスしたらしい。これでパピルスペ−パ−の完成である。それは薄くてバサついてはいるが、立派な紙として使用できるものである。少々引っ張っても、折り曲げても破れるものではない。
 

名物のおみやげは、こうして作られたパピルスペ−パ−の上にエジプトの古代絵画が描かれているもので、その鮮やかな色彩や繊細な模様の絵柄には思わず魅せられてしまう。前掲左の写真の壁に貼られているのがその一例である。こうした大・中・小さまざまのサイズのパピルスが店内の壁いっぱいに展示されている。これらの絵は一枚一枚丹念に手描きされたもので、描いた人の署名が入っている。だから値段も結構高い。
 

以前から古代絵画に魅せられている私は、旅行する前からエジプトのおみやげはこのパピルスと心に決めていた。そこで店内を物色し、中・小形合わせて3枚のパピルスを買うことにした。しめて$130。買ったパピルスは、それを丸めて紙筒に入れてくれるのだが、それが大形になると筒も長くなり、結構お荷物になる。帰国後、これらを入れる額縁を調達したが、3枚分でパピルスを買った値段の倍額にもなり、結局高い買い物についてしまった。
 

エジプト考古学博物館
ここでのショッピングが終わると、今日の最後の観光であるエジプト考古学博物館へ移動する。その建物は意外に小さく、模様入りのしゃれた高いフェンスで囲まれている。2年前、この場所でドイツ人観光客のグル−プがテロに遭ったのだ。 ここが世界に誇るエジプトの秘宝を展示する自慢の博物館である。2階建てで、こぢんまりしているが、部屋数は100以上もあるという。庭園の中にも多くの歴史的石像が配置されているが、ここではそれらも一瞥して終わるほど、建物内には数々の秘宝が収められているのだ。ここでも、カメラ撮影代£E10=300円が要求される。もちろん、フラッシュ禁止である。

 




エジプト考古学博物館
入口門









玄関を抜けて内部に入ると、その正面の左右の柱を背にラムセス2世の大きな立像が圧倒するように立っている。左足を少し前に出した「休め」の姿勢で立っている。ガイドの説明によると、王たちの像のすべてが、生前の場合は腰掛けているか、左足を出して立っているかの2種類で、死んで眠っている場合は胸の上で腕をX型に組んでいるという。つまり、数ある像はすべてこの3種類のパタ−ンだけだそうである。
 

1階には大小様々の石像や遺物が所狭しと並べられている。その主なものについて説明を受けながら、いよいよ2階へ移動する。そこには超有名なツタンカ−メンの黄金マスクや2千点にも及ぶツタンカ−メン王の副葬品の数々が展示されているのだ。それはまさに圧巻というよりほかに言葉がない。主要な遺物について懇切丁寧なガイドの説明を受ける。
 

ここ2階の1室に、世界最高の秘宝ツタンカ−メンの黄金マスクが展示されている。部屋の中では静かにとの注意を受けながら室内に入る。部屋の中央に高さ1mほどのガラスケ−スに収められ、それはライトアップの光を浴びながら燦然と金色に輝いている。その黄金の輝き、精巧さ、緻密さは、とても4500年前のものとは思えない。じっくりと見入る。美しい。でも、それは想像していたよりは小型のものである。もう少し大きいサイズと思っていたのだ。
(博物館内はフラッシュ禁止のためシャッター時間が長くなり、手許がぶれて写真がすべてピンボケになってしまった。)


     黄金マスク(前面)        黄金マスク(背面)

前面を見終わると、今度は背面に回って眺め入る。後ろに流れる髪をきれいに束ねてくくり、それを真っ直ぐに垂らしている。その整然と束ねられた様子が、なんとも美しい。前面の顔の形といい、背面の髪の形といい、その造りの美しさに独りで感嘆することしきりである。周りのショ−ケ−スには、黄金のネックレ−スなど素晴らしい装身具の数々が展示されている。
 

秘宝の黄金マスクを見終わると、次はミイラ展示室の見学である。入室料£E40=1200円を別に支払う。この部屋での写真撮影は一切禁止である。中に入ると、そこにはラムセス2世やラムセス5世をはじめ、全部で11体のミイラがガラスケ−スに入れられて展示されている。包帯を巻いたままのもの、それがはがされたものなど様々である。ほぼ全身がはがされた保存状態のよいミイラが1体だけあるのだが、これなど数千年前のものとはとても思えないほど、なまなましさを感じさせる。英国の大英博物館にもミイラの展示があるが、多分これもエジプトから運ばれたものであろう。
 

ミイラ見学の後は、しばらく自由観覧である。この2階には2000点にも及ぶツタンカ−メン王の副葬品の数々が展示されている。黄金色に輝く人体型棺、黄金のベッドや玉座など、その豪華さには目を見張るばかりだ。また、30cmぐらいの副葬品の人形がずらりと並ぶ様は壮観だ。これらの遺品が、すべて4500年前の時代のものかと疑いたくもなってくる。

     金色の人体型棺          黄金の玉座





 黄金のベッド















 ランプのシェード
















2階の一角にツタンカ−メン王の墓が発見された時の写真が掲げられている。それを見ると入口は土壁で塞がれており、その両脇には長い棒を片手に持った門番の人形が向かい合って立っている。その土壁を破って穴を開けると、その中に燦然と輝くツタンカ−メン王の棺や副葬品が並んでいたのである。その写真の下に門番役の人形の実物が展示されている。それが下左の写真である。その帽子、胸飾り、腰布、手に持つ棒などは、いずれも金色に輝いている。ところで、この像はツタンカーメン王の等身大像といわれている。








 下の写真にある人形の実物




















ツタンカーメン王の墓発見時の写真






                           
博物館では夕方5時の閉門までたっぷりと時を過ごし、数々のエジプトの秘宝に圧倒された感動の余韻にひたりながら、いったんホテルへと引き上げる。そこでシャワ−を浴びて、しばし休息。 


夕 食
7時になると夕食のためナイル川河畔のレストランへ出向く。今夕の食事は魚料理である。昼間は半袖シャツでちょうどよいのだが、夜ともなるとジャケットが必要なほどひやっとしてくる。昼と夜の温度差が大きいようだ。

 




カイロ市内を流れるナイル川









バスはカイロ市街を抜けて郊外へと向かう。しばらく走ると、目的のレストランだ。ナイル川河畔に沿って桟敷が設けられ、そこにテ−ブルが並んでいる。街のはずれとあって、夜景は眺めるほどのものはない。






ナイル川の夜景(カイロ郊外)









やや失望しながら座席に着くと、料理が運ばれてくる。内容は昼食に似て数種類のサラダにペ−スト、それにアエ−シのパンである。今度は肉類の代わりに魚がメインである。魚料理はフライにしたものだが、それがパサパサしたなんとも味気ない魚なのである。新鮮な魚の刺身を常食にしている私の口には、とても受け付けられる代物ではない。それでもパクついて口にほおばる。心込めて作られたエジプトの料理なのだから……。
 

この他、例のオイルで炒めた焼き飯風のライスも出される。相変わらず味はうまくていくらでも食べたくなるのだが、ここのは少し米の芯が残って固い。それを気にしながらもなお食べ進んでいく。満腹になるとデザ−トが出される。ここではバナナのデザ−トだけである。地元産のバナナなのだが、まだ青味がかって熟していない。だから実もコツコツと固く、甘味も少ない。
 

夕食が終わるとホテルへ直行し、今日一日の感動的な日程を終える。お湯のコックをひねると、ぬるま湯しか出ない。これではちょっと寒すぎる。夕食前にシャワ−を浴びたのは正解だった。下着の洗濯をして疲れた体をベッドに横たえ9時に就寝。まだ時差の疲れは取れていないのに明日は未明の3時起床と早い。アブシンベルへ移動するのに6時発の飛行便に乗るためなのだ。


(次ページは「アブ・シンベル神殿観光編」です。)










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