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No.4





3.ボロブド−ル観光
 
滞在3日目。6時に起きて窓外を眺めると、空は晴れ模様だ。今日はジョグジャカルタへの移動日で、その足で念願のボロブド−ル遺跡を観光する予定である。雨の心配がないので有り難い。今朝はホテルを10時出発なので、ゆっくりと過ごせる。
 

ゆったりした気分で朝食を取りに食堂へ。プ−ルサイドのテ−ブルに腰掛けて、今朝も盛りだくさんの食事をいただく。珍しくゆで玉子を所望してみたのだが、それがフル−ツを食べ終わり、コ−ヒ−を飲み終わってもまだ出来上がって来ない。その後も催促しながらのんびり待ってみるが、なかなか持ってこない。とうとう待ちくたびれて席を立つことに。
 

クタビーチへ
出発まで時間がたっぷりあるので、すぐ近くにあるクタビ−チに出かけてみよう。このビ−チは近年有名になっているらしく、サ−フィンの若者や観光客を呼び込んでいるという。食堂のレストラン前を走る道路を横切り、土産品店などが並ぶ通りを真っ直ぐ進むと、その向こうに白砂のビ−チが見えて来る。5分とかからない距離だ。
 

ビ−チに出てみると、これは広い、広い。インド洋に面するこのビ−チは、渚までの間隔が十分に長く、それがゆるやかにカ−ブしながら美しく長いビ−チラインを描いている。これはなかなか素敵な海浜である。これはニュ−・カレドニアのヌメアにあるアンスバタビ−チよりもスケ−ルが大きく、マリンスポ−ツを楽しむのにも最適のようだ。早朝とあって、まだ人影もまばらで、朝日を受けながら静かな朝の風景を見せている。これが夕方から夜になれば、俄然人出も多くなり、また違った顔を見せるのだろう。しばらく木陰で休みながら、ビ−チの雰囲気にひたる。
 

ビーチラインが美しい広々としたクタビーチ(右側)


朝の静かなひととき(左側)

欲しいのはケイタイデンワ
ホテルへ引き上げ、プ−ルサイドのテ−ブルに腰を下ろして出発前のひとときを過ごす。一休みしてから部屋へ戻ると、もう早くもスタッフが部屋の掃除にかかっている。まだチェックアウトもしていないのに、なんと早いことだ。これでは部屋でゆっくり過ごすこともできない。それにこのホテルは珍しいことに、掃除スタッフがすべて男性なのである。この部屋の係も20歳前後のハンサム青年である。
 

部屋に入って「パギ〜」と挨拶を交わすと、「チップ アリガトウ。」と片言の日本語で礼を言う。枕銭のお礼なのだ。それから片言の日本語と英語で会話が始まる。話によると、最近まで日本人女性と交際していたが、別れたと言う。自宅はデンパサ−ルにあって両親と一緒に住んでおり、そこからバイクでクタのこのホテルまで通勤していると言う。うんと働いて、お金を貯めたいという。「いま、何が一番欲しいの?」と尋ねると、「ケイタイデンワ」だと言う。1万円ぐらいするそうだ。いずこの国でも、若者の必需品なのだろう。
 

そんな会話を交わしながら荷物をバッグに詰め、「バイバイ」と別れを告げると1階ロビ−へ。みんな揃ったところで出発だ。これから免税店へ行き、買い物時間をとった後、その2階で早目の昼食である。しばらく走ると間もなく免税店到着。なかなか大きな建物で感じが良い。でも、買い物がないのに、付き合わされるのはやりきれない。店内に入ると、何やらサ−ビス券をプレゼントされる。それはビ−ル1杯かコ−ヒ−1杯、または10分間マッサ−ジの無料サ−ビス券なのだ。
 

10分間の足ツボマッサージ
これは有り難いと、早速2階へ上がって日本語の堪能な受付の係に足ツボマッサ−ジを所望する。部屋に通され、リクライニングシ−トに座って待っていると、若い女性のマッサ−ジ師が現れる。「スラマッ・シアン(こんにちは)」と声を掛けると、にっこり微笑みながらマッサ−ジに入る。足先にポ−ダ−を塗って丹念に足裏のツボを指圧してくれる。旅行中はこれが一番効果的で、足の疲れが取れて軽くなる。気持ち良さにうっとり気分でいると、もう終了だと言う。10分間はあっという間だ。
 

中華料理の昼食
ここを出ると、階下の店内をひと巡りしながら、ただ見るだけのショッピングに付き合う。間もなく時間となり、2階の中華レストランヘ。ここの食堂は天井が大きなド−ムなっており、そのため素晴らしく広い空間が広がっている。こんなに快適空間の広い食堂は初体験で、何とも素敵ム−ドいっぱいである。料理はス−プ、焼き飯、焼きそば、その他の中華料理で、ボリュ−ムはそれほどなく、早目の昼食には手頃な分量である。
 

ジョグジャカルタへ
昼食が終わると、再びバスに乗ってデンパサ−ルの空港へ。今度は国内線でジョグジャカルタへ飛行する。午後1時発の飛行便は1時間10分の空の旅で、退屈する間もなくあっという間に到着。ここはバリ島との時差が1時間あり、時計の針を1時間遅らせる。だから、ここでは出発時間とあまり変わらないことになる。日本時間だとマイナス2時間の時差になる。空港には現地ガイドさんが出迎え、バスに乗ってそのままボロブド−ル遺跡観光へと向かう。 
 

こぢんまりとしたジョグジャカルタの空港

ジョグジャの町
ここジョグジャカルタは細長いジャワ島の中部ジャワ州に位置し、人口約65万の日本で言えば京都に当たるインドネシアの古都である。独立戦争(1945年〜1949年)の時、インドネシア共和国の首都となり、現在はインドネシア州と同等の位置を有する特別州になっている。ジョグジャカルタの名は、ンガヨクヨカルト・ハディニンクラットを略したもので、その名は第二次世界大戦前、自治イスラム君主国として知られていた。ボロブド−ル観光の拠点の町でもあり、バティック(ジャワ更紗)の本場でもある。また、影絵芝居、ジャワ舞踊、アンティ−クなどがあり、古い文化と新しい文化が融合したこの街は、ジャワの文化・伝統の中心となっている。
 

高床式のバス
こぢんまりとしたジョグジャ(ジョグジャカルタの省略語)の空港を後にするとバスは、市内の混雑した道路を上手に泳ぎながら走って行く。とにかく車が多く、それに無数のバイクが入り乱れて走るのだから大変。ここを走るのにはかなりのドライブテクニックが必要のようだ。この地では、レンタカ−は借りないほうが無難。これでは事故を起こさない方が不思議なほどである。
 

道路はすごい混雑

それに当地のバスは床が高く、そのためステップも高くて乗降が困難である。乗る時は取っ手をしっかり握り、大きく股を開いてステップに足をかけ“よいこらしょっ”と勢いをつけて上りあがる。降りる時は、細いステップに足を乗せ、踏み外さないように慎重に降りる。こんな風だから、ご婦人方は大変だろう。また、車内も注意が必要だ。というのは、平面のはずの床に窪みの段差がついている。だから、それに気づかず歩いていると、思わずドスンと足を取られることになる。
 

そして今度は、天井が問題だ。床は高いのに天井は普通の高さのままなのだ。だから、注意しないと座る時にいやというほど上棚に頭をぶっつけてしまう。なにせ、日本のバスの感覚でいるものだから、当地のバスの車内感覚に合わないのである。注意はしているのに、何度頭を棚にぶっつけたかしれない。なぜこんなに床が高いのかを尋ねてみると、当地では水害が多いらしく、その際に水没しないようにするためだという。
 

ボロブドール到着
こうしてバスは大混雑の大通りを押し合いへし合いしながら走り続ける。やっと市中を抜け、郊外へ出ると車は少なくなり、快適な走行を続ける。1時間半ほど走ったのだろうか? やがて広大な公園地域に入って行く。ガイドさんの案内で右側の窓越しに遠くを眺めると、森の木陰の間に一瞬ちらりと石積みの黒っぽい塊が見える。これが目指すボロブド−ルなのだ! 


ビデオで事前学習
バスは公園を回り込んでその一角に停車する。下車すると、公園内に設けられた瀟洒なレストハウスに案内される。そこで一休みすると、今度はこの一角にあるビデオの上映室に案内され、そこで20分ほどビデオによるボロブド−ル遺跡の日本語ガイド説明を視聴する。これはなかなかよく作成されており、回廊の壁面に彫り込まれた釈迦誕生から生涯を閉じるまでのレリ−フ物語を実物画像の上に着色したりして分かりやすく解説している。また、戒めを示す譬え話のレリ−フについても同様の方法で解説している。これは遺跡見物の事前予備知識としてなかなか有効なビデオである。
 

こうして若干の予備知識を仕入れると、いざ出発である。よく整備された公園の広々としたガ−デンを歩き始めると、遠く向こうの木陰の間に階段状の黒ずんだ遺跡が少しずつ姿を現わし始める。初めてのご対面である。感動がじわ〜っと身体の奥底からわいてくる。世界3大仏教遺跡の一つであるボロブド−ルが目の前にある。アンコ−ルワットやミャンマ−のバガン遺跡はまだ見たことないが、とにかくこれらと肩を並べる世界的仏教遺跡なのだ。不信心ながら一介の仏教徒としては、心動かされるものがある。その姿は、ちょっとしたミニ・ピラミッドの感じである。
 

公園側から見たボロブドールの遠景

遺跡の発見
この世界最古といわれる遺跡が発見されたのは1814年、その後20年をかけて発掘され、その全貌が現れたのは1835年であったとされる。この遺跡の正面遠くに見えるメラピ−火山の泥流によってジャングルの中に埋没していたのが、その一部を一農民が発見した。この噂をもとに英国の植民地行政官ト−マス・スタンフォ−ド・ラッフルズが、オランダ人技師コルネリウスに調査を命じ、その結果ボロブドゥ−ルであることが確認されたのである。こうして、千年の長い眠りからやっと覚めたのである。
 

語 源
ボロブド−ルの語源だが、一般的に「ボロ」はサンスクリット語の「ビャラ(寺・お堂)」の転訛で、また「ブドゥ−ル」はバリ語の「ブドゥフル(丘の上)」から派生したものとされている。しかし、近年の研究によれば、ボロブドゥ−ルはサンスクリットで「ブ−ミサンバラ・ブダラ」と呼ばれていたらしく、このフレ−ズの中央部分の“バラ・ブダラ”がなまったものという。真実はどうなのだろう?
 

建造の時期
これが建造され始めたのは大乗仏教を奉じていたシャイレンド−ラ朝で、ダルマトゥンガ王の治世の780年頃。そして792年頃に一応の完成をみたが、その後増築されている。資材は安山岩や凝灰岩を使って高さ23cmのレンガ様のブロックにしたもので、丘に盛り土をした上にこのブロック100万個を使って115m四方、高さ42mの高さにまで積み上げたのである。こうして、ピラミッド状の巨大な石の山に組み上げ、大寺院を建造したのである。
 

寺院の構造
最下部の基壇は115m四方で、5段の方形の基壇の上に3段の円形の基壇が載る階段ピラミッド型の構造となっている。5段の方形の基壇の縁は壁になっていて、露天の回廊がめぐらされ、四面の中央には階段が設けられて最上部の円形の基壇まで上れるようになっている。方形基壇の回廊には1400面に及ぶ浮き彫りのレリ−フがあり、仏像は壁の窪み部分に432体、3段の円形基壇の上に築かれた釣鐘状の仏塔72基の内部に1体ずつが納められて計504体が安置されている。
 

ボロブドールの上空写真

高さはもともと42mあったが、現在は破損して33.5mになっている。長い年月の間に太陽の強烈な日差しや風雨によって崩壊の一途をたどっており、ユネスコの手による修復・整備がなされている。中心には釈迦の遺骨を納めたといわれる大きな仏塔がある。ガイドさんの話によれば、今はここにはないそうで、ジャワ島の別の場所に祀られているという。それは事実なのかと何度も念を押したが、彼は間違いないという。御釈迦様がこの地に眠っているとは、初耳のことである。釈迦の遺骨は8つに分けられて各地に祀られたというから、その一つなのかもしれない。
 

立体曼荼羅?
この壮大な石積みのボロブド−ルは、仏経の世界観をあらわした立体曼陀羅だと考えられている。(注:曼陀羅「まんだら」=仏語で、仏の悟りの境地である宇宙の真理を表す方法として、仏・菩薩などを体系的に配列して図示したもの。)この寺院にはまだ解明されていない謎の部分が多く、諸説ふんぷんの状態にあるらしい。例えば、メラピ−山の噴火によって埋没していたといわれているが、本当は完成後すぐに埋められたのではないか? この巨大な建築物が何のために造られたのか? 王の墓、寺院、王朝の廟、僧房、曼陀羅などと諸説が入り乱れている。 
 

前置きはこのぐらいにして、この巨大遺跡に足を踏み入れてみよう。この寺院は小高い丘の上に築かれており、そこへの入口門をくぐって長い階段を上り、テラスに出る。そこに基盤が築かれ、ピラミッド状にそびえている。


長い階段を上っていく

目前で見る巨大な石積みの山は迫力満点で、凝縮された仏教の世界がひしひしと迫り来る感じがする。上層部を見上げると、逆光に映えながら天を突く無数のストゥ−パがノコぎりの歯のように美しいシルエットを浮かび上がらせている。ここで全体写真を撮っておこう。 




逆光に映えるボロブドールの全景




オリジナル基壇
そう思いながら左側のコ−ナ−に移動すると、その目の前に最下部基壇の一部が露出しているのが見える。この露出部は補強前の最初の基壇らしく、工事の途中に力学的な必要からこの基壇を覆って今の外壁で補強したという。そのため、惜しいことにオリジナル基壇の浮き彫りの数々をも隠してしまう結果となっている。この建設中に、その自重で崩壊の危険が生じたり、地盤沈下が起こったりしたため3度も設計が変更されたらしい。その最初の隠れた基壇部分が見えるように、東南の一角の補強壁を取り除いて開けてある。それをよく見ると、その基底部にはレリ−フが彫られ、この遺跡で唯一の文字も刻まれている。この取り除かれた外壁のブロックは近くの片隅に積み上げられ、展示さている。
 

オリジナル基壇の一部が露出させてある


オリジナル基壇を覆っていた石材

第一回廊のレリーフ
中央階段を上って第一回廊の左側に入る。ここの基壇の壁面レリ−フは上段と下段の2層に分けて彫られ、その上段には釈迦の生涯が時計回りに順番に連続して描かれている。下段には釈迦の戒めなどを動物を使って描かれている。
 

釈迦の生涯を描いたレリーフの数々。
いちいち説明を受けたのだが、残念ながらどれがどれなのか失念して
しまった。以下同様。











第一回廊の壁面レリーフ。上段は釈迦の生涯、下段は喩え話が描かれている。

釈迦の生涯
その昔、北インドに住むシャカ族の王妃麻耶夫人は、ある夜真っ白の大きな象が天から降りて来てお腹に入る不思議な夢を見た。その1年ほど後、夫人が森の中を歩行中、無憂樹という木の幹に右手をかけた時、わきの下から男の赤ちゃんが生まれた。その赤ちゃんは7歩あるき、右手で天、左手で地を指しながら「天上天下唯我独尊」と告げた。この日が4月8日で、花祭りのお祝いをすることになっている。
 

これが釈迦誕生の話で、その後、骨と皮だけになるほどの厳しい修行をしながら菩提樹の下で座禅に入り、35歳で悟りを開いて釈尊となる。それから布教の旅が始まり、その間に竹林精舎や祇園精舎などの寄進を受けたりしながら、1000人を超える弟子が入門。その後80歳の時、旅先で食中毒にかかり、クシナガラ村の沙羅双樹の下で休み、頭を北に右脇を下に両足を重ねて横たわり入滅される。こうした釈迦の生涯が柔らかな曲線で厚肉のレリ−フに描かれて基壇壁面にびっしりと並んでいる。詳しい解説者の案内でこの回廊を回ることができれば言うことはないのだが、それができないのが実に残念である。
 

円形基壇
ここは周囲四辺のうちの片側一辺のみを見ただけで終わり、第2〜4回廊は素通りしながら巡礼者の過去の災いが飲み込まれるというカ−ラの門をくぐって上層の円形基壇まで上って行く。


過去の災いを飲み込むというカーラ

ここは同心円上に3段積みにされた円形の基壇になっており、そこには釣鐘型のストゥ−パ(仏塔)が下壇から順に32、24、16基と計72基が円形に整然と並んでいる。そして、その中にはそれぞれ仏像が安置されており、その内部は切り窓から見ることができる。
 

この切り窓の形だが、下層2壇の各ストゥ−パは菱形をしており、最上層の円形基壇のそれは四角の切り窓となっている。菱形は俗界の人の心を表し、四角の窓は賢者の心を表しているという。そして、最上円壇の中心には窓のない大ストゥ−パが建っており、無の世界を表す。これらストゥ−パのうち9基が1985年のイスラム過激派による爆破テロで破壊されたが、その後修復されて現在その痕跡は残っていない。


(注:ストゥ−パは卒塔婆の語源になっている語であり、供養・報恩のため仏舎利や遺物などを安置した建造物を指すもので、いわゆる仏塔である。日本で使われる卒塔婆は、供養・追善のため墓などに立てる塔の形の切り込みがついた板で、経文などが記されている。)




釣鐘型のストゥーパが並ぶ円形基壇。3段目ストーゥパの切り窓が四角になっているのが見える。その最上段の中心には窓のない大ストゥーパが立つ。


円形基壇の回廊




全長3kmのレリーフ
最下壇から全回廊を巡りながら上って行くと、方形基壇だけで全長3km以上にもなる。その間に釈迦の生涯をはじめ、「本生譚」や「譬喩物語」、そして「華厳経入法界品」の物語が、釈迦、菩薩、王族、兵士など1万人を超える登場人物を駆使して延々と描かれており、自ずとその壮大なレリ−フを読み歩くことになる。


こうして釈迦の生涯や教えをレリ−フを通して会得した後、円形基壇に到達すると、そこには仏が安置された無数のストゥ−パが林立する曼陀羅の世界に入り込む。そこから最上段へ進み上がって大ストゥ−パの無の世界へ至る。こうしてこの巨大遺跡は、煩悩を捨てた涅槃の境地へ解脱する擬似体験ができる仕組みになっている。


いま私は、曼陀羅の世界を通り過ぎて、最上段の無の世界に立っている。だが、煩悩解脱の境地へは到底及ぶべくもない。なにせ、第一回廊の四辺のうちの一辺の、そのまた1/2を垣間見たに過ぎないのだから! それより、平凡で不信心なただの観光客に過ぎない私には、眼下に広がる景色の方に心を奪われている。この仏法の世界にあって、解脱の擬似体験ができる絶好の機会にありながら、それをなし得ないとは何と浅薄な人間なのだろう! 
 

周囲の風景
そう思いつつ、前方に広がる緑豊かな風景を連続写真に撮り収める。こうして見渡してみると、確かにこの地域はジャングルであったことが想像できる。右手前方の遠くには、この遺跡をその泥流で埋め尽くしたというメラピ−火山があるのだが、あいにくと今日は霞んで見ることができない。右手横の方にはなだらかな山脈が続いているのだが、その一角の稜線に釈迦の涅槃の姿を見ることができるという。言われるままにその方向を見れば、確かに涅槃の姿に見える。この仏陀の遺跡に呼応するかのように、涅槃像を見せる山脈が横たわるとは、何と自然の妙であろう。
 

涅槃像に似た山並み。左側が顔の部分で、その右側に胸が続く。 



最上段より眺めた周囲のパノラマ景観。右手前方にはメラピー火山あるのだが霞んで見えない。




幸せをもたらす仏像
最上段からの景観に見とれた後は、無の世界からストゥ−パの立ち並ぶ円形基壇に戻り下る。すると、そのストゥ−パの一つに人だかりがしている。見ると、その菱形の切り窓から盛んに手を差し入れて中の仏像に触れようと懸命になっている。話によれば、この仏像の腕輪に触れると幸せになれるとのこと。そして、この仏像の入っているストゥ−パは何番目のものと特定されている。そこで私もそれにあやかろうと、横手の格子窓から腕を差し入れて伸ばし、仏像の腕に触れてみる。ここからは案外触れやすい。だが、腕輪には届かない。
 

そこで正面に回り、精一杯腕を伸ばして差し入れてみるが、どうしても届かない。今度は態勢を整えて、もう一度試みてみるがやはりどうしても届かない。腕が短いのだろうか? これではあきらめるより仕方がない。やはり、文字通り幸せには手が届かないということだろうか? しかし、腕の長短によって人間の幸せが決まるわけではなかろう。今の幸せで十分ではないか、これ以上の幸せは要るものか! それは欲張りというものだ。そんな強がりを独り言いながら退散することにする。

 
幸福の仏像の横顔

同上、正面の顔。

中学生との会話
このストゥ−パの付近には地元の中学生とみられる集団が見学にやって来て群がっている。そこで彼らの1人に英語で話しかけてみる。
「どこから来たの?」
「ジャカルタからです。」
「何日間の旅行なの?」
「3日間で、今日帰ります。」
「英語はどこで勉強したの?」
「学校です。」
片言ながら、こんな会話が交わされる。日本の中学生が突然英語で話しかけられたとして、果たしてこれくらいの応答ができるのだろうか? 少し心配になってくる。この地では、生きた英語教育が行われていることは確かだ。心しておかなければ……。
 

彼らに別れを告げてカ−ラの門を通り抜け、下のテラスに下り立つと、もう一度この遺跡の全体像を眺め上げる。この石積みの巨大な塊が釈迦の魂を吸い込み、それが見る人の魂を揺さぶるような感じがする。不信心の私にも、それがいたく感じられる。それができる私も、まだ捨てたものではない。そんなことを思いながら遺跡を後にする。
 

遺跡の修復
この遺跡はユネスコ主導のもと、1973年から10年の歳月と2000万ドルの費用をかけて修復工事が行われている。水による浸食を防ぐため排水路を設ける必要が生まれ、そのため遺跡はいったん全部解体されたという。そして、石には一つひとつ番号が付され、コンピュ−タ−で管理された。こうした努力によって1983年に修復再現されたのである。
 

すさまじい物売りの攻勢
テラスから階段を下り、公園地帯に入ると、たちまち物売りのおじさん方につかまってしまう。ボロブド−ル遺跡の写真集や絵葉書を持って、一緒に歩きながらセ−ルスするのである。「コレ センエン コレダケ センエン」と何度も繰り返しながら迫ってくる。そしらぬ顔をしていると、写真集1冊が2冊と、だんだんと数が多くなって行く。そして最後には、ついに「コレ ゼンブ センエン」とくる。競売で言えば、いわゆる競り下げ法なのだ。彼らのやり方が面白い。


でも、彼らの辛抱強さ、忍耐強さは見上げたもので、そんな口上を繰り返しながら、絶対に側を離れようとせず、またあきらめようともしない。こんなに執拗なセ−ルスを受けたのは初体験である。それほどすさまじいセ−ルスで、これにはほとほと参ってしまう。彼らにとっての千円は大金なのだ。だから、1件でも売上があるといい商売になるのだろう。
 

公園建設の犠牲
レストハウスに入って、ようやく彼らから逃れ、飲物のサ−ビスを受ける。目の前には広々として気持ちのよい公園が広がっているが、その裏には地域住民の犠牲を生んでいる。修復に際し、遺跡から半径300mに住む350戸の農家が強制立ち退きに遭っているのだ。政府は世論の批判を浴び、その費用の半額を負担して協力した日本にもその矛先は向けられた。何気なく眺めているこの公園には、そんな歴史が秘められているのだ。
 

ムンドゥッ寺院
ここで一休みした後、バスに戻って帰路に着く。この遺跡からプロゴ川とエロ川の2つの川を渡って市街地へ向かって行くと、間もなく道路の左側に四角い巨大な石積みのブロックが見えて来る。これがムンドゥッ寺院で、空き地のような広い境内の真ん中にどっかりと鎮座している。ここでフォトストップとなり、車外に出て撮影する。中に入れないのが残念だが、しようがない。
 

広い境内に鎮座するムンドゥッ寺院

道路側からは見えないが、この裏側に寺院入口があり、急な階段を上って中にはいると、真っ暗な中に石仏三尊像が安置されているそうで、これらはジャワ美術の最高傑作といわれるそうだ。








 最高傑作とされる三尊像の一つ、如来像。
 高さ3メートル












そして、基壇や寺院の内部には浮き彫りの美しいレリ−フが描かれているそうだが、残念ながら柵の外からでは何も見ることができない。最上部は平面に見えるが、そこにも石積みがあったらしく、それが崩壊したままで修復されていないらしい。
 

ふと目を横にそらすと、境内の片隅には巨大な菩提樹が天空いっぱいに緑の大枝を広げて茂っている。釈迦が誕生したのは無憂樹の下、そして悟りを開いたのはこの菩提樹の下であり、そしてまた入滅されたのは沙羅双樹の下といわれるように、釈迦に因んだこれらの3樹は仏教三大樹と呼ばれるそうだ。
 

境内に茂る菩提樹の大木

5月の満月の夜の祭り
毎年5月の満月の日には、釈迦の生涯を記念するワイチャッと呼ばれる大祭が行われるそうだ。その日には国の内外から多くの仏教徒がこのムンドゥッ寺院に集まり、ここからスタ−トして経文を唱えながらボロブド−ルへ向かって行脚するという。その距離は約4kmだが、その間には前述したようにプロゴ川とエロ川の2つの川が横たわり、今は橋があるので簡単に歩いて渡れる。しかし、橋のない昔の時代には、これら2つの川を下りては渡り、そしてまた上るという難行の道程だったらしい。
 

仏教コンプレックス?
このムンドゥッ寺院とボロブド−ルを結ぶ直線の中間地点にパオンというちっぽけな寺院がある。これとムンドゥッ寺院、ボロブド−ル寺院の3つを含めボロブド−ル遺跡群として世界遺産に登録されている。そもそもこれら寺院が一直線に並ぶ位置に建てられていることから、この一帯はこれらを含む多数の寺院群で構成された巨大な仏教コンプレックス(複合構造物)ではなかったのかという推測もなされている。しかし、埋没消滅した遺跡も多く、今ではその全貌は謎に包まれたままである。
 

ホテルへ
バスはムンドゥッ寺院を後にすると、市街地のホテルへまっしぐらである。今夜はこの街一番のデラックスホテルに宿泊である。40分ほど走ってようやくホテル到着。チェックインを済ませて部屋に入ると、広いスペ−スと輝くようなバスル−ムが付いて、デラックスム−ドがただよっている。今夕食はこのホテルのレストランで洋食のご馳走だ。
 

夕食は洋食
一休みしてから1階レストランへ下りていき、夕食のテ−ブルに着く。今日も終日飛行機で移動したり、バスに揺られて遺跡見学など、結構汗を流して喉も乾いている。そこで早速、地元産のビンタンビ−ルを注文し喉を潤す。いつもこのビ−ルだが、日本のビ−ルとほとんど変わらず、なかなかいけるビ−ルである。料理はス−プ、サ−モン、マッシュポテトにパン、そして最後はアイスクリ−ムにコ−ヒ−でしめくくる。
 

ジャワの伝統マッサージ
満腹していい気分になっていると、ガイドさんがマッサ−ジはいかがですかと案内するのでメニューを見てみると、その中に伝統的マッサ−ジというのがある。料金は60分で179,000ルピア(=約2,200円)とある。これなら安くて手頃な値段だと、早速予約することに。 


部屋に戻り、入浴を済ませて待っていると、9時の時間どおりにやってきたのは女性のマッサ−ジ師である。手に何やら容器を持っている。ベッドに横たわってマッサ−ジが始まる。容器からオイル様の液体を取り出し、これをボディに塗りながらマッサ−ジする。このオイルがジャワ独特の伝統的なものなのだろう。マッサ−ジの仕方は別に変わったところはない。按摩と違って揉むことはせず、ただ独特の香りを放つオイルをこすりつけるように丹念にマッサ−ジするだけである。


彼女は英語も日本語も話せないので、意思の疎通ができない。そのうち次第に疲れがほぐれて一日の疲れがゆっくりと抜けて行く。眠気を催し、ついうとうととしている間に60分は過ぎ去り、終了時間となる。
 

ジャワの伝統的香りがほのかにただよう中で、心地よい眠り落ちていく。こうして3日目の夜は静かに夜のとばりを降ろして行く。



(次ページは「プランバナン遺跡とソロの町観光」編です。)






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