写真を中心にした簡略版はこちら→ 「地球の旅(ブログ版)」



  no.5
(チェコ・プラハ編)




6.プ ラ ハ・・・・ 中世の街・音楽祭・クネ−ドリキ 

押し問答
今朝も快晴で、プラハ行きは快適な旅になりそうだ。十二時発の飛行便なので、朝はゆっくりと起きて朝食をとる。昨日、朝十時にエアポ−ト・ミニバスの出迎えを予約していたので、少し前にロビ−へ下りてバスを待つ。時間どおりにバスが来たまではよかったのだが、ここからがトラブルの始まりである。運転手に例のブダペスト・ツ−リトカ−ドでもらっているバス・チケットを見せると、「それはだめです。私はそのチケットのことは知りません。」という。おかしいなあ、説明書には運転手にチケットを渡すように書かれているのに、この運転手はその経験がないのだろうか。そこで、しばし押し問答となる。
 

「これはブダペスト・ツ−リストカ−ドのもので、運転手に渡すようになっている。あなたの会社に問い合わせてみてくれ。」というと、「私は、それを見たことも聞いたこともありません。」と答える。ちょうどそこへベルボ−イが荷物を運んで来たので、「あなたは、このチケットのことを知っているでしょう?」と尋ねると、「いいえ、知りません。」という。


そこで、フロントに説明を求めようと運転手を一緒に連れて行き、「このチケットがミニバスに使えることは知っているでしょう?」と尋ねると、「いいえ、知りません。文字が日本語だけでしか書いてないし、私共にはわかりません。ここでチケットを新たに買わないといけません。」という。たしかに、チケットの表に「ミニバス・チケット」と日本語で書かれているのみで、ハンガリ−語による説明書きがないのは問題だ。でも、ここでねばらないと、折角料金を前払いしているのに、これでは二重払いになってしまう。
 

そこで運転手に、「このチケットは間違いありませんよ。その料金は日本ですでに支払っているのです。だから、空港にあるあなたの会社に聞いてもらえばわかりますよ。」と言い張ると、これ以上時間を取るのは他の乗客に悪いと思ったのか、「じゃ、乗ってください。」と運転手がいう。とにかく、こうしてバスは空港へ向けて走り出す。出発の時になって、こんなことでガタつき、不愉快な気分になりながらバスに揺られていると、間もなく空港到着である。バッグを受け取って立ち去ろうとすると、「お客さん。私と一緒に来てください。」と運転手がいう。もう、彼は諦めて了承しているのかと思っていたら、そうではなかったのだ。
 

彼の後ろについて行くと、インフォメ−ションのカウンタ−までやってくる。そして彼が何やら係に話すと、その女性の係が「このチケットは使えません。ミニバスのものではありません。」という。そこで再度、これがミニバスのチケットに間違いないこと、それは会社に聞いてもらえばわかること、などを繰り返して一歩も譲らない。すると、係の一人がミニバスの空港カウンタ−に問い合わせに出向き、しばらくして戻ってくる。


そして、彼女がいうには「わかりました。でも、もう一枚NO.1のチケットが要るといっています。」とのこと。そこで、ブダペスト到着時アニク嬢が案内したので使わずに残っていた半切れのNO.1チケットをポケットから出して、「これでしょう。」といいながら手渡す。すると彼女は、すべて納得した様子で、運転手にも了解した旨を告げている。


勝ち誇った私は、これ見よがしに運転手とインフォメ−ションの係を前にしながら、「このチケットのことをよく覚えていてくださいよ。こんなトラブルがあると、観光客は困りますからね。」と一本クギを刺す。顔を見合わせてキョトンとしている彼らをしり目に、「クスヌム(ありがとう)」と一言いい残して意気揚々と立ち去る。やれやれ、これで一件落着だ。それにしても、このチケットを彼らが知らないとは、ほとんど利用されていないのだろうか。もっとも、団体のツア−客ばかりで個人旅行者が少ないため、ブダペスト・ツ−リストカ−ドを利用する機会がないのかも知れない。
 

プラハへ
奇麗なブダペストの空港を予定通り十二時に飛び立って、機はチェコのプラハに向かう。チェコ・エアラインのこの機も六十人乗りぐらいの小型機で、水平飛行になると慌ただしくランチのサ−ビスが始まる。わずか一時間の飛行なので忙しいのだ。食後のコ−ヒ−をもらって一服していると、もう機は高度を下げ始める。やがて、軽いショックとともに機は地面をしっかりととらえ、プラハ・ルズイネ国際空港に到着。これで、四ヶ国目の訪問だ。空港周辺には菜の花が今を盛りと咲き乱れ、鮮やかな黄色のじゅうたんを波打たせている。さあ、この国はどんな素敵な興奮を与えてくれるのだろうか−−胸がときめく。
 

チェコのこと
この国の正式国名はチェコ共和国。人口一、〇三〇万人とこぢんまりした国で、宗教はロ−マンカトリックが多く、人口の約四〇%は無宗教だといわれる。古来チェコとスロバキア地方は、様々な民族の通り道であった。五世紀ごろに東方からやってきたスラブ人が定住し始め、九世紀になると東ポ−ランドまでも収めた大モラビア帝国が栄える。その後マジャ−ル人の侵攻で崩壊すると、スロバキア地方はハンガリ−の支配下となり、第一次大戦終結までチェコ地方とは別の歴史を歩むことになる。
 

十世紀前半ボヘミアにプジェミスル家が興り、以後四〇〇年にわたってこの地を統治する。しかし、十四世紀にはこれも断絶し、チェコ史上もっとも名高いカレル四世が王として登場し現在のプラハの基盤を整える。やがて宗教改革に端を発した三〇年戦争でチェコは三〇〇年間オ−ストリアのハプスブルク支配下となるが、第一次大戦でオ−ストリア・ハンガリ−帝国は破れ、チェコとスロバキアは独立してチェコスロバキア共和国が登場する。その後この国はヨ−ロッパで最も安定した文化国家として発展するが、独英仏の勝手な取り決めでチェコ地方はドイツに編入される。
 

第二次大戦後のチェコスロバキアでは共産党の人気が高く、それが第一党となって世界で唯一議会制民主主義的手段で共産党主導の体制ができた国として世界の耳目を集める。しかし、スタ−リンの差し金で共産党の独自路線はソ連直属型へと変貌する。やがて一九六〇年代後半に「人間の顔をした社会主義」を求めて独自路線を歩もうとしたドプチェクらの動きは、ソ連を中心としたワルシャワ機構軍の戦車に踏みにじられる。いわゆる「プラハの春」事件である。


しかし、民主化を求める人々は地下運動を組織し、ベルリンの壁崩壊直後の一九八九年十一月十七日、膨れ上がった反政府デモは無血革命をもたらして民主化を勝ち取ることになる。そして、九十三年一月にチェコスロバキア連邦共和国は解体し、両国はそれぞれの道を歩むことになる。
 

またチェコには、世界的な作曲家が育った。一人はチェコの国民音楽家スメタナである。彼は多くの名作を残しているが、交響詩「我が祖国」はあまりにも有名だ。毎年開催される「プラハの春」音楽祭は、スメタナの命日にあたる五月十二日に開幕する。この音楽祭は六月初旬まで開かれるが、今ちょうどその開催期間中に来合わせたのでコンサ−トが聞けるのが楽しみだ。そして、他の一人はドボルザ−クで、交響曲「新世界」や「スラブ舞曲」などは有名だ。また、ひところオリンピックで活躍し、その妖艶な演技で観衆を魅了した美人体操選手チャスラフスカの名が記憶に残っている。
 

ホテルへ
「デェクイ−(ありがとう)」と係官にいって真っ先に入国手続きを済ませると、ロビ−へ出てインフォメ−ションへ直行する。そこで、「地下鉄のパンクラッツ駅に行きたいのですが、一番ベストの行き方を教えてください。」と尋ねると、「タクシ−ですか、それとも公共の交通機関を使ってですか?」と問い返してくる。すかさず「公共交通機関を利用するのですが。」と答えると、市街地図を渡して見せながら「一一九番のバスに乗って地下鉄終点のディヴィツカ駅まで行き、そこから地下鉄に乗り換えて行けばいいですよ。」と教えてくれる。そして、チケットは新聞を売っている一番奥の店で買えばよいと教えられ、礼をいってそちらの方向へ歩いて行く。
 

しばらく進んでいくと、後ろの方から「ミスタ−!」と男の声がする。振り返ると、インフォメ−ションの若い男性がジャケットを持って走ってくるではないか。そして私に追いつくなり、「これ、あなたのではありませんか?」といいながら、ジャケットを差し出して見せる。なんと、それは私のジャケットではないか! ソフィアのバスの中に続いて、またしても上着をカウンタ−に置き忘れてしまったのだ。この地も気温二十五度は超えているかと思われるほど暑いので、上着は脱いで手に持ち歩いているのがいけなかった。その親切な行為に「サンキュ− ベリマッチ、デェクイ−」とチャンポンにして礼をいいながらジャケットを受け取る。上着のポケットには何も入れていなかったとはいえ、これを二度も置き忘れるなんて、今度の旅はうかつさが高じている。もっと気持ちを引き締めなくては!
 

売店でチケットを求めようとすると、オバサンがどこまで行くのかと尋ねる。そこで、「地下鉄のパンクラッツ駅です。」と答えると、チケットを二枚渡しながら「これはバス、これは地下鉄の分」と教えてくれる。同じ共通の切符なのだが、バスと地下鉄は一枚のチケットでは利用できず別々に買わないといけないのだ。
 

汗だくになって空港前から一一九番の込み合ったバスに乗り込み、ドアの前の席にどうにか腰を下ろすと隣に若い女性が座ってくる。そこで、「英語話しますか?」と尋ねると、「えゝ、話しますよ。」という返事。これこれと思って「このバスはディヴィツカ駅に行きますか?」と聞くと、「えゝ、私もそこで降りますから教えますよ。」という。「あなたは英語がとてもうまいですね。」と話し掛けると、「私、英国から来てここに住んでいるんです。」とのたまう。ええっ! これはとんだ愚問を発したものだ。


恐れ入って苦笑いしながら、「そうですか、あなたは英国人なのですか。ところで、ここで何か働いているんですか?」「えゝ、ここの高校で英語を教えています。ここに来て八ヶ月になるのですが、一年契約なので十月には帰国する予定です。」「ここの生徒はいかがですか?」「英語に興味を示してくれるので、授業は楽しいですよ。」「一人で住んでるんですか?」「えゝ、アパ−トメントを借りて独り暮らしです。」「暮らしのほうはどうですか?」「まあまあの生活ですよ。給料でなんとかやってゆけます。」
 

こんな会話を交わしているうちに、バスは二十分でディヴィツカ駅に到着。彼女と一緒に地下鉄へ下り、パンクラッツ駅行きのホ−ムを案内してもらうと、そこで礼をいって別れを告げる。ここの地下鉄も結構奇麗で、案内もよく行き届き乗りごごちも悪くない。ミュ−ジアム駅で乗り換え、そこから四つ目のステ−ションがパンクラッツ駅である。地上に出ると、すぐ前方にめざすホテルが見えている。直線距離では近いのだが、道が迂回しているのでホテル玄関に入るまでしっかり五分はかかってしまう。空港到着から一時間かかってやっとホテルにチェックインする。


部屋へ入ると、ゆったりとした広いスペ−スの中にキングサイズのダブルベッドがセットされている。一人で使うにはもったないくらいだ。バスル−ムも美しく、バスロ−ブもちゃんとそろっている。でも、一泊一六、〇〇〇円と今度の旅で一番高い料金だ。それでも街の中心から地下鉄で十分と少し離れた場所になっている。プラハのホテルは料金が高く、中心部になると一泊二万円以上もする。またこの時期は、“プラハの春”音楽祭の期間中でもあるので、観光客が多くホテルも満杯状態が続いている。
 

旅装を解いて一服すると、ホテルのインフォメ−ションで早速市内観光のパンフを集め、その中から午前半日の市内観光(五九〇コルナ=二、三〇〇円)を選んで明日の予約を申し込む。そして、この地では音楽にも浸らなければいけない。そこで、コンサ−トのスケジュ−ル表をもらって日程を調べる。春の音楽祭も終盤に近く、三日後の六月三日で終わりとなっている。


三日にはこの地を離れるので、今夜も入れて三晩しかないことになる。スケジュ−ルによれば、盛り沢山のコンサ−トが開かれることになっているが、お目当てのシンフォニ−のコンサ−トが滞在期間中には見当たらない。ところが、たまたま今夜はヴィバルディの「四季」の演奏会があるというので、早速チケットを購入する。料金は三五〇コルナ(一三六八円)である。
 

この辺一帯は市の郊外らしく、ビルがポツポツ建っている程度で商店街は何一つなく殺風景である。たまたま地下鉄入口の近くに小さなマ−ケットを見掛けたが、これが唯一の商店街らしい。様子を見に行くと、粗末な平屋建ての屋内に飲食店をはじめさまざまな小店が数十軒ほど立ち並んでいる。そして、屋外の路上には屋台のフル−ツ屋がオレンジやバナナなどを売りながら何軒も並んでいる。しかし、利用できるような食堂は見当たらない。食事はホテルで取るか、あるいは中心部へ出ないといけないかなあ、などと考えながらジュ−スを一本買って喉を潤す。やはり郊外は、その点が不便だ。
 

夜のコンサート
ホテルの部屋で休息を取ると、六時開演のコンサ−トに間に合うように出かける。地下鉄を乗り換え、中心部に近いシュタロメスツカ駅で下車。会場は、この近くにある聖サルヴァト−ル教会である。コンサ−トが教会であるとは意外な感じである。春の音楽祭は、市内の至るところで分散して開かれている。コンサ−トホ−ルもあれば教会やお城の城内もあるといった具合に、会場もさまざまだ。


開演の前に腹ごしらえをと思い、地下鉄を出た近くにレストランを探してビフテ−キをオ−ダ−する。ブダペストで注文の失敗から食べそこなったステ−キを、今度こそは間違いなく食べてやろうと慎重に注文する。でも、開演まであまり時間がないので急いでもらい、久々のステ−キなのにそそくさとビ−ルで流し込む。料金は二〇〇コルナ(七八〇円)。
 

レストランで教会の場所を聞いて歩き出すが、なかなか見当たらない。二度、三度と尋ねてやっと聖サルヴァト−ル教会へたどり着く。抜けるように高い天井と純白の壁に囲まれた礼拝堂は、シンプルな中にも歴史の匂いが漂う落ち着いた雰囲気を醸し出している。そして、正面の天井までとどく細長い明かり窓からは、後光のように夕日の光が差し込んでホ−ルの照明を演出している。信者が座る長椅子は、すでに来場している百人を超す聴衆に占拠されて後方の座席しか空いていない。自由席だから早い者勝ちなのである。中央の通路側に席を取り、ひんやりとしたホ−ルで静かに開演を待つ。後ろの席には、オ−ストラリアから来たという二人連れの女性が座っている。

 






聖サルバトール教会でのコンサート















やがて楽団のメンバ−が拍手に迎えられて静かに登場する。ア−チ・ディ・プラガ・オ−ケストラは十二人編成のアンサンブルである。バイオリン奏者で老齢のヴェテラン指揮者の合図で演奏が始まる。軽快で歌うようなモ−ツァルトの美しい旋律がホ−ルいっぱいに響きわたる。ケッヘル五二五番の小夜曲の演奏が始まったのだ。これはとても有名で馴染みのある曲なのだが、その音色の美しさと響きわたる教会ホ−ルの音響の素晴らしさに、ただただうっとりするばかりである。アンサンブルで、こんなに素晴らしいハ−モニ−をいまだかって聞いたことがない。シンフォニ−もいいが、アンサンブルのハ−モニ−はより魅力的だ。
 

次はいよいよヴィバルディの“四季”の演奏が始まる。これまで何十回この曲を耳にしたことだろうか。しかし、この超有名な曲を生演奏で聞くのは、これが始めてである。これまで世界の有名室内楽団がこの曲を演奏したレコ−ドを何回となく聞いたことがあるが、それらに勝る名演奏だ。そのハ−モニ−の美しさに魂を洗われる思いがする。


それにしても、どうしてこんなに素晴らしい音響効果が得られるのだろうか。それは専門の音楽ホ−ルよりも素晴らしいような気がする。恐らく、高い天井と硬い壁に囲まれた空間のほどよい広がりが、こんな素敵な音響効果を生み出しているのだろう。うっとり聞き惚れていると、曲は早くも最後の“冬の章”に入っている。大きく力強い弦の響きとともに演奏は華麗にしめくくられて終わりとなる。そして、アンコ−ルに一曲だけ応えて演奏会は一時間で終わる。コンサ−トにしては、少し短時間であっけない感じだ。
 

余韻の残る教会を出ると日はまだ落ちておらず、七時というのに外はカンカンと明るい。地下鉄への入口を探そうとぶらぶら歩くが見当たりそうもないので、若者に「プロミュニテ. クデェ イェ メトロ(ちょっとすみません。地下鉄はどこでしょうか)」と、わざわざ現地語で尋ねると、「たぶん、こっちと思います。私たちも旅行者なんです。」と英語で返事してくる。そこで、どこから来たのかと質問すると、オ−ストラリアからきた学生だという。俄然、この二人連れの青年に興味がわいてきて質問を続ける。「オ−ストラリアはどこなの?」「メルボルンです。」「えっ、メルボルンなの! 去年の十一月に行ったばかりですよ。なかなかいい雰囲気の街で、オ−ストラリアを回った中では一番気に入った街ですよ。ペンギンパレ−ドはとても興味深いものでした。」 すると青年たちは、にこにこしながら私の話を嬉しそうに聞き入っている。
 

しばらく彼らと立ち話をした後、別れを告げて再び歩き出す。もう夏休みに入るころなので、若者のバッグパッカ−たちがここプラハでも結構目につく。さらに歩いていると、日本人の家族四人連れに出会う。四十歳前後の父親だが、以前この地に駐在したことがあるとかで、いま休暇を利用して家族同伴の旅行をしているという。楽しそうな家族旅行の風景を見ながら地下鉄に乗り、ホテルへ戻る。かなりの疲労が蓄積しているので、入浴を済ませると早目に就寝する。
 

市内観光
二日目。このホテルの朝食も豪華版だ。外国人の宿泊客が多く、その中には日本人の団体客も混じっている。今日の午前中は市内観光めぐりの予定だが、快晴の天候に恵まれて有難い。九時に出迎えのくるまが来てくれたが、このホテルからの予約客は私一人らしく、乗用車に乗って中心部のホテルへ向かう。そこで他の客を拾い、大き目のくるまに乗り換えて市内観光が始まる。ガイドは英語の堪能な青年で、観光客はオ−ストラリアから来たという老夫妻と私の三人のみである。まるで個人ガイドを雇ったみたいで、特別待遇である。
 

ブダペストにドナウが流れるように、ここプラハの街も市内の中央部をヴルタヴァ川がゆっくりと静かに流れている。くるまは、そのヴルタヴァ川を越えてフラッチャニの丘に広がるプラハ城へ向かう。このお城は九世紀半ばに建築が始まって以来幾多の変遷を経て、十四世紀に入りカレル四世の治世下に現在のような姿が整えられたという。とはいっても、普通の建物でお城の感じは全くない。城門入口には、儀礼服に身を固めた二人の衛兵が直立不動で立っており、多くの観光客が一緒に並んで記念写真を撮っている。

 




プラハ城入口










城門前の広場で、われわれ三人も記念写真を撮る。シドニ−に住むという老夫妻は、ヨ−ロッパをめぐる長期旅行中だという。昨年末オ−ストラリアを旅しただけに、夫妻とは何かと話がはずみ心が打ち解ける。
 





オーストラリアの老夫妻とともに














プラハ城入口から聖ビート教会の尖塔を望む









門をくぐって城内へ進むと、第一、第二、第三の中庭という風にブロックごとに広場が現れ、そこにはそれぞれ歴史的な建物が出現する。その一つは大迫力のカテドラル、聖ビ−ト教会だ。その前に立つと、左右にそびえる高い尖塔がこちらに迫ってくる感じで圧倒されてしまう。プラハ城入口に立つと、その建物の屋根を突き抜けてこの教会の二つの尖塔がそびえているのが見える。写真を撮ろうと思っても、他の建物が邪魔して間隔が取れずアングルに収めるのが難しい。

 






 聖ビート教会















この教会はもともと九三〇年につくられ、その後幾度かの改築を経た後、一三四四年に現在のようなゴシック様式の建物に改築する工事が始められたという。だが、その工事はなかなか完成せず、最終的な完成を見たのは二十世紀になってからのことだという。内部の広さは、奥行き六十四m、幅四十六m,高さ四十六mである。
 

教会の中に入ると、高い天井と二段にわたって取り付けられた長く大きな窓が並び、内部は意外と明るい。見事なのは、その窓にはめられたステンドグラスの美しさだ。グラスの一枚一枚に描かれた込み入った絵模様は、まさに一級の芸術品で、これが全面に張りめぐらされている様は壮観である。そして、一番奥には聖檀が設けられ、荘厳な雰囲気を醸し出している。


      聖ビート教会の内部               同教会の美しいステンドグラス


教会を出て坂を下りながら歩いていると、途中に細い路地があり、その両側には色とりどりの小さな家が並んでオトギ話の世界をつくり出している。ここが一五九七年にできたという黄金小路で、城内に仕える召使が住んでいたという。その後、錬金術師が住むようになり、こんな名前が付けられたという。
 

この通りの中ほどに、青塗りの小さな家がある。ここは作家のフランツ・カフカが半年間仕事場として使った家だそうで、ここで毎晩遅くまで仕事に励み、多くの短編小説を書き上げたという。家の中はちまちまと狭く、部屋に置かれた書架には多くの彼の作品が展示されていて販売もされている。
 

ガイドの説明を受けながらなだらかな坂道を下り、城内域を出てくるまに向かう。このプラハ城一帯はなだらかな丘陵地帯になっており、お城から坂道を下るに従って聖ビ−ト教会、聖イジ−教会、黄金小路、ベルベデ−レ宮殿などが点在している。ここら一帯が市内観光のメインらしく、ほとんどの時間をここで費やすことになる。
 

プラハ城一帯の観光を終え、くるまは再びヴルタヴァ川を渡って旧市街へ向かう。上流には有名なカレル橋が見える。この橋は一四〇六年にカレル四世によって建造された石積みの橋で、現存する東ヨ−ロッパ最古の橋とされている。全長五二〇m、幅一〇mのこの橋には、聖者をモデルにした三〇体の像が左右両側の欄干に十五体ずつ並んでいる。聖書から題材を取ったり、歴史的な聖者をモデルにしたといわれる聖像が立ち並ぶ様は壮観である。
 

くるまはヨ−ロッパ最古のシナゴ−グ(ユダヤ教の教会)が現存するユダヤ人地区などを回って終着点の旧市街広場へ到着する。プラハの旧市街にはいまだに中世の雰囲気が色濃く漂い、その洗練された美しい街並みは旅行者の心を引き留めて離さない。この街は九世紀末にボヘミア王国の首都となって以来、現在に至るまで変わらぬ美しさを保ち続けているといわれる。


市内には数々の歴史的建造物が建ち並び、現在でも立派に利用されている。十一〜十三世紀のロマネスク様式、十三〜十五世紀のゴシック様式、十六世紀のルネッサンス様式、十七〜十八世紀のバロック様式の建造物のすべてを街並みの中に見出すことができるという。また石畳の多い街で、それが一層中世の雰囲気を盛り上げているが、自動車タイヤの騒音を大きくし、雨が降ると滑りやすいのが難点だとか。


ここ旧市街広場は石畳の美しい広場で、プラハの中心旧市街のヘソに当たるところだ。広場の周囲には市庁舎をはじめティ−ン教会やルネッサンス様式の建物など、中世の面影を残す建物が取り囲むようにたたずんでいる。そして広場のど真ん中には、十五世紀の宗教改革の先駆者で火あぶりの刑に処せられたというヤン・フスの像が鎮座している。


また広場の一角には、スナックの屋台やみやげ品の出店が列をなしている。ガイドは、この周辺一帯の案内を最後にホテルまで送り届けるというが、老夫妻ともどもここでもうしばらく時を過ごしたいとの理由で居残ることにし、彼に別れを告げる。こうして、九時半から始まった市内観光は十二時過ぎ終了となる。気温は三十度を超えているかと思われるほど暑く、汗だくである。
 

サンドで昼食
老夫妻とも別れて一人になると、広場から放射状に広がる通りのあちこちを探索して回る。歴史の匂いが漂ってくるそれぞれの建物には、レストランやブティック、宝飾品店、みやげ品店などが店を構えている。手頃な昼食の店が見当たらず裏街道をうろついていると、あやしげではあるが何やら肉を焼きながらパンに挟めて売っている店がある。見ていると、地元の人たちが結構買っているので、こちらもこの郷土風のサンドを買ってみる。別の店でジュ−スを買い込み、通りの石段に座ってサンドを頬張る。珍しい風味が漂うサンドをかじりながら、道行く人たちを眺め入る。日本人の姿は見かけないが、外国人の観光客が賑わいを見せている。
 

市庁舎
腹ごしらえを済ませると、広場の市庁舎へ向かう。この市庁舎の塔は十四世紀に建てられたもので、高さが七十mある。









 プラハ・旧市街に面した市庁舎














興味深いのは、この塔に取り付けられた大きな仕掛け時計である。時計は上下に二つ並んでおり、それぞれが作られた当時の宇宙観(天動説)に基づいた天体の動きと時間を表す。上の円が地球を中心に回る太陽と月、その他天体の動きを示し、年月日と時間を示しながら一年かけて一周する。下の円は獣の十二宮と農村における四季の作業を描いた暦で、一日に一目盛り動く。
 







 市庁舎の天文時計















そして、毎時ちょうどになると、有名な仕掛けが動き出す。午後二時近くになったのでその様子を見ようと行ってみると、すでに大勢の観光客が時計の下に集まっている。見上げていると時計の上にある二つの小窓が開き、鐘の音とともにキリストの十二使徒が窓の中からゆっくりと現れては消えていく。最後に時計の一番上部に現れる鶏が鳴いて終わる。このような仕掛け時計は、ヨ−ロッパのあちこちの市庁舎で見られる光景である。ドイツ・ロマンチック街道にあるロ−テンブルクの市庁舎でも、大勢の見物客と一緒に仕掛け時計を眺めた思い出がある。


ここの時計は十五世紀に作られたものものらしく、現在では一九四八年に取り付けられた電動装置によって作動しているという。それにしても、数百年もの歴史が刻み込まれたこのような時計や建物が、日常生活の中でいまでも息づいているヨ−ロッパの街の魅力には尽きないものがある。
 

市庁舎の時計塔に上って展望できるというので、入口を探して中に入ってみる。玄関ホ−ルから二階へ上がろうとすると、今しがた結婚式を終えたばかりの新婦が純白の長いウェディングドレスに身を包み、可憐なブ−ケを手に持ちながらにこやかに階段を下りてくるシ−ンに出くわす。外国を旅行していると、よく結婚式の風景に出会うのだが、人生最高のシ−ンだけに、その晴れがましくにこやかな姿はいつ見ても新鮮でほほえましい。
 

二階の奥に塔へ上る階段がある。上り口にはチケット売りのオバサンがいて、入場客を待っている。ここは有料なのだ。料金を払って狭い螺旋階段をぐるぐる回りながら展望台まで上りあがる。入場者は数人いるだけでひっそりしている。ここからはプラハの街並みが一望に見渡せる。真下には植込みに囲まれたヤン・フス像とみやげ品店の白いテントが立ち並ぶ四角い広場が見える。






市庁舎展望台より旧市街広場を見下ろす









周囲を見回すと、真正面には八〇mの高い二本の尖塔を持つティ−ン教会がそびえている。そして、それを取り囲むように赤屋根に覆われた家々や古風な建物が建ち並び、中世時代そのままの雰囲気を演出している。これもヨ−ロッパのあちこちで見られる中世の街特有の美しい風景だ。このシ−ンを四枚続きの写真に撮り収める。




 中世時代の姿がそのまま残るプラハの町並み。タウンホール展望台より望む。





ヨ−ロッパの古い街では、どこも申し合わせたように角度のあるレンガ色の赤屋根で、それが緑に映えて鮮やかなコントラストをつくり出す光景を高台から眺めると、まるでオトギ話の世界に迷い込んだように美しい。日本の屋根は灰色なので、街全体がくすんで見えるのが残念である。何事にも控え目で曖昧さを好む日本人の国民性が、屋根の色にまで現れているのだろうか。
 





市庁舎展望台より旧市外を望む














 同 上











ヴルタヴァ川へ
展望台からの美しい眺めに見とれて時を過ごした後、今度はヴルタヴァ川のほとりへ出てみる。広場から十分ぐらい歩いて行くとマ−ネス橋に出る。ここから前述したカレル橋が遠望できる。川の流れは相変わらず濁っているが、この橋からカレル橋を望む風景はまた格別に美しい。ブダペストのドナウ川ほど広くはないが、初夏の陽光に映える川面に重厚な石畳のカレル橋が落とす影が、緑深い両岸の風景にとけ込んで中世らしい風情を漂わせている。その雰囲気に呑まれるように思わず橋上にたたずみ、三枚続きの連続写真に収める。ここから一つ先のカレル橋まで回る元気は最早なく、そのまま地下鉄に乗ってホテルへ戻る。




 ブルタヴァ川(モルダウ川)に掛かるカレル橋の眺め




ホテルで夕食
部屋で一服すると、もう夕食の時間である。この周辺には何一つ商店街らしきものはない上に、唯一のマ−ケットさえ今日は土曜日ということで閉店になっている。やむなく、ホテルのレストランで夕食にする。折角だから郷土料理でも食べてみようと、朝食を取る二階のレストランへ行ってみると、ガランとして客はまだ一人もいない。


メニュ−を持って注文にやってきたウェ−トレスに、“プラ−シカシュンカ”はできるかと尋ねると、「できますが……。」と意外なオ−ダ−に戸惑っている様子である。恐らくメニュ−には載っていない料理なのだろう。しばらく考えた後、「それでしたら、あちらでもできますよ。」と、レストラン入口のコ−ナ−にあるスタンドバ−を指さす。そこで、案内する彼女の後についてそちらへ移動し、窓際の席に一人で陣取る。
 

彼女の伝言を聞いて今度はウェ−タ−が確認にやってくる。そこで、プラ−シカシュンカとビ−ルを注文する。やがて出てきた郷土料理は、意外とボリュ−ムのないあっさりとしたものだ。この料理はチェコの代表的料理として有名だそうだが、この国特産のハムを五、六枚切って皿に並べ、それにキャベツの千切りやキュウリ、トマトなどをあしらったものである。郷土料理ということで期待していたのに、自宅でも簡単にできる何の変哲もない平凡な料理に少なからず失望してしまう。これでは腹ごたえがなく、レストランに戻って食べ直したい気持ちだがそれもカッコ悪く、仕方なく出されたパンをしっかり食べて不足分を補うことにする。最後にコ−ヒ−をゆっくり飲みながら、人気のない広々としたスペ−ス空間に身をまかせ、のんびりとくつろぐ。快晴に恵まれたプラハの暑い一日も、ゆっくりと暮れてゆく。
 

旧市街散策
三日目。夜にかけて雨が降ったらしく、外は雨に濡れている。幸いすでに雨は明っている。そういえば、今度の旅も好天続きでまだ一度も雨に遭っていない。この分だと、今日の天気も大丈夫のようだ。とてもリッチな気分に浸れる豪勢な朝食を済ませ、ゆっくり身仕度をしてから十時ごろホテルを出る。プラハ最後の一日は、まだ回り残している旧市街をぶらついてみることにする。
 

まず、地下鉄に乗ってプラハ本駅に出る。ここはプラハ最大の駅とあって駅舎は大きく、コンコ−スも広々として清潔感が漂っている。ここにはレストランやカフェ、郵便局、インフォメ−ション、両替所など、旅行者向けの必要な設備が一通りそろっている。今日は市内を走るトラムに乗って市内観光をしてみようと思い、トラムの路線地図はないかインフォメ−ションで尋ねると、それは置いてないという。
 


では、繁華街のナ・プシ−コピエ通りに出掛けてみよう。駅の正面玄関を出ると前面は公園になっており、雨上がりのベンチに腰掛けて人々が憩っている。意外にも、駅前周辺は静かな住宅街やオフィス街になっている。今日は日曜日とあって人通りもなく、ひっそりと静まり返っている。通常のパタ−ンだと、駅前繁華街があって人出で賑わうところなのだが……。そんなことを思いながら、人気のないビルの谷間を抜けて繁華街へ向かう。十分ほどでナ・プシ−コピエ通りに辿りつく。日曜日なので開いている店は少なく、ほとんどが閉店していて繁華街も活気がない。そんな通りでも、観光客だけが右往左往しながら結構賑わいを見せている。
 

この通りのすぐ近くに“火薬塔”があるので見物に行ってみる。通りのど真ん中に道を塞ぐように四角い塔が建っている。その塔は四層構造になっていて、一番下の部分は凱旋門のようにア−チ状にくり貫かれて通り抜けできるようになっている。その昔、弾薬庫として使われていたそうで、これとよく似た火薬塔が他の通りにもう一つある。









旧市街の中にある火薬塔














近くにインフォメ−ションを見つけて中に入ると、多くの観光客でごった返している。ここでもトラムの路線図はないかと尋ねるてみるが、やはりないという。そこで、近所のブックストアの在処を聞いて路線図を探しに行ってみると、親切な本屋のオヤジさんが数種類の地図を見せてくれる。だが、どれも見にくく複雑で利用しにくい。一緒に見てくれていた彼にその旨を告げると同調しながら、「でも、それしかないんですよ。すみませんね。」と気の毒そうに応対する。
 

路線図が手に入らないとなれば、トラムに乗っての観光はあきらめなければならない。そこで今度は、ナ・プシ−コピエ通りからL字型に曲がって続くヴァ−ツラフ広場へ向かう。広場といっても、ここは幅の広い大通りになっていて、この二つの通りがプラハ最大の繁華街を形成している。ナ・プシ−コピエ通りからヴァ−ツラフ広場へ曲がる交差点は地下鉄のム−ステク駅になっており、その地上はム−ステク広場になっている。ここから国立博物館までの長さ七五〇m、幅六〇mの大通りがヴァ−ツラフ広場になっている。 


この大通りにはホテルや高級レストラン、ショップなどが並び、銀行や大会社のオフィスなども軒を連ねている。そして歩道には、スナックや花、みやげ物などを売る出店が並んでいる。今から三〇年近く前、チェコスロバキア共産党の独自路線にソ連や他の東欧諸国が軍事介入した「プラハの春」事件の際、この大通りを走り回るワルシャワ条約機構軍の戦車に市民たちが素手で立ち向かったという記念すべき大通りでもある。

 




新市街最大のヴァーツラフ広場
正面に見えるのが国立博物館








通りを見物しながら歩いていると、一軒のハム・ソ−セ−ジ屋が目にとまる。あまりにも盛り沢山の種類のハムやソ−セ−ジなどが陳列されているので、つい足を止めて店内に入り込む。どれも美味しそうで、お客も並んで買っている。店の奥を見ると、一人のお客がなにやら立ち食いをしている。近づいて見るとそこは立ち食いコ−ナ−で、美味しそうなシチュ−にクネ−ドリキを添えて食べている。よし、本日の昼食はこれに決まりだ! 


そこで早速、店のオヤジさんが煮詰めているシチュ−を指さしながら、「ディテ ミ(それをください)」と注文する。そして同時に、「クネ−ドリキ プロスィ−ム(クネ−ドリキをお願い)」と頼むと、大きなお皿にシチュ−をよそおい、その横にクネ−ドリキを四枚も添えようとするので、すかさず「ネ デェクイ−(ノ− サンキュ−)」といって四枚目を断わる。そしてさらに、カンビ−ル一本を取って立ち食いテ−ブルでの昼食が始まる。しめて五〇コルナ(一九五円)也。
 

このクネ−ドリキはチェコの典型的な主食だそうで、粗びきの小麦粉を練って直径五cm、長さ四〇cmぐらいの棒状にしてゆでる。ゆで上がったら幅一〜二cmほどの輪切りにし、料理の付け合わせとして出される。それ自体には味付けはされておらず、料理のソ−スを付けて食べる。これがシチュ−にはぴったりで、出されたクネ−ドリキは厚さ二cmぐらいのあっさりとした味、ややモチモチした感じで腹ごたえがある。これをシチュ−にまぶしながら三枚食べるだけで、もうお腹いっぱいである。
 

飲み残しのカンビ−ルを持って通りに出ると、ベンチに腰掛けてしばし憩う。しばらくすると、若い浮浪者風の男が通り掛かり、私の前に立ち止まって何度も深々とお辞儀をするではないか。ややっ、これは何事ならんと身構えると、ベンチの上に置いていた飲み残しのカンビ−ルにさっと手を伸ばし、それを天を仰ぎながらいっきに傾けて飲み干してしまうではないか。


あっけに取られていると、今度は「サンキュ−」といって手を差し出しながら握手を求めてくる。その憎めない行為に苦笑いしながら握手を返す。喉を潤すほどは残っていないのだが、それでもなんとか喉越しの感じが得られるくらいはあったのだろうか。いずれにしても、私の横に置いていたカンビ−ルを目ざとく見つけ、それを失敬して飲むプロの素早さには恐れ入ってしまう。この周辺には、少数だが徘徊するジプシ−の姿が見られる。
 

やおらベンチを立ち上がり、この大通りの南端突き当たりに塞ぐように建っている国立博物館へと向かう。この堂々とした建物はチェコを代表する総合博物館で、中には古代の発掘資料や鉱物、鳥獣の剥製などが展示されている。なかでも各種宝石や化石、あらゆる種類の岩石標本が幾部屋も使ってずらりと並びながら展示されている様は壮観で、ただただ圧倒されてしまう。だが、鉱物には縁のない私なので、際限なく続く鉱物の展示には対応のしようがない。このおびただしい数を観覧するだけでも足が疲れてしまうので、程々にして退館する。
 

このミュ−ジアムの真下は地下鉄のムゼウム駅になっている。ここから地下鉄で帰ろうと地下に下りると、小さなス−パ−が目にとまる。そうだ、今日の夕食はここで買い揃えて帰ろうと思いつく。そこでハム、バナナ、パン二個、カンビ−ル一本を三十五コルナ(一三六円)で買い込む。先程、繁華街のフル−ツ店で買ったオレンジもあるので、今夕食はこれで十分だ。ホテルへ戻ったのは午後三時ごろである。プラハ最後の夜は、買い込みの食材とビ−ルで独り乾杯する。



(次ページは「ポーランド・ワルシャワ」編です。)









inserted by FC2 system