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  no.6
(ポーランド・ワルシャワ編)




7.ワルシャワ・・・・ アウシュビッツへの旅・少女バ−バラ
 
ワルシャワ行きの飛行便は午前十時十五分発なので、余裕もみて七時にホテルをチェックアウトする。その前に、一階のレストランが六時半に開くのを待って朝食をとる。毎朝二階のレストランで取っているのだが、そこは七時からしか開かないので一階のほうへ行ってみる。


すると、そこには日本人団体客がぞろぞろいて、ざわめきながらガサガサと朝食をむさぼっている。そして、置かれている料理の内容は、二階のレストランに比べかなり見劣りがする。そうか、ここは団体客専用の朝食レストランで料理がお粗末なのだ。道理で初日の朝、間違ってここへ入った折、二階のレストランへ行くようにいわれたのは、そのためだったのだ。恐らく団体料金が安いので、団体客と一般客を分けて差別扱いしているのだ。
 

空港へ
朝食を済ませると、地下鉄とバスを乗り継いで三日前に降り立ったルズイネ国際空港へ向かう。ホテルの専用バスを利用すれば空港まで八〇〇コルナ(三、一二〇円)もかかるのだが、地下鉄とバスの通しチケットを買って乗り継いで行けば、その八〇分の一のわずか一〇コルナ(三十九円)で済むことになる。


パンクラッツ駅から地下鉄に乗ると出勤時間帯で込み合っている。ホ−ムに立っている年配の婦人に、乗換駅のムゼウムに行くにはこのホ−ムでいいのか尋ねると、そうだとうなずく。混雑している車両に一緒に乗り込み、途中の駅で下車する乗客をかわそうとドアの外へ出ようとすると、その婦人があわてて私の袖を引っ張りながら、首を横に振っている。私が駅を間違えて降りているものと勘違いしているのだ。なかなか親切なご婦人である。
 

ムゼウム駅でA線に乗り換え、終点のディヴィツカ駅で降りると、そこからバスに乗り換える。来た時と同じ一一九番のバス停を探し、空港行きのバスであることを確認して乗り込む。バスは二〇分で空港に到着。すぐに搭乗チェックインを済ませると、空港のみやげ品店を見回りながら最後のチェックをする。市内でもいろいろみやげ品を物色したが、なかなかブダペストのように手頃な品が見つからない。チェコ特産のボヘミアン・グラス製品を記念にと思うのだが、グラス製品だけに重くて値段も高い。ようやく、ここのみやげ品店で象と小鳥のクリスタル製品を、それも最小のサイズのものを買い入れることにする。これでチェコともお別れだ。 

ワルシャワ到着
定刻に飛び立ったチェコ航空機は、一時間半でワルシャワ・オケンチュ国際空港に到着。ロビ−に出ると早速、エア−ツア−ズ・ポ−ランド旅行社の窓口に出向き、いま到着した旨を申し出る。ホテルを予約した際に、ホテルまでの送迎サ−ビスがあるということで到着便を知らせておいたのだ。しばらくお待ち下さいというので、その間に両替を済ませておく。ポ−ランド通貨一ズウォティ=四十三円だが、すごいインフレで大きくなった金額単位を正常化するため、昨年一月にゼロを三つ切り捨てる千分の一デノミネ−ションが行われている。
 

迎えに来た運転手に案内され、大型の乗用車に一人乗せられてホテルへ向かう。太った中年の運転手が、走りながら街の様子をいろいろガイドしてくれる。この街は第二次大戦で壊滅的打撃を被った都市だけに、街並みは近代的な建物ばかりで歴史の面影は消滅してしまっている。それ以前までは、「北のパリ」とも呼ばれ、文化・芸術の都として名高かったそうだ。しかし、その美しい街並みも、第二次大戦における激しい市街戦によって八十四%もの建物が灰塵に帰し、二十万人以上の市民が犠牲になってポ−ランドの首都はその形を留めぬまでに徹底的に破壊し尽くされたという。
 

ポーランドのこと
ここで少し、ポ−ランド小史をひもといてみよう。正式国名はポ−ランド共和国(原語ではポ−ランドではなくPolskaポルスカとなっている)。人口三、八〇〇万人で、その九十五%がロ−マンカトリックの信者である。この国は、何度も何度も世界地図の上から消滅しては不死鳥のように蘇るという、まさに激動の歴史を背負っている。最初の統一国家ができたのは九〜十世紀ごろで、ポラ−ニエ族が割拠していたスラブ人部族国家を統合したことに始まる。ポ−ランドの名は、この部族名に由来するという。
 

その後、現在とほぼ同じ国境が初めて確定し国力は高まったが、王家内部の抗争や地方領主の勢力拡大でポ−ランドは再び分裂する。十四世紀にはヴァデイスワフ一世王によって再統一がなされ、クラクフが首都となる。十五世紀に入ると、ポ−ランド・リトニア連合軍がドイツ・チュ−トン騎士団を破ったのをきっかけに、ポ−ランドは次々と近隣の土地を吸収していく。そして十六世紀には、大量のライ麦をオランダ、イギリスに輸出することで、「ヨ−ロッパの穀倉」とまで呼ばれるほどの繁栄期を迎える。しかし、この全盛期時代を築いた王朝が断絶すると、政治はマヒし国力は低下する。
 

その間、ポ−ランドの周囲ではロシア、プロシャ、オ−ストリアが強大化し、やがて一七七二年、一七九三年、一七九五年の三回にわたる分割でポ−ランドは世界地図の上から姿を消す。その後、独立運動は盛んに行われ、第一次大戦後は束の間の独立国家ポ−ランドの時代が実現する。しかし、第二次大戦でナチス・ドイツの侵略を受け、ドイツ対ソ連の主戦場となって国土を踏みにじられる。この大戦中、国民の六人に一人が死亡し、ワルシャワやグダニスクなどの大都市は五〇%から、ひどい場合には一〇〇%も破壊されている。
 

ポ−ランドの開放に大きな役割を果たしたのはソ連赤軍で、大戦後のヤルタ会談でポ−ランドの新しい国境が定められることになる。国内では共産党独裁体制が確立されたが、結局国民の確固たる支持が得られず、一九八〇年の「連帯」運動を契機に社会主義政権は力をなくしていく。そして八八年に入り、とうとうポ−ランド統一労働党は政権を「連帯」に譲り渡し、半世紀に及ぶ社会主義体制に終止符を打つことになる。このようにポ−ランドの歴史は、異民族の侵攻とそれに対する抵抗によってつくられているといっても過言ではない。そんな国が生んだ偉大な音楽家と科学者がショパンとキュリ−夫人なのである。
 

徹底的に破壊されたにしては、よくここまで立派に復興したものだと感心しながら窓外の街並みを眺めていると、三十分足らずでホテルに到着である。地の利もよくメインストリ−トに面したホテルではあるが、予約の時に聞いていたように古い建物でベッドも小さく、部屋の設備もお粗末である。一泊七、五〇〇円のホテルだから致し方あるまい。


付近散策
早速、午後の観光へ繰り出そうと、パンフレットを集めて検討に入る。フロントに尋ねると、道路向かいのフォラムホテルに観光申し込み所があるというので、そこへ出かける。だが残念なことには、今日は月曜日なので午前の観光だけで午後の部は休みという。仕方なく明日の観光を予約し、ついでに明晩のバレ−鑑賞も予約しておく。これも生憎、明晩はオペラはなく、代わりにバレ−しか上演予定はないのだ。
 

予約を済ませると付近の探索にかかる。宿泊ホテルの位置しているところは、南北に走るマルシャウコフスカ通りと東西に走るイェロゾリムスキェ通りの二大メインストリ−トが交差するワルシャワの繁華街の中心部である。それだけに、付近にはデパ−トやレストラン、カフェ、ホテル、各種の商店が軒を連ね、この街で最もファッショナブルな場所となっている。そして、この交差点の下には地下道が設けられ、各種の商店が立ち並んでちょっとした地下街となっている。しかし、目指すビュッフェレストランは一軒も見当たらない。おまけに、ジプシ−や浮浪者までうろついている。

 




ワルシャワのメインストリート










中央駅
明後日には「アウシュビッツ」を見学する予定なので、列車の時刻を調べておかなくてはいけない。そこで、徒歩七〜八分のところにあるワルシャワ中央駅へと足を向ける。この駅はワルシャワのほぼ中心に位置し、ポ−ランドを代表する近代的な建物となっている。地上二階建ての駅舎内部は広々と清潔で大きな吹き抜けになっており、ホ−ムはすべて地下になっている。その一角にインフォメ−ション窓口があるので、そこでアウシュビッツ行きの列車時刻を尋ねてみる。太っちょで親切な女性の係は英語も話せ、行列待ちの状態にもかかわらず分厚い時刻表をめくりながら時刻を調べ、それをメモに書いて教えてくれる。アウシュビッツ行きは途中で地方線に乗り換えるので、その接続がややこしいのだ。
 

駅の切符売り窓口には、いつも行列ができており、英語も通じない上に乗り換えのこともあるので話が面倒になりそうだ。そこで、旧国営の旅行社オルビスを探して切符の手配をすることにする。宿泊ホテルの近くにあるので、駅舎を出て元来た道をそちらへ向かう。
 

駅の横手前方には、三十七階建ての高層ビル・文化科学宮殿がそびえ立っている。これはスタ−リンからの贈り物として一九五二年から四年もかけて建てられたという。てっぺんの塔の高さは二三四mで、三〇階の回廊は展望台になっている。内部にはコンサ−トホ−ルやレストラン、ショッピングセンタ−などが入っている。ここへ入ってみようと近づくと、前に広がる広大な広場が工事中で、周囲は長い塀で囲まれている。だから入口へ行くには、ここから数百メ−トルも迂回しなければならない。今日は入場をあきらめて、オルビスへ急ぐ。

 






 37階建ての高層ビル・文化科学宮殿















ワルシャワの空も晴れていて、緯度的には北海道よりも北のサハリンと同じ位置ながら、気温二十五度と汗ばむ陽気である。オルビスの位置を地図で確認しながら歩き回るが、それらしい旅行社の看板も見当たらない。しばらく周辺をうろついても発見できない。そこで、近くの商店で地図を見せながら尋ねてみると、指さす方向がこの位置と違うのである。よく確かめると、地図上の位置を勘違いして間違った方向へ来てしまったのだ。少々がっかりして、重い足を引きずりながらホテルへ戻り始める。
 

早い夕食
途中ふと見ると、ビルの入口にビュッフェレストランの料金案内が立ててある。これなら割安だなと思いながら中を覗いて見ると、なかなか高級な感じのレストランである。よし、夕食はこれに決めたと中へ入る。夕食には少し早い時間とあって、お客はまだ一人もいない。広々とした室内の一角に腰を下ろすと、すぐさまウェ−トレスの案内で料理を選びにかかる。料理メニュ−は豊富で、ポ−ランド風ス−プを二種類飲み、肉料理、海鮮料理、サラダ類にフル−ツと少しずつピックアップして賞味する。


どれも結構な味で、ビ−ルを飲みながらの食事はやがて満腹となる。食い溜めできないのが残念でならない。最後にコ−ヒ−を飲んで、料金三十八ズウォティ(一、六六〇円)である。そんなに安くもないか。後でわかったのだが、ここはフォラムホテルのレストランだったのだ。裏通りから入ったので、それがわからなかったのだ。 


重いお腹を抱えながらすぐ向かいのわがホテルに戻り、明日に備えて疲れた体をゆっくりと休める。部屋にはビン詰めのミネラル水が一本置いてあるので、そのサ−ビスにいい気になって飲んでみると、それは炭酸入りのミネラル水で飲めたものではない。時間をおいてガス抜きしても、どうしても天然水には戻らない。ヨ−ロッパではこの炭酸入りミネラル水が多く、それを買うときは必ずノン・ガスかどうかを確かめないと失敗することになる。よほどヨ−ロッパ人は炭酸水がお好みとみえる。
 

市内観光
二日目。朝食はホテルのレベル相当の内容でお粗末。ビュッフェスタイルではなく、予めセットされた四種類のメニュ−から選んで注文することになっている。内容は卵一個、ハム(二〜三切れ)、チ−ズ(二〜三切れ)、ト−ストパン一枚に菓子パン一個、それにコ−ヒ−または紅茶といった内容である。まあ、朝食付きだけましだと思わなくては心寂しい。
 

朝九時、半日市内観光(三時間半二、一〇〇円)に出かける。フォラムホテルを出発したバスは主なホテルをめぐりながら観光客を拾っていく。結局、二十人ぐらいのグル−プになったが、その中に珍しくも一人の日本人男性が混じっている。話しかけると、プラントメ−カ−の日揮の社員だという。休暇を取っての旅だそうで、ワルシャワ在住の知人を訪ねてきたという。今日は奥さんとは別行動だそうだ。また、元米空軍パイロットの退役軍人夫妻が乗っている。彼の話によると、過去の戦争のことは一切思い出したくないらしく、思い出話はタブ−だという。他人には言えぬ、よほど苦い体験があったのだろう。
 

バスは旧市街へ向かう。その途中、古い教会に立ち寄り、中に入って礼拝堂に置かれた偉人たちの銅像や壁画などについてガイドが一つひとつ丁寧に英語で説明を加えていく。だから、やたらと時間がかかり、ここで三十分以上も時間を費やすことになる。旧市街の入口でバスを降り、説明を受けながらガイドと一緒に散策して回る。
 

旧市街
さほど広くないこの旧市街一帯は、その外郭を赤レンガの城壁で囲まれている。ガイドの説明によると、この辺り一帯も第二次大戦末期の市街戦によって八十四%も破壊されてしまったという。しかし戦後、廃墟となったワルシャワに戻ってきた市民たちの不屈の精神は、この街並みを見事に復元したのだという。復興作業にあたっては、絵画や写真、映画などの資料はもちろん、生き残った住民の記憶まで参考にしながらレンガひとつ狂わせず、壁の割れ目一本にいたるまで再現したという。






ワルシャワの旧市街















見事に復旧したワルシャワの旧市街









さすがにプラハの旧市街ほどの歴史的趣は感じられないが、それでも十六世紀〜十七世紀のバロック調やゴシック様式の建物が見事に立ち並び、中世の面影を漂わせている。こうして眺めていると、戦災に遭ったのがウソのようである。さらに奥へ進んでいくと赤レンガの城壁に突き当たり、その端に十五〜六世紀に造られたという馬蹄型の砦が見える。この辺りには観光客目当てのみやげ物屋が店開きし、結構賑わっている。
 

新市街
ここを通り抜けて新市街へ入ると、間もなく右側にキュリ−夫人の生家が現れる。現在ではキュリ−夫人記念博物館になっており、夫人の研究に関するものや所持品などが展示されているという。時間がないのか、ここへは立ち入らないで素通りする。彼女はこの国が生んだ偉大な科学者で、夫のフランス人科学者ピエ−ル・キュリ−と放射能の研究を続け、ラジウムの分離によって共にノ−ベル物理学賞を受賞、だがその三年後に夫ピエ−ルは事故死している。夫人は一回目の受賞から八年後に、再び金属ラジウムの分離によってノ−ベル化学賞を受賞している。

 




キュリー夫人の生家










キュリ−夫人は一九三四年に白血病と思われる病気で亡くなったが、彼女が放射線による最初の犠牲者だといわれる。また彼女の娘イレ−ヌも、その夫とともに母の死去一年後にノ−ベル化学賞を親子二代にわたって受賞している。そして、キュリ−夫人の孫娘に当たるエレ−ヌは、現在仏オルセ−原子核研究所特別研究部長を勤めるという世界第一級の科学者一家なのだ。
 

バスに戻ると、今度は市の中心部を通りながら逆方向のワジェンキ公園へと向かう。その途中に珍しいモニュメントが目にとまる。それはソ連占領下時代に蹂躙された折の記念物として、焼け落ちた一台の貨車の残骸が線路の一部とともに、そのまま残されている。焼け落ちた台車の上には何本もの十字架がびっしりと立てられ、台車もろとも真っ黒に塗られた異様な光景が人の目を引いている。これをじっと見ていると、それからにじみ出ているワルシャワ市民の怨念が生々しく感じ取れるようだ。

 




貨車の残骸のモニュメント










ワルシャワ・ゲットー
そしてバスは、ワルシャワ・ゲット−記念碑の前で止まる。第二次大戦中、ワルシャワではここにゲット−があり、多くの狩り集められたユダヤ人たちがここに一度収容され、それから各地の強制収容所へと送られて行った。その殺害されたユダヤ人たちの霊を弔うために建てられたのが、この記念碑だという。この場所はアパ−トが建ち並ぶ住宅街の一角にあり、ちょっとした広場の空間が設けられていて、その片隅に記念碑が建てられている。その近くでは一人の露店商がテ−ブルを広げ、ユダヤ人虐殺に関する写真や記念品を売っている。またお金を払えば、その当時ナチスが使っていた例の星型をしたユダヤ人烙印マ−クのスタンプを押してくれる。






ワルシャワ・ゲット−記念碑









別の資料によれば、第二次大戦中のホロコ−スト(ナチスによるユダヤ人大量虐殺)では、その厳しさにおいて国により程度の差があったらしく、ここポ−ランドのユダヤ人たちはドイツ・ナチスの占領下で徹底的に抹殺の対象になったという。紀元前の昔、ロ−マ帝国の支配に抵抗、敗れて故地パレスチナを追われ離散の民となったユダヤ人だが、ヨ−ロッパでは長く異教徒として差別されてきた。特に中世後半以降はゲット−(ユダヤ人区)への強制移住など組織的迫害・差別が行われてきた。


今世紀に入り反ユダヤ主義が台頭したが、ナチスによるホロコ−ストはその極端な例である。今でもパレスチナ問題はくすぶり続け、故国イスラエルに建国したユダヤ人も今なおパレスチナ人との間に流血を繰り返すという悲しい現実が続いている。悲劇のユダヤ人である。明日は、そのホロコ−ストの残虐な痕跡を確かめるため、アウシュビッツを訪ねる予定だ。
  

ワジェンキ公園
ゲットー記念碑を後にしたバスは、最終地点のワジェンキ公園で止まる。ここは市の南にある広大な公園で、木々の緑や季節の花に彩られ、散歩する足元にはリスが寄ってくるという自然味あふれる公園である。この公園が造られたのは十八世紀で、三十年もの歳月を費やしたという。園内には池のほとりに建つワジェンキ宮殿や野外劇場、ショパン像があり、夏のシ−ズンには土・日曜日ごとにショパン像の前で無料の野外コンサ−トが開かれる。

 




美しく広大なワジェンキ公園









ガイドの案内でワジェンキ宮殿を見学する。その入口には、教師に引率された見学の生徒たちがあふれている。しばらく、その列に並んで入場すると、靴の上から大きなスリッパを履いて宮殿内を観覧して回る。相変わらずガイドの懇切丁寧な解説が続く。よく内容を覚えているものだと感心させられる。






 ワジェンキ宮殿















 宮殿前の噴水










この宮殿は、十八世紀にこの公園を造ったポ−ランド最後の王スタニスワフ・アウグスト・ポニヤトフスキが夏の離宮として建てたものである。第二次大戦でドイツに占領された際、この宮殿の美術品はほとんどドイツに持ち去られ、その後一九四四年には放火されて内部は完全に破壊されてしまったという。しかし戦後修復され、現在国立博物館の分館として十七〜八世紀の美術品を展示している。
 

宮殿は広い池のほとりにたたずみ、涼しげで落ち着いた雰囲気に包まれている。裏側に回ると、池の水面が間近に迫る宮殿の静かな風景が森の中から望まれる。






ワジェンキ宮殿の裏側










表の玄関前では、ちょうど二羽の孔雀が遊んでいて、観光客たちの目をよそに、その美しい羽根をいっぱいに広げながらオスがメスに向かって盛んに求愛のアピ−ルをしている。その美しく、珍しい光景にしばし時を過ごす。






 孔雀の求愛ポーズ











チケットの手配
バスは最初の出発地点フォラムホテルに戻り、そこで解散となる。付近をうろついていると、ケンタッキ−・フライド・チキンの店が目にとまり、そこでチキンにポテトチップス、ジュ−スをとって昼食にする。これで五・七ズウォティ(二五〇円)。お腹が落ち着いたところで、明日のアウシュビッツ行きの列車チケット手配に動き出す。今度はオルビスの所在地を間違わないように方向を確認し、おもむろに歩き出す。間もなく大きなオルビス旅行社のビルを発見、ガランと空いた窓口には全て女性の係員が座っている。ここならゆっくり相談できそうだ。
 

アウシュビッツはワルシャワから南に遠く離れており、特急で二時間半、さらにロ−カル列車で一時間もかかるスロバキア国境に近い所にある。アウシュビッツはドイツ語名で、ポ−ランドではオシフィエンチムという。だから駅名もオシフィエンチムになっている。そこまで行くのにはカトヴィツェ駅でロ−カル線に乗り換えるのだが、その接続時間がなかなかうまくゆかない。


一番早い七時台の列車で発てば乗り換え待ちが二時間近くもある。次の八時台のは一時間の待ち合わせですむのだが、少しでも早く着かないと滞在時間が取れないので、七時の列車を申し込む。その時、もっと接続の良い列車はないのかと尋ねてみるが、なかなか英語が通じない。業を煮やした彼女は、英語の堪能な係員を呼んで来て応対に当たらせる。だが、やはりこの時間以外にはうまい接続はないという返事である。仕方なく、その指定を取ってもらう。
 

帰路の分も頼むと、時間表をメモして見せながら時間を指定しろという。時間を見ると、オシフィエンチムを午後四時ので発てばワルシャワに着くのが九時半になってしまう。そこで、滞在時間は短くなるが、やむなく午後三時発に決める。ワルシャワ〜カトヴィツェ間は特急なので発車時間の指定が必要なのだ。ここまでのやりとりに、かなりの時間を取ってしまったのだが、これではとても行列した駅の窓口では、らちが明かなかったに違いない。この旅行社まで、わざわざ来たのは正解である。
 

二等往復料金は六十五・五ズウォティ(二、八六〇円)というので、米ドルで支払えるかと聞くとズウォティ通貨でないとだめだという。ところが、その持ち合わせがないので、しばらく待ってもらうことにして両替所へ走る。しかし、それがなかなか付近に見つからない。何度も人に尋ねながらやっとショッピングビルの中に見つけ辿り着いてみると、休憩時間らしく窓口は閉まっており、十分後でないと開かないという。


やむなく、そこで待つこと十分、ようやく両替をすませてオルビスへ急ぐ。もらったお札をよく見ると、なんと一、〇〇〇、〇〇〇ズウォティのお札ではないか! 一瞬、金持ちになった気分だが、残念ながら千分の一デノミで一、〇〇〇ズウォティ分の値打ちしかないのだ。まだ、旧紙幣も流通しているらしい。汗を拭き拭き戻り着くと、待っていてくれた係に料金を支払い、やっとのことで往復切符を手に入れる。この切符買いに、ほとほと疲れてしまう。
 

これで一段落、後はホテルへ戻って夜のバレ−鑑賞に備える。その途中、近くの食品店で夕食用にチキンのモモ肉を買い込み、露天で売っているミネラル水を「ニエ・ガゾォヴァナ(炭酸ガスなし)?」と確かめてから一本買う。ホテルでは毎日一本、炭酸入りミネラル水のサ−ビスがあるが、これが飲めないのでガス無しを求めざるを得ない。また、この付近にはカンビ−ルも売っていないので、これで我慢するしかない。
 

バレー観賞
夕食は、一昨日プラハで買ったパンの残りにチキンとミネラル水で質素に終わる。六時半、出迎えのバスに乗ってオペラハウスへ向かう。ここはウィ−ンのオペラハウスほどの貫禄はないが、三層になった円形の客席がそれらしい雰囲気を醸し出している。一階中ほどの席に座って静かに開演を待つ。

 




ワルシャワのオペラハウス・ホール









やがて美しいバレ−のショ−がバッハの音楽にのって始まる。それはクラシックではなく、モダンバレ−である。でも、バレ−を舞台で見るのは何十年ぶりだろう。まだ青春時代に“白鳥の湖”を見たきりなので、ずいぶん昔のことになる。目の前の舞台では、洗練された身のこなしで踊り跳ねるダンサ−たちの華麗な姿がステ−ジいっぱいに舞い踊る。
 

前半が終わると幕間休憩で、こちらもロビ−へ出てジュ−スで喉を潤す。後半はフラメンコ調の音楽にのせて激しく華麗なバレ−を見せてくれる。ただ残念なことには、どちらも生演奏ではなくレコ−ド音楽なのだ。それだけに迫力不足で、これほどのバレ−なのにもったいない話である。最後のカ−テンコ−ルに拍手を送り、九時ごろオペラハウスを後にする。
 





バレーが終わってカーテンコール












(次ページは「アウシュビッツ」編です。)








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