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  no.7
(ポーランド・アウシュビッツ編)




アウシュビッツ行き
三日目。今朝も快晴で爽やかな一日になりそうだ。今日は念願のアウシュビッツ行きなので早起きし、六時過ぎにホテルを出発。朝食はホテル食堂がまだ開かないので、駅で取ることにする。ホテルから歩いて駅まで九分、その二階の一角にあるスナックでハンバ−ガ−とコ−ヒ−を取って朝食にする(三・五ズウォティ=一五〇円)。七時十分発の特急列車に乗ろうと地下のホ−ムへ下りていくと、そこの待合室にはまだホ−ムレスたちがゴロゴロ寝ている。結構この町にもジプシ−や浮浪者が多いようだ。
 

指定車両のコンパ−トメントに行くと、早い時間なのか八人掛けの座席には紳士一人が座っているだけでガランと空いている。定刻に発車した特急列車は広々とした田園風景の中を南へ向けて走り続ける。特急といっても、博多行きの“特急かもめ”よりやや早いくらいで、乗り心地もまあまあである。同室の紳士が英語を話さないので会話ができず、その上黙りこくって読書に没頭しているので取り付く島もない。


仕方なく、車窓に広がる麦畑の田園風景をただぼんやりと眺めながら列車に揺られて時を過ごす。いま、時季はちょうど麦秋のころに近く、黄色に色づき始めた麦の茎がポ−ランドの陽光に輝きながら波打つ様は珍しく、美しい。当地ではパンが主食だから、この限りなく続く麦畑の光景は日本のたんぼに代わるものであろう。
 

ワルシャワから二時間半で乗換駅のカトヴィツェ駅に到着。ここでロ−カル線に乗り換えてオシフィエンチムまで行くのだが、十一時半発なのでまだ二時間近くも待ち時間がある。そこで駅付近の探索に出かけてみる。この駅はウィ−ン>ワルシャワ>モスクワと走る国際列車が停車する主要駅でもある。オ−ストリアのウィ−ンへはここから約五時間の距離、モスクワへは約二十二時間の距離にある。この線路の先にそういった国々がつながっているかと思うと心がときめき、いっそこのまま列車の旅を続けてみようかという強い衝動にかられてくる。
 





 カトヴィツェ駅










心のときめきを静めながら、駅舎内を探索して回る。結構大きな駅で、二階が広いコンコ−スになっており、一階は商店街になっている。両側にずらりと並んだ商店のあちこちには、いかにも美味しそうに色づいたバナナが山と並べられてある。ここの人たちは、よほどバナナが好きらしい。味見に二本買って食べてみると、それが見かけ倒しでボクボクと実はムレていてバナナの味がまるでしない。やはり、南国の果物をこの北国まで運ぶのには無理があるのだろうか。
 

二階のコンコ−スに上がるとインフォメ−ションの窓口があるので、英語が話せるか尋ねてみると「ニエ(ノ−)」とそっけない返事。そこで質問をあきらめ、コンコ−スの一角にあるパン屋でド−ナツとファンタジュ−スを仕入れ、車中で食べる昼食用に備える。駅前広場はバスタ−ミナルになっていて、多数のバスがひっきりなしに発着しており、周辺はちょっとした商店街になっている。裏口から出てみると、正面には古く落ち着いた建物が並び、その奥に市民たちが憩う緑豊かな公園が広がっている。

 




カトヴィツェ駅前の風景















カトヴィツェ駅前の風景(裏口)














カトヴィツェ駅前の公園










後はホ−ムに戻って列車を待つことにする。ベンチに腰掛けていると、隣に一人の少年が腰を下ろしに来る。早速、英語を話せるかを尋ねると、「よく話せない。」という返事。だが、無理に話を続けてみると、たどたどしいがボツボツ英語で応答してくれる。たまたま彼がオシフィエンチムに帰るところだというので、これはしめたと、すかさず自分もアウシュビッツを見学に行くところだといいながら、バスの乗り方や所用時間などを尋ねて教えてもらう。
 

そうこうするうちに、やっと十一時半の発車時刻となり、ややくたびれたロ−カル線の列車に少年と一緒に乗り込む。乗客は少なく、ガラ−ンとした車内の座席に少年と向き合いながら座り、時折彼に話し掛ける。彼はややきゃしゃな体つきではにかみ屋さんだが、ハンサム少年である。だが、絶えず流れ出る鼻水を忙しくハンカチで拭っている。夏の季節以外は、よくこんな症状に悩むらしい。恐らくアレルギ−体質なのだろう。彼はオシフィエンチムに住む高校生だそうで、父親は炭鉱に勤めているという。この地域には炭鉱がいくつかあるらしい。
 

彼は、こちらの質問に応じる以外は自ら話しかけようとはせず、ただ黙々と雑誌を広げて読み耽っている。覗いて見ると、それは自動車のマガジンなのだ。くるまに興味があって、毎月講読しているという。体に似合わずカ−マニアなのだ。彼に失礼して、ド−ナツの昼食を独りで始める。一服していると、やがて十二時半にオシフィエンチム到着である。






 


 オシフェンチム駅








はるばると、よくここまでやってきたものだ。とにかく急がなくては! 三時の列車でトンボ返りしなくてはいけないので、滞在時間はわずか二時間半しかないのだ。
 

この駅はロ−カル線ながら瀟洒な構えの駅で、ちょっとしたコンコ−スには売店やレストラン、カフェなどもそろっている。彼と連れだってコンコ−スに出ると、売店のオバサンに何やら尋ねている。アウシュビッツ行きのバス乗場を聞いてくれているのだ。彼がいうには、この売店でバスのチケットを買い、玄関前の1番スポットから出るバスに乗ればよいとのこと。徒歩でも二十分で行けるそうだ。彼に「ジンクイエ ドヴィゼニャ(ありがとう、さよなら)」と礼をいって別れを告げる。
 

帰りのチケットも一緒に買うと、間もなくやって来たバスに乗ってアウシュビッツへ向かう。町並みを過ぎて町外れに差しかかると、十分足らずで最寄りの停留所に到着、乗客に教えてもらいながら下車する。降りた乗客はたったの私一人だけで、人通りもなくひっそりとしている。道路は広いのだが、くるまの姿もほとんど見掛けない。降りた場所は緑の並木と畑が見えるだけで、建物も何もない殺風景なところである。やっと一軒だけぽつんと建っている小さな食品店を見つけ、そこでアウシュビッツの場所を尋ねる。
 

ちょうど買物に来ていた一人の婦人が、その方向に行くというので一緒に連れだって歩き出す。道路沿いに五分足らず歩いたところで、この先が入口門だと教えてくれる。確かにコ−ナ−にはアウシュビッツ博物館と小さな表示が出ている。道路から直角に曲がって歩いて行くと、その前方に緑の木々に覆われた広大な敷地が現れる。構内まで続く広い道路の途中に、フェンスの門が設けてある。その手前に数台の乗用車が駐車されているが、人影はどこにもなくて猫の仔一匹見当たらず、人の気配が感じられない。果たして、ここから入門して間違いないのだろうかと、少し不安になりながらフェンスの端に開いている通用門をくぐって構内へと歩き進む。

 




アウシュビッツ博物館入口









中の方へ向かって数百メ−トル歩いて行くと、やっと前方に建物が見えてきて、付近に見学者の姿が目にとまりほっとする。見学者はみんな貸し切りバスかタクシ−で来るらしく、その正面入口は別の所にあったのだ。そこには駐車場があって、その奥にレンガ造りの建物がある。ここがサ−ビスセンタ−で、その中にはインフォメ−ションがあり、資料・記念品などを売っている店もある。それにレストランやカフェ・郵便局・宿泊施設もある。また、アウシュビッツの記録映画が、一日数回上映されている。それも観てみたいが、滞在時間が短いので省略せざるを得ない。
 
アウシュビッツ収容所
ここを通り抜けて進むと、いよいよ収容所の入口ゲ−トに差し掛かる。その鉄のゲ−ト上には「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」と、鉄をくり貫いて作られたドイツ語文字が掲げられている。収容者が作ったというそれをよく観ると、「ARBEIT」の“B”の文字がひっくり返したように上下逆さまになっている。つまり、上の部分のふくらみが大きくなっているのだ。こんなところで、収容者たちがささやかながら抵抗を示したのだろうという。






収容所入口ゲート
ドイツ語文字のアーチに注目









強制労働に駆り出される収容者たちは、毎日どんな気持ちでこのゲ−トをくぐり抜けて行ったのだろうか。彼らの中には、このドイツ語文字のアピ−ルを信じて、かすかな希望を抱きながら労働に勤しむ者もいたのだろうか。この下に立つと、今でもナチス兵士の軍靴の音や収容者たちの失意に満ちた足音が聞こえてくるようだ。
 

第二次大戦中、ナチスドイツ占領下の土地からユダヤ人、ジプシ−、共産主義者、反ナチス活動家などが捕えられ、各地に設けられた強制収容所へ送られてきた。そして、ある者は即座に殺され、またある者は劣悪な条件下で過酷な労働を強いられた後、殺されたという。その最大の殺人工場ともいえるアウシュビッツ収容所では、実に二十八の民族、四〇〇万人もの人々が殺されたのである。この恐るべき収容所は、オシフィエンチムの郊外に、今は博物館として何事もなかったかのように、ただひっそりとたたずんでいる。


その広大な敷地内には、レンガ造りのがっしりした二階建ての屋舎二十八棟が三列に整然と並んでいる。それが木造の仮設物ではなく、レンガ造りの強固な建物であるところをみると、ナチスは半永久的なユダヤ人抹殺施設として考えていたのに違いない。今はポプラの並木に囲まれて静かに建ち並ぶ屋舎だが、こののどかな風景からは当時の凄まじい殺戮の光景などはとてもうかがい知ることはできない。

 




整然と並ぶ収容所の建物










これらの建物のうちいくつかは、そこで何が行われていたかを物語る展示がなされている。そこで、その主要な展示建物を見学して回ることにする。それほど多くはないが、観光客もボツボツ見えている。引率された中・高校生の参観者も結構来ている。まず、収容者からの略奪品が展示されている五号棟に入る。展示室は壁に囲まれた部屋のスペ−スをつぶして、そこに集めた略奪品を山積みし、それを大きなガラス窓で仕切って内部を観れるようにしてある。


最初の展示室はブラシ類の山である。何に使ったブラシなのだろうか。恐らくヘア−ブラシや服用ブラシ、あるいは靴用のブラシなどもあるのだろうが、そのうずたかく積まれたおびただしい数のブラシの山には、ただ息をのむばかりである。これら一本一本のブラシには、それぞれの所有者が確かにいたのだと思うと、やりきれない気持ちにさせられる。写真を写そうとするのだが、光線がガラスに反射してなかなかうまく撮れない。
 





 ブラシの山










次の部屋に入ると、義手・義足が山と積まれている。恐らく死の直前に取り外されたのだろうが、それにしても収容者の中にはこれほど多くの障害者がいたのだろうかと驚かされる。これらの全てが、かけがえのない身体の一部として愛用されていたのかと思うと、今にも体温の温もりが伝わってきそうだ。






義手・義足の山










次の部屋はナベ・カマ類の山積みである。アルミやアルマイト製の調理用ナベやボウル類で、大小さまざまのサイズのものがうずたかく積まれている。恐らく強制連行される時、必要最小限の生活用品として大事に持参したものだろう。これらを必要としなくなったとき、それは死を意味するのである。

 







 容器の山














次の部屋はカバンの略奪品の山だ。これも大小さまざまの革製トランクが、折り重なるようにして積み上げられている。そしてその蓋の上には、どれも住所や氏名がしっかりと書かれている。中には、自らユダヤ人であることを証明する星マ−クを書き入れいているカバンもある。それも消えないようにペンキでしっかりと……。これらの持ち主たちは、その文字をどんな気持ちで書いたのだろうか。もう二度と戻ることのない自分の住所を悲壮な気持ちで書き込む姿を思い浮かべると、心の奥まで痛みを感じずにはいられない。 






 トランクの山










次の部屋に回ると、今度はメガネの山である。その細いフレ−ムが絡み合い、もつれ合って大きなメガネの山をつくり出している様は、なんとも異様である。そして、そのほとんどはレンズがないのだが、たまに残っているメガネのガラスがキラリと光っているのがなんとも無気味である。






からみ合うメガネの山










もう一つの部屋には、これも大小さまざまのビンやカンが山積みされている。これは一体何なのだろうか? これが殺人用毒薬の入っていた空ビン類なのだろうか。そのおびただしい数を見ていると、背筋が凍る思いがする。
 

この第五号棟で略奪品が展示されているのはこれだけなのだが、その一つひとつの所持品からは、今なお所有者の怨念がほとばしり出てくるようだ。ナチスによるホロコ−ストの凄まじさと恐ろしさを、これらの品々が紛れもない事実として、そのことを雄弁に物語っている。
 

次の六号棟の展示内容は、収容者の生活状態を示すものである。そこには収容所で着せられていたパジャマスタイルのダボダボの衣服が展示されている。そして、一つの広い部屋の中には、粗末な布地で作った布団が床板の上に隙間なく三列にぎっしりと並べられている。これらは薄いワラ布団で、その丈も短く、毛布や枕の一つさえ揃えてない。たったこのワラ布団一枚のみである。恐らく彼らは、この短くバサついたワラ布団の上で、着の身着のまま身を縮めるようにして寝ていたのだろう。

 




 ワラ布団の列










別の部屋に進むと、そこには三段ベッドがこしらえてある。ベッドというと聞こえはよいが、それはとんでもないベッドなのだ。間仕切り兼支柱として、レンガ造りの衝立壁がベッドの長さの間隔でつくられており、その壁に横木を通して板を張り付け、その上に少しのワラを敷いて薄い毛布を一枚あてがってある。下段はもちろん地べたの上、その上に中段と上段が乗っかっている。ここでは中段が特等席になるのだろうか。






ワラ敷きのカイコ棚ベッド










先ほどの板張りの部屋に敷かれたワラ布団に寝るのと、この土間に作られた三段ベッドに寝るのとでは、果たしてどちらが寝ごごちはいいのだろうか。やはり板張りの部屋のほうが、少しは暖かくていいのではないだろうか。いずれにしても、氷点下に下がるポ−ランドの厳しい冬を過ごすには、あまりにも酷な処遇だといえよう。
 

次は衛生状態を展示する七号棟へ移動する。そこのトイレ室を見ると、そこには便座も付いていない洋式便器が五、六個、七〇センチぐらいの間隔で一列に整然と並んでいる。その周りには、プライバシ−を守るための目隠しの設備など、何一つないスッポンポンのお見通しである。これでは人権もへったくりもあったものではない。収容者たちは、皆どんな気持ちで用を足していたのだろうか。慣れてしまえば、羞恥心もなくなってしまうのだろうか。自分をその身に置き換えて考えれば、それは想像するに余りある光景である。だが、ただ一つ感心させられるのは、その全部が水洗トイレらしく、各便器に水道パイプが通っていることだ。

 




仕切りなし、便座なしのトイレ









ここを出て次は十一号棟のほうへ回る。この十一号棟と十号棟の間に設けられた高いレンガ塀の壁がある。その間隔は十メ−トルもあのだろうか。実はこれが「死の壁」と呼ばれるもので、かってここで二万人が銃殺されたとされている。そのうち、銃殺よりもっと効率のよい方法はないものかと考え出されたのが、あの有名な“ガス室”だったのである。そのガス室は、ナチスが逃走時に証拠を隠滅するため爆破してしまったそうで、今ではその場所を見ることはできない。
 

その塀の中央部には、さらに厚い石組の壁が設けられている。恐らく、この前に立たされて銃殺されていたのだろう。今では、その前の地面に、色とりどりの小さな容器の灯明が絶えることなく灯され続けている。この「死の壁」を前にして立っていると、死者たちの魂の悲痛な叫び声が聞こえてくるようだ。これらの魂の鎮魂のために、われわれはどんなことをすればよいのだろうか。 






「死の壁」
地面にはカラフルな灯明が絶え間ない









主要な展示棟を一時間足らずの駆け足で見終わると、後は広い構内を散策しながら出口のほうへ歩いて行く。展示棟以外の建物は、すべて入口は施錠されており、中へは入れない。構内の端に差し掛かると、そこには二重に張り巡らされた鉄条網が敷地内を取り囲んでいるのが目に入る。その厳重な警備体制には驚くばかりで、いったんこの収容所内に閉じ込められたら、もはや脱出逃走することは不可能であろう。この非情な鉄条網に、どれだけ多くの人たちの怨念が染み付いていることだろうか。

 




二重に張り巡らされた鉄条網









再び「ARBEIT MACHT FREI」の文字が掲げられた門をくぐり、元来た人気のないフェンスの出入口門へと足を運ぶ。そして、フェンス門をくぐり抜けて外に出ると、もう一度収容所のほうを振り向いて眺め渡す。それまで、私の体内に嵐のように吹きまくっていた激情の興奮も、ここにきてどうにか収まり始めてくる。この収容所を訪れるすべての人たちは、その希にみる大量殺戮の戦慄に心の動揺なしには決して立ち去ることはできないであろう。四〇〇万人の犠牲者たちの鎮魂を心の中で祈りながらアウシュビッツ博物館を後にする。
 

帰途へ
表の道路に出ると、目の前にバス停が見える。帰る方向のバス停なので、これは近くて助かったと思いながら時刻表を見ると、一時間に二、三本のバスしか通っていない。おかしいなあ、こんなに便数が少ないはずはないのにと、いぶかっていると、前の工場らしきところからオジサンが出てくる。早速追い掛けて尋ねてみると、このバスはオシフィエンチム駅には行かないとのこと。駅行きのバスも確かにあるはずなのにと不審に思いながらも、英語が通じないのでそれ以上質問ができない。それにしても、バス待ちの人がだれもいない。タクシ−を拾うにも、この辺りでは一台も見かからない。第一、くるま自体があまり通らないので、ヒッチハイクをするのにも当てにならない。そこで意を決して駅まで歩くことにする。二十分ぐらいというので、のんびり歩いてみよう。
 

しばらく歩いていると、T字型に分岐して伸びた道路の向こうにバス停らしきものが目に入り、そこに何人かの人がたむろしている。そちらへ曲がって近づいてみると、やはりそれはバス停で若者のグル−プが待っている。このバスは駅に行くのか尋ねると、そうだという返事。これで助かった。ここが町を循環するバスのコ−スなのだ。先ほどのバス停は、恐らく郊外へ向かうバスの停留所なのだろう。すぐにやって来たバスに乗って座る間もなく、オシフィエンチム駅到着である。一緒に乗り込んだ若者の一人が、「ここで降りるのですよ。」と、親切に教えてくれる。
 

二人の女高生
三時五分の発車まで、まだ半時間ぐらいある。そこで、ジュ−スを買って駅のホ−ムのベンチに腰掛け、一息つきながら喉を潤す。その合間に、今日の記録をメモしていると、隣りに座る人の気配がする。ふと横を見ると、人なつこくにこにこ笑いながら二人の少女が座っている。思わず、「ジェン ドブリ(こんにちは)」と声を掛けると、二人も応答してくれる。彼女ら二人とも少しは英語を話すというので、これ幸いにいろいろ話を交わしてみる。
 

彼らは高校二年生の親友同士だそうで、いま学校帰りに、隣の駅まで帰る相棒を送りにきたという。私が元高校教師だというと、ますます話がはずみ、学校生活のことや休日の過ごし方など、こちらの問い掛けにいろいろ応じて聞かせてくれる。そのうちに相棒の彼女が出発時刻となり、目の前に停車している列車に乗り込む。この時、ふと彼らの写真を撮ることを思い付き、すでに乗り込んでドアの前に立っている彼女の写真を写す。二人一緒にベンチに座っているところを撮るべきだったのに、思い付きが遅く、すでに時遅しである。そこでやむなく、二人を別々に撮ることになる。居残ったもう一人の彼女に住所と名前を教えてもらい、帰国後の写真送付を約束する。
 







 オシフェンチム駅で出会った少女




















 同 上:バーバラ










彼女の名はバ−バラというのだが、相棒が発った後も私の発車時間まで話を付き合ってくれる。彼女の両親はすでに離婚しており、その後に母親は亡くなるという悲運の少女期を過ごしている。それだからだろうか、その顔にはどことなく寂しげな表情が浮かんでいる。今では、彼女の姉夫婦の家に住んでいるという。将来の夢は建築家になりたいそうだ。将来の進路を今から決め込んでいるとは、なかなかしっかりしたお嬢さんである。やがて発車の時刻となり、彼女と別れを惜しみながら車中の人となる。
 

ガラ−ンと空いたロ−カル列車は、一時間で再びカトヴィツェ駅に到着。一時間の待ち合わせ後、やって来た五時発の列車に乗り込んでワルシャワへ向かう。これは、IC(インタ−シティ)というウィ−ン〜ワルシャワ間を走る国際列車なのだ。指定のコンパ−トメントへ行くと、それは一等らしく六人掛けとなっている。先客は老夫婦と紳士の三人で、窓側の席は両方共に空いている。指定席は真ん中の席だが、これ幸いとばかりに窓側の席に足を伸ばして座り込む。
 

いい気になって座っていると、次の停車駅で子供連れの若夫婦が乗車してきて、その席を明け渡すことになる。一歳前後になる可愛いその子は、男女のいずれかよく分からない。夫婦とも英語は話さないというので、質問のしようがない。でも、その子の愛らしい笑顔としぐさが、一躍コンパ−トメントのスタ−にしてしまう。父親が絶えずその子を抱きながら、哺乳ビンでミルクを与えたり、あやしたりしている。母親のほうは、それを向かいの席から愛しそうに眺めている。その微笑ましい情景に、思わず遠く過ぎ去った若き日のことをだぶらせてしまう。 


かなり時間が経ったころ、ワゴン車を押してウェイトレスがお茶のサ−ビスに回ってくる。コ−ヒ−かジュ−スのいずれかと、チョコレ−ト菓子一本のサ−ビスである。初めは車内販売の売り子さんが来たのかと思ったのだが、様子を伺っていると、どうも一等乗客へのサ−ビスらしいのだ。そこで安心して、コ−ヒ−を注文することにする。あまり美味しいコ−ヒ−とはいえないが、お茶の時間が持てるとは有難い。コ−ヒ−をすすった後は、再び子役のスタ−と付き合いながら時を過ごす。人相の違うこちらの風貌が珍しいのか、その子の視線は絶えず私の方ばかりに注がれている。しげしげと眺めるその愛くるしい様子がとても微笑ましく、思わずお相手をしたくなってくる。
 

八時前、やっと夜のワルシャワへ到着。






ワルシャワ中央駅コンコース














同上のホーム(この列車で帰着)
  








が、まだ外は十分に明るい。街頭の温度表示計が気温十九度を示している。忙しい日帰りの旅も無事帰着してほっとする。夕食に、前から目に付けていた駅のコンコ−スにあるスナックのスパゲッティをと思い、立ち寄ってみると、残念なことに、それはすでに売り切れになっている。がっかり気落ちして、ホテルへと帰路を急ぐ。そんなわけで、最後の夜はホテルのレストランで夕食を取ることになる。
 

ホテルで夕食
折角だから、郷土料理を注文しようとレストランへ下りて行くと、客はだれもいない。ウェ−タ−に臓物のス−プフラキとカツレツのコトレットはできるかと尋ねると、OKという返事。そこで早速、これらとビ−ルを注文する。出されたコトレットは大きなカツレツで、日本のそれと同様で味のほうも同じといってよい。ス−プのフラキは、千切りにした臓物の入ったもので、あっさりとした、なかなかいい味を出している。これらの料理にビ−ルを飲むと、もうお腹いっぱいだ。食事代全部で四〇ズウォティ(一、七五〇円)と、そんなに安くはない。
 

部屋に戻ると、ワルシャワ最後の夜景を窓から眺め入る。ネオンのまたたく派手な夜景は見られないが、穏やかな街の灯がワルシャワの静かな夜の雰囲気を漂わせている。十八日間に及ぶ東ヨ−ロッパの旅も、いよいよ今夜で最後の夜を迎えることになる。心くすぐる旅の想い出に浸りながら、快い眠りに落ちる。
 

帰国の旅
四日目。いよいよ今朝は帰国への旅。空は快晴。だが往きと違って、期待感や心のときめきもなく、ただ疲れた体を想い出とともに運び去るだけの旅は、寂しくてもの悲しい。しかし、そんな感傷にひたっている間はない。朝食を済ませたら、あちこちに電話しなくてはいけないのだ。食堂で最後の朝食を終わって部屋に戻ると、ル−ムキ−が見当たらない。部屋の中に置き忘れたまま自動ロックの扉に閉め出されてしまったのだ。いつも注意しているのに迂かつなことをやらかしたものだ。やむなく、一階フロントへ引き返してその旨を告げると、フロア担当のメイドに連絡しマスタ−キ−で開けてくれる。出発は午後一時過ぎの飛行便なので、ゆっくり発てばよい。
 

まず、エ−ルフランスへ連絡して、フライトの再確認と出発時間の変更がないかを確認する。それから、空港までの見送りを担当する旅行社に確認の電話を入れる。ところが、係の話ではその予約は受けていないという。「来る時はちゃんと出迎えてもらったのだから、そんな筈はない。もう一度よく調べてくれ。」と迫ると、コンピュ−タ−に入力されているデ−タには名前が見当たらないという。「では、どうしてくれるんだ。ちゃんと送迎する契約になっているのに。」と文句をつけると、「誠に申し訳ありません。お気持ちはよく分かりますが、本日は生憎と祭日で休業のため、社員は私一人しか出社しておりません。それで、手の打ちようがありません。」と気の毒そうに応答する。たまたま今日六月六日は、何かの祭日らしい。道理で、前のメインストリ−トも車が少なくひっそりとしている。これ以上、係と押し問答してもラチが明きそうにないので、「OK、了解しました。」といって電話を切る。こんな訳で、自分で空港まで行く羽目になってしまう。
 

そうなると、空港行きバスを調べなくてはと、フロントでその行き方を尋ねる。すると、ホテルの道路向かいから空港行きバスが出るという。一七五番の路線バスと空港行きリムジンバスの二種類があり、リムジンバスのほうは料金が高いという。タクシ−は空港まで八〇〇円かかる。貧乏旅行者にとっては、もちろん最低料金の路線バスを利用するしかない。そう心に決めて部屋に戻ると、チェックアウトまでテレビを見ながら時を過ごす。
 

十時を回ったので、そろそろ出発時間だ。最後の荷物をまとめてチェックアウトを済ませると、道路向かいのバス停へ急ぐ。歩道に並んでいる小店も、今日は店を閉めているところが多い。果たして、バスチケットを買えるのか心配だ。バス停前の開店している小店のオヤジさんに、「グジ アウトブス ビレティ?(バスのチケットはどこですか)」と尋ねると、「シガレット??????」といいながら先のほうを指さす。こちらには「シガレット」だけしか聞き分けられないのだが、どうやらすぐ先のタバコ屋で売っているらしい。その方向へ歩いて行くとタバコと雑貨を売っている店が見つかり、「アウトブス ビレティ プロシェ(バスの切符をお願い)」というと、すぐに売ってくれる。一枚一ズウォティ(四十三円)である。“アウトブス”と“ビレティ”の語をたまたま知っていたのが、わが身を助けることになる。やはり一語でも多く現地語を知っておくと救われる。
 

間もなくやってきた一七五番のバスに乗り、運転手に「エアポ−ト OK?」と尋ねると、怪訝な顔をして首を横に振っている。あわてて、同じ質問を乗客に次々と浴びせかけるが、やはり「?」とした顔で首をかしげている。おかしいなあ、確かに空港に行くはずなのに……と迷っている間に、バスはドアを閉め発車してしまう。不安になりながら、まあいいか、なるようになるだろうと高をくくって席に座る。


そしてガイドブックを取り出し、空港の名前を調べてから再度「アウトブス オケンチュ エアポ−ト OK?」とバスの床を指さしながら前席の少女に問い掛ける。すると、うなずきながら「タク タク(イェス イェス)」と返事をする。隣の老人まで、こちらを振り向きながら、一緒になって同調している。最初に尋ねた二人なのだが、やはり“エアポ−ト”では相手に通じなかったのだ。バスの運転手にも、それが分からなかったのだろう。ほっと、安堵の胸をなでおろしながら、少女に頼んで前方にあるパンチ機で切符のパンチを入れてもらう。
 

バスは二十分ぐらいで、無事間違いなくオケンチュ国際空港に到着。待ち時間の間にクロワッサンとジュ−スで腹ごしらえを済ませ、最後のショッピングを楽しむ。ポ−ランドのおみやげ品をと思って、これまでずいぶん探し回ってみたが、なかなかこれといった適当なものが見当たらない。小ぎれいな空港ショッピング街をうろついてみても、やはりそれは同じである。この国では琥珀が有名らしいが、宝石類にはどうしても目が向かない。


残金わずか七ズウォティを持っているだけなのだが、これをなんとか使い果たしたい。あきらめかけた時、ある土産品店で真っ黒な毛のふさふさした可愛い小犬のぬいぐるみが目に留まる。その値段もちょうど七ズウォティである。そこで唯一のポ−ランドみやげは、この小さなぬいぐるみに決まりである。
 

午後一時過ぎにワルシャワ・オケンチュ空港をパリへ向けて飛び立ったエ−ルフランス機は、二時間少々でパリ・ドゴ−ル空港へ到着。ここで五時間近くの待ち合わせ後、再びエ−ルフランス機で関西空港へ向け出発する。待合ロビ−で出会った日本人団体客の話では、パリ市内は三十度近くの暑さで汗だくの観光だっという。ここは暑さ知らずの広々した快適ロビ−であるが、さて、これからの持て余す待ち時間をどう過ごしたものだろうか。来る時と同じように、この暑いパリ市内まで出掛けるには時間が足りなさ過ぎるし、そうかといって他にうまい時間の消化法があるわけでもない。喉も潤っているし、お腹も機内食で満ち足りているので、レストランかカフェに立てこもってもしようがない。


話し相手を探すにも、時間が早いせいか待合客はだれ一人いない。万事窮してベンチにひっくり返り、ただひたすらに時が経つのを待つことにする。パリの空の下にいながら、カゴの鳥とはほんとに惜しい限り。折角だから、この地でのストップオ−バ−を考えるべきだったか。あれこれ思いに耽りながら見やる視野の向こうには、広い窓いっぱいに暑そうなパリの空が広がっている。
 

ずいぶんと時間が経った頃、やっと日本人団体客の一行がロビ−にやってくる。独りぼっちも、やっとこれで解消か。そう思って隣に座った同年輩の男性に話しかけてみると、驚いたことにひどいしゃがれ声の判別しにくい言葉が返ってくる。あっ、これは喉頭ガンの後遺症に違いないと察し、それ以後、気の毒に思って会話を中断してしまう。彼が席を立った間に、夫人がこんなことを話して聞かせてくれる。主人は喉頭ガンの手術をして、今リハビリに励んでいる最中だとか。これでも、ずいぶん話せるようになったとのこと。


二年前、初のヨ−ロッパ旅行を楽しみにツア−の申し込みをしていたところ、出発二日前になって異常を認め検査したところがガンと分かり、即入院手術という劇的な事態になったという。もちろん、ツア−のほうもドタキャンせざるを得なかったという。それが二年後の今日、健康が回復して念願のヨ−ロッパ旅行が実現し、喜びもひとしおだという。旅行者の中には、その背景にいろんな事情を背負いながら旅行している人もいるものだ。私のように、のんびり元気に旅ができる身分は幸せというべきなのか。その恵まれた境遇に感謝しなくては……。
 

日本人のツア−客は、相も変わらず暇のある老人ばかりである。周りの人たちといろいろ談笑している間に、やっと出発の時間が迫ってくる。機内に搭乗してみると、ほとんど全員が日本人客ばかりである。離陸予定の午後八時になってもなかなか出発せず、スチュワ−デスが機内を何度も行き来しながら乗客数をカウントしている。どうしたのかと尋ねると、搭乗者数と預かった荷物の数が合わないのだという。万一のことがあるといけないので、確認しているらしい。ジャンボジェット機なので乗客数も多く、カウントも大変らしく何度も繰り返している。


やっとチェックも終わり、半時間遅れでようやく暮れかかったドゴ−ル空港を離陸する。最近、この空港には野うさぎが繁殖して離着陸に支障が出始め、その退治に苦慮しているという。
 

ドア前の席の広々としたフロアに、足を長々と投げ出しながらシ−トに身を沈める。チェックインの時、いつものように出口に近い席を頼むと、係の女性が「いい席がありますから楽しみにしててください。」と、さも自信ありげにいっていたのだが、なるほどこの座席だったのだ。ドア前の座席は、前方に何も遮るものがないので広いフロアになっている。ただ、離着陸の時にスチュワ−デスと間を置いて向かい合わせに座ることになる。
 

この三人掛けのシ−トには、窓側から外国人男性二人と通路側に私の三人が座っている。隣の外国人に話しかけてみると、彼はオ−ストリア人でウィ−ンに住む音楽家だという。チェロの奏者だそうで、京都に住む日本人の演奏仲間とトリオを組み、京都と名古屋でコンサ−トを催すのだという。そのため、二日後のコンサ−トに向けていま日本に旅行しているのだという。しばし、音楽のことやウィ−ンのことについて歓談している間に、ディナ−の時間がやってくる。最後のディナ−となるので、ビ−ルにレッドワインをもらってしゃれたフランス風の料理に手を伸ばす。四十歳ぐらいのオ−ストリア人は、食事が終わった後も感心するほどワインのお代わりを何杯もしながらグラスを傾けている。かなりの酒豪らしい。
 

デザ−トのコ−ヒ−まで飲みあげると、満たされたお腹に酔いも回っていい気分になる。単調なジェットエンジンの音と旅の疲れが眠気を誘い始める。関西空港への到着は午後三時半の予定である。それまで後十一時間の長い空の旅が続く。斜めに倒したシ−トに深く身を沈め、満ち足りた旅の想い出に浸りながら快い眠りに落ちていく。


8.あ と が き
 
一九八九年暮れ、ベルリンの壁崩壊に始まった激動の嵐は、社会主義圏の国々の扉を押し開き自由の風を吹き込んだ。これら社会主義諸国−−いわゆる東ヨ−ロッパは、いま社会主義経済体制から自由主義の市場経済体制へ移行の真っ最中である。それから七年を経過しているが、その移行は必ずしもスム−ズには運んでおらず、いずれの国も生産の停滞、失業者の増加、インフレの昂進という不安定な経済情勢に陥っている。そんな中にありながらも、人々の顔は明るく、衣食も十分に足りている様子である。

 
経済的にはこうした不安定さをはらみながらも、そこには中世の歴史とロマンに満ちた魅力的な東欧の古都が息づいている。その中には数々の戦火の爪痕を残しながらも、今なおしたたかに生き続けている街もある。こうした中世の面影を残す東欧の魅力は、多くの旅人を引きつけて離さず、その旅情をかき立ててやまないものがる。それだけに、その門戸が開かれた今、近隣諸国からの観光客は年々増加している様子だ。
 

そんな懐の深い東欧の魅力に引かれて今度の旅を思い立ったのだが、駆け足旅行ながらもその魅力に酔うのには十分であった。珍しい民族料理に舌つづみを打ち、華やかな民族舞踊に心踊らせ、バレ−の躍動とコンサ−トホ−ルに響く美しいハ−モニ−に心を洗われる楽しい旅でもあった。見慣れぬ異国の景色や食べ物に出会い、現地の人たちの人情や言語に触れる外国の旅には、やはりなんといっても心ときめく素晴らしいものがある。

 
今度の旅も好天続きで、一度も傘を開く機会がなかったことが、より一層快適な旅の演出をしてくれた。だが、珍しくも二度にわたる下痢に見舞われたり、二度も上着を置き忘れたりするなど、いくつかのヘマもやらかした。また、電気カミソリの盗難に遭ったり、ニセ旅行者の手口に乗せられかけたりと、意外なトラブルもあった。これも旅のほろ苦い想い出として、記憶の小箱にしまっておこう。
 

そして、素敵な出会いで思い出深い旅へと誘ってくれた東欧の若者たち、みんな誠実で心優しい若人たちばかりであった。ル−マニアで世話になった二人の青年エドア−ドとアドリアン、それにポ−ランドのオシフィエンチムで出会った少女バ−バラの三人には、帰国後、早速手紙に写真を同封して送ってやった。でも、返事が来たのはエドア−ド一人からだけで、後の二人はなしのつぶてであった。確実に受け取っていてくれればいいのだが……。旅先での楽しい想い出をくれた東欧の若者たちに心から感謝したい。               (完)









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