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    no.1
(南アフリカ・ケニア・タンザニア・ジンバブエ・ザンビア・ボツワナ)



15日間・6ヶ国


・アフリカ大陸を縦断する地球の裂け目・グレート・リフト・バレー(大地溝帯)
・砂煙をたてながら野生の動物たちが駆け抜ける広大なサバンナ
・豪快に水煙をあげながら大地をゆるがすビクトリアの滝
・嵐のように強風吹きまくるアフリカ大陸最南端・喜望峰

アフリカの大自然と野生の動物たちにまみれた
15日間のワイルドな旅



(2001年3月24日〜4月7日)



旅 行 日 程
日 付 日数 ル ー ト 泊数 タイムテーブル
3/24(土) 福岡→台北→香港→ヨハネスブルグ 機中 10:40発、香港へ。香港発23:50
 25(日) ヨハネスブルグ(南アフリカ) @ 6:40着、午後首都プレトリア観光
26(月) ヨハネスブルグ→ナイロビ→ナクール
             (ケニア)
@ 9:00発→14:00着、ナクールへ
27(火) ナクール→ナイバシャ→ナイロビ→
アンボセリ(ケニア)
@ ボートサファリ、ナイロビ市内観光
28(水) アンボセリ→アリューシャ→ンゴロンゴロ
                  (タンザニア)
A サファリ、マサイ村見学、ンゴロンゴロへ
29(木) ウンゴロンゴロ ンゴロンゴロ、セレンゲティ公園でサファリ
30(金) ンゴロンゴロ→アリューシャ→ナイロビ  @ サファリ後、ナイロビへ移動
31(土) ナイロビ→ハラレ(ジンバブエ) @ ハラレへ移動。午後自由。
4/1(日) ハラレ→ビクトリア・フォールズ→チョベ
                    (ボツワナ)
@ 10:30発→11:30ビクトリア着後チョベへ
 2(月) 10 チョベ→ビクトリア・フォールズ(ジンバブエ) A 早朝サファリ後ビクトリアへ、午後自由。
 3(火) 11 ビクトリア・フォールズ 午前ビクトリア滝観光、午後市内観光。
 4(水) 12 ビクトリア・フォールズ→ヨハネス→ケープタウン A 11:45発→ヨハネスブルグ→17:10着
5(木) 13 ケープタウン(南アフリカ) 終日ケープ半島、喜望峰観光。
6(金) 14 ケープタウン→ヨハネスブルグ→香港→ 機中 午前ステレンボシュ観光、13:00発→
7(土) 15 (台北経由)→福岡 20:40着




旅 行 ル ー ト






1.いざ出発
 
福岡空港の国際線発着ロビ−は不便になった。これまで、国際線も国内線も地下鉄を出たすぐのところの同じビルだったのだが、国際線が飛行場の反対側に移転したため、無料のシャトルバス(10分少々かかる)でそこまで移動しなければならいのだ。これからは駆け込みでは間に合わなくなった。
 

そんなことを思いながら、早朝8時過ぎに国際線の旅行社受付カウンタ−に行くと、女性の添乗員さんが、にこやかに出迎えてくれる。今度の旅の参加者は総員12名のグル−プで、まとまりやすい手頃な人数である。全員集合したところで諸注意を受け、いよいよ出発だ。これから、どんな旅が始まるのか期待に胸がふくらむ。
 

今度の旅はツア−での殿様旅行だから、独り旅のように不安はない。アフリカ方面について事前に情報を集めたところ、治安の面がどうも悪く、それも南米より危険度が高そうなのである。なにしろ、武装強盗が頻発しており、サファリ中にも出会うことがあるという。それに、サファリをするため幾つかの国立公園間を移動するとなると、どうしても個人の旅では交通の面で効率が悪そうである。そんなことから、今度の旅も南米旅行に続き、ツア−旅行参加と相成った。
 

アフリカまでの飛行便は、香港までがキャセイパシフィック航空、そこから南アフリカ航空に乗り継ぎである。中国系の乗務員がにこやかに出迎える機に搭乗したものの、出発時刻になってもいっこうに飛び立つ様子がない。機内放送によると、なにか運行上の書類が香港の本社から届かないとの理由である。
 

20分遅れで、ようやく機は飛び立ち、台湾の台北を目指す。約2時間ちょっとで気温29度の台北空港に到着。台湾は意外と近い国である。ここで小1時間の待ち時間があり、空港ロビ−へ出てみる。免税店が並んでいるが店舗の数も少なく、中国風のみやげ品などが売られているのみで、目新しいものは見つからない。
 





台北空港のロビー










台北から飛び立った機は、1時間半の飛行で午後3時過ぎ気温28度の香港へ到着、ここで乗り継ぎである。待ち時間が約9時間近くもあるのでいったん入国し、ちょっとした観光と夕食を取ることになる。香港は2回目だが、以前は市街地近くにあった手狭な啓徳空港が、数年前東方に浮かぶランタオ島に移転して広大な空港に生まれ変わっている。タ−ミナルビルも広々として新しく、気持ちがよい。ただ、スペ−スが広いだけにゲ−トまでの移動距離が遠く、乗客泣かせである。これは関西空港にもいえることなのだが……。
 

出迎えのバスに乗り込み、香港島の市街中心部へ移動する。ランタオ島は大きいだけに未開発の土地が十分残されており、沿道には広大な農地が広がっている。






道路沿いには広大な農地が広がる。









空港周辺にはぼつぼつアパ−トビル群も建ち始めており、新しい都市づくりが進行しているそうだ。ランタオ島と本島の間には、写真のようにしゃれた吊り橋が完成しており、空港から市街中心部までバスで30分の距離にある。
 





ランタオ島と本島を結ぶ吊り橋
夜のイルミネーションが美しい







今日の観光は、香港島の裏側にあるレパレスベイ(香港編に掲載)である。ここは白砂のビ−チが広がる海岸線で高級マンションが点在し、名画「慕情」の舞台として知られる有名な場所でもある。ビ−チの端にある天后廟に案内され、そこで時間を過ごしながら見慣れた風景をのんびりと眺めやる。
 

レパレスベイから市街の方へ移動したかと思うと、今度は例によってセ−ルスに付き合わされる羽目になる。一軒目は日本人客専用のシルク衣料品店、二軒目は免税店である。旅の目的地がアフリカなので、一行のみんなも、おなじみの香港では買い物の食指は動かない。こうして香港でのトランジットタイムは、時間つぶしのセ−ルスに振り回されることになる。ツア−はこれだからいやになる。
 

長時間のセ−ルス観光に付き合わされたあげく、やっとのことで夕食にありつく。四川料理のピリカラ中華料理である。どうもピリカラは苦手で、折角の中華料理なら広東料理を食べたかったのだが……。でも中華料理のこと、ボリュ−ムだけは多く、いつものことながらほとんどの皿を食べ残すことになる。さすがに、焼き飯とス−プがうまい。満腹のお腹にフル−ツのデザ−トを押し込み、ご馳走様になって席を立つ。
 

外に出ると喧噪で派手な香港の夜景が目に飛び込む。今にもバスの屋根につかえそうに路面上に突き出た看板広告の波をかき分けながら、ネオンの洪水にきらめくネイザン・ロ−ドを通り抜けて香港空港へ向かう。先の写真にあるランタオ島にかかるブリッジにはイルミネ−ションが施され、海峡に美しい夜景をつくり出している。空港待ち合いロビ−のスペ−スもゆったりとして、きれいなものだ。
 

ようやくアフリカ行きの飛行機に搭乗となり、これから13時間の空の旅が始まる。南アフリカ航空機に乗るのは初めてのことだが、男女乗務員はすべて黒人スタッフで、これまでの機内のム−ドとはがらりと異なる。あまり見慣れない風景なのだ。しかし、全員愛想がよくてエネルギッシュである。このエア−ラインは日本へは就航しておらず、香港・バンコクまでしか乗り入れていない。だから、日本人にはなじみの薄い航空会社である。彼らの心こもるサ−ビスを受けながら、機はヨハネスブルグに向けて順調に飛行を続ける。



                  (南アフリカ編


2.ヨハネスブルグ(南アフリカ)・・・・首都プレトリア・ジャカランダ
 
2日目。香港から13時間足らずの飛行で早朝6時過ぎ、南アフリカの玄関口・ヨハネスブルグに到着。時差は日本より7時間遅れである。南米行きの26時間飛行のことを思えば、ずいぶんと楽な飛行である。水溜りのできた雨上がりの空港は気温が14度、少しひんやりとしている。そして今、空港に降り立ちながら、人類発祥の地・アフリカ大陸の大地を感動深く踏みしめる。しかし、入国手続きには1時間もかかってしまう。
 

ここ南アフリカ共和国はアフリカ大陸の最南端に位置し、南はインド洋と大西洋、北はモザンビ−ク、スワジランド、ジンバブエ、ボツワナなどの諸国と国境を接している。この国は南半球にあるため、日本とは季節が逆で夏期は10〜3月。地域差はあるものの、全体的に見れば1年を通じて温暖な気候である。
 

国土面積は122万kuで日本の3倍半、9つの州から成り、人口は約4300万人で首都はプレトリアである。宗教は大部分がキリスト教だが、それは19世紀前後からヨ−ロッパ人によるアフリカ探検が盛んに行われた影響である。言語は英語をはじめ、アフリカ−ンス、ズ−ル−など11の公用語があるが、英語はどこでも通じるので言葉には不自由しない。
 

1961年にイギリス連邦を脱退して共和国となったこの国は、1652年にオランダの入植が始まり、以後フランス、ドイツから移民が続く。その後イギリスの支配が強まり、1910年アフリカ−ナの地域を自治領の南アフリカ連邦として統合・独立させた。その後、政府がアパルトヘイト(人種隔離)体制を築いて国際社会から非難され、61年のイギリス連邦脱退となった。このアパルトヘイトも89年から撤廃政策が進められ、96年、ネルソン・マンデラ首相の下、あらゆる差別を明確に禁止した新憲法が公布されたが、貧富の差が大きく、治安は悪化している。 
 

一行は入国を済ませると、出迎えのバスに乗ってホテルへ移動する。ホテルはホリデイ・イン・ガ−デンコ−ト・エアポ−トで、空港からバスで数分の至近距離にある。ということは、郊外にあって静かだが、ヨハネスブルグ市街から離れた位置にあるので、中心街の様子を見ることができない。写真のように、まあまあのホテルで、シングル…409ランド(約7362円・除朝食)、ダブル…482ランド(約8676円・除朝食)、週末料金はそれぞれ386ランド、朝食代金は46ランド(約828円)となっている。
 





宿泊したホリデイン・ガーデンコート・エアポート









お昼前まで休息ということで、部屋に入ると早速洗面とバスを済ませ、ベッドに横になる。途端に寝入ったらしく、目覚ましに起こされるまで1時間半熟睡し、気分爽快となる。もうこれで時差ボケは解消だ。急いで身仕度をし、バスに乗っていよいよ午後の観光開始である。到着時には曇っていた空も、今では青空をのぞかせ始めている。
 

目的地は首都のプレトリア。てっきり首都はヨハネスブルグとばかり思っていたのだが、そこは経済の中心地で、首都はここだったのだ。人口80万人と首都としての規模が小さいが、各国の大使館が集まり、政治の中心を担っている街なのだ。
 

くるまの少ない郊外のハイウェ−を北に向かって軽快に走行する。両側の車窓からは、緑豊かな草原やなだらかな丘陵の風景が飛び込んでくる。こうした郊外地域には、上流階級のしょうしゃな住宅が点在している。






なだらかな丘陵地帯に広がる上流階級の住宅









緑に包まれたハイウェ−を走ること40分、ジャカランダの木が生い茂る南アフリカ共和国の首都プレトリアに到着である。
 

なんと緑多き街なのだろう。緑に潤う静かな美しい街である。今日は日曜日とあって人影も少なく、一段と閑静な雰囲気が街全体にただよっている。縦横に整然と走るストリ−トには、どこも大きく成長したジャカランダの街路樹がびっしりと生い茂っている。その数は、なんと7万本を超えるといわれ、100年ほど前にブラジルから持ち込まれたという。紫色の美しい花を一斉に咲かせる10月のシ−ズンには、紫に染まる街路の光景がさぞかし壮観であろう。花の季節には、今とはまったく異なる街の顔が見られるに違いない。惜しいかな、この3月の時期では樹木だけしか見ることはできない。このジャカランダの木は南米アルゼンチンでもその並木道が有名だが、こうしてみると南半球特有の樹木なのだろうか。大きな木に紫の花というのが、なんともわれわれ日本人の目には珍しく映る。
 





街のストリートにはジャカランダの木が
鬱蒼と茂る。














ジャカランダの花が咲き乱れるストリート
(雑誌の写真より転載)








バスは街の片隅に建つ静かな雰囲気を持つ白亜のレストラン前で止まる。ここが今日の昼食場所なのだ。真っ白な壁と塀に囲まれた落ち着いた雰囲気のただようこのレストランは、その名を「ジェラルド・モルディック」といい、1922年に建てられた知名人の邸宅だったものだそうだ。それだけに店内の造りもシックで、年数を経た趣がにじみ出ている。
 





昼食を取ったしょうしゃなレストラン









好感のもてるこのレストランでの昼食メニュ−は、まずカボチャス−プに始まり、メインの肉料理はインパラの肉(小鹿に似た可愛い動物で、後のサファリではどこでも見られた。)、デザ−トはアイスクリ−ムのコ−ス料理である。この地でいただくカボチャのス−プが珍しく、味はなかなかのもの。インパラの肉は初めてながら、シコシコとしておいしいものである。
 

お腹を十分すぎるほど満たし後は、市内の観光である。まず小高い丘に回ると、ド−ム状のタワ−を持つ重厚な建物が見える。これがユニオン・ビルで、行政府の庁舎なのだ。構内には立ち入り禁止となっているので、道路からただ建物を見上げるだけ。






行政府の建物・ユニオン・ビル









今度はすぐビル下の道路脇の展望所から市街を見下ろす。こうして見ると、首都の街とはいえ、市街の中心部分は意外にこぢんまりとまとまった感じである。周囲をなだらかな丘陵に囲まれた、いかにも緑あふれる街の様子が写真からもうかがえる。




 展望所よりプレトリア市街中心部を望む。




次はチャ−チ・スクエアへ移動する。この広場は街の中心部にあり、あまり見栄えはしないが、この国で最も有名な場所だという。というのは、その昔、開拓者たちが最初に作った広場で、周囲にはこの国の歴史の舞台となった数々の建造物や政府官庁が建ち並んでいるからだ。広場の中央には、1899年からのボ−ア戦争で指揮をとったアフリカ−ナの英雄、ポ−ル・クル−ガ−の像が立っている。現地ガイドに「チャ−チ・スクエアというのに、なぜ教会はないのですか?」と尋ねると、「このコ−ナ−に建っていた教会は昔、火災で焼失したのです。」という。こういう訳で、広場の名前の由来となった教会の姿は、今は見られないのだ。 




 チャーチ・スクエア。中央に建つのは英雄ポール・クルーガーの立像




次に訪れたのはポ−ル・クル−ガ−・ハウス。前出の英雄で元大統領クル−ガ−が暮らしていた洋館の邸宅である。ここはプレトリアで最初に電話を引いた数少ない一軒だとかで、内部は1900年まで住んでいたクル−ガ−の形見の品や家具などが、当時をしのばせるように並べられている。裏庭の一角には、なんと鉄道線路の一部と車両が置いてある。
 





クルーガー邸の内部
当時の生活の匂いがただよう。








最後の見物場所は「フォ−ルトレッカ−開拓者記念堂」。ここは南アフリカ国内で最も有名な記念碑で、プレトリア市街を遠望する郊外の丘の上に建っている。駐車場に降り立つと、正面に四角い石造りのがっしりした建物が立っている。これが記念碑の建物で、アフリカ−ナ(オランダ語から生まれた独特の言語を話すヨ−ロッパからの移民たち)の祖先が苦難を乗り越えて独立国家を勝ち取った記念碑なのである。
 





開拓者祈念堂










広い階段を60段ほど上りあがって内部に入ると、中はがらんとした空洞で高いド−ムの天井が見える。そして、床面の中央部には直系7mほどの大きさにくりぬかれた円形ホ−ルが設けられ、その周囲から深さ5〜6mの地下がのぞけるようになっている。その地下部中央にはアフリカ−ンスで「わが命は南アフリカのためにあり」と書かれた碑文の礎石が置かれている。最初見たとき、これは墓石か?と思ったのだが、そうではなかったのだ。
 

どうしてこんな地底に碑石が置かれているのだろうか? それには、次のような仕掛けが隠されている。高い天井のド−ムを見上げると、その中心部分に小さな円形の明かり窓が開けられている。これが意味深いホ−ルで、ここから差し込む太陽光が毎年12月16日の記念日の正午に、この碑石の碑文を照らすように仕組まれているのだ。これと似た仕組みはエジプトのアブシンベル大神殿に見られるもので、その最奥部にある至聖所を毎年2月22日と10月22日の2回、朝日が照らすように仕組まれている。ひょっとしたら、これをヒントにして造られたのかもしれない。
 

四角な建物内部の四方の壁面には、見事な物語レリ−フが描かれている。1814年、イギリスの支配が強まってケ−プタウンがイギリス領になると、その支配を嫌ったアフリカ−ナたちは内陸部へと移動し、トランスバ−ル共和国やオレンジ自由国を建設するのだが、その苦難の過程をモチ−フにしたものである。アフリカ−ナの祖先たちがケ−プ地方を捨て、自分たちの独立国家を作ろうと牛馬車で大移動するのだが、その旅は相当に過酷なもので、先住民族との戦いや食料難で多くの人々が倒れたという。その苦難の歴史や独立国家を勝ち取る喜びの表情が巧みに描かれている。
 





壁面に描かれたレリーフ。開拓者の苦難の歴史が描かれている。








コ−ナ−にエレベ−タ−があるので、屋上まで上ってみる。そこからの見晴らしはすばらしく、緑の大地に囲まれたプレトリアの市街地一帯が見事に眺望できる。陽光に映える緑の輝きが目に染みて美しく、その空間には澄んだ空気が満ちあふれ、思わず深呼吸したくなる光景である。レリ−フの歴史をたどると、アフリカ−ナの血を引く人たちは、この緑豊かな大地に人一倍の思い入れがあるのかもしれない。




 祈念堂の屋上から見渡したプレトリア市街の眺望




ここを最後に、緑深き首都の観光は終わり、ホテルへと帰路を急ぐ。夕方5時過ぎにはホテルへ戻り、夜7時の夕食まで小休憩である。部屋に戻ると再びベッドに横になり、仮眠を取る。長時間飛行の疲れと時差による睡眠不足で、よく眠ること。ホテルでの夕食はサラダ、魚のムニエル、それにデザ−トはアイスクリ−ム、そして最後はコ−ヒ−で締めくくる。こうして満腹のお腹をさすりながら、アフリカ第一日目の夜は静かに更けていく。



(次ページはフラミンゴの大群が見られる「ナクル湖」編です。)










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