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  no.1
(ブルガリア・ソフィア編)



18日間・5ヶ国

中世の香り漂う東欧の街々


1996年5月21日〜6月7日




旅 行 ル ー ト





旅 行 日 程

日付 日数 ルート 泊数 タイムテーブル
5/21(火) 成田 > パリ 機中 21:55発
22(水) > パリ > ソフィア @ 9:45発>13:35着
23(木) ソフィア(ブルガリア) A  
24(金) ソフィア B 夜行列車で移動
25(土) ソフィア > ブカレスト @ 午前到着
26(日) ブカレスト(ルーマニア) A  
27(月) B  
28(火) ブカレスト > ブダペスト @ 空路15:05発>15:25着(時差1時間)
29(水) ブダペスト(ハンガリー) A  
30(木) 10 B  
31(金) 11 ブダペスト > プラハ @ 空路12:05発>13:05着 
6/1(土) 12 プラハ(チェコ) A  
2(日) 13 B  
3(月) 14 プラハ > ワルシャワ @ 空路10:15発>11:50着
4(火) 15 ワルシャワ(ポーランド) A アウシュビッツ収容所
5(水) 16 B  
6(木) 17 ワルシャワ > パリ > 13:10発>15:30着、パリ19:55発
7(金) 18 >関西空港 機中 14:55着





1.出発まで

<ビザ取得のこと>
東ヨ−ロッパの国々は、どこもビザが必要である。そこで、今度の旅はビザ取得作戦から開始である。五ヶ国分も取得する必要があるので、旅行社に依頼すればかなりの手数料がかかる。それはもったないと自力で取りかかってはみたものの、二三の大使館に電話で問い合わせてみると、郵送でのやりとりでは長期間の日数がかかり、らちが開きそうにない。そこでやむなく、東京在住のわが愛娘に一肌脱いでもらうことになった。
 

快く引き受けてくれた愛娘は、早速行動開始。都内に点在するブルカリア、ル−マニア、ハンガリ−、チェコ、ポ−ランドの各大使館を巡り、ビザ申請用紙の収集にかかった。ところが、ル−マニア大使館で思わぬ事態に遭遇した。そこではル−マニア人ばかりで日本人の係がおらず、英語しか通じないのある。英語に不慣れな娘は少々戸惑ったらしく、結局その場は用が足せずに帰還することになった。


その連絡を受けた私は、話すべき用件を英語でしたためた上、早速FAX送信した。彼女はそれを持って再度大使館に出向き、目的は達成したのだが、結局のところ、このル−マニアだけはビザ申請の用紙は必要なく、自由書式で数項目の必要事項を書いて申請するだけでよいことがわかった。
 

こうして、ル−マニアを除く四ヶ国の申請用紙を送付してもらい、その作成に取り掛かった。この四ヶ国は、いずれも写真の貼付が要求され、ハンガリ−は三枚、他はそれぞれ二枚の写真を必要とした。そこで早速、写真を準備し、必要事項を記入して作成の上、五ヶ国分の申請書とパスポ−トを娘の許へ送付した。これを受けて彼女は、まず一ヶ所に申請し、その終了を待って受け取りに行き、そしてそれを次の大使館に申請するという、とてもやっかいな手続きを実行することになった。
 

その間、ハンガリ−の申請では写真の貼付が三枚必要のところ、こちらのミスで二枚しか貼付していなかったり、ル−マニアの申請では申請日が限られた曜日になっているのを知らずに出向いたりなどで、再三無駄足を踏ませることになった。結局、各大使館へ足を運んだ回数は、@申請用紙受け取り、A申請書提出、Bパスポ−ト受領−−と、一大使館につき三回で計十五回、それにル−マニア二回、ハンガリ−一回の無駄足を踏んでいるので合計十八回の大使館詣でとなった。二月の寒い時期から始まったビザ取得作戦も、こうして五ヶ国分が完了したのは五月の連休明けで、旅行出発の十日前であった。娘は、「お陰で大使館めぐりという珍しい体験ができて楽しい面もあった。」といってくれたが、いやはや大変な手間暇をかけることになり、感謝の念でいっぱいである。
 

この申請に要した申請手数料は次のとおりで、約二万円を要した。

ブルガリア   5,450円  
ル−マニア     150
ハンガリ−   5,000(99年現在でビザ不要となった)
チェコ      3,300(       〃         )
ポ−ランド    6,000
  計     19,900円


<旅行ル−トと航空券手配のこと>
当初は往復運賃一〇万円と割安なロシア系のエアロフロ−ト航空を考えていたが、係のアドバイスでは国内の福岡〜東京間運賃が追加払いとなるので便利なヨ−ロッパ系航空会社の運賃とさほど差はなくなるという。また、ヨ−ロッパ系では目的地に同日に着くので、エアロ航空の場合のようにモスクワ乗り継ぎで一泊する必要もないという。そこで、国内往復運賃を含み、パリ乗り継ぎでヨ−ロッパ内の都市間二フライトができるエ−ル・フランスを選ぶことにした。これで、往復運賃一七五、〇〇〇円である。
 

次に旅行ル−トだが、当初鉄道で移動することを考えて時刻表を調べてみると、昼間の移動ではほぼ一日かかることがわかった。夜行列車を選べば合理的だが、五ヶ国回るとなれば五回の夜行となって疲れも増すだろうし、その上スロバキアを通過することになるので、そのビザまで必要になる。そんな事情から、結局、費用は割高になるが時間の節約ができる空路を選ぶことにした。
 

旅行社の提案ではパリ乗り継ぎの便がよいプラハ(チェコ)ル−トで東ヨ−ロッパへ入り、それからハンガリ−>ル−マニア>ブルガリアと南下してから一気に北上してポ−ランドへ飛び、そこからパリ経由で帰国するというル−トである。だが、この案を持ち帰ってゆっくり検討してみると、ブルガリア〜ポ−ランド間の飛行距離が特別長くなり、これら五ヶ国を端から順に飛び石づたいに回る場合よりも高い航空運賃になって不合理であることがわかった。そこで、まず南のソフィア(ブルガリア)に入り、そこから飛び石づたいにブカレスト(ル−マニア)>ブダペスト(ハンガリ−)>プラハ(チェコ)>ワルシャワ(ポ−ランド)と北上するル−トを選ぶことにした。
 

ところが、旅行社からフライトスケジュ−ルを取り寄せて調べてみると、これら五ヶ国相互間の飛行便数は少なくて毎日はなく、その上曜日も限られており、自分の日程に合わせにくいという問題が生じた。でも、移動に要する四フライトのうち三フライトは何とかスケジュ−ルに合わせられるものの、ソフィア>ブカレスト間がどうしても日程に合わない。その結果、この間の移動だけはやむなく夜行列車で移動することにした。こうして旅のル−トは、ソフィアからワルシャワへ転々と北上する飛び石ル−トに決まったのである。


<ホテルのこと>
今度の旅も、時間のロスをなくすためホテル予約をとることにした。まず、国内にあるホテル手配専門のエ−ジェント二社から資料を取り寄せたが、プラハ、ブダペストを除く他の諸国は一般的でないとみえて手配できるホテルがないのである。そこで、プラハとブダペストのホテルの予約はエ−ジェントを通じてとることにし、ブカレストとソフィアは自分で直接ホテルにFAX通信することにした。そして残りのポ−ランドは、ポ−ランド航空日本支社がホテルの斡旋もしているというので、そこを通じてホテル予約を行うことにした。
 

こうして、ソフィアとブカレストのホテル予約が国内ではとれず、直接現地のホテルへ連絡することになる。まず、ソフィアのリラ・ホテルにFAXでコンタクト・レタ−を送信すると、相手が出たのでリラ・ホテルかと尋ねると「ネ(ノ−)」という返事。そこで今度は電話をかけてみると、相手は結構英語で応じてくれるのでFAX番号を確かめる。すると、最後のケタ番号が一番違っている。今から送信するからというと、問題ないから送れという。


そこで再度送信してみるが、何度試みてもエラ−が出て送信できない。結局、これは送信をあきらめ、電話で予約を申し込むと、三ヶ月も先の六月までふさがっているという。そこで、別のブルガリア・ホテルに電話してみると、これも英語で応対してくれ、うまく通じて予約がとれる。   


次にブカレストのブルバ−ル・ホテルにFAXを送ってみると、今度はうまく送信できる。だが、何日待っても返信がないので再度送信してみるが何の応答もない。そこで後日電話してみると、英語が通じたがやはりいっぱいだという。しかたなく別のホテルへ電話すると、どういうわけか来週もう一度電話してみてくれという。これではらちが開かないと、他のホテルへ電話すると、電話局のものらしい録音テ−プの声が現地語で流れていて、どうもそれは使用されていない番号らしい。
 

そこで、少しホテル代は高いがホテル・コンティネンタルに電話してみると、英語の話せる係が出てきてFAXを送れという。すぐに送信して返信を待つが、なかなか返信が来ない。業を煮やして再度電話し、FAXは受信したかと聞くと受信していないという。そこで、再度送信して電話すると今度は受け取ったという。そして、予約はOKというので、予約番号を教えてくれと頼むと、三十分以内にFAXで送るからという。
 

このやり取りが日本時間の午後六時半ごろ。ところが三十分を過ぎても何の返信もない。予約は取れているのだから問題なかろうと思って放っていたところが、その晩深夜二時半に電話のベルで叩き起こされた。出てみるとFAXを送るからという。ところが二度試みてもうまく受信できない。そこで、こちらから電話して再度送信を依頼する。そして、三度目にやっと受信ができたのである。あまり早く受話器を置かないようにするのがコツらしい。なにせ、外国から受信するのは初めてなのだから。
 

送信されてきたのは、こちらのレタ−がそのまま返信され、その次に「貴殿の予約は確認しました。一泊一五〇ドル。NO三三八」とメモ書きされ、マネ−ジャ−のサインがあるのみ。でも、受信したFAXの文字は意外と鮮明である。こうしてFAXの深夜劇も終わり、やっと両国のホテルが確保できたわけである。ブルガリアもル−マニアも、ホテル関係は英語が通じることがこれでわかりホッとする。


だが、こうしたやりとりの国際電話代が総額一二、七〇〇円もかかり、優にホテル一泊分相当の料金になってしまった。やはり、現地で手配するのに越したことはない。が、時間のロスや疲労のことを考えれば、そうとばかりは割り切れない。これは痛しかゆしの問題だ。


<言葉のこと>
これまでの経験から、訪問する五ヶ国分の基本語を覚えることにした。つまり、「おはよう」「こんにちは」「はい」「いいえ」「ちょっとすみません(呼びかけ)」「おねがい(英語のプリ−ズ)」「ありがとう」「いくら?」「どこ?」「ごめんなさい」などの十種類である。ポ−ランド、チェコ、ハンガリ−の三ヶ国については会話集があるのでこれに頼り、ブルガリア、ル−マニアについては会話集もないのでガイドブック記載の用語からピックアップした。そして、これらの用語を一覧表にして旅行出発までに覚えることにした。
 

なにせ五ヶ国分を使い分ける必要があるので頭の中が錯綜し、現地に入る直前にはその国の分を何度も復唱しながら再確認した。各国とも三泊ずつで移動したので、ようやく使い慣れた頃にはまた次の国の言葉に変わるというめまぐるしさ。そのため、ついうっかり前の国の言葉が口をついて出たりして一人苦笑する始末。でも、なんとかこれだけの用語で切り抜けることができた。しかし、一語でも多く知っておくことが、我が身を助けることになるものだと実感させられた。
 

いずれの国も空港やホテルでは英語が通じ、困ることはなかった。またどの国でも、若い世代ほど英語を多少話す割合が高く、逆に年齢が高くなるほどその割合は皆無に近い。だから、英語で用をたしたい場合は、できるだけ若者を見つけて話すようにするのがコツである。


でも、現地語で「こんにちは」と声を掛ければ、にこにこしながら挨拶が返ってくるし、また、「ありがとう」と礼を述べれば、にっこり笑いながら必ず「どういたしまして」の言葉が返ってきて、現地語によるコミュニケ−ションの楽しさが実感できる。そして、言葉に早く慣れるためには、必要以上に機会をとらえて頻繁に使ってみることだ。その国の言葉を使うことは、外国旅行の大きな楽しみの一つなのだから……。


2.いよいよパリへ出発
 
旅から戻った翌朝、疲れた体を起こしながら、十八日間のヨ−ロッパ旅行に浸ってぼんやりした頭の中から旅の思い出を手繰り出す。それにしても、今度の旅はいつになく疲れた感じである。やはり、歩き回ることの多い旅だったからだろう。ソフィアやブカレストでは、観光資源に乏しいためか、あるいは経済状態が未発展でそのゆとりがないためか、観光客受け入れ態勢が未整備なのである。そのため自分の足で観光しなければならず、二十五度を超す暑さの中を歩きに歩くという旅になってしまった。気候の面ではもう一ヶ月早い時期にすべきだったかなと思いながら、刺激と変化に富んだ旅の思い出に耽り出す。
 

昨日降った久し振りの雨も明って、今日は雨の心配はなさそうだ。福岡発羽田行き航空便は午後三時半なので、長崎発十一時の列車で博多へ向かう。週末ではないので車内の席も空いている。独りゆったりと座りながらくつろいでいると、やがて博多駅へ到着する。
 

そのまま福岡空港へと移動する。ここで航空券を渡されることになっているのだが、指定の時間にはまだ早すぎる。だが、指定の場所に行ってみると、すでに係員が待っている。早い出発の客があったらしい。チケットを受け取りチェックしていると、「スゴイ旅行コ−スですね。わたしが扱ったお客さんでは、こんなの初めてです。」と驚いている。そして、「言葉のほうは心配ないのですか?」と質問するので、「その国の重要語を五つ六つ覚えているだけ。あとは英語ですよ。」と答える。すると、隣にいた別の係が「英語なんかペラペラなんでしょうね。」と羨ましそうにいうので、「まあ、そんなことにしときましょう。」とお茶を濁してその場を立ち去る。
 

今度の旅は、前回のオ−ストラリア旅行と同様、九回の飛行便を乗り継ぐことになる。無事を祈りながら、まず第一回目の羽田行き便に乗り込む。予定どおり羽田に到着すると、すぐにバスで成田へ移動する。この運賃が二、九〇〇円と高い。到着すると第一タ−ミナルにあるエ−ル・フランスのカウンタ−に直行してチェックインする。ここでパリ>ソフィア間の搭乗券も発行してもらう。これで一安心。パリへは夜十時近くの出発になるので、まだ三時間あまり待ち時間がある。
 

少し腹ごしらえをと思い、ロビ−内を徘徊する。ショ−ウィンド−のメニュ−を見ると、どの料理も結構値段が高い。機内でディナ−が出るというので、それまでのつなぎにはスナック程度で十分である。ド−ナツでも食べようかと考えながら歩いていると、寿司屋の店頭に一口イナリが並べてある。値段も安いのでこれを仕入れ、お茶も買ってベンチで一人ほおばる。


夜の出発便は少ないらしく、空港ロビ−は人影もまばらでガラ−ンとしている。ゆっくり時間を掛けて食べ終わると、空港税のチケットを買っておこうと販売機のほうへ行ってみる。そこの掲示を見ると、クレジットカ−ドでも買えると書いてある。そこで、ロビ−の隅にある取り扱い店で二千円のチケットをカ−ドで購入する。福岡発と違って成田発は、羽田からのバス運賃とこの空港税が要るので約五千円の無駄な出費がかさむ。帰国も成田だと更に帰りのバス代もかかるので、八千円にもなってしまう。なんと不便で費用のかかる成田空港であることよ。
 

九時五十五分発のエ−ル・フランス機は、予定どおり夜の成田空港をパリへ向けて飛び立った。乗客はほとんど日本人だが、客数が少なくて機内はガラ−ンとしている。私も三人掛けのシ−トを一人で独占している有様だ。やがて水平飛行に移ると機内サ−ビスが始まり、ディナ−が出される。エ−ル・フランスは初めての搭乗だが、やはりフランスらしく、これまでにないしゃれた料理でなかなかセンスがいい。


テレビ画面に写し出されるスカイマップを見ていると、機は日本海上空を横ぎってシベリアへ向かっている。地球の北回りで、これから十三時間の空の旅が始まる。食事も済んで一服していると、もう深夜の十二時近い。そろそろ寝ようかと三席分をつぶして横になる。足を伸ばして寝るには少し短いが、横になれるのでほんとに有難い。
 

横になれるので眠れるかと思っていたが、ほんの少しまどろんだだけで朝食の時間を迎えてしまう。起き抜けのお腹はほとんど空いていないが、旅行中のお腹は空きやすいので無理して朝食をしまい込む。食器の回収が終わると、やがて着陸である。これまでの飛行コ−スは、シベリア上空を横断して北欧上空へ達し、コペンハ−ゲン上空を通過して南下しながらアムステルダム上空を飛行し、パリへと向かうのである。二年前に訪れたこれらの都市がなんとも懐かしく、次々に思い出がさざ波のように打ち寄せてくる。
 

パリのシャルル・ドゴ−ル空港に立ち寄るのは、これで二度目だ。だが、ここの空港はちょっとやっかいなのだ。ここは大きく第一と第二タ−ミナルに分かれており、その間は車で十分もかかる距離に離れている。そして第二タ−ミナルは、さらにA・B・C・Dの四つのタ−ミナルに分かれるという複雑さなのである。だから独り旅だと、どのタ−ミナルに着いて、どこのタ−ミナルへ移動し、そして乗り継ぐのかを自分で調べなければいけない。このエ−ル・フランス機も第二タ−ミナルに到着するので、乗り継ぎのための移動が必要だ。このA・B・C・D間と第一、第二タ−ミナル間には、循環バスが常時頻繁に走っているので不便さはない。 


快晴に白むパリの空の下、早朝四時半、予定どおり第二タ−ミナルに到着。気温八度ということで、当たる風もひやっと爽やかだ。早朝とあってタ−ミナルにも人気はなく、ただこの機の乗り継ぎ乗客だけが少々残っているだけである。トランスファ−(乗り継ぎ)の矢印に従って乗り継ぎ便のカウンタ−に行ってみると、日本人の係もいて応対している。


ソフィア行きの搭乗券はすでに成田でもらっているのだが、念のため係に見せると、どのタ−ミナルから出発するかを案内してくれる。そして、レストランでスナックと飲みものが注文できるチケットをくれ、これで一服しながら出発まで待つようにといってくれる。なかなか気配りがいい。それにしても、出発までこれから五時間も待たなければいけない。パリの街へ繰り出すには時間が早すぎるし、ここで待つより仕方がない。
 

教えられた階上のロビ−にあるレストランへ行ってみると、早朝とあってまだ開店していない。係の日本人女性が、さも開いていると言わぬばかりに「レストランは、この上にありますからどうぞ。」というので、四六時中開店しているのかと思いきや、そうではないのだ。ゲ−トチェックの係に尋ねてみると、店は八時半オ−プンだという。「えっ、それまで四時間近くもあるぞ!」と思いながら、だまされた気分になる。仕方なく、人気のない広いロビ−の椅子に腰掛けながら、おもむろに電気ソリを取り出し、伸びたヒゲのシェ−ビングを始める。
 

眠気ですっきりしないぼんやり頭を抱えてボ−ッと座っていると、近くを日本人青年が通りかかる。声を掛けると、傍に来て座り込み話し始める。彼もやはり同じ便でやって来てここで乗り換え、チュ−リッヒへ出てスイスアルプスを中心に一週間の旅をするのだという。初めての海外旅行で、しかも独り旅だという。それでは戸惑いも多く、心細いだろうと、旅の心得をいろいろアドバイスしてやる。こちらとしても、待ち時間をやり過ごすのに格好の話相手ができて幸いだ。
 

彼の出発時間が私より早く、私と同じ出発タ−ミナルでもあるので、そこへバスで移動する。ここにもエ−ル・フランスのチェックインカウンタ−があるので、帰国便のリコンファ−ムをしておく。彼も同じエ−ル・フランスというので、ここでリコンファ−ムをしておけば帰りが安心だからと教えて手続きをさせる。このタ−ミナルは結構人も多く、すでにスナックバ−も営業している。ジュ−スでも飲みたいのだが、フランス・フランの持ち合わせがない。店員に「支払いは米ドルでもいいですか?」と尋ねると、それでもOKという。そこで、オレンジジュ−スを二杯注文して彼にもふるまう。結構高くて、二杯で八ドルもする。それからひとしきり時間を過ごし、旅の安全を祈って彼の搭乗を見送り別れを告げる。


3.ソフィア・・・・ 華麗なフォ−クロア・郷土料理ケバプチェ・ニセ旅行者との出会い
 
ドゴ−ル空港で五時間あまりを過ごしやり、やっと搭乗時間を迎える。この便もエ−ル・フランス機で、さすがに日本人乗客は私だけである。定刻より少し遅れて午前十時ごろ出発。隣席には、大きなテレビカメラを持った若い男性と中年女性の二人連れが乗り込む。「テレビ放送関係の方ですか?」と尋ねると、「彼はテレビカメラマンです。」と女性のほうが答える。二人はしきりに仕事のことらしい内容をブルガリア語で話し込んでいる。その間、飲みものや昼食が運ばれ、二時間半の飛行で現地時間の午後二時前ソフィア空港に到着する。
 

首都ソフィア
ブルガリアの首都ソフィアは、上空から見ると周囲を山で囲まれた盆地の中にある。着陸して誘導路を走る機内の窓から飛び込んできたのは、停止している航空機の傍で銃を肩にした一人の女性兵士が監視している風景である。そのものものしさに、一瞬ドキッとさせられる。それにしても、この空港は意外と殺風景である。それは、「おや、これが首都の空港?」と思うほどタ−ミナルビルなどの空港施設が小さく、しかも、それらがうらぶれた様子を呈しているせいだろうか。経済成長未発展の苦しい国情を伺わせる。
 

もちろん、エプロンの乗降施設はないのでタラップで地上に降り立ち、そこから歩いてタ−ミナルの入国審査ゲ−トへと向かう。気温二十五度で、歩き出すとすぐに汗がにじむ。屋内も殺風景で、すべてが古びて痛んでいる。入国審査に行列ができているので、その間に横手にある両替所で十ドル分の両替を行う。そして地図を見せながら、「ホテル・ブルガリアへ行くのですが、最寄りのバス停はどこでしょうか?」と尋ねると、「ここならユニベルシテト(ソフィア大学前)で降りるとよい。」と教えてくれる。英語が通じるのだ。
 

こうしている間に行列はなくなっており、一番どん尻に並ぼうと進んで行くと横のテ−ブルに何やら用紙が無造作に置いてある。「ひょっとしたら出入国カ−ドかな?」と思って覗き込むと、案の定そのカ−ドだ。普通、このカ−ドは着陸前に機内で渡され、そこで記入するのが通例だが、それが渡されないので不思議に思っていたのだ。カ−ドに急ぎ記入し、最後の一人になった私を待っている係官に「ドバル デン(こんにちは)」と声を掛けながらパスポ−トとカ−ドを差し出す。すぐに手続きは終わり、「ブラゴダリア(ありがとう)」といってロビ−の方へ出る。
 

ホテルへ
ロビ−とはいっても、狭いうらぶれた田舎の待合所みたいな感じである。首都の空港とはいえ、その設備の広さや美しさの点では長崎空港に遠く及ばない。そんな思いで辺りを見回していると、ホテルの案内所が目に留まる。ここなら英語が通じるだろうと、「バスのチケットはどこで買うのですか?」と係に問い掛ける。すると、「バスの中で買えます。」という返事。「おかしいなあ、ガイドブックには車内で買えないと書いてあるのに……。」と、いぶかしがったが、現地の人がいうのだから間違いなかろうと、教えられたバス停のほうへ歩き出す。
 

玄関から外に出ると、待ち構えていたように数人のタクシ−ドライバ−が駆け寄ってきて、「タクシ−? タクシ−?」としきりに誘い込む。首を横に振りながら誘いの波をくぐり抜けると、向こうのほうに古びたバスが一台止まっている。あれだなと思いながら急ぎ足で近づくと、八十四番の番号表示が目に留まる。ガイドブックにあるとおり、市内行きはこのバスに間違いない。


ここでは空港往復のリムジンバスがないので、この路線バスを利用するしか手がないのだ。そろそろ発車しそうな気配なので走り出すと、あと十メ−トルのところでバスが動き始める。そこで手を挙げて振りながらバスを止め、やっと飛び乗る。この息をはずませながら駆け込んできた東洋系の老人に、小人数の乗客の目が一斉に注がれる。
 

なんと古びた、ガタピシのポンコツバスなのだろう。もちろん、ク−ラ−はない。だから車内は強い日差しを受けて、サウナのようにムンムンしている。上着を脱いでも汗が止まらない。シ−トに座り、ハンカチで汗を拭いながら窓外の様子を眺めると、空港周辺は荒れたままに放置された未整備の状態で、なんとも殺風景この上ない。市街地が近づくにつれて家並みは多くなってくるが、道路を含めた街並み全体が何かしら薄汚れていて、うらぶれた街といった印象が強い(こういっては失礼なのだが……)。やはり経済力の差なのだろうか。
 

ブルガリアのこと
ブルガリアの人口は約九〇〇万人。正式国名はブルガリア共和国で、宗教はブルガリア正教が八五%を占める。紀元前五世紀ごろ、この地に初めて定住したのが彼らの祖先トラキア人である。それ以後、ロ−マ帝国、ビザンチン帝国、オスマントルコなどの支配下に涙をのみ、二十世紀初頭になってロシアの手により初めてトルコから独立を手にする。


九世紀末には高僧キリルらによって英語のアルファベットとは異なる独特のキリル文字が発明され、それが現在でも使用されている。第二次大戦ではドイツ側について敗戦、その後はソ連の衛星国として共産党内閣による政治体制がしかれる。八九年、ベルリンの壁崩壊による民主化の波が押し寄せ、九一年には市場経済へ移行する改革が始まった。
 

だが、商店など中小サ−ビス業の民営化は進んだが、大規模な製造業の民営化は、他の中欧諸国に比べ遅れている。現在、一、五〇〇社以上の国営企業の民営化が計画されているが、銀行の倒産が相次ぐなかで、それに必要な資金は外国からの投資に頼らざるを得ない状況になっているという。ところが金融、電話、道路などのインフラ(社会基盤)の未整備が障害となって、外国からの投資も進んでいない。おまけに、マフィアと呼ばれる地下組織による経済の暗部が、外国資本に二の足を踏ませているという。
 

例えば、車に何種類かのステッカ−が貼ってある。それは損害保険に加入している印なのだが、この保険に加入しないと、車を盗まれたりこわされたりする被害に遭う頻度が高くなり、保険に入ってステッカ−を貼った途端、被害はなくなるという。それが、裏でマフィアとつながっている証拠だという。(この項、九六年四月二十五日付、朝日新聞記事による。)
 

また、私が旅行に出発する五月に入って、ブルガリアの通貨不信が拡大、年初の一ドル=七〇レバが一三〇レバ台まで下落した。通貨暴落で、首都ソフィアなどでは預金者が銀行に殺到する騒ぎが起こる始末。国立銀行は基準金利をこの四月に年四九%から六七%に上げたが通貨下落に歯止めがかけられず、五月十日になってそれを一気に一〇八%に引き上げた。なんと、この数値は一年間の預金利子だけで倍以上に増えることを意味する。


同国の通貨危機は、社会党(旧共産党)政権の経済政策が成果を上げず、国際通貨基金が新規の融資や信用供与に難色を示していることが背景にあるという。(この項、九六年五月十一日付、日本経済新聞記事による。) このことは、ドルを持参する私にとっては幸いなことで有難い。それだけドルの交換比率が高まるのだから。ちなみに、私が現地両替所で交換したドルのレ−トは一ドル=一三八レバ、したがって一レバ=〇・七八円となる。
 

こんなことを考え合わせると、街の様子に輝きがないのは当然のことかも知れない。蒸し風呂のようなバスは、車体をきしませながら市内中心部へと入って行く。目指す停留所も間もなくだろうと思い、近くに立っている女子高生風の二人連れに「カデ ユニベルシテト?(ユニベルシテトはどこですか)」と尋ねると、二人で話し合いながらあちらの方だと指を差す。バスの進行方向と違うので心配になり、バスを指さしながら「ユニベルシテト OK?」と尋ねると、首をかしげてわからない様子。その時、横から上品な婦人が私の肩を叩くので振り向くと、「ツ−・ステ−ション!」と教えてくれる。ここから二つ目の停留所らしい。
 

その親切な婦人に「ブラゴダリア(ありがとう)」とお礼を述べ、ほっとしながら胸を撫で下ろす。間もなくユニベルシテトに到着、席を立って運転席の方へ移動する。そして「ティケット」といいながら十レバ紙幣を差し出すと、運転手は怪訝な顔をするだけで取り合おうとしない。もう一度促してみるが、やはり取り合わない。


その時、一人の婦人がジャケットを持ってきて運転手に差し出しながら何か話している。運転手はそれを受け取り、運転席の前に無造作に置いている。それは乗客の忘れ物らしい。それをふと見ると、見覚えのある柄ではないか。ハッとしてよく見ると、なんとそれは自分のジャケットなのだ! 暑くて脱いだ上着を座席に置き忘れていたのだ。即座に、運転手に「それは自分のものだ。」と手振りで示すと、上着を渡してくれる。
 

自分のうかつさと、切符を買えない焦りで狼狽しながら躊躇している間にも、バスはドアを開けて降りるのを待っている。この行き詰まった局面を打開するには下車するしかないと、思い切ってそのまま降りることにする。「ブラゴダリア!」といいながら下車すると、バスは何事もなかったように走り去る。こんなところでタダ乗りとは、なんということをしでかしてしまったのだろう。バス賃わずか十レバ(八円足らず)だというのに……。経済困窮状態にある国で、まさかこんなお世話になろうとは! やはりチケットは車内で買えないのだ。もし、検札官に見つかったら罰金ものだ。
 

とにかくほっとしながら辺りをみまわすと、空から粉雪のように白いフワフワしたものが通り一面に降り注いでいる。街路樹の“たちやなぎ”の木が花吹雪を降らせているのだ。異国で見る珍しい光景である。目に入らないように気をつけながら、小型バッグ一つを肩に負い、ゆっくりと歩き出す。ホテルのある通りは多分この筋と思うが、確かめなくては無駄足になる。早速、通り掛かった男性に地図を示しながら「ここはオスボボディテル通りですか?」と尋ねると、少し考えながらうなずいてみせる。そこで、ホテル・ブルガリアは知らないかと尋ねると、知らないと首を横に振る。
 

人通りの少ない昼下がりの通りを少し歩いて行くと、小さな広場に軍服姿の人物の騎馬像が見える。ここで、記念写真第一号を撮る。






オスボボディテル通りの騎馬像









そして、出会った紳士にもう一度ここはオスボボディテル通りに間違いないかを確かめる。それを確認して安心しながら、先へどんどん歩み続ける。すると、とある辻の間から金色に輝くド−ムが見える。あれがガイドブックにあるアレクサンドル・ネフスキ−という寺院に違いない。だが、それは場違いなほど豪華な建物に見える。これも写真に収めておこう。
 






黄金のドームが輝くアレクサンドル寺院









もうホテルの看板が見えるころだがと注意しながら歩くが、なかなかそれらしきものが見えない。ここらで一度確かめてみようと、「カデ ホテルブルガリア?(ホテル・ブルガリアはどこですか)」とビルの前に立っている男性に尋ねると、ここだと指をさして教えてくれる。偶然にもホテルの玄関前に来て尋ねているのだ。我ながら、おかしくなってしまう。それにしても、建物の表にはホテルらしい様子も見られないし、看板も出ていないのだ。後になってよく見ると、玄関前の大きな柱に「ΧOTEL БЬЛГaРИЯ(ホテル ブルガリアと読む)」とキリル文字で書かれているだけなのだ。これでは、分かるはずがない。
 

とまれ、無事到着して「予約しているムカイですが。」とフロントに申し出ると、台帳を調べて「はい、たまわっております。」といいながら、記入カ−ドを差し出す。これに住所、氏名などを記入して渡すと、パスポ−トも見せてくれという。記入を終えるとキ−だけ渡すので、パスポ−トもくれというと、これは必要だからといって渡してくれない。
 

「ところで、リラ(国際列車の切符販売所)へ行きたいのだが、場所を教えてくれませんか。ブカレスト行きの切符を買いたいのだが。」と尋ねると、そちらのインフォメ−ションに聞いてくれという。その場所はフロントの向かい側にあり、英語が達者なオバサンといった感じの婦人が座っている。そこで再び尋ねてみると、「リラ」の発音が悪いのかなかなか通じない。


そこで、ガイドブックを取り出し、スペルを見せると、「オゥ リラ」といってわかってくれる。「リ」にかなりの強いアクセントを付けないと通じないのだ。彼女は親切にも地図を書いてくれ、リラに電話した上、ブカレストまでの料金と外貨支払いは不可ということまで聞いてくれる。この切符購入は、ソフィアに着いたら真っ先にやるべき優先事項なのだ。
 

部屋に案内されて中に入ると、ゆったりした空間にキングサイズのダブルベッドが置かれている。でも、部屋の様子やバスル−ムなどもやや古い感じである。これで一泊七千円(朝食付き)である。やっと旅装を解いてトイレに腰を下ろすと、ぐらっとして倒れそうになる。なんと便器が固定されておらず、ただ床に置いてあるだけなのだ。こんなことは初めてである。トイレットペ−パ−も茶色っぽい厚手の紙でバサバサと使いにくい。こんなところにも、その国の経済情勢が反映しているのだろうか。
 

リラでチケット購入
一服する間もなく、すぐに地図を持ってリラへ出かける。その前に、隣の両替所で運賃分をマネ−チェンジする。教えられた道を行くと、工事中や放置されたままのガタガタ道で、途中何度か道を尋ねながらリラに到着。歩いて十分とかからない。中に入ると、国際線を取り扱うだけあって、カウンタ−の窓口には「予約」と英語で書かれている。


他の客は一人もおらず、ひっそりとしている。そこで、「日時・ソフィアからブカレストまで・一等寝台の下段を一枚」と英語で書いたメモ紙を差し出しながら、お願いしますと係に渡す。この窓口では英語が通じるので有難い。運賃は二、六〇〇レバ(約二、〇〇〇円)と、かなり安い。これで、ブカレスト行きが確保できて一安心だ。
 

ホテルへUタ−ンすると、再びインフォメ−ションで「リラの僧院」行きのことについて尋ねてみる。親切な係のオバサンは、ツア−を主催する会社に連絡してみてくれるが、七人以上の人数が揃わないと催行しないという。自分で日帰り旅行ができるだろうかと尋ねると、バスの便が一日二便しかないので、滞在時間を考えるとちょっと無理だろうと頭をかしげる。


この僧院は、十世紀にリラ山の奥深くに開かれたブルガリア正教の総本山で、ユネスコの文化財にも指定された見応え十分のフレスコ画(塗り立てのしっくいの上に描かれた水彩画)で埋め尽くされているという。バスで三時間のところだ。ここはなんとか見たいと思っていたのだが、やはり一人の日帰り旅では無理らしい。交通の便さえ良ければ問題ないのだが……。残念だが、僧院行きは断念することにする。
 

そこで今度の旅のもう一つの目的、今夜のコンサ−トについて尋ねてみる。すると彼女はすぐに電話で問い合わせてくれ、運よく今夜はオペラハウスで歌劇「セヴィリアの理髪師」があると知らせてくれる。六時半開場、七時開演でチケットはオペラハウスで買えるからという。ノ−ネクタイで入れるかと聞くと、かまわないという。それでは、今夜の予定はオペラ鑑賞といこう。それからもう一つ、明晩のフォ−クロアショウ(民族舞踊のショウ)の予約も頼んでおく。夕方までたっぷり時間があるので、部屋に戻りシャワ−を浴びて仮眠することにする。成田出発以来、時差のためほとんど眠っていないのだ。
 

オペラ鑑賞
しばしまどろんだ後、そろそろ外出準備にかかる。その前に腹ごしらえをと思い、ホテル一階にあるティ−ル−ムでケ−キ一切れとジュ−スでお腹を満たす。オペラハウスの道順を聞くとすぐ近くだ。「カデ オペラハウス?」と二、三回道を尋ねながら七分ぐらいで劇場に到着。七時半前とあって表玄関はまだ開門されておらず、建物の前には三三五五と集まってきた聴衆が立ち話している。その中に一人ポツンと突っ立って、みんなの様子をうかがう。男女のほとんどがきちんと着飾って来ているが、一部にはラフなシャツ姿の若者たちも混じっている。  


まだ時間があるので横手のほうへ様子を見に行くと、そこの入り口が開いている。中に入ると、そこがチケット売場になっている。係の老女が示す座席表を見ると、シ−トの区分ごとに料金も示されている。その中で最も高額の二階最前列中央の席を指さしながら、この席をと注文する。この特等席でなんと五〇〇レバ(四〇〇円)である。現地の人たちにはこれでも高価とみえて、特等席は空いている。間もなく玄関が開き中に入ると、そこはオペラハウスらしくソデ付きの二層になったホ−ルだが、それほど広くはない。この最前列を除いて、ほぼ満席の盛況である。  


超有名な「セヴィリアの理髪師」序曲の演奏で幕は切って落とされた。舞台下のボックスでオ−ケストラが奏でるその軽快なメロディに、うっとりしながら聞き惚れる。まだ十代のころから何度となく耳にしてきたこの序曲だが、オ−ケストラのなま演奏で聞くのは初めてだ。幕が上がり、舞台ではユ−モラスな散髪風景から始まる。主役ドンジョバンニの男性歌手の声量がやや劣る感じだが、ヒロインのアルトはなかなか聞きごたえがある。オ−ケストラを含め、ヨ−ロッパ超一流とまではいかないが、なかなかのレベルとみた。七時に開演したオペラは、幕間休憩をはさんで十時に終了する。

 




オペラ「セヴィリアの理髪師」の一場面









人通りの少ない夜道を一人急ぎ足でホテルへ向かう。昼間はあれほど暑かったのに、夜はひんやりとして上着が要る。ホテルの隣のレストランでは、若者たちで賑わっている。私もそこで夕食を取ろうと入りかけると、入り口に立っている青年が「すみません。ここはいまパ−ティをやっているんです。」と英語で制される。「学生さんですか?」と聞くと、そうだという返事。どこの国も同じで、若者たちはよく楽しんでいる。
 

奥に地下への階段があるので下りて行くと、そこにもレストランがある。ここには数人のお客がいるのみで、ガラ−ンとしている。早速、ブルガリア料理を食べようと、席につく前に「ケバプチェ OK?」とウェ−タ−に尋ねると、首を振りながら「ネ(いいえ)」という。畳み掛けて「キョフテ OK?」と尋ねると、今度はOKという返事。そこでこれを注文して席に座り、ビ−ルも注文する。辺りを見回すと、上のパ−ティの流れらしい学生のグル−プが近くのテ−ブルに座っている。その中に一人のモヒカン刈りの若者が見える。こんな旧社会主義圏の国にまで浸透しているのだから、若者の流行は早い。
 

しばらくすると、キョフテ料理が皿に盛られて運ばれてくる。一口食べてみると、なかなかいかす味で美味しい。これは豚肉や羊肉を荒いミンチにしてダンゴ状に固め、それを焼いたものでハンバ−グ料理と思えばよい。ナイフで切ってもコシコシした固めの肉ダンゴで、ほどよいスパイスがきいてとても美味しい。付け合わせのフライドポテトまで食べ上げると、お腹満腹。代金はビ−ルも含め全部で二七〇レバ(二一六円)。
 

これで、今度の旅の目的・・・お国料理と音楽を堪能できたと満足感に浸りながら部屋に戻る。バスタブはあるものの、栓がないのでシャワ−しか浴びれない。仕方なくお湯のコックをひねってみるが、ぬるま湯しか出てこない。いくら待っても熱くならない。昼間はまあまあの温度だったのに、夜にはこの有様だ。ガイドブックによれば、安ホテルではお湯の出に時間制限があるとのことなので、ひょっとしたらこのホテルもそうなのかと思い、あきらめて体を拭くことですませる。夜の冷やついた気温では、このぬるま湯ではちと寒すぎる。風呂に入ってさっぱりしたかったのに、誠に残念だ。心に悔いを残しながら、異国の初夜を迎える。 



(次ページは「市内観光」編です。)











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